こんにちは。南野でございます。オンラインでは視聴者の顔が分からないので、カメラに向かってお話しするのは、非常に緊張します。伺いましたところでは、小学校、中学校、高校の先生方が大勢聞いてくださっているとのことですので、この画面の向こうに先生方がおられて、そして先生方の向こうには、多くの生徒さん、児童さんがおられるんだとの思いで、限られた20分という時間ですが、主権者教育について考えているところを少しお話させていただきます。
私は憲法学という学問を専攻しておりますので、必ずしも教育や教育現場についての知見があるわけではございません。従いまして、先生方が期待しておられる、主権者教育の授業をどのように行うのかのお話を提供できるとは思っていません。まずは、憲法学の観点から、なぜ主権者教育が必要なのかを重点的にお話しさせていただいて、時間がありましたら、主権者教育をどうすればよいと考えるかという、つまりWHYとHOW、「なぜ」と、「どのように」をお話しします。
なぜ主権者教育かについては、結論から言うと、それが必要で、かつとても大切だからということになります。どうして必要か、どうして大切なのかということを、憲法学の観点からお話しますが、そのためには、そもそも憲法とはどういうものであるかをお話ししなければなりません。
憲法といいますと、国の根本規範であるとか、最高法規であるとか、いろいろなことが言われております。9条が、あるいは憲法前文が非常に重要とか、また権力分立を定めている――などが、日本では普通に教えられていると思います。様々な観点から憲法とは何かという問題にアプローチすることができると思いますが、誰でも知っているようなことをここで繰り返すのは意味がありませんので、私としては違った観点からお話をしたいと思います。
簡単に言いますと、憲法の特質、あるいは憲法と法律はどう違うのかということにつきると思います。法律というのは、国会がつくる法規範のことですが、我々はいたるところで法律に縛られております。街を歩くと道路交通法に縛られていますし、車を運転するときも当然そうです。学校を作るのにも新聞社を作るのにもいろいろな法律が関わってくるわけです。法律は、このように我々の自由や行動を縛るものとまとめることができます。大きな特質は、それに違反すると何らかの制裁があるということです。簡単に言えば、道路交通法に違反すると逮捕されたり罰金を科せられたり、あるいは免許証の点数が引かれるという制裁があるわけです。刑事、民事、行政の制裁はたくさんありますけれど、法律にはそういう特質があると思います。
ところが、憲法というのは、法の一種ではありますが、法律とは異なります。そもそも誰に対して命令をしているかというと、先ほど言いましたように、法律は一般市民に「ああしろ」「こうしろ」「これをしてはいけない」というように命令をしてくるものです。しかし、憲法は、そういう法律を作っている人々、国会議員、あるいはそういう法律を適用してくる公務員、あるいは紛争になったら法律を使って我々に制裁を課してくる裁判官などの、公権力を司る人々に命令をしていると考えることができます。
ところが、そういう人々はなかなか言うことを聞かないことがあります。これが憲法の難しいところです。憲法は先ほど申しましたように、権力者に対して「ああしろ」「こうしろ」と命令をするもので、我々市民の「自由を奪っちゃいけないよ。権利を侵害してはいけないよ」と言うわけですが、それを素直に聞いてくれる権力者ばかりではないんです。これはよその国を見てもそうですし、他ならぬ日本でも残念ながら時として起こりうることです。
よく我々は、憲法の特質として三つぐらい授業で取り上げます。一つは最高法規であるということ。最高法規というのは、「法律も行政も裁判も全部憲法に従って行わなければならないよ」という意味で、これが一つ目の特質です。
二つ目は、どの教科書にも書いてありますが、憲法というのは、民主主義で、多数決で選ばれた人でさえ言うことを聞かせるというものですから、実は簡単に変えられないようになっているわけです。法律は多数決で変えることができますが、憲法は多数決では変わりません。ご承知のとおり96条で、国会の3分の2の賛成、それから国民投票という、さらなるハードルがあります。これは、日本の憲法の特徴・特色です。これを硬い憲法、「硬性憲法」と言います。これが二つ目です。
憲法は最高法規であり、そして硬性憲法で変えづらくしてあります。何のためかというと、最初にお話しした「権力者を縛るため」ということです。
ところが、権力者というのは、常に憲法に従ってくれるとは限りません。生々しい話になりますが、一つだけ具体例を挙げておきますと、憲法に54条という条文があります。今、ネットでもすぐ検索できますから、ご覧いただけるといいと思いますが、そこで、臨時国会の召集が定められています。日本の国会は1月からです。通常国会というのは150日間開くと法律で決まっていますが、それ以外は決まっていないんです。そうしますと、年の後半、だいたい秋に、次の年の予算案を審議しようということで、臨時国会を開きます。ところが、54条では、それだけじゃなく、衆議院か参議院議員の4分の1が要求したら、内閣は臨時国会の召集を決定しなければならないと定めているのです。4分の1というのは、要するに多数派ではなくて、少数派という意味。つまり野党です。野党が要求をしたら、与党に支えられている「内閣は、臨時国会の召集を決定しなければならない」と憲法に書いてあるんです。これは日本国憲法の書き方としては例外的にはっきりと書いてあるので、議論の余地はありません。しかし、過去に残念ながら何度か無視されたことがあります。最近では少し前の内閣が要求に従わなかったという事例があります。こういうことがありますと、大変困ったことになります。
憲法学では「憲法違反だ」と言うんですが、ときの内閣は「いやいや、何日以内にと書いていないから」とか、いろいろな理由をつけて「憲法違反ではない」と言います。そうなると白黒がはっきりつかない状態のままで、結局、野党側の臨時国会召集要求は、実現されないままに時が過ぎていくことになってしまいます。こういうことが、憲法が最高法規であり、硬性憲法であって権力を縛らなければいけないと言われているにもかかわらず、行われているということがあります。一体どうすればいいのか。非常に難しい問題なんです。
これを解決するために、違憲審査制があります。これは立憲主義の三つ目の特質。これがないと憲法の最高法規性が守れないという非常に大切な制度です。時間の関係で詳しくは話せませんが、日本の違憲審査制は、諸外国の違憲審査制と比べますと、客観的に見て、非常に消極的だと言えます。例えばお隣の韓国は1987年から新しい憲法で違憲審査制をやっていますが、もうすでに違憲判決が300個ぐらい出ています。フランスも300個ぐらい出ていますね。ドイツは戦後1951年から違憲審査制をやっていますが、違憲判決が500個ぐらい出ています。そのような国がたくさんあるなかで、日本は1947年から違憲審査制をやっていますが、違憲判決が11個しか出ていません。この桁違いの少なさにはいろいろな理由があると思いますが、客観的に言って、日本の違憲審査制がかなり消極的であることを示していると言えます。
従いまして、憲法というのは「権力者を縛るんだ。そして権力者に言うことを聞かせるんだ」という特質があって、だからこそ、最高法規性を担保するために違憲審査制という制度があるのですが、しかし、なかなかうまくはいかない。先ほどの臨時国会召集は、各地で訴訟になっています。野党の議員が「これは憲法違反だ」と損害賠償請求の訴訟を起こしましたが、裁判所はいろいろな理屈を付けて「いや、そんな議論は裁判にはのりませんよ」となって、違憲か合憲かの判断をしてくれません。違憲審査制はありますが、なかなかうまくいかないという限界があるのです。
そうしますと、憲法を守るのは誰か、あるいは守らせるのは誰かという話にならざるを得えません。違憲審査制はありますが、違憲審査とは時の内閣に対して「今お前のやっていることは違憲だ」と言うことなので、裁判官としてなかなか勇気の要ることかもしれません。諸外国には例がありますが、裁判官が頑張り過ぎて、大統領とか内閣総理大臣などの有力政治家を敵に回しますと、足元をすくわれるときがあります。法改正をして裁判所を切り崩したり、裁判所の権限を削ぎ落としたりすることがあり得るのです。それゆえ、裁判官は時と場合によっては、ときの内閣総理大臣に対しても「違憲だ」と、言わなければいけないのですが、なかなかその勇気が持てないのです。この勇気を裁判官に持ってもらうのが、私は主権者の役割だと考えています。本当は時間をかけて説明しなければいけないんですが。そろそろまとめますね。
主権者というのは、権力を監視するという非常に重要な役割があります。これは我々が見落としているところだと常々思います。裁判官も権力者を監視する。しかし、その裁判官を我々が監視する。違憲審査権を行使すべき時にちゃんと行使しているか、我々にはそういう監視をしなければいけない役割があるんです。裁判官が違憲審査権を行使しようとしている時に応援する。また裁判官が圧力を受けたら守ってあげる、裁判官が良い違憲判決を出したら、拍手喝采してあげるなど、いろいろなやり方があります。そのように国の動きが憲法に従って行われているかを、一人一人の主権者が見て、そして評価していくことがとても大切なんです。
そのために、憲法の知識であるとか、あるいは世の中の動きや、政治の動きに対して、小学生の時代から関心を持って、自分の頭で「これは良い政治だ。これは悪い政治だ」というように、主体的に判断ができる、そういう市民を先生方には育ててほしいのです。それが、主権者教育です。それは憲法によって公権力を縛って、自由で平等な社会をつくっていくために不可欠なことで、「監視者としての主権者」が育つためには、学校教育がとても重要だということを申し上げたいと思います。
どういう主権者教育を行うべきかについては、小学校の校長先生だった関口さん、それから日頃から社会に発信をしてくださっている中江さんとの鼎談の中で、私なりの考えを述べられればと思います。
最後に一つだけ、おそらく先生方は政治的中立性ということに非常に敏感というか、悩んでおられると思うんです。しかし、私に言わせれば、100%中立などというのはそもそも無理な要求です。ある人から見れば、別な人の意見は絶対に中立ではない。別な人から見ればある人の意見は偏っているように見える。これは致し方のないことです。そういう中で先生方が教育の専門家として、自分の考えを子供たちに押しつけるのではなく、多様な意見が社会にはあって、そして自分と異なる意見も尊重しながら、議論をしていく市民を育てるためにどうすればいいかを考えていただきたい。先生が、「先生自身はこういうふうに考える。しかし、この考えにはこういう意見や反論もあり得るのだ」ということを提唱していくことが、政治的中立性の本質だと考えています。
とにかく私自身は小学校、中学校、高校で、本当に良い先生に恵まれて良い教育を受けたと感謝しています。そういう先生方がいたからこそ、今の私があると言っても過言ではありません。学校の先生方の仕事は「聖職」だと思います。「政治的中立性」という、マジックワードに、萎縮しないで頑張っていただきたいです。ご清聴ありがとうございました。
NIE教育フォーラム(再録)
※記事中の情報は全て対フォーラム当時のものです。