福島県いわき市の食とフェアトレードでつながるプロジェクト

震災から6年。 いわき市では復興にむけてがんばっている人たちがいます。

このプロジェクトは、東日本大震災の被災地支援をこれからも息長くつづけていくことを目指し、2016年度からはじまりました。

いわき訪問、学内やショッピングセンターでの販売などを行っています。 

福島県いわき市の食とフェアトレードでつながるプロジェクト

西田彩花(国際地域学科3年)

私は、「福島県いわき市の食とフェアトレードでつながるプロジェクト」の学生代表を務めています。この学部プロジェクトは、忘れられつつある東日本大震災の支援活動を根強く続けていくことを目的としています。

1年目の今年は、いわき市でつくられているオリーブやコットンをつかった商品を販売しています。はじめは、メンバーが集まらないのではと不安でしたが、活動説明会には想像より多くの学生があつまりました。

6月に、プロジェクトの一環で実際にいわきを訪れ、オリーブプロジェクトの松崎康弘さん、コットンプロジェクトの酒井悠太さんから直接お話聞き、畑を訪問しました。そのときの経験をもとに、オリーブやコットンに関するパンフレットを作りました。オリーブ麺のレシピを載せたパンフレットも、あわせて作成しました。

11月の白山祭では販売とワークショップを行いました。オリーブの葉を使ったオリーブ麺やかりんとう、オーガニックコットンでつくったTシャツやハンカチなどの商品は好評でした。ワークショップには榊裕美さんをお招きしました。榊さんは、いわきを何度も訪れており、NGOやボランティア活動に詳しい大学院生です。まず、榊さんから農家や漁師の話を聞き、そのリアルな思いを知ることができました。その後、グループに分かれて、好きな商品のPR方法を考えました。

白山祭では、多くの方と新たに知り合いになることができました。いわき市役所で働く草野光平さんは、息子さんが国際地域学部の1年生だそうで、私たちのブースに来てくれました。草野さんの協力で、新たにいわきのお米について調べていくことが、今後の課題となりました。北千住で東北応援プロジェクトを行っている植村昭雄さんもブースに来てくれた一人です。今では植村さんが関わっているローカルTVで、このプロジェクトの宣伝活動をさせてもらっています。まだまだこれからも活動の幅が広がりそうです。

この学部のプロジェクトを通して、いわきで頑張る人たちや、外から応援する人たちと出会い、いわきに対するそれぞれの思いを知ることができました。ぜひ後輩たちにもこのプロジェクトに参加して、自分たちにできることを考えてもらいたいと思っています。そして、行動することで、はじめて味わうことのできる喜びや、人とつながる楽しさを知ってほしいです。

【レポート】 エネルギーの上流と下流を繋ぐスタディツアーに参加して

高野真優(国際地域学科4年)

2017年2月22日(火)、23日(水)の二日間、「エネルギーの上流と下流を繋ぐスタディツアー」に参加しました。主催団体は、福島県いわき市で地域づくりを行う「いわきおてんとSUN企業組合」です。オーガニックコットン、コミュニティ電力、スタディツアーという三つのメイン事業があり、そのうちのスタディツアーへの参加となりました。東洋大学からは6名が参加しましたが、そのほかに名古屋学院大学、恵泉女学園大学、山口大学からも参加がありました。

一日目、まず視察を行ったのは富岡町です。おてんとSUNの代表理事を務める吉田恵美子さんの案内で、福島第一原発での事故後に警戒地区となり、一度は立ち入りができなくなっていた場所を訪問しました。現在は、3月31日の避難指示の解除に向けて、急ピッチで整備が進められています。街で見かけるのは、トラックや重機を操作する作業員が大半で、地元住民らしき人はほとんどいませんでした。

 避難指示が解除となる地区の先には、バリケード一枚を挟んで、放射線量が高いために帰還が未だに許されない富岡町の北部、大熊町、そして双葉町などがあります。帰還に関する住民の意見はさまざまで、「帰ることができるようになったが、新しい生活をいわきで始めている。放射線の影響も心配だし、帰りたくない」という人が大勢いるそうです。一方、高齢者の中には「戻りたいと願っているが、線量が高くて帰ることができない」という人もいます。先行して避難指示が解除された南隣の楢葉町でも、帰ってきている住民は事故以前の1割程度だそうです。

 富岡町へ向かう道の左右には、フレコンバッグと呼ばれる大きな袋が何百個何千個と並んでいました。放射線量が高い土を、田畑や庭から削って入れたものです。スクリーニング場と呼ばれる、プレハブが道沿いに設置されており、放射線量を検査しています。バスを降りて見回してみると、民家の窓から見える障子は破けており、お店のシャッターは降りています。交差点では、色が変わらないまま信号が点滅を続けています。そして、電子掲示板が放射線量の数字を表示しています。「ここは本当に同じ日本なのか」と疑いました。

再びバスに乗って「さくらモールとみおか」という商業施設へ向かい、そこで昼食を食べました。私たちが食べたお弁当を販売している田中美奈子さんから、お話を聞きました。田中さんは、毎朝一時間半かけて、いわき市から通勤し、地域住民や作業員向けにお店を開いています。印象的だったのが「働いてくれる人がいなければ復興は出来ない。街の中に寄れるところがあれば、人は来ようと思える。だから、よりどころになれたらいい」という言葉です。誰かが動くのを待つのではなく、自らが動いている姿に芯の強さを感じました。

その後、殉職パトカー記念碑、富岡町仮設焼却施設(仮設と言っても、巨大な施設です)、広野町二ツ沼総合公園、防災緑地、おてんとSUNのコットン畑、久之浜地区津波被災エリア、ふれあいセンターなどを視察し、最後におてんとSUNの事務所に到着しました。

おてんとSUNでは、島村守彦さんによるエネルギー事業の説明とソーラーパネル手作り教室が開催されました。

翌日、小学生へソーラーパネルの作り方を指導することになっていたため、細かい注意点をメモに取りながら真剣に取り組みました。専用のセルと呼ばれる薄い太陽電池を複数繋げるために、リボンという銀色のパーツを接着させていきます。最終的に17枚のセルを繋げることで8.5Vの1つの太陽光パネルにしていく作業です。

原発事故のあった福島でソーラーパネルの活動を行うことは、原子力発電以外のエネルギーが存在することや、ソーラーパネルを手間暇かけて作ることで電気の大切さや仕組みを改めて考え、見つめ直す機会となっているのです。また、島村さんがお話の中で「取り組んでいる事業は目的ではなく、壊れてしまったコミュニティを作り直すための手段なのだ」という言葉が、先を見据えているようで、とても印象に残りました。

夜は、いわき市内の古滝屋にお世話になりました。創業1695(元禄8)年の老舗の宿であり、内装はとてもお洒落です。そしてスタッフの笑顔が魅力的です。

二日目の朝、古滝屋16代目であり、おてんとSUNの理事も務める里見喜生さんから、震災当時の経営者としての心情についてお話を伺いました。古滝屋では、新卒採用が珍しいとされていた時代から、高校を回り毎年10名ずつ採用していました。しかし、福島第一原発の事故が起きると、その若手職員の採用があだとなりました。140名のスタッフの雇用を維持することは不可能で、営業再開時にはたったの10名となり、現在は20名で運営を続けています。

古滝屋を後にし、いわき市立好間第一小学校にて、五年生と一緒にソーラーパネルを作る授業を行いました。はんだごてを初めて使うため、最初は子供たちにも緊張や不安な表情が見られました。それもすぐに慣れ、「難しいなあ」と照れ臭そうに笑う子や、「俺これ楽しい」と表情が和らいでいく様子は、一緒に作業をした私たち大学生にとっても忘れられない経験になりました。

実は、ここで作ったソーラーパネルは、ネパールの小学校に持っていくことになっています。島村さんは、「震災時に、ネパール人がいわきへ支援に駆けつけてくれました。そのことを忘れずに、恩返しをしましょう」と生徒たちに説明していました。島村さんの言葉を聞く子供たちは真剣な眼差しで、誰一人としてふざけるような様子はありませんでした。

午後は、松本校長先生が、以前勤めていた久之浜の小学校の再開までの道のりについて話してくれました。「耐え忍ぶ」から「切り開く」へ。原発の事故後は、子供たちに我慢させていたが、そうではなく少しずつ環境を整備していこうという考え方です。

最後に、私が感じたことを記します。まず、今回お話しして下さった方々は、とても前向きに震災復興を捉えていることがわかりました。待つのではなく、地元住民が主体となって行動していく、そして今の福島を知ってほしいと発信を続けていく。これが福島の人々の強いところだと思いました。東京からできる支援の方法は色々あるかとは思いますが、まずは今回私が見てきたもの、感じたこと、そして出会った方の話を、家族や友人へ伝えたいと思います。 

学部プロジェクト「福島県いわき市の食とフェアトレードでつながる」では、2017年の学園祭に福島裕さんをお招きしました。
以下に、二日間にわたるお話をまとめました。

11月5日 第1日「福島裕さんの半生」(まとめ:国際地域学科3年 野口慎也)

福島裕さんは、1949年、東京の赤羽で生まれた。高校は2回退学して、大学には行っていない。20代前半、一度社会に出るが、それで勉強の大切さがわかり、高校の通信教育を始める。しかし一年でやめてしまう。兄の影響で出版社に入りたいと思い、知り合いの紹介で出版社に就職。10年間勤める。

30代前半で独立した。仲間と出版社を立ち上げたのだが、思うように本が売れず倒産してしまった。当時は学生運動が盛んで、左翼的な本を出したかったが難しかった。東京にいられなくなって、いわきに移り職探しをする。しかし、それまでの経験が役に立つような仕事を見つけられず、コンビニに商品を配送する会社を立ちあげる。

30代半ば、いわきで結婚する。住んでいたのは平(いわきの中心部)だが、数年後、義理の父が倒れ、その後入退院を繰り返すことになる。そこで福島さん夫婦が奥さまの実家のある四倉に移動する。義母の畑仕事を手伝う形で、農業を始める。兼業農家であり、からだが空いている日だけ畑に出た。農地は1500坪ほどであり、じゃがいもを栽培して出荷していた。そのほかに、自家用に米や野菜も作っていた。

2009年、定年退職したのを機に、本格的に農業を開始する。心情としては、先代が残した土地を荒らさず維持したいということであり、お金を稼ぎたいとガツガツ始めたわけではなかった。やってみると、意外に多くの収穫があり、面白くなった。しかし家庭菜園の延長のようなものであったため形がふぞろいで、JAや市場に出荷できる「品質」ではなかった。売り先を探したところ、直売所(現在の四倉道の駅)と連絡がとれた。そのころから直売所で新鮮な地物を売るのが流行りだしため、売り先を確保することができた。

農作業は通年でやっている。2011年1月2月は、春からの播種の準備をしていた。3月11日、 東日本大震災発生。そのときは揺れがすごかった。家は壊れなかったが、いろいろなものが倒れ、ひどい状態になった。家や畑は海岸から8キロほど内陸にあるので、津波の影響はまったくなかった。しかし、余震がひどく落ち着かなった。この時点では、原発のことはまったく頭になかった。原発のある双葉郡を訪れたこともあったが、当時は「原発安全神話」なるものがあり、大丈夫だと思っていた。12日に原発で水素爆発があっても避難しなかった。枝野官房長官は「健康にただちに影響はありません」と繰り返していた。

3月14日。原発で二回目の爆発。高齢の義母のことが気にかかり、翌15日に東京の実家がある赤羽へ行くことを決意した。「もし爆発したら100キロは逃げろ」という話を聞いたことが、頭の片隅にはあった。しかし、赤羽は人も建物も多い都会である。1カ月もすると、母はいわきに帰りたいと言い出した。「もう安全」と思ったわけでは決してなかった。しかし、放射能の健康被害が出るのは何十年後で、すぐに影響があるわけではないとも思い、四倉に戻ることとした。5月中頃、四倉に戻るが、そのとき水道はまだ通ってなかった。いわきでは、4月11日に大きな余震があり、死傷者も出ていた。畑の作物は、ほとんど枯れていた。

8月、ようやく線量の測定を開始する。それまでは測定したくても、品薄で測定器を入手できなかった。この時点で、おおよそ1~2マイクロシーベルト/1時間程度であったが、5マイクロシーベルト/時という高い値を示す場所もあって驚いた。

9月頃、福島県農林水産部の職員がきて、福島さんの畑を調査した。それで栽培可能ということになった。東電に対して農業の被害額の請求が始まる。自分で計算しなければならないのだが、東電は過剰請求を警戒して、多くの証明書類を要求した。しかし、その要求に答えることはとても難しかった。第一に地震で家が大変な状態になり、あわてて東京へ避難してもいたし、取引先も混乱している状態で、冷静にそのような請求書類を準備することが困難であった。書類の不備を突かれて、何度も訂正を求められた。結局、福島さんは請求を辞退した。自主避難に対する賠償金8万円だけを受け取った(30キロ圏外で、国の避難指示の対象になっていない住民に対しては、大人一名8万円、18歳以下の子どもと妊婦一名40万円が賠償金として支払われている)。

震災以降、2011年を通じて、いわきの市場には地場産品が出品されることはほとんどなかった。買い手がおらず、値がつかないからである。定年後の楽しみで始めたとはいえ、収入がまったくいらないわけではない。「いわきの産品は、いつになったら買ってもらえるのだろうか?」「見えない放射能ってなんなのだろう?」という不安が頭を離れなかった。将来の見通しがまったく立たない中、同じ集落で自殺者が出る。福島さんに農業の指導をしてくれた先輩だった。専業農家としてキノコや山菜、果樹、野菜を生産していたが、ノイローゼになり自死を選んだのだった。遺族から畑を託され、あわせて4000坪(約1.3ヘクタール)の畑の面倒を福島さんは見ている。震災前から、いわきでも離農者は多かった(全国的な傾向である)。原発事故でこの傾向が加速し、四倉では9割の畑が耕作放棄地となっている。

2013年秋、福島さんはNPO「ザ・ピープル」の吉田恵美子さんから話を聞き、オーガニック・コットンのプロジェクトに参加することになる。それまでも、いわきで行われているいろいろな活動についての話を耳にすることはあったが、集落のことで忙しくしていたいため、そこまで手が回らなかった。翌2014年から、畑の一部でオーガニック・コットン栽培を開始する。いわきでは、他にもオリーブやぶどうの栽培、桜の植樹といったプロジェクトが進行している。コットンがいいと思ったのは、これが農業のあり方を変える一つのモデル、「ボランティアとの交流型」になるかもしれないと期待したからである。また、これを契機に、他の作物栽培でも農薬や化学肥料を使わないことにした。

講演を聞いての感想

私は福島県の出身で、震災を近くで経験しました。福島さんのお話から、原発事故が引き起こした事態のきびしさを改めて知りました。農業の再生・継承に前向きに取り組む福島さんの姿から、私にも何かできることがあるのではと改めて思いました。まずはそれを見つけたいと思います。(吉川綾音)

自分は農家というのは親の世代から継いでいる人がほとんどだと思っていました。福島さんが様々な仕事を経験した後に農業を始め、さらに若者に受け継いでいくにはどうしたらよいかが今の課題だと聞いて、農業の継承にもいろいろな形があるんだと気づきました。原発事故の困難を乗り越えて、福島さんが楽しく農業をされているのは本当に凄い。若者に農業の良さを伝えていこうとしている姿も素晴らしいと思います。(大塩真樹)


11月6日 第2日「オーガニックコットン・プロジェクト」(まとめ:池谷梓)

私の住んでいる四倉の集落では、震災前から8割から9割が耕作放棄された荒地であり、農業を次世代に継承していける環境ではなかった。震災後はいろいろと忙しくしていたが、2013年秋になってNPO法人ザ・ピープルの吉田恵美子理事長から話を聞く機会があった。「口にしない農作物を栽培してはどうか」という提案があり、2014年からオーガニック・コットンの栽培が始まった。栽培を始めたばかりの頃は、ザ・ピープルにもコットンに詳しい人はいなかった。千駄ヶ谷にあるオーガニック・コットン専門の会社「アバンティ」の渡辺社長からいろいろと教えていだいた。

いわきで育てているのは、日本の在来種で、中国地方で栽培されていたものの種を、信州大学から提供してもらった。3月から農地を耕す作業が始まる。コットンはアルカリ性の土壌を好むが、雨が降ると土壌が酸性になりやすくなってしまう。そのため、耕す段階で牡蠣がらを砕いたものを混ぜて、アルカリ性に中和する。その後、肥料となる鶏糞を入れて畝を作る。ここで肥料を与えすぎると軟弱な作物に育ってしまう。

畝づくりは幅1.5mで種まきの1週間前に準備を終わらせる。だいたい5月のGWの半ば頃が、種まきの時期となる。5月中旬ごろ発芽し、6月には10cmほどに芽が出てくる。7月までは背丈はあまり伸びないものの、土の中でしっかりと根を張っている。農薬や除草剤を使用しないため、草むしりが大変な作業になっている。8月には高さ約1mになり、下から順番に花が咲き始める。それから40日後の9月上旬にはコットンボールがはじけて、中からコットンが出てくる。私の畑では1月中旬までコットンが収穫できる。収穫量はコットンと種で600kg、コットンだけだと200kgになる。

国の経済成長を重視した政策によって農業が集約化され、化学肥料などを使って効率よく作物を生産しているのが現状であり、農業自体が衰退している。オーガニック栽培は大変手間がかかるし、経済効果も大きくない。しかし、オーガニックで育てる意味は大きいし、それを次の世代に精一杯伝えていきたい。その一環として、小学生にコットン栽培の指導をしている。コットンの栽培を通して、子どもたちに自然の中での農作業を経験してもらいたいと思っている。子どもたちは種付きの綿から機械で種を分離させる作業を、とても楽しんでいる。

2017年1月から、12人の定期ボランティアが集まって、「織姫の会」の活動が始まった。「コットンから糸を紡ぎたい、古代から使われている道具を使ってみたい」という想いがきっかけとなった。この会は、ザ・ピープルとは関係なく生まれたもので、独自に活動している。今、2018年3月11日の追悼式で灯りを灯せるように、ランプシェードを製作している。このランプシェードは麻糸の上に収穫した綿の糸を重ねて作っている。おりひめと小学生が一緒に糸紡ぎの体験をする活動も行うことができた。

これまでに、延べ人数で2000人以上のボランティアが私の農園を訪れている。都内からのボランティアの方々と一緒に農作業をして、素晴らしい経験を味わっている。農業を農家だけではなく、地域の人や東京のボランティアと皆で育てていくことを目指していきたい。


いわき訪問 2017年11月25、26日

第1日の報告

国際学部教授 子島進

いわき訪問1日目、私たちは下神白復興公営住宅と永崎災害公営住宅でのイベント「みんなの畑2017収穫祭」に参加しました。開催場所である下神白復興公営住宅と永崎災害公営住宅は隣接しています。前者には原発事故からの避難者が、後者には津波災害の避難者が暮らしています。 

 イベントの主催者は、特定非営利活動法人ザ・ピープルです。ザ・ピープルは、いわき市で活動するNPOで、農家と協力して有機農法でのコットン栽培を行っています。そして、この栽培を通して、富岡町など双葉郡からの原発避難者が、地域住民との交流を深める機会も創り出しています。交流の場である「みんなの畑」では、2015年度から月1回の頻度で農作業が行われています。今回のイベントは、地域住民と避難者との交流の機会を増やすことを目的として開催されました。私たちも住民のみなさんと一緒にお昼ご飯をいただき、ビンゴゲームに参加しました。いわき出身のバンド「ミーワムーラ」の歌とギター演奏がイベントを盛り上げてくれました。

夜は、宿舎の「古滝屋」で里見喜生さんのお話を聞きました。里見さんは、古滝屋社長であると同時に、オーガニックコットン、スタディツアー、コミュニティ電力などの復興まちづくりに取り組む「いわきおてんとSUN」企業組合の理事としても活躍しています(ザ・ピープルの活動は、同企業組合の活動の一部を構成)。 

里見さんのお話は、いわきおてんとSUNが何のために活動しているのか、その目標はどこにあるのかについてでした。

以下、里見さんのお話の要約です。

2011年3月11日以前の生活は、「便利さ、ぜいたく」を「あたりまえ」のこととして追い求めるものであり、それについて反省することはありませんでした。しかし、原子力災害が起こり、身の丈以上の生活、つまり「もっと便利、もっとぜいたくな生活」を追求した結果の「つけ」を払わされたということに、私たちは気づきました。 

東日本大震災による福島県での死者は、大きく二つに分けられます。地震や津波といった自然災害の死者は1605人です。この数字は2011年3月以降、変わりません。一方、原子力災害による関連死は今も増え続けていて、2180人になりました。今日、みなさんが訪問した復興公営住宅でも自殺者が出ています。賠償金の有無で、原発事故の被害者に対して、いわき市民の間にねたみやひがみが生まれ、良好な人間関係を築くことが難しくなったこともありました。

原発事故の直後、私たちは避難や放射線の安全性をめぐって本当に苦労しました。そして、あの事故の原因がどこにあったのかを真剣に考えました。もちろん、原発の安全性に対する反対意見、異なる考えを寄せつけなかった東京電力という会社の方針に問題があり、その意味では人災、犯罪に近い人災でした。東電の責任は大きいです。しかし、コンセントを差し込むだけで電気が来る生活を求めていたのは、私たちです。便利さに慣れて、自分の暮らしと向き合ってこなかったことが本当の原因ではなかったのか。

「では、生活と向き合おう」

これが、いわきおてんとSUNの根本にある考えです。具体的には、衣・食・住に向き合う活動を行っています。

衣を担当するのが、ザ・ピープルで、もともと衣料のリサイクルを行っていました。今は「コットンを一から育てる」ことで、より深く衣の問題が見えてくるようになりました。日本のコットン自給率は0パーセントですが、それでもTシャツ1枚が500円で手に入ります。どこから来ているんでしょう? 極端に低い時給で働かされ、ヘリコプターによって散布される農薬を浴びている人、あるいは子ども(児童労働)が、どこかの国にいるからではないでしょうか? いわきの小学生もコットン作りに参加しながら、勉強しています。みなさんもぜひ調べてみてください。

さらに農家と協力して自分たちで農産物を育てることによって食をめぐる問題についても、いろいろなことがわかってきました。みなさんは明日、福島さんの畑を訪問しますが、あの集落にある耕作放棄地はおよそ9割に達しています。生産者にもっと感謝する必要があるんじゃないでしょうか? そのことを考えてみてください。
最後に住ですが、私たちは「暮らしに必要なエネルギー」という観点から取り組んでいます。手作り太陽光パネルを小学生と一緒に作る活動を行っています。そして、そのパネルを電気のないネパールの学校に届ける国際交流を、おてんとSUNでは始めています。これらの活動を通して、自分の力で食べ物をエネルギーを作る力を、次世代の子供たちに伝えていきたい。私たちはそう考え、行動しています。

第2日の報告

国際地域学部国際地域学科3年

大塩真樹、小島身江子、鈴木健介、野口慎也、増田真愛

古滝屋さんからバスで福島さんの農場までは30分ほどです。最後に、県道41号線からバスがなんとか通れる山道に入り、5分ほど行くと、きれいな景色の里山に着きます。

最初にコットンの収穫を行いました。コットンの収穫は機械ではなく、人の手で収穫されています。2、3月から土作りをはじめ、5月の中旬に種まきを行います。ここから10月まで草むしりを行い7、8月には実がたくさんできるよう先端の芽を摘む作業をします(摘心)。9月頃までには開花し、綿摘みの作業を1月ごろまで行います。私達は綿に落ち葉などつかないように注意しながら楽しく綿の採集を行いました。(大塩真樹)

コットンの収穫後、私たちは大根の収穫も体験しました。たくあんによく使われている種類の大根です。福島さんの自宅庭には、すでに収穫された大量の大根が干してありました。

「大根を抜くときのコツは、途中で折れないようにゆっくりと回しながら」と福島さんが実演しながら教えてくれましたが、実際にやってみると、なかなかうまく抜けず、途中で折れてしまうこともありました。体力が要る作業で、年配の方が何十本もの大根を抜くのはとても大変だと思います。農業には若い人の力や周りの人々の協力が大事であることを、改めて知ることができました。

収穫後には、取れたての大根を生で食べさせてもらい、無農薬だからこそのみずみずしさを味わうことができました。(鈴木健介)

福島さんは東京ドーム五個分の畑を管理しています。しかし、この写真のように集落には荒れ地や休耕地になっているところが随所に存在します。写真の土地に関しては、コットンプロジェクトに参加する企業ボランティアの仲間たちと、公園のように整備することができないかを福島さんは模索しています。今後どうなるのか、私たち大学生にもできることがあるはずなので、注目していきたいと思います。(野口慎也) 

お昼の時間になり、ソースカツ弁当が畑に届きました。このお弁当は、津波で全壊の被害に遭い、再建を目指して活動している四倉の食堂から届きました。肉厚でジューシーなカツ丼で、農作業のためのパワーを補充できました。さらに、お味噌汁、ゆず風味の大根の煮つけ、お芋の煮付け、甘いふかしサツマイモやお漬物など、福島さんの畑からとれた野菜を使った多くの郷土料理をいただきました。いわきの新鮮な無農薬野菜の美味しさを、畑仕事の大変さ・楽しさを少し体験させていただいたことで、よりいっそう強く噛み締めることができました。(増田真愛) 

昼食後は『織り姫の会』のメンバー3名の指導のもと、オーガニックコットンの糸紡ぎを体験しました。『織り姫の会』とは、オーガニックコットンをチャルカー(インドで使用する手動の糸紡ぎの器械)で紡ぐ女性団体です。3名の方々は、元小学校の教員で、定年後にオーガニックコットンの活動に携わるようになりました。

実際に体験してみると、糸の強度調整が難しく、左右の手で異なる作業を行うので苦戦しました。

織り姫のメンバーが紡ぐようにはなかなかうまくできなかったけれど、普段できない体験を、みんなでワイワイと楽しみながらできました(小島身江子 )。