代表者(梅川 健治)アーカイブ
2015年、今は亡きレジェンドレーサー
「高橋国光」氏と生月での一コマ
(国さんには20年以上お付き合いさせてもらいました。)

1962年 長崎市平和町に生まれる。(当時は平和記念像の外堀が有りませんでした。)

1969年 住まいを西彼杵郡時津町に移し小学校生活を始める。(当時の国道206号線の一部は砂利道でした。)

1975年 私立の中学校に入学。

1976年(14歳)町の本屋で立ち読みしたレース雑誌で自動車、自動車レースの虜となり自動車会社に就職する夢を持ち始める。

1981年 高校時代からの希望だった長崎大学工学部に入学。すぐに「工学部自動車部」に入部する。
その時、偶然本屋で立ち読みした本で、バイクについても興味が沸く。

1985年 運よく留年せず大学卒業。「バブル」真っ盛りだったため、中学2年生からの夢だった関東の自動車会社へすんなり就職する。

1985年~1991年(23歳~28歳)
関東の自動車会社でバンパー、インパネ等樹脂部品の設計・開発を担当。
開発に携わった車達:Z31,Z32,E24,M11,B11,W10,G20,K30)
・関東生活の時、横浜で後に「人生の師匠」となる人や、今までの私の概念、常識を覆す人々と出会う。
・この時、「人生の師匠」に色々な所に連れて行ってもらい、色々な方々に会わせてもらい、色々な経験をする事が出来た。
(赤塚不二夫氏(故人 漫画家)、麿赤児氏(舞踏家、役者)、余貴美子氏(女優)、大倉正之助氏(能楽師)、森日出夫氏(写真家)、上々颱風(バンド)等・・・・)

1991年 中学時代からの夢であった「自動車会社に就職し、自分が手掛けた車が町を走る。」という目的が達成された後、このまま関東に居る事に疑問を感じ、自動車会社を退職し長崎にUターンする。

1991年~2023年(29歳~60歳) 長崎の地元企業に就職しエンジニアとして働く一方、横浜の縁をきっかけとして新たに全国の色々な人々と繋がり、それらの人々と協力しながら小さなイベントや活動を行っていく。
(画家、造形作家、陶芸家、写真家、能楽師、映画監督、漫画家、ミュージシャン、プロレーサー、モーターサイクルジャーナリスト等・・・・)

1996年~2003年(34歳~41歳) タウン誌「ながさきプレス」のバイク関連のページを担当

2022年(59歳) 娘の障がいで感じた色々な事から、今回の活動を思いつき、色々な人のアドバイスを受け始める。

2023年4月(60歳) ボランティア団体「7%erとなかまたち」を発足。(シンボルマークは横浜時代に知り合った造形作家に依頼し作成してもらいました。)