2013年12月2日 「経済学分野の参照基準(原案)」に関する拙見

日本学術会議経済学委員会・経済学分野の参照基準検討分科会による「経済学分野の参照 基準(原案)」 に関して

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/bunya/keizai/pdf/teian_sanshoukijun_220701.pdf )

吉原直毅

一橋大学経済研究所

2013 年 12 月 2 日

日本学術会議経済学委員会・経済学分野の参照基準検討分科会が現在、提案している「経済学分野の参照基準(原案)」の内容に深い憂慮の念を抱いている。日本学術会議 の持つ社会的・政治的影響力の大きさと、経済学という学問分野が潜在的に果たし得る社会の将来への影響力を鑑みれば、この「参照基準(原案)」が仮に採択され、その方向で日 本の経済学教育・研究の将来が規定される可能性故に、今、この時点で公的な沈黙を守るべきではないと判断し、ここに当原案に対する私自身の私見を公的に明らかにする次第である。

本「参照基準(原案)」は経済学の中の一部の学派の中の一部の分野に関しては、 近年の新たな学問的発展状況も反映させ、それなりに目配りも施した優れた文書として受 け止める事が出来る。しかし同時に、本原案は経済学という学問の総じての固有の性格で あるアプローチの多様性と異なる学派間の相互競合的な発展関係という特質を無視し、それらの特質が有形無形に果たしてきた機能の可能性についての検討を一切行わずに無視す ると共に、一方の学派からのアプローチのみに基づき、その学派の観点のみからの参照基準の議論となっている、と言わざるを得ない。また、そのような一方的な提案になってい る事に関しても、OECD や英国の分野別参照基準での経済学分野の参照基準で前提されている「標準的アプローチ」に立脚する事をわが国でも前提にした場合の提案という理由しか 示しておらず、我が国で従来行われてきた「多様なアプローチに基づく経済学教育」に関する検討も反省も一切抜きに、天下り的に「標準的アプローチ」による一元的な経済学教 育を参照基準と添える事を前提に議論を進めているという点で、手続き的にも公正性に著しく反していると言わざるを得ない。

本原案が前提とする「標準的アプローチ」に基づく経済学の定義やその教育に関 する参照基準の議論の特徴は、第一に、いわゆる主流派的なミクロ・マクロ経済学以外にも、アダム・スミス以来の古典派経済学の方法論やパースペクティブを重視しつつ資本制 経済システムをより包括的な視角を以て分析・理解し、評価する試みを持ったポリティカ ル・エコノミーの系列の経済学の流れが、我が国の経済学の発展において重要な存在を占めている事を無視し、専ら、ミクロ・マクロ経済学と統計学の 3 本柱による統合的な経済学の体系の一元的な前提の下で、論を展開している点にある。第二に、主流派経済学によ る参照基準という観点で見たとしても、本原案は偏った内容になっていて、様々な経済問題や社会のマネージメントという実践的課題に直面した際に不可欠な要素となり得る規範的判断・規範的選択の問題を完全に見落としており、事実上、経済学の規範理論的側面を切り捨てる内容となっている。

私は、主流派的ミクロ・マクロ経済学の重要性やそれが果たすべき社会的機能についての見解に関して、当原案が展開する議論に基本的に異論を持つものではない。ミク ロ・マクロ経済学や統計学は紛れもなく重要である。しかし、経済学という学問の総じての特性を、ミクロ・マクロ経済学と統計学のみをコアとして理解する当原案の基本姿勢に深い憂慮の念を抱いているのである。

1. 2 節「経済学の定義」について

例えば、当原案が 2 節「経済学の定義」で述べている経済学の定義は、稀少な資源の有効な配分に関する合理的選択の理論としてのそれと、一元的に言い切っている。経済学の性質をそのようにロビンズ的に捉える事は間違ってはいないし、稀少資源の有効配 分に関する合理的選択理論という性質は間違いなく経済学の本質的特性の1つである。しかし、その視角(アングル)でのみ、社会経済問題を捉え、考察するというのは、総じての 経済学の定義を狭く捉え過ぎると言わざるを得ない。実際、稀少資源の有効配分に関する合理的選択理論と定義する事によって、そこで描かれる人間は、市場のアクターとして経 済的便益を、合理的選択を媒介に、追求する経済人(消費者ないしは生産者)としての側面でのみの姿である。

しかし例えば、経済的相互依存的活動によって系統的に形成される人と人との社 会的関係・構造の問題、とりわけその様な社会関係がしばしば非対称的な力関係という性質をはらみ、その関係性の中での人々のステータス(階級、階層、身分)の系統的形成が、 人々の「善き生」の追及上、いかなる障害的要因となり得るのか等々の視点が欠落する事 になる。そのような視角は、アダム・スミスやカール・マルクス、あるいは JS・ミルなどの古典派以来のポリティカル・エコノミーが提供してきたものであって、そのような視角・ 視点を以て経済問題を考察する事は、経済学の果たすべき重要な課題たるべきである。当原案には、ポリティカル・エコノミーからの経済学教育が従来果たしてきた、こうした視 点・視角を学生・市民に賦与する機能への評価や配慮が全く見られず、経済学教育・研究 の参照基準としての資質に欠いている。

「資質に欠いている」と私が批判する事の根拠は、例えば本原案の 2 節の 3 ペー ジの最後のパラグラフに見出す事が出来る。そこでは


「経済学を学ぶことで、理論では経済の動きをよく理解する事ができ、実践面ではより良き生活者・職業人として経済活動に参加することができる。・・・たとえば、・・・投資 に関する知識を習得する事によって個人の資産管理にも役立つ。・・・」


と論じられている。このパラグラフで述べられている経済学を学ぶことの利点や意義につ いての説明それ自体は、批判する事はない。ここで挙げられている論点自体は確かにそのとおりである。しかし、このパラグラフでまとめられている経済学を学ぶ事の意義や利点 は、総じて現状の市場的経済システムにいかにうまく adjust して賢明に生きて行けるようになるかという観点で「役に立つ」という論調になっている。そのような機能も重要であ る事は間違いないが、経済学という学問の、そもそもの果たすべき社会的機能は、民主制という政治体制の下では社会経済システムを運営する主権者の 1 人として、その主権の妥当な行使の為に必要な知見と学識及び運営技術を学ぶという事にある。その学びの対象は、単に既存の市場経済システムの在り方を所与として、その仕組みのメカニズムを理解する 事でいかに自分を社会に adjust して生きて行くかの賢明な指針を得る為のものだけではな く、むしろ現存の経済システムを批判的に理解し、それの克服を展望するという論点も含 むべきである。それは単に、当原案が言及するような「望ましい経済社会を実現する為の方策について」の研究という話で済むものではなく、そもそも何が望ましい経済社会であ るのかについての哲学的・倫理学的問いをも包摂するものでなければならないし、そうした望ましい経済社会観に遡って、既存の市場経済システムを改めて理解・評価し直すとい う、もっと批判的に開かれた研究・教育対象を含むものである。

    すなわち、経済学とは、単に既存の社会経済システムにいかに賢明に adjust でき る市民を教育するかという側面のみならず、場合によっては、既存の社会経済システム自 体の変革・改革をも展望できるような市民をも教育するものである。それは近代化以降、原理的には国の社会経済システムの在り方や運営に国民 1 人 1 人が主権と共に責任を持つ という、民主制下の現代社会における市民が身に付けるべき知的素養なのである。前近代 社会では、社会経済システムの主権者は皇帝や王、ないしは一部の貴族階級などに限られ ていたのだが、その時代にはそれらの人々は、その時代なりに経済の仕組みについての学 識を得ていたと共に、総じて社会経済システムをどう運営すべきかという規範的意思決定 の為の基礎として哲学や道徳学を重視して学んでいた。対して近代以降の民主制の下では主権者は国民全てであるという観点に立てば、国民が学ぶべき経済学という学問とは、単 に社会のマネージメントの為のエンジニアリングの学という側面のみならず、既存社会を 批判する能力や望ましい社会とは何かを展望し他者を説得していく能力を陶冶する為の学 としての側面をも持つべき事が理解できるだろう。そのような批判力や規範的判断力の構 築の上で土壌となるべき哲学・倫理学的素養の役割を、当原案は全く考慮していない。し かし、それらの素養の陶冶には、スミス、マルクス、ミルなどの伝統を持つポリティカル・ エコノミーや、経済思想、経済哲学、歴史学などの分野が、戦後日本の経済学教育においては貢献してきたのであり、今後もそれらの分野の果たすべき機能を枯渇させてはならないであろう。

2. 3 節「経済学に固有の特性」について

前節の私の議論を踏まえれば、当原案の 3 節の「(2)経済学の体系」において、ミ クロ経済学とマクロ経済学のみを経済学の基礎科目とする議論には反対せざるを得ない事 が明らかであろう。すなわち、既存のミクロ・マクロの経済学体系では議論されない、資 本制経済システムをより包括的に考察するポリティカル・エコノミーの系列を、第 3 の独自の経済学の体系として位置づけるべきである。

「(1)経済学の方法」に関しては、これはミクロ・マクロ経済学に限っての「方 法」である事を踏まえて読んだとしても、ある種のバイアスを見出さざるを得ない。行動経済学やゲーム理論など、これらの分野における現在の先端的動向に目配りしている点は 優れた長所として認められるものの、それらの導入や発展の意味を経済学説史の流れや資 本制経済システムの発展段階との関わりで捉える視角を持たず、単に現在のフロンティア を紹介しているに過ぎない。理系の分野のレポートであったり、経済学でもある研究分野の展開に関するサーベイ論文であるならばそれで良いだろうが、将来社会の発展の基盤と しての経済学の教育・研究の役割について論ずる場合、もっと大きな視野からの見方があってしかるべきであろう。

更に言えば、この節では「市場メカニズムの有用性が世界全体の共通認識」等の 断言があり、そうした見方が当原案の基本姿勢に強く影響しているだろうことを伺う事が できる。しかし、「市場メカニズムの有用性が世界全体の共通認識」という認識は、ソ連・ 東欧崩壊直後の 90 年代においては通用したとしても、市場メカニズムの有用性への信仰下で進んだ市場原理主義的な経済のグローバル化の弊害が徐々に明らかになり、多くの識者 たちの共通認識となってきた 21 世紀においては、そしてとりわけ 2008 年のリーマン・ショック以降の現代においては、もはや一般的妥当性を有するものではない。一見、市場経 済の繁栄ぶりと見えた状況も、それは金融市場での投機的金融取引による繁栄であって、 実質的富という観点で見れば、むしろ成功した一部の投資家によるその他からの収奪による急速かつ異様な経済格差の拡大というのが、この 20 年間の世界に共通する姿であった。 その事が明らかになってきた現在、むしろ「ポスト資本主義」、「ポスト市場原理主義」 こそが、多くの社会科学の識者を含めた人々の展望する状況となっている。当原案の定義 するような意味での「ミクロ・マクロ経済学」の視角のみで現実の経済を見る限り、当原案の様な「市場メカニズムの有用性が世界全体の共通認識」という認識しか依然として出 て来ないのかもしれないが、世界にはもっと多様・多元で柔軟な視角や発想がある。そうした斬新な発想や視角を与える源泉として、心理学や脳科学などの自然科学的分野に学ぶ のももちろん賛成であるが、ポリティカル・エコノミーやあるいは政治哲学、倫理学などの様な規範理論などから学ぶ意義も十分にある。後者に関する当原案の認識は極めて貧相なものであって、社会のあるべき姿については、パレート基準があるという指摘のみであり、かつ所得分配や公平性などの規範的 判断問題には「合意ができていない」の一言で片づけられている。しかし、規範的問題は、 そもそも経済学者の中で合意をつけるべきものでもないし、合意がないから経済学のコア 分野として教える必要がないという姿勢で済まされるものでもない。最終的な合意はその 時代その時代の、その社会の人々が行うべきものであって、経済学としては社会の運営の主権者たる市民の行う規範的選択の為の素材となるべき様々な判断の基準を考察し提起し、 その良さなり欠点なりを明らかにする事が重要なのである。また、自然科学などと違って、 メカニカルに一意な正解があるべき課題ではないのだから、そもそも「合意ができていな い」事はその学問分野の未成熟さの証明でも何でもない。いわゆる新古典派経済学の学問 的系列に属する経済学者であっても、この程度の認識を共有している人は少なからず居る事と思う。それに比して、当原案のスタンスは、新古典派経済学に対する自己認識としても余りにも一面的で狭すぎると思う。

3. 4 節「経済学を学ぶすべての学生が身につける事を目指すべき基本的な素養」について

    この節では、当提案の意味での「ミクロ・マクロ経済学」を学ぶものがいかなる知識を身につける事ができるかについて論ずるが、「こうした知識を持たず、正しい理解 が出来ない場合には、就業して収入を獲得し、各種の財・サービスを購入し消費している人々が、日常生活を営むにあたってさまざまな不利益を受ける危険がある。」という纏め 方にも表れている様に、当提案は、既存の「ミクロ・マクロ経済学」を一意の正しい知識 の体系であって、それを身につけないものは現在の資本主義的市場経済システム下の社会 生活にうまく adjust できない、と言い切っている。このようなイデオロギー的な主張を臆 面もなく断言する姿勢には、強い違和感と危惧を抱かざるを得ない。当原案は、「経済学 の標準的アプローチ」による教育目的とは、現在の資本主義的市場経済システムに上手く 適合できる市民の育成であると、いわば断言しているようなものである。

    しかし、先の節で繰り返し論じた様に、経済学教育の役割には、仮に現存の資本 主義的市場経済システムに寛容ならざる欠陥が見出された場合には、社会運営の主権者の 1 人としてそれの変革・改革を展望・提案する能力を持つような市民の育成という側面も含 まれるべきである。それは、近代化以降の民主制社会において、社会の主権者としての当 然の権利として市民が持つべき「革命権」の行使の際に必要な学識である。そのような学 識の必要性については、現存の資本主義的市場経済システムとは、これ以上によりましな 社会経済システムなど最早あり得ない、未来永劫的に継続するであろう社会経済システム であるという見解を持つのではない限り、十分に認識できるはずである。

    この立場から考察するならば、現存の社会経済システムとは、それがいかに我慢 ならないものであってもその仕組みをうまく理解する事で自己を適合させ、そのルールの 中で賢く生きて行くしかない様な、そんな永劫不遜な体制と考える必然性はない。主役は、 社会運営の主権者である市民であり、学生であって、どう努力しても適合できない様なシステムであるならば、適合される対象は彼らではなく、システムそのものである。経済学 の対象である社会経済システムとは、そのような基本認識の下で考察の対象となるべきで あって、したがって、その仕組みに関する批判的な理解は、単に現体制に市民や学生たち が賢明に適合する術を知る為のみではなく、人間が自分たち主権者にとってより良い社会 経済システムで生きて行くという人類の歴史的進歩の為にこそ、求められるのである。も ちろん、現存のシステムの批判自体を自己目的化するような経済学の在り方もまた、間違 ったものであって、その仕組みの優れた性能に関しても公正な目で評価できなければなら ない。資本主義的市場経済システムの光の部分と影の部分をバランスよく認識してこそ、初めて妥当な批判的理解も可能となる。

私自身の経済学への関わりの経験に基づけば、現在の主流派のミクロ・マクロ経 済学を学び正確に理解する事と、スミス、リカード以来のポリティカル・エコノミーの系 列の経済学を学び、それらの視角を身につける事の、その双方によって、資本主義的市場 経済システムの光の部分と影の部分をバランスよく理解する事が可能になるし、それに基 づく資本主義認識のパースペクティブは、主流派のミクロ・マクロ経済学の先端的テキス トのみから経済学を学ぶ場合に比べて、はるかに広くかつ深いものになれる1。そのような学識を今の学生なり、市民が求めていないならば仕方ないかもしれないが、実際には、その潜在的な需要は少なからずある。それは、2011 年以来、この夏をも含めて 3 度のサマー・ スクール「Summer School of Analytical Political Economy」の運営経験から経た私の実感である。本提案のような路線で経済学の教育の体系化が進むとすれば、それは社会運営上の主権者の一人として資本主義的な社会経済の仕組みを批判的に理解する為の学識に強 い需要を持つような「問題意識の高い」学生たちを結局、スポイルする事となり、そのような学生たちの経済学への興味自体を失わせ、去らせる事になり兼ねない2。それは、日本 社会の将来にも負の影響を及ぼす事に他ならないだろう。

例えば、参照基準検討分科会の本提案の 9 ページでも「具体的には」と列挙している項目がある。確かに、ミクロ・マクロ経済学を学ぶ事で、そうした点が期待できるだ ろうし、それらは極めて重要である。しかし、気を付けるべき点は、そもそも本提案の前提するような意味での「ミクロ・マクロ経済学」においては、市場の役割を、市場への参 加によって、参加以前よりも経済的便益を増やせる、という視角で基本的に理解している。

従って、いわゆる市場に参加する前の人々の初期賦存上の非対称性が結果的に厚生の配分 にどう影響するかという論点には、主流派経済学者は通常、関心を持っていない。もちろん、持っている主流派経済学者はゼロではないが、厚生経済学などの素養を持つ少数の人々 のみというのが実情である。それ以外の大多数の主流派経済学者にとっては、初期賦存上 の非対称性の深刻さが何であれ、市場取引に参加する事によって、全ての参加者たちの経 済的便益が最大限に増加しているか否かが重要な評価の視角であって、それ以上の問題に は関心はない、というのが典型である。この本提案の姿勢も基本的にそのようなものの様に思われる。

しかし、そのような評価の視角で市場経済システムを理解し評価する事は、もち ろん本質的に重要な事であるが、それはあくまで一つの視角に過ぎない。例えば、そもそ も市場に参加できない人々の存在――いわゆる「社会的排除」の問題――や、市場への参 加を実現する為に、他者による搾取や取引の強制などを受容せざるを得ない人々の存在な どに対する視角は、現存の資本主義的市場経済システムをより包括的に理解するうえで、 重要不可欠なものである。しかし、本提案が主張するような、いわゆる費用便益分析の枠 組みで定義される経済的便益の市場取引による増加という視角のみで、経済システムを理 解し評価する経済学においては、そのような影の部分は原理的に捉える事ができない。市 場に参加できない排除された人々の経済的便益は、そもそも社会的厚生の評価にカウント されないフレームワークになっているし、搾取関係や強制的取引関係に甘んずる人々につ いても、費用便益分析の枠組みで定義される経済的便益の増加という点でしか、その福祉 水準を評価されないからである。そもそも、初期賦存上の非対称性の問題に考慮を払わな い経済学の体系の下では、搾取の存在などを把握できない事は容易に理解できるだろう。

つまり、本提案の前提するような意味での「ミクロ・マクロ経済学」のみを経済 学と理解する限り、現存の資本主義的市場経済システムの影の側面に配慮する視角に欠い ている為に、それらを適切に理解する事は出来ないのである。ポリティカル・エコノミー や経済思想、経済哲学、学説史などの分野こそが、そうした「ミクロ・マクロ経済学」が 欠いている視角の存在と、その重要性に気付かせる素材を提供してきたと言える。そして、

現在の学生や一般市民は、現実の資本主義的経済システムの下での生活経験を通じて、現 実に存在する社会的排除や搾取の問題に直面し、それらを感じ取っている。問題意識の鋭 い学生ならば、そうした影の部分や矛盾の存在を適切に言語化し、理解できるような学識 を社会科学の勉学を通じて期待するようになる。

現実社会の問題――例えば、国内における大企業と中小企業との間の取引関係に おいて――として、そして現実の世界経済の問題――先進国と途上国の取引関係において ――として、人々は日常的に搾取について言及している。それは、現実の日常世界におい て人々が搾取的状況を感じ取ったり、問題視しているからであり、そのような事象を社会 科学的概念として普遍化・厳密化するのが我々、社会科学者の務めである。ポリティカル・エコノミーの知的伝統が培ってきた理論的視角を持つ事で、我々はそうした現実の日常社 会で問われている問題状況にアクセスする事が出来る。しかし、本提案の前提するような 意味での「ミクロ・マクロ経済学」の素養だけでは、そうした問題状況を適切に汲み取る視角を有せず、結果的に現実の日常世界で人々が感じ取っている問題そのものをネグレク トしてしまう事になるだろう。その場合には、上述の様な問題意識の鋭い学生は、そもそ も経済学に見切りをつけ、他の学問分野へと去って行ってしまう事になろう。結果的に、社会マネジメントの技術学として経済学を専ら了解し、オペレーショナルな技能的には優 秀であって、市場経済を賢明に生きる術や、与えられた政策を巧妙に実現する仕組みの設 計技術において比較優位を発揮できる人材のみが残る事となり、現実の日常社会で問われ ている矛盾を感受したり、それを適切に言語化して体系的に理解し、人々を説得していくような人材はいなくなってしまうだろう。それは経済学の在り方として極めて奇形的であ る。経済学とは、イコール社会エンジニアリングではない筈である。

私のそうした危惧は、「(2)経済学の学びを通じて獲得すべき基本的な能力」を読 む事で、いよいよ現実的な実感となった。その節の「①経済学に固有な能力」を読んでみ ると、参照基準検討分科会の委員の方々が、経済学を社会マネージメントの為のエンジニ アリングという視角でしか捉えようとしていない事がはっきりと了解できる。つまり、全 体的に理系的な能力・素養を中心に語っており、人文的教養力、人文的な包括的思考力の 重要性を一切、切り捨てている内容になっている。しかし、すでに繰り返し主張してきた ように、「社会のマネージメント」の問題にせよ、それは与えられた目的関数の制約条件 下での最大化という制約付き最適化問題の様なオペレーショナルな形式だけで成り立つも のではない。実際には、そもそも「正義とは何か?」とか「何が望ましい社会の在り方か?」 という哲学・倫理学的視角と素養が本来的に不可欠な問題である。アダム・スミスや J.S. ミルやカール・マルクスなどが狭い意味での経済学に限定されずに哲学や倫理学への素養 を持ち、それらの議論を含めた形でポリティカル・エコノミーを形成した理由は、単に、 学問の発展段階が未成熟であったからなどではない。そこには経済学が本来、考察の対象 として維持すべき知的領域が指示されていると見做すべきであろう。

私は経済学のオペレーショナルな側面、社会エンジニアリングとしての側面の重 要性を全く否定するものではない。むしろ、その側面の長所を生かす為にも、ポリティカ ル・エコノミーや哲学・倫理学などの勉強によって人文的学識を備わせる事が必要である と思うのである。オペレーショナルな側面の勉強を通じて社会マネージメントの為の技術 知識と使い方を身に付けるのみならず、如何なる場面でそれらのエンジニアリングを如何 様に使いこなすかの判断力こそが主権者たる市民として不可欠なのであり、そのような判 断力を陶冶する基礎的学識となるのが哲学・倫理学などであり、かつ歴史学である。ポリ ティカル・エコノミー、経済思想、経済哲学、学説史の分野の勉強を通じて、それらに触 れる事で、人文的教養なり、単なるオペレーショナルな演繹的演算の形式に限定されない 人文的思考力を陶冶する事が、社会エンジニアリング的にオペレーショナルな操作能力を 身に付ける事と同時に、経済学徒が目指すべきものである。

それは、経済学研究者のみならず、とりわけ民主制政治体制下における社会運営 の主権者である一市民の一人一人が、主権の適切な行使の為にこそ、必要な素養であり、経済学の教育の意義とはそれを授ける点にあるという理念をこそ、まずは議論の出発点に 添えるべきであろう。参照基準検討分科会の本原案に徹底的に欠如しているのは、そのような高尚な理念である。


1 従って、私は主流派経済学サイドの反論としてよく主張される、「だったらミクロ・マクロ・統計学と、ポリティカル・ エコノミーや思想・歴史系とで分割して、別々の学部組織とすればよい」という見解にも、断固反対である。そのよう な見解は、ポリティカル・エコノミーや思想・歴史系をいわゆる経済学部から追放し、別の社会科学系学部に吸収合併 してもらう事を前提にしているが故に反対なのではなく、既存の経済システムを批判的に理解する事に関心のある学生 もミクロ・マクロ経済学的な理解や評価の仕方を身に付け、かつオペレーショナルな技法を身に付ける事が必要と思うからである。分割案は、そうしたバランスある学識を学生が持つ機会を奪う主張に他ならない。

2 実際に、そのような将来を象徴させる出来事が、2011 年秋に始まった米国「Occupy Wall Street,ウォール街を占拠 せよ」運動の最中、ハーバード大学で起きた事を改めて想起すべきであろう:

http://harvardpolitics.com/harvard/an-open-letter-to-greg-mankiw/