【日本の弓術】
日本の弓術には、歩射、騎射、堂射の3種類の方法があります。
歩射とは地面に立って、あるいは膝を付けた低い姿勢で弓を射る方法のことです。
騎射とは馬上にて、馬を御しながら、弓矢を操作する方法です。馬の機動性を発揮することで、標的に接近して射ることができる有利さがあります。
堂射は、京都蓮華王院三十三間堂(現在、国宝指定)の軒下の空間(全長120m×全高5m×全幅2.5m)でいかに多くの矢を射通すかを競うための射術です。
各射術とも、先人の工夫・研究・修練により優れた技術内容を有しています。世界に様々な民族の弓の技術がありますが、これら日本の弓術はその射術目的と照らし合わせてみても、決して勝るとも劣らぬ射術といえます。
【日置流印西派の歴史】
筑波大学弓道研究室で修練を行っている弓術は、上記の3つの中でも歩射の射術として400年以上にわたり、連綿として伝承されてきた日置流印西派弓術です。馬上での射術でもなく、堂前での弓術でもありません。
弓道研究室が歩射を主に研究している一番の理由は、日本弓術の原点が歩射射術の中にあることによります。日置流弓術は、歩射射術として15世紀中頃日置弾正正次によって成立しました。日置弾正による日置流弓術は、吉田家に伝えられ、吉田流として発展していきます。
吉田流は、出雲派、雪荷派、道雪派、印西派、寿徳派、左近衛門派というように分派していくと同時に、その射術内容がより一層深く工夫・研究されることになります。
これらの中でも、印西派は17世紀頃、吉田源八郎重氏(吉田一水軒印西)によって集大成された弓術です。印西が77歳という、当時にあっては長命であったことにもより、日置流(吉田流)分派の過程で、その最後の射術完成期に位置する弓術流派といえます。
その弓術理論が合理的かつ具体的であると同時に、印西の射術が抜群に優れていたこともあり、全国各藩(備中池田藩や薩摩島津藩など)の弓術として採用されました。また、印西嫡子吉田久馬介は徳川家弓術師範として迎え入れられ、その後代々徳川家弓術師範を務めることとなります。
ちなみに、當流という言葉には時の最高権力者すなわち、徳川家の射術であるという意味が込められています。
筑波大学の射術は師の元をたどれば、森俊男先生→故稲垣源四郎先生→故浦上榮先生・・・と、最終的に一水軒印西先生にまで遡ることができます。その間、師から師へと絶えることなく伝えられてきた、日本の弓術の中でも貴重な存在です。また、その伝承は「日置流弓目録六拾箇条」・「日置流秘歌」にその射術が、「日置流無言歌」にはその指導に関する内容が巻物として残されています。また目録・秘歌・無言歌に加え「日置流神道之巻」を師から受けることにより、免許皆伝となり、師家を継承することができます。