御領(ごりょう)の棚田とは?

この地域の、御領、日影林、横田など一体を、通称「御領千枚田」群と言っています。

かつては3町歩(3ヘクタール)で1000枚余を超え、その規模と景観の美しさは関東随一と言われていました。

特に、箕笠に隠れるほどの小さい棚田が連なっていたことから、「笠隠れ田」として、昇仙峡の観光客にガイドされていました。

この千枚田の歴史は古く徳川幕府始めの天正11年、(1583年)に天沢寺(現在の睦沢地区亀沢)が、徳川家康より賜った「御朱印地」が始まりです。農民による急傾斜の山林の困難極める開拓により棚田が生まれました。

春一番の棚田風景・菜の花が階段状に一面に満開

田植え前に、菜種を収穫し、菜種油を絞ります。

当時の棚田は、自然が命ずるままの曲線美の畦で区切られ、田植えの水面に朝日、夕日が映え、また、田の一枚一枚に月光が映る情景を称して「田毎の月」と呼ばれました。

また、収穫季の黄金色の壮大な階段状の景観は、日本の農耕文化を象徴する貴重な文化遺産でもあります。

この様にして、農民の苦難と汗、泥、知恵により開かれた棚田も時代の波で荒廃が進み、現在ではその半分は荒れ地や休耕地となりこのまま放置すれば、千枚田の原型が消滅してしまう状況にあります。

他に代え難いこの貴重な文化遺産を守り保存するための活動に対し、多くの方々のご理解と活動へのご参加をお願い致します。

当時は全て手作業で、堆肥や農具などの荷物は棚田の一番下から急傾斜を人力で担ぎあげて行い、病害虫も多く運を天に任せる以外にはない状況でした。その上に、幕府の検地による年貢米の取り立ては大変に厳しく、棚田は年貢の取り立ての区分は「下々田」 (田の肥沃度で上田、中田、下田、下々田に区分) ではありましたが、年貢に棚田の収穫量が追い付けず、小作人は自飯米すら確保できない困窮極まる生活であり、生きる道として棚田の開墾に力を注ぎました。

その後、大規模に面積が広がったのは、第二次世界大戦で家や職を失った人達の救済として県が昭和21年から行った開拓事業によって入植者が増え、農民組合を中心に開田が広がりました。