2025.3.30.San
先日、スポーツ東洋より、2024年度東洋大学陸上競技部男子長距離部門をご卒業された箱根駅伝16人メンバーの卒業生へインタビューをしたいただきました。
以下、4年生エントリーメンバー6名のインタビュー記事になります。
〈石田洸介〉
―陸上を始めたきっかけは
陸上を始めたきっかけは、 保育園のマラソン大会で、 ずっと2位で1位になれなくて。 勝てないことが悔しくて走り始めました。
―たくさんの大学から声がかかったと思いますが、 その中で東洋大を選んだ理由は
東洋大学の取り組んでいる練習面であったり、 そのほかの食事などのコンディションの面であったりを監督に教えていただきました。 また、 監督の指導を受けたいということと、 世界で戦える選手になりたい という思いがあったので、 東洋大学に決めました。
―決め手になった言葉は
「一緒に世界を目指そう」 と監督に言っていただいたことがすごく印象的で、 それが入学しようと思ったきっかけになりました。
―入学前の東洋大の印象と入学後感じたことは
入る前の印象は、 いい意味でキラキラしていないというか、 真面目で実直な印象がありました。 実際もその通りで、 もちろん規律を正さなければいけない部分はありますが、 その中でも選手との関係は楽しかったです。 また、 東洋大学というのはすごく応援されているチームだなと感じました。
――入学時に思い描いていた理想は
理想では、 ちょうど大学4年生の時にパリ五輪があったので、 そこに出場したいという思いもありました が、 故障も多くなかなかうまくいかない陸上人生だったなと思います。
――1番思い出に残っている大会は
4年生の時の関東インカレ10000mのレースが印象に残っています。
――その理由は
関東インカレで結果を出すまで、 まったく結果を出せずに2年間くらいを過ごして、 陸上を離れた時期も ありました。 そこからまた新しくスタートして、 久しぶりに 「やり切った」 と思えるレースになったので、 今でも印象に残っています。
――今陸上を頑張れている原動力は
1つは本当に同期の走りのおかげで、 もう一度陸上を頑張ろうという風に思えました。 あとはすごく人と人との縁に結ばれて、 いろんな人が自分に手を差し伸べてくださって、 そこからまた恩返しをしたいという風に思えるようになりました。
――4年間の中で思い残していることは
そうですね…。 いろいろありますが、 一番思い残していることとすれば最後の箱根駅伝を走れなかったということです。
――走れないとなったときや、 当日はどんな思いだったか
欠場するとなった時は 「自分の箱根駅伝は終わったのか」 と思う部分もありましたし、 もちろんすぐに切り替えることはできませんでした。 それでも裏方でサポートしながら、 みんなが段々と調子を上げていく姿を見て、 このメンバーに自分の走れなかった思いを託したいなと思いました。
当日は3区と9区の付き添いをして、 3区は1年生の迎暖人、 9区は同期の吉田があきらめずに走ってくれました。 みんなに支えられて20年連続のシード権を確保することができて、 本当に救われたなと思いました。
――その箱根駅伝で一番心に残っていることは
特定のというわけではありませんが、 3年生以下が 「4年生のために頑張ります」 とか、 「4年生のために頑張りました」 と言ってくれたことが、 前半は引っ張れてはいましたが、 後半は全く引っ張れなかった4年生に対してそう言ってくれて、 そういう思いで走ってくれるということに感謝の気持ちでいっぱいでした。
――酒井監督のご指導を受けて
やはり酒井監督の陸上に関する考え方や、 陸上以外の人としての考え方を4年間すごく学ばせていただきました。 競技面に関しては監督の期待に応えることができずに申し訳ない気持ちでいっぱいですが、 それ以上に人間性の面ですごく成長させていただいて、 本当に酒井監督のご指導を受けられてよかったなと感じます。
――繋がれてきた伝統の重さを感じることは多かったか
そうですね。 4年間、 特に箱根駅伝では2年生の時にシードを落としかけましたし、 今回もシードぎりぎりの戦いで、 守り抜かないといけない伝統を背負うことの難しさを、 特に今年はすごく感じました。 結果的に伝統をつなぐことはできましたが、 もうすこし自分が新しい東洋を作りたかったと思うところも、 後悔していることではあります。 人がつないだ、 人と人の縁もつないだこの伝統というのはすごく重いなと思います。
――個人としても注目を集める機会は多かったと思うが
もちろん走れない状態でも取材を受けなければいけないというのも何度も経験しましたし、 言ったことが有言実行できなかったという部分でも苦しいところはありましたが、 他の学生と比べれば自分は全然結果を残せていない中でも取材をしてくださるというところにすごくありがたみを感じていました。 取材を通して 応援してくださるみなさんに感謝の気持ちを伝えることもできるので、 その機会を無駄にせずに自分の言葉で東洋の魅力や、 自分を知ってもらえたというのはすごくありがたかったなと思います。
――色紙の言葉について
大学4年間で本当にたくさんの人と縁があって、 いろんな人に支えられた4年間でした。 この縁を大切にすることと、 この縁に恩返しをしたいという思いを込めて、 「縁」 という字を選びました。
――同期へメッセージ
4年間苦楽を共にした中で、 個人的には同期とタスキをつないで最後は終わりたかったので、 そうやって終われなかった悔しさはありますが、 みんなと一緒に4年間過ごしてきたことは本当に大切な宝になりました。 またいつか会える日があれば、 みんなで思い出を話したいです。
――後輩へメッセージ
もちろん伝統の重みというのを感じるところもあると思いますが、 鉄紺を背負って走れることに喜びを持ってほしいです。 三大駅伝で定位置に戻すことや、 優勝というのももちろん目指しては欲しいですが、 その 先の 「世界」 もぜひ酒井監督のもとで目指していってほしいなと思います。
――自身が目指していくところは
大学生活でやり残したことはたくさんあるので、 まずは日本のトップレベルに挑戦していきたいと思いま す。 そこを達成できれば次は本当に目標としていた世界という舞台を目指していきます。 最終的な目標は、 皆さんの記憶に残る選手になりたいなと思います。
――4年間、 どんな大学生活だったか
4年間、 苦しいことばかりでしたが、 それと同じくらい人と人の縁にすごく結ばれた4年間でした。 東 大学でなければ、 こんなに縁が結ばれることはなかったと思いますし、 支えてくださった方々に感謝の気持 ちでいっぱいです。 卒業後、 大学生活で悔いが残った分を取り戻して、 いちOBとして恩返しができるよう に頑張っていきます。
――東洋大に入ってよかったですか
そうですね。 結果的には良かったと思える部分がたくさん見つかったので、 自分はここにきて間違いはな かったと思います。
〈梅崎蓮〉
――陸上を始めたきっかけは
中学校のころは別の部活で、 ソフトテニス部でした。 駅伝には助っ人で出ていて、 そこでまずまず結果は 出ていたので始めました。
――東洋に入学したきっかけは
わざわざ地元の愛媛まで来ていただいて、 お誘いいただいたので、 東洋大学なら強くなれるかなと思って東洋大学に進学を決めました。
――入学前の印象や実際に入ってみて
入る前は厳しい部分があると聞いていたので、 覚悟して入りました。 もちろん厳しい部分はありますが、 理不尽な厳しさではなくて、 自分のための将来に生かせることを学べたので、 よかったと思います。
――入学前の目標は
箱根駅伝に出てしっかり結果を出すことが目標だったと思います。
――目標はかなったか
そうですね。 段階的にも1、 2、 3年と走らせていただいて、 3年には花の2区を走らせていただいたので、 成長できたのかなと思います。
――4年間の中で思い出に残っている試合は
1年の時の全日本大学駅伝です。 初めての三大駅伝への出走で、 石田ともタスキをつなげましたし、 楽しんで走れたというので記憶に残っています。
――大学陸上のターニングポイントは
2年生の時の関東インカレでハーフマラソンに出て、 そこで2位を取れたときです。 大学でその時までは 全然結果を残せていなかったので、 そこでしっかりと結果を残せたことが自信につながったかなと思います。
――関東インカレでは3年連続の表彰台となったが
非常にうれしいですし、 3年連続で表彰台を取れたことはよかったです。 しかし、 その表彰台の中で優勝だけが取れなかったので、 心残りな部分はあります。
――大学陸上で1番の心残りをあげるなら
やはり最後の箱根駅伝を走れなかったというのは自分の中でも悔しいというか、 心残りな部分もあります。 ああしておけばよかったと思うことは多かったです。
――箱根に出られないと決まったのは
出られないと正式に決まったのは31日でした。
――直前だった
そうですね。 足を痛めながらやっていたのですが、 やっぱり痛みが取れなくて。 もう無理かなと。 このままではチームに迷惑をかけてしまうだけだったので出場しないということになりました。
――出場できないと決まった時の心境は
出られないと決まった時はやはり悔しいとか、情けないというか。 チームに迷惑をかけてしまったなという風に思って落ち込んでしまう部分もありましたが、自分が暗い顔をしていてもチームのためにはならないと思ったので、 すぐに切り替えました。 サポートすると決めました。
――当日はどんな思いでその走りを見ていたか
みんなが走ってくれて、 20年連続のシード権を獲得できたことはすごくうれしいです。
――その中でも心に残っていることは
いろいろありますが、 同期の小林がずっと先頭で引っ張って秒差でつないでくれたことや、吉田周がしっかり最後まで粘ってくれたというのは、自分としても代わりに走ってくれたという思いはありました。 あとは西村真周や薄根が「4年生の分まで走る」 と言ってくれたことが本当にうれしかったです。
――手袋の名前は
真周は、自分は付き添いでその日以降はもう会えないので1月1日に書き、薄根は当日の付き添いだったのでアップの時に書きました。
――主将として過ごした1年は
主将としてやってきましたが、思うようにはいかなかったかなと思います。 前半シーズンの関東インカレくらいまではチームとしてもよかった部分が大きかったのですが、出雲・全日本では全然ダメだった部分が多かったので、主将としてチームを引っ張り切れていなかったことが本当に申し訳ないなと思います。
ーーチームを引っ張る立場となって
自分は言葉で引っ張るタイプではないので、結果を出して引っ張るというのが自分の主将としての在り方でした。 しかし、 最後は引っ張り切れていなかったので、 もっと引っ張りたかったなとは思います。
――主将として成長したことは
成長した部分は周りを見る力です。 3年までは自分に集中していたので周りを見ることはあまりなかったのですが、 4年になってからはそういうわけにもいかなくて、 キャプテンとしてチームのために働く力というのは成長したかなと思います。
――酒井監督のご指導を受けて
東洋大学にきて1年目から4年目までしっかり成長することができました。 競技だけでなく、生活もしっかりするというのが東洋大学の方針なので、 そこを学べたこともよかったです。
――学生のうちからマラソンに挑戦したことについて
いずれマラソンには挑戦したいと思っていたので、 その経験が実業団に行ってからも生かしていけるのかなと思います。
――今後の目標
まずはしっかり結果を出すことが大事なので、 1年目から活躍できるような選手になりたいと思います。
――色紙の言葉について
『忍耐』 という言葉を選びました。 4年間、 耐えることが多かったのですが、 1年から4年まで、 色々な経験を耐えることで成長につながったと思うのでこの字にしました。
――同期へメッセージ
自分がキャプテンをやっていく中で、 同期に助けられた部分がかなり大きいので、 非常に感謝していますし、 頼もしい存在でした。 ありがとうございました。
――後輩へエール
今年箱根を走ったメンバーが8人残るので、 彼らがしっかりチームを引っ張っていけば上の順位も狙えると思います。 みんな力があるので、 頑張ってほしいです。
――東洋の伝統を意識することはあったか
そうですね。 特に駅伝などは失敗が許されない場所なのでかなり緊張しましたし、 キャプテンになってからもその伝統を崩してはいけないので、 考えることは多かったです。
――4年間を振り返って
苦しいことは多かったですが、 いろいろな経験もできました。 濃い4年間だったなと思います。
――東洋大にきてよかったですか
はい。 よかったです。
〈小林亮太〉
ーー陸上を始めた時期は
中学校1年生の頃から始めました。
ーー始めたきっかけは
長距離が好きだったわけではないのですが、 仲の良かった友達がみんな陸上部に行ったので、 流れで始めました。
ーー東洋大学に入学した決め手は
自分は走ることしか分からなかったので、 走ること以外でも食事など色々なことを学べるかなと思い、東洋大学に決めました。
ーー入学前の東洋大学の印象は
かっこいいというのはありました。 走り方もそうですし、 憧れがありました。
ーー監督の印象は変わったか
話していくと自分に足りないものなどをアドバイスしてくださって、 そういったことを汲み取って自分は成長できたと思っています。 会話をしていくうちに、 必要なことを学べる知的な人だなと思いました。
ーー入学するにあたって目標としていたことは
1年生の頃から、 三大駅伝や関東インカレなどの主要大会で結果を出すことを目標にしていました。
ーー4年間で一番思い出に残っているレースは
2年生の早稲田競技会で、 5000mのレースです。 1年生の頃からあまり結果が出ていない中、 自分の殻
破れたというか。 タイムは周りと比べればあまりよくはないですが、 自分の中の殻を破ったということで印象に残っています。
ーーそこが陸上人生のターニングポイントだったか
そうですね。 いつも中途半端な結果しか出せていなくて、 そこで初めて自分の力を最大限まで出し切れたかなと思いました。
ーー東洋大学陸上部の好きなところは
みんなに話しかけやすいというか、 仲がいいところです。
ーー4年間、 東洋大で成長できたことや得られたことは
普段の礼儀や挨拶、 気遣いなどは今後社会に入っても大事なところだと思います。 そういった人間として必要な、 基礎的なところを学べて、 成長できたと思います。
ーー同期にメッセージ
辛い時や楽しい時にいつも同期がそばにいてくれて、 そのおかげで諦めずに4年間やってこれたので、 同期には感謝しています。 ありがとうございました。
ーー後輩にエール
今年度の駅伝シーズンは苦しいことが多かったと思いますが、 その中で乗り越えたことは大きな財産になると思います。 その経験を生かして、 今後は三大駅伝で出雲駅伝から上位争いに加われるように頑張ってほしいと思います。
ーー大学1年生の頃、 同期が駅伝に出走しているのを見てどう感じたか
最初に思い描いていたこととは違い、 自分が出走できず、 石田洸介と梅崎蓮が出走できたことに誇らしく思う部分もありましたが、 同じ舞台に立てなかった悔しさはありました。
ーーその走りを見て刺激を受けたか
区間賞を洸介が1年生の時から取っていて、 梅崎も流れを良くする走りをしてくれました。 そこで自分も火がついて、 彼らと同じ舞台に立ちたいなと思いました。
ーーそこから練習量が増えたりはしたか
練習量も増えて、 フィジカル面を重点的にやるようになりました。 練習量では体作りなどのフィジカルが1番増えたかなと思います。
ーーチーム内で台頭するようになったきっかけ
体作りを継続してきたことで、 だんだんと上の選手たちと互角に走れるようになってきたと思います。
ーー副主将になった経緯は伝えられたか
伝えられてはいませんが、 役職についている人が6人と、 かなり多かったので、 役割を分担して負担を減らす意味合いがありました。
ーー副主将になってから変わったこと
「自分だけ練習できればいい」 ではなくて、 他の選手も練習ができて欲しかった。 そこがチームの底上げにもつながってくるので、 きつそうになった選手や倒れそうになっている選手を鼓舞して、 練習の雰囲気を盛り上げることを常に意識してやっていました。
ーー4年生になってからケガはあったか
夏合宿の頃から膝の方を痛めてしまって、 そこからなかなか練習が積めなくて苦しい思いをしました。
ーーそのけがは箱根駅伝の際に痛めていたけがとは別か
そうですね。 痛めた箇所はどちらも膝ですが、 その中で転々と変わっていったという感じです。
ーー最後の箱根駅伝では石田選手・梅崎選手が不在の中、 小林選手がチーム内で鼓舞や声かけをしたところはあるか
自分自身もすごく緊張をしていたのでチーム全体に声かけはできなかったのですが、 個人には声をかけました。 特に1年生は初めての箱根駅伝ですし、 緊張をしていたところもあったので個別に声かけをしました。
ーーどういった声かけを
タスキをもらった時は心を落ち着かせて余裕を持ってスタートして欲しいということと、 1年だからといって躊躇せずに、 行けるところはしっかり行こうということを伝えました。
ーー酒井監督との関係性は
自分ができなかったことに対してたくさん教えてくださり、足りない部分を指摘していただきました。 人間性も競技面も教えてくださった恩師という存在にすごく近いと思います。
ーー4年間で思い残すことは
ないです。 やりきったかなと思います。
ーー東洋大学に入学して良かったと思えるか
そうですね。 だめな時もありましたが、 その中で成長したところもありました。 入って良かったなと思います。
〈永吉恭理〉
ーー陸上を始めた時期は
中学1年の時に始めました。
ーー始めたきっかけは
小学校のとき太っていて、 痩せたいなと思って始めました。
ーー東洋大学に入学した決め手は
中学3年生の時に友達の家で箱根駅伝を見ていたのですが、 西山和弥さんが大学1年生の時に1区で区間賞を取られていた姿を見て、 自分も東洋に行きたいなと思いました。
ーースカウト時に印象に残っていることは
スカウトは監督から声をかけていただいたというよりは、 自分の父親が東洋大学出身だったので、 父から 色々な話を通してもらったということが1つあって。 そこから監督の方にも話が入ってという感じです。 周りの選手と比べると入学の仕方は違うかもしれないです。
ーー入学前の東洋大学の印象は
他大学よりも上下関係があるという言い方をしてしまうとマイナスな部分にはなるかもしれませんが、 スポーツをする上で大事なことを学べるという印象です。 上下関係もそうですが、 人間関係をどの大学よりも 学べるところなのかなと思っていました。 父親からもこのような話を聞いていたので、 そういったところを重んじている大学だと思っていました。
ーー父親も陸上経験者か
いいえ、 剣道をやっていました。
ーー入学前の酒井監督の印象は
かっこいいなと思っていました。 顔もそうですが、 立ち振る舞いなどもかっこいいなと思います。
ーー入学後、 東洋の印象は変わったか
変わった部分は特にないかもしれません。
ーー入部するときに目標としていたことは
西山さんの箱根駅伝を見て東洋に娘 入りたいなと思っていたので、 箱根駅伝に出走して、 活躍することを大きな目標として入部しました。
ーー4年間で一番思い出に残っている試合は
初めてハーフマラソンに出させてもらった2023年11月の小江戸川越ハーフマラソンです。 初めてのハー フマラソンで1時間3分台で走ることができて、 箱根駅伝のメンバーに入る大きな要因になったので思い出にあるレースの1つかなと思います。
ーー東洋大学の陸上部の1番好きなところは
レースでも練習でも、 最後まで諦めない姿勢です。 「その1秒をけずりだす」 走りというのを、 ここ最近はできていなかった部分もありましたが、 今年の箱根駅伝ではその走りをみんなしてくれました。 自分の好きなところですし、 東洋の誇りだと思います。
ーー東洋大学で成長できたことや得られたことは
大学3年生の時に膝の故障をしてしまって手術をしましたが、 そこから6ヶ月でその年の箱根駅伝のメンバーに選んでいただくことができました。 そこで諦めない心を学び、 得ることができましたし、 大きなケガをすることで 「いろんな人に支えられているな」 とより実感できました。
ーー陸上人生のターニングポイントは
膝の故障で他大学なら陸上を辞めるきっかけになるだろうし、 自分の中でも陸上はこれで最後なのかなと思っていました。 それでも最後まで監督やコーチ、 仲間が心熱いメッセージを送ってくれたことなどがあって現在も競技続けられているので、 そこが大きなポイントかなと思います。
ーー4年間を通して監督の印象や関係性は
監督は選手一人ひとりと真摯に向き合ってくれて、 他大学のことをよく知っているわけではないですが、 どの大学よりも深く接してくれる本当に面倒見の良い方だなと思っています。 実際、 監督も現役時代にすごく活躍されて、 箱根駅伝も出走されている方なので、 選手の1人としても憧れている部分があります。
ーー同期にメッセージ
4年間ありがとうございました。 これから全員が別々の道に進みます。 競技を辞める方もいますが、 東洋で学べたことは大きいですし、 社会に出ても生きてくるところはたくさんあると思うので、 これまでの経験をこれからの社会人の生活に1つでも役立てていってほしいなと思います。 競技を続ける人たちは記録会など会うことはあると思うので、 その時は絶対負けないぞと伝えたいです。
ーー後輩たちにエール
出雲、 全日本と結果は振るわず、 今年の箱根駅伝も9位とシード権はなんとか得ることはできましたが、 主力である梅崎・石田が走れなかったり、 自分もエントリーしていただきながら当日走ることができなかったりしました。 例年に比べて4年生としての貢献度が高くなかったことが申し訳ないなと思っていますが、 後輩たちのおかげでシード権を獲得できたという点でありがたく思っています。 これからもっときついことや、 その分楽しいこともあると思いますが、 故障してからも箱根駅伝のメンバーに絡むことができたという自分の経験から言えることは、 何があっても諦めてほしくない。 最後まで粘って欲しいです。 もちろん試合でも言えることです。 自分はここまででいいやと諦めた気持ちを持つのではなくて、 最後まで走り切って欲しいなと思います。
ーー競歩を始めた経緯
大学1年の時に膝にひびが入って、 長距離を一旦辞めました。 そこからずっと走っていなかったのですが、 大学2年の最初にリハビリの一環で競歩を始めさせてもらいました。
ーー長距離に戻ったのは
競歩をそこから1年近くやらせていただいて、 ある程度走れるようになってから長距離に戻った矢先に膝がずれてしまって、 そこで手術になりました。 手術してからは長距離の方に専念する流れになりました。
ーー箱根駅伝では2年連続8区エントリーから当日変更となり、 悔しさはあったか
その日の朝、 6時半くらいに監督から電話がかかってきて自分がリザーブだと伝えられました。 2年連続8区でエントリーしていてリザーブとなった時は涙を流しましたし、 悔しい部分もありましたが、 代わり に走ってくれた網本があれだけいい走りをしてくれたので、 悔しい中でも網本で良かったなと思います。
ーーどういう気持ちで箱根駅伝を見ていたか
走りたかったなと悔しさもありましたし、 仲間を信じる気持ちもありましたが、 主力を欠いて出場して、 足やメンタル部分に不安がある選手も何人かいて、 状況としてはよくないなかでのスタートとなったので 丈夫かなと思っている部分も少なからずありました。 でも箱根ではしっかりやってくれるのが東洋大学だと信じていました。
ーー9区の給水で吉田選手に何と言葉をかけたか
とりあえず前との差が何秒かを伝えて、 4校の混戦で来たのでこの3校には負けないようにと。 お互い最後の箱根駅伝だぞ、 最後まで諦めずに走ってくれと伝えました。
ーー9区の給水はどうやって決まったか
その日までは1年生の2人が給水する予定でしたが、 自分が当日変更でリザーブとなった時に緒方と自分で給水地点に行ってくれと言われて自分が向かいました。
ーー今回の箱根駅伝で1番印象に残っていることは
1番は10区を走った薄根が、 1校がシード権から落ちてしまう中で最後に競り勝ってきたことです。 自分は大手町に向かう電車で移動中でしたが、 シード圏内でゴールしたのを見て電車の中で泣いてしまって。 心を動かされる走りだったと思います。
ーー4年間で思い残したことは
箱根駅伝だけでなく、 三大駅伝に出走できず、 支えてくださった監督やコーチ、 もちろん保護者に走って貢献することができなかったことがかなり心残りな部分です。
ーー東洋大学に入学して良かったと思えるか
自分は膝の故障があって、 他大学だったら陸上を辞めるかマネージャーに行くかという状況だったと思います。 そこで 「競歩やってみるか」 とか、 別の道への手を差し伸べてくださったりと真摯に向き合ってくれて、 そのおかげで今の自分がいます。 これからも実業団で競技を続けさせてもらいますが、 最後まで自分の面倒を見てくださったからここまで競技を続けて来られたのかなと深く思っています。 東洋大学に入ったか らこその経験だと思うので、 感謝していますし、 東洋大に入って良かったなと思います。
〈増田涼太〉
――陸上を始めたきっかけは
きっかけは中学校の部活です。 本当はスポーツが得意じゃなかったので、 そもそも運動部に入るかという
レベルのところからでしたが、 親が 「中学校くらいまでは運動して」 という感じで。 球技が本当にダメだっ ので、 走ることくらいならやれるかなと思って始めました。
――東洋大に入学したきっかけは
陸上を始めてから箱根駅伝をちゃんと見るようになって、 毎年上位で戦い続けているチームだったので最 初から憧れはありました。 いろんな大学の方とお話しする機会はありましたが、 東洋大は話していて目 合う回数が多かったなという印象があって、 それが酒井監督のもとでやれば力をつけられるかなと思った一 番大きなことです。
――入学前の印象と実際に入学後の違いは
自分はいわゆる強豪校に行くのは初めてだったので、 変に厳しいなどの先入観などはなく入れたかなといます。 入ってみて、 練習のボリュームは増えたなというのが印象的でしたが、 そこはやっていくうちに慣れていきました。 先入観がなかったので、 入ってみて変わったことというのはなかったかなと思います。
――慣れていく過程で大変だったことは
集団の寮での生活は初めてだったので、 生活リズムが変わることであったり、 高校までは強豪校ではなく て練習量も少なかったので、 練習量が増えることにも慣れるのに時間はかかったなと思います。
――入学前の目標は
一番の目標は箱根駅伝を走りたいというのがありました。 最後届きはしませんでしたが、 届くラインまでこれたことは自分の中でうれしくて、 4年間やってきたことが形になったなと思います。
――大学生活の中で1番成長したことは
「礼を正し、 場を清め、 時を守る」 という部訓にもありますが、 礼儀の部分であったり、 社会に出ていくう えで必要なことというのは競技力以上にすごくたくさん教えていただきました。 今後の自分の人生にとって 糧になるものだなと思っています。
――大学競技の中で1番思い出に残っていることは
4年目の箱根駅伝が1番印象に残っています。 自分たちの代の集大成で、 なかなかチーム状況としてはうまくいかない中で、 20年連続のシード権は最低限確保するんだというところでやってきました。 最後にはしっかりシード権を取れたということが、 当初思い描いていた形にはなりませんでしたが、 よかったなと思い ます。
――走ったメンバーからは 「4年生のために」 という声も多かったが
やはりそういう風に言ってくれるのはすごくうれしいです。 自分は当日変更で変わってしまって、 変わっ た迎を4区の中継所で迎え入れたのですが、 自分が声をかけたときに迎が 「増田さんに変わってもらえたって思ってもらえるなら、 それが1番うれしいです」 と言ってくれて、 うれしかったです。 後輩が自分たちのためにという気持ちを持って走ってくれたというのは、 4年生でないと経験できないことだと思うので、 それも含めて1番印象に残っているかなと思います。
――4年間で思い残したことは
欲を言えば箱根駅伝を走りたかったなというのはずっと気持ちの中には残るんだろうなと思いますが、 目 標を達成できなかったというのをしっかり自分の中でも持って、 次に向けて頑張っていけたらなと思います。
――大学陸上での変化は
入ってきたときには全然練習ができなくて、 多分1番実績もないし、 自己ベストも遅かったです。 高校まではただやっているだけでそこそこ走れていた部分はありましたが、 ここにきて、 ただやっているだけではだめだなと。 与えられた時間の中で自分の課題や足りない部分をどうやって克服していくか、 強い選手との 差をどうやって埋めていくかというのを考えながら競技するようになりました。
――酒井監督からご指導を受けて
競技はもちろんですが、 本当にいろんな知識がある方だなと思っています。 実業団で競技もされていましたし、 教員もされていたので、 いろいろな経験をされて、 競技だけではなくて生活の部分から教えていただ きました。 競技者としてだけではなく、 一人の人間として成長させていただけたなと思います。
――4年間の中で苦しかったことは
1年目、 2年目は練習もなかなかついていけなかったので、 「このまま記録が伸びないんじゃないかな」 と か、 「4年間結果が出せずに終わってしまうんじゃないかな」 と思っていた部分はあって、 高校までは正直とんとん拍子でいっていたので、 苦しかったというか、 競技を続けていてしんどかった部分はあります。 た だ、 3年生くらいになって練習にも慣れてきて、 自己ベストも出始めてからは自分の中で少し余裕も出てき て、 楽しみながら競技をできるようになりました。 練習量はできていたので、 フルマラソンに挑戦させてい ただいたり、 いろんな経験をさせていただきました。 1年目は1500mをやったりもしていたので、 そこか フルマラソンまで、 いろんなことに挑戦できたことはすごく楽しかったなと思います。
――色紙の言葉について
『支』 えるという字を書きました。 本当に色々な人に支えられて、 ここに入ってくるまでも、 こうして4年間を終えるまでも、 監督をはじめ指導してくださるスタッフの方、 スポンサーの方、 あとはやはり家族がす ごく自分のことを気にかけてくれて、 頻繁に連絡をくれました。 本当にいろんな人の支えがないと、 自分は この4年間をやり切れていないと思います。 また、 自分はマネージャー兼任の選手としてやらせてもらって いて、 その中で支えられる側と支える側のどちらも経験したからこそ今の自分があります。 そういった意味で 「支」 えるという字を選びました。
――同期へメッセージ
正直、 自分がここまで成長するとは思っていなかったんじゃないかなと。 1番下で入ってきてずっと追いかけ続けてきたので、 その中で最後はメンバーとして、 全員で箱根駅伝を目指してやっていけたこと がすごくうれしかったです。 結果が出ない時も自分のことを気にかけて声をかけてくれたりしたので、 本当 に支えてくれてありがとうと伝えたいです。
――同期には実績のある選手も多かった
そうですね。 目標であり、 いつかは肩をならべて走りたいと思ってきました。
――一緒に練習することで成長した部分もあるか
いろんな競技に対する考え方を持った人がいるので、 自分にない考え方を学べた部分もありますし、 自分より高いレベルの選手と過ごすことで見えてくるものもありました。
――後輩へエール
今、 結果が出ている選手も結果が出ていない選手もいると思いますが、 自分の可能性を信じてほしいです。 結果がなかなか出ない時でも 「だめだ」 と自分の可能性に蓋をしてしまうのではなくて、 「自分はできるんだ」 という気持ちをもって、 継続してほしいなと思います。 自分がそうだったので。 それが自分から伝えたいことかなと思います。
――今後の目標は
社会人になっても競技は続けていくので、 箱根駅伝を走れなかった悔しさは今後の競技を続けていく中で晴らせたらなと思います。 1人の社会人として、 この東洋大学で学んできたことを生かして、 社会に貢献し ていきたいです。
――箱根後、 すぐにマラソンに挑戦する理由は
3年生の時に初めてマラソンを走って、 そのマラソンに向けた練習の中で競技力を高めることができたと 思っています。 今までマラソンは2回走りましたが、 納得のいく結果は出せていないので、 学生最後はマラ ソンで納得のいく結果を出せて終われればいいなと思って出場することにしました。
――東洋大で過ごした4年間を振り返って
自分の世界が広がったかなと思っています。 競技もそうですし、 マネージャーもさせていただいて、 色々なことを経験していく中で、 抽象的にはなってしまいますが、 すごく自分の世界は広がりました。
――東洋大に入ってよかったですか
よかったです。 すごく楽しい4年間でした。
〈吉田周〉
――陸上を始めたのは
中学1年生の頃です。
――きっかけは
小学校の時に、中学から陸上をやっていた2つ上の姉の地区大会などを見に行って興味を持ちました。 あとはスポーツをやりたかったのですが、球技が上手くはなかったので、陸上を始めました。
――東洋大に入学した決め手は
一番の理由は東洋大学OBの相澤晃さんに憧れたことです。
――入学前の東洋大の印象は
強い大学ということは思っていましたが、部内の雰囲気などはわかりませんでした。
――酒井監督の印象は
入学前に特に何か思っていたなどはありませんでしたが、入学後の第一印象はしっかりとされた方だなと思いました。
――入学後、東洋大の印象は変わったか
1年目は厳しい大学だなと感じました。
――陸上人生でのターニングポイントは
大学1年生の頃はコロナで記録会などがあまりなかったので非公認ではありますが、 ハーフマラソンの距離を走った時に、自分が思ったよりも走れて、箱根駅伝のエントリーメンバーには入れました。 そのハーフが大学に入ってから変わった分岐点だったと思います。
――入部するにあたって目標にしていたことは
まずは練習をしっかり積んで、駅伝メンバーに絡むことを目標にしていました。 5000mで13分台 、 10000mでは28分台の自己ベストを指標にしていました。
――4年間で一番思い出に残っているレースは
大学4年の全日本大学駅伝です。 あまり状況は整っていませんでしたが、 他大学のエース級の同期たちと 走ることが今までなかったので、 走ってみて差を感じることができました。 うまく走れなかった悔しさが大きかったので、 全日本大学駅伝が一番印象に残っています。
――東洋大学陸上部の好きなところは
先輩後輩関係なく、 仲がいいところがやっていて楽しいなと思います。
――東洋大で成長できたこと、 得られたことは
人間性を一番育てていただいたと思います。 練習中もですが、 普段の生活から監督やスタッフの方々、 先輩からもご指導があったおかげで成長できました。
――4年間でやり残したことは
駅伝で区間賞を取りたかったです。
――酒井監督はどんな方だったか
陸上を熱心に考えている方だなと思います。 しっかりしないといけないところでは、 しっかり指導されたり、 和気あいあいとするところでは一緒に楽しんでいたりするので、 学生もそういったところで馴染みやすかったと思います。
――同期にメッセージを
4年間お疲れさまでした。 この4年間でつらいことのほうが多かった人もいると思いますが、 実業団に進む人も競技を引退する人も、 4年間で学んだことを生かしていきましょう。
――後輩にエールを
きついことが多くてくじけそうになることも何度かあると思いますが、 そこを乗り越えれば自分の殻を ってエントリーメンバーにも入ったり、 強い選手になることができると思うので、 きつくてもくじけずにやっていってほしいです。
――3年時の箱根駅伝からレースの出場機会が少なかったが
けがです。 箱根駅伝が終わってから3、 4か月くらい故障があって、 一応復帰はしましたが、 その後も故障などを繰り返していました。 今年はダメかなと自分でも思っていましたが、 毎年11月くらいになると体が勝手に動いて状態が上がってくるのでそこに懸けていました。
冬は大丈夫だという自信があったので、 そこの自信に懸けてやっていきました。
――最後の箱根駅伝で副主将として何か声をかけたことは
自分はそこまで話してはいないのですが、 梅崎の負担にならないようにだけ、 気をつけてやるようにしました。
――どのような思いで中継所に立ちましたか
チームとして最後のレースだったので、 自分の悔いに残らないようにしたいなというのはありました。 タ スキをもらったところはシード権争いだったので、 初めての箱根であった10区の薄根に負担がかからないような位置で渡したいなと思って立ちました。
――給水時にかけられた言葉は
緒方からはすごくたくさん声をかけてもらえたのですが、 きつくて。 走っているときは自分も反応したので、 何を言ってくれたのかはわかっていましたが、 今は思い出せないです。 とても大きな声で 「行けー!!」 って言ってくれていたと思うのですごく力になりました。
永吉も、 きついところで給水を渡してくれました。 永吉は2年続けて8区当日変更で走れず、 悔しかったと思うので、 給水のところで同期の姿を見れたときに、前を走る大学と離れかけていたのですが、 もう一 回行くしかないと思いました。
――終盤の追い上げは
何回か追いついて離されてというのを繰り返していて、 ラスト3㎞のところでの監督車からの声掛けで、 「ここで切り替えるかどうかで薄根の走りが変わってくるから、 いくしかない」 と声をかけてもらいました。 その時に帝京大と差があったのですが、 そこで切り替えて、 頑張って追いつこうと思いました。
――走る前に声掛けなどはあったか
現地ではありませんが、 LINEでメッセージが送られてきて励みになりました。
――東洋大学に入ってよかったと思いますか
はい。 成長させてもらえましたし、 いい仲間にも出会えたので、 ここでよかったなと思います。