関口:お二人とも小さい時から本が大好きだったのですね。じゃあ私はどうかっていうと、お恥ずかしいですが、小学校の時に図書室に本を読みに行く時、私はずっと書架の後ろに隠れていました。で、先生が「関口君がいない」って探して、捕まってしまって。「本を読みなさい」と言われて読んだ本って面白くないでしょ?それでも仕方なく読み始めたのが百科事典でした。「あ」から順番に。もちろん、その後、少しは成長して物語の面白さに気付いていくんですが、小学生の頃はあきれるほど本を読まなかったんです。今、その後悔ばかりです。その反省もあって、私は、小学生の頃から本や新聞を読ませたいと思っているんです。
中学、高校生もそうですけど、本や新聞と主権者教育がどう関わるかというあたりのご意見を聞かせていただけますか。中江さんは本を読んでいて、何か社会や政治と関わるようなところを感じたことがありますか?
中江:それはもう無意識に多分受け止めていたんだと思いますが、私、小学生の時に一番衝撃を受けて読んだ本は、エクトール・アンリ・マロの『家なき子』です。当時、フランスの文学なんて読んだことはなかったんですよ。でも、読むきっかけが一つありました。
私の両親の離婚です。それは小学校4年生のときで、小学校5年生で転校しました。そうしたら、そこでは、もう子供の人間関係がある程度出来上がっているので、自分が入っていく隙間もないし、不安定な気持ちでした。何をしてよいか分からず、友達もなかなかできず話もできない時に教室の片隅に置いてあった、誰も手を取っていないような、かび臭い本の『家なき子』があって。その本を見た時に、何となくタイトルにすごく惹かれて、読み始めました。時間はたっぷりあるし、みんなは外で遊んでいるので、本を読んでいると、何となく自分の時間を過ごせると思いました。
この物語は、捨て子のレミという子が旅芸人の一座に売られて、成長して行く物語なんです。私、それを読んで、何を考えたかっていうと、その物語に感動するとかじゃなくて、「レミはかわいそうだな。自分はあんまりかわいそうじゃない」と思ったんです。そんな読み方をしたのは初めてでした。私は、両親が別れて、とても不安だし、いろんな意味で悲しいけれども、「レミほどじゃないな」って。何でですかね。そこで初めて比較をしたんですよ。別にそれだけで何の問題も解決しないんですけれど、その時なんとなく気持ちが切り替わったというか。本を読むことが物語をそのまま、また受け取るだけじゃなくて、自分を客観的に見る機会になったんですよ。
今、関口さんがおっしゃった主権者教育とどうかかわるかっていうのははっきりとは言えませんけれども、あの瞬間はものすごく私にとって、大きかったんですよ。ですから、やっぱり多様な人がいるってことを知るのも本を通じてっていうことが大きくて。それはなぜかというと、小中学生はまだ生きている世界が狭いですから、行動範囲もそこまで広くない中で、どうやって人に出会うかといっても、限られているわけですよ。もちろん、それは守られているということでもあると思いますが、出会いの可能性を広げる時に、本は一つの窓口になると思っています。本の数だけ人がいて、さらに、その中に様々な人たちがいるので、自分と全く違う考えを持つ人もいるし、じゃあ自分はどうなのか。私の考えですけれども、多分人間っていうのは、自分の考えはそんなに簡単に生まれて来なくて、むしろ他人との比較の中で生まれてくると。「この考えは違和感を覚える」とか、「これが非常に共感する」というところから、自分の考えているものが立ち上がってくると思っています。
私は読書を通じて、自分の考えを確立する手助けをたくさんしてもらったと思っています。自分が多様性に気づくというか、本が多様性を教えてくれたので、そういう意味で、主権者教育という視点をすごく感じました。
南野:中江さんのおっしゃったとおりで、小学生では冒険物でもいいけれど、やっぱり中学生とか、高校生、小学生でも高学年になってくると、いろいろと関心が広がっていくはずです。自分の住んでいる地域を越えて、もう少し広い視点で世の中を意識し始めていくと、そのときに普段見ているだけ、聞いているだけでは想像できないような暮らしや問題が世の中にあることに、本や新聞を通じて気付かされていくと思うんです。まさに北條民雄の話などはそうで、私の親族とか知人にはハンセン病患者がいないので、どういう苦しみを受けてきたかは具体的には分からないです。でもそれは、北條民雄の小説を読むことで想像ができる、あるいはそういう番組や、新聞を読むことでできる。
ハンセン病については、隔離政策は完全に誤りだったということで、20年ぐらい前に熊本地裁で違憲判決が出ているんです。先ほどの私の講演では違憲判決は少ないって言いましたけれども、それは最高裁の違憲判決で、これは地方裁判所のことです。裁判官が「これはひどい」といって憲法違反の判決を出したことがあるんです。そういうものも、やはり日々の生活では触れることのできない世界ですよね。でも、活字を通じて知ることで、「これはだめだろう」「これは人権侵害だろう」って気付けるのかもしれない。何でこの国の権力は、こういう隔離政策というものを、それから旧優生保護法による強制避妊もありましたけれども、そういった問題を平気で放置し続けていたのかという問題の所在に気付くきっかけになるのが、やっぱり「活字」だと思います。
ですから、子供の成長過程に応じて、どういうものを読んで、自分の暮らしている世の中を少しでも良くするために自分はどんなことができるのかを考えていくためには、どうしても活字で情報を得て想像力を豊かにしたり、知識を増やしたりすることが必要なんです。けれども、そういうちょっと難しいっていうか、面倒くさいことよりも、テレビゲームの方が楽しいので、そっちに流れちゃいます。だからこそ小学校時代、可塑性のある時代に先生方が「読書って面白いものだよ」っていうことを、ある意味で教え込むくらいの指導も必要なのかなって気がしますね。
中江:私はよく親御さんに「どうやったら子供が本を読みますか?」と聞かれることがあります。それには「保護者の方がまずお読みになるのが一番いいんじゃないですか」と申し上げるんです。一方で、自分の実家を振り返ると、両親は別に本を読む人ではなかったですけど、私は子供の時から単純に活字が好きでした。親が飲食店を経営していたので、店で新聞を取っていて、夕方になると、新聞を持ち帰ってくれて、それを私は家で読んでいました。活字中毒だから毎日違う方向の活字に触れるのが楽しかったんです。すると、あるとき、家で新聞を取ってくれるようになったんです。「どうして?」と母に聞いたら、「あなたが朝刊を読みたいっていうから」と言うんですよ。母が私の言葉を受け止めて応えてくれたことが分かりました。
当時の新聞の購読料は私のお小遣いよりちょっと高かったぐらいでした。それを知ってたから、「そんなことまでしてくれたんだ」って。その想いも含めて、私はその時から、新聞をものすごく大事に思うようになった記憶があります。今、新聞を取る人がずいぶん減ってきたっていう問題があるんですけれども。
物語には、その事実プラス物語があると考えています。私は、読み手としていろんな本を読むことが子供の時から好きでしたが、今は書くという創作も同時にやっています。書くことは非常に地道な作業です。本を一冊作る、物語をどういうふうに作っていくのかということは、主体的に考えるという点で、主権者教育とマッチするところもあると思います。
創作はオリジナルのものを作らなきゃいけないわけです。誰かに言われたものを書くんじゃなくて、あなたはどういう人を主人公にして、どういう話を書きますかとなった時に、自分の頭をものすごく働かせなきゃいけないし、しかもそれは、絵空事じゃなくて、自分の身の回りにあることからどんどん膨らましていくのが基本なんです。やっぱり自分がどこかで入り込める話じゃなければ書けないわけです。ものすごく大きな問題でも自分の問題として引きつけて、どういうふうに書くかが大事です。もう一方で、それを客観視する人、読み手がいるわけです。自分も読み手となって、その物語を読んだときに、何か問題提起をして、それがすっと出口にたどり着くのではなくて、紆余曲折するのが物語なんです。ここが結構重要だと思うんです。今、何となく合理的にいくことを、人間って好んでしまうんですが、そうではなくて、例えばゲーム一つでも、それを作る人ってものすごく考えていますよね。そのゲームの作り手になった途端に、多分ゲームの受け取り方が全然違ってくると思うんです。だから物語も読んで楽しい物語って、作り手はものすごく考えています。逆の視点を持って、その人のオリジナリティーとか、想像力を膨らませることで、自分が主体となって物事を考えていく一歩に繋がっていく気がするんです。
NIE教育フォーラム(再録)
※記事中の情報は全てフォーラム当時のものです。