鼎談2「図書館ほど民主的な場所はない」

関口:それでは、どんどん聞いちゃいますね。中江さんは、ちょうど今(2023年2月)、伊集院光さんと出演されている『100分de名著』というNHKの番組で、北條民雄の小説、『いのちの初夜』を読み解いています。月曜日の夜に放映されていて、先日、3回目を拝見しました。来週は4回目ですので、ぜひ視聴者の皆さんにも見ていただきたいと思います。この本は、ハンセン病の患者であった北條民雄が自らを主役として小説にしています。この番組を見ながら、人権の視点から主権者教育の大切さも感じました。中江さんからこの本を紹介するに至った思いや、主権者教育に繋げるヒントをお話いただけますでしょうか?


中江:はい。少し遡って、『いのちの初夜』との出合いから話します。自分が大学時代に卒論のテーマにしたのが、この北條民雄という作家で、代表作となっている『いのちの初夜』を中心に読み解いたんです。その当時、私、実はハンセン病のことを何も知らなくて。この『いのちの初夜』の作品は、北條民雄自身がモデルとなったもので、20歳ぐらいの青年が、感染症のハンセン病という当時の不治の病に罹ったが故に、隔離施設に入るんですね。病院ですけれども、そこに入るとほぼ出られない。つまり治らないので、そこで生きて死んでいくような場所だったんです。その中で何度も「死にたい。死にたい」と思った北條民雄が、この物語の中で、「尾田高雄」という青年として「生きよう」と思った。その一夜を描いた物語です。その作品自体50ページぐらいの非常に短いものです。インターネットでは無料で読める作品なので、ぜひ読んでみてください。この『いのちの初夜』で、私はハンセン病を知り、その歴史を辿って行きました。


ハンセン病は差別と偏見にさらされた病気だったんです。遡ると、日本書紀や聖書の中にもおそらくハンセン病だろうと思われる記述もあります。

結核とハンセン病は同じ感染症ですが、全然受け取られ方が違うんですよ。当時は同じ不治の病ですが、なぜか結核は少しロマンチックな意味が込められているようで。例えば、結核で亡くなった作家、『風たちぬ』の堀辰雄、あるいは、樋口一葉や、石川啄木、そういう人たちは、なんとなく天才作家のイメージすらあったんです。一方でハンセン病は、全くイメージが異なります。最終的には北條民雄は腸結核で亡くなりました。それにもかかわらず、本名も2017年まで明かされませんでした。そこまで隠された存在でしたから、それだけの差別があったということです。


その当時、ハンセン病の患者を隔離施設に入れることが、決して差別として受け取られていなかったことが大事なところです。それは、今のコロナ禍とちょっと被るんです。新型コロナウイルスの感染者は基本、自主隔離です。感染者は感染症の第一段階で隔離なんです。しかし、ハンセン病の場合、その隔離のされ方が非人道的でした。それにもかかわらず、当時の人たちはそれがみんな正しいと思ったという点が見逃されてはいけないことです。例えば、施設内に入った時に、結婚はしてもいいけど、子供を作ってはいけないとか、そこで亡くなった時に、身内の方が遺骨も受け取りに来ない、仮に骨を受け取っても、そのまま電車の高棚に置いたまま帰ってしまうなど。それは感染を恐れて地元に持って帰れないっていうこともあったんですよね。


ところが、実際にはハンセン病は感染力が高いものではなかったので、隔離自体が当時の誤解なんです。だから誤解や思い込みで、ハンセン病患者が大変な差別を受け続けて、らい予防法が平成8(1996)年まで残っていたことは、南野さんもご存じだと思います。そのように随分長い間誤解されていた病でした。

 

『いのちの初夜』にみる主張


コロナ禍になって、この『いのちの初夜』が、角川文庫から復刊したというのは象徴的だと思うんです。多分、そのことを思い返した編集者がいたことの証だと思います。

今回、たまたま『100分de名著』の番組でこの本を取りあげたとき、いろいろな意見を頂戴しました。それは、その当時、ハンセン病を知らない人達から非人道的な扱いをされたことや、ハンセン病患者である主人公の気持ちに触れることができたからだと思います。患者は社会的には、もう死んだような状態になるけれど、現実に生きているわけです。患者である北條が生活する施設内で、彼が書こうと思ったことは非常に大切なことです。やっぱり人間って、自分の主張が大切ですよね。北條民雄にしたらハンセン病になったその時の自分の気持ちであるとか、隔離施設に入った時の気持ちであるとかを、物語という創作の中に込めたわけです。これはある種の主張だと思うんです。そうでなければ、ただ自分は追いやられていく

一方で、その声を誰も聞くことがなかったわけです。これは大変貴重な記録でもあると思います。


図書館ほど民主的な場所はない


ちょっと話は逸れますけれども、私は先ほどご紹介いただいた通り、教育に関する専門家ではありませんので、教育者とは別の立場で話します。


自分が小学生、中学生の時期に一番好きだった場所は、図書室とか図書館、あるいは書店でした。それはなぜかというと、自分が一人で行っても、誰もおかしいと思わないからです。本って自分で選ぶものだから、誰かに「これを選べ」って強いられることもないし、誰にも関心をもたれないんです。それを、このような言い方をされたんです。「図書館ほど民主的な場所はないよね」って。確かに小学生でも民主的っていうことを一番実感できるのは、図書館なのかもしれません。そういうところから、何となく憲法に結びついていくような気がしたんです。ですから、小さな子供たちはまだはいろいろなことを教わるだけの時期かもしれませんが、その中でも自分がどうあるべきで、どうしたいかということや、自分の興味のあるものを選ぶ場所として、図書館とか図書室、あるいは書店がある。そこに足を運ぶこと、それが主権者教育の第一歩につながるのかなと思います。


私は、この『いのちの初夜』とは大学の図書館で出合ったんです。ですから、やっぱり図書館には出合いがたくさんあると思います。そこに行ってその本を選ぶこともそうですし、読んだ本から自分が何かの感銘を受けたりして、そこからまた自分が何かを主張したりする。本の読み方というのは、まさしくそうなんですね。ただ、読んでその物語をそのまま受け取る必要は全くなくて、疑問を持ってもいいし、共感してもいいし、ここはどうしてこう書いたんだろうと研究することも、読書の一つだと思います。読書ってなんとなく高尚な趣味のように思われていますが、考えるきっかけになるものとして、本をもっと気軽に利用してもらいたいと思います。


関口:中江さん、今日はたくさん話していただいていいんです。ありがとうございます。南野さんはいかがですか、本について。


南野:最初におっしゃった図書室は本当に大切だと思います。先ほどの基調提言の中で、小中高校時代に、良い先生に巡り会えたと申しましたが、やっぱり一番影響の大きかったのは、小学校。高校ぐらいになったらある程度、人間が出来上がってくるので、なかなか難しいところもあるかもしれません。やっぱり小学生っていうのはそういう意味で、非常に可塑性に富む粘土細工のように、どんな人間にでも作り上げていける可能性を秘めているいい時期だと思います。私が小学校3年生の担任の先生でしたけれども、読書への意欲付けで工夫をしてくださって、一冊読んだら一つずつシールを貼るカードを作ってくれて、シールを貼ってくださって、すごく面白かったんですね。それでどんどん本を読むことで、読書の面白さに気づかせてもらったなあって思うんです。


まあ、家庭環境にもよるでしょうし、自分がある程度恵まれていたってことは、もちろんあると思いますが、今のお子さんはユーチューブを見たりネットを見たりとか、他にもっと面白いことが僕らの時代と違って出てきちゃっているので、本にどう近づけようかと悩まれている先生方もいらっしゃると思うんです。そこで、今こそ先生方も工夫をして、こういう面白い世界があることを伝えてほしい。たとえ家に本がなくても図書室に行けばいろんな世界との出合いが待っていると思います。最初は面倒くさくて、ずっと読むっていうのは辛いかもしれないけれど、読んでいくと、いろんな面白い出合いがある。『十五少年漂流記』とかね、年齢が分かってしまうかもしれませんが、そういう冒険ものは、それこそ本当に血湧き肉躍る感じで読みあさりました。だからそういう体験を、小さい時に大人が教えてあげると、そこから読書がうまく転がり始めると思うんです。


多様性というのは、やっぱり想像力ですから、自分と異なる考え方の人がいるとか、あるいは自分とは違う趣味や好き嫌いの人がいて、自分と異なる環境を生きて生活しているということに想像力が及ぶかどうか。それで、自分たちの寛容度が大きくなったり小さくなったりすると思うんですね。そういう想像力を小さい時から教え育てていくのは、やっぱり「活字」だと思います。ですから、図書室にもっと子供達を追い込んでいただきたいと思っています。