令和4年白井市郷土資料館企画展 解説冊子から引用
【印西大師】
印西大師は、享保6(1721)年に印西市本埜地区笠神にある南陽院の住職 臨唱(りんしょう)が勧請(かんじょう)したと伝わる、千葉県内最古の霊場です。現在の印西市と白井市の 2 市がその範囲であり、全体の行程は約 120 km程です。現在は毎年4月1日から6日の6日間にわたって行われ、桐の箱に納められた大師の御影(みえい)を先頭に、先達·ほら貝·講の役員·一般講員の順番で巡礼の列を成します。
札所の中でも 44 番札所である南陽院と66 番札所である来福寺、33 番札所である廣福寺の3か所は印西大師開設に尽力した寺であり、3寺のある地区は基寺(もとでら)地区と呼ばれています。基寺地区は、運営の中核を担うとともに巡礼の最後を飾る結願所を務める重要な地区です。また結願に関しては、「貰い(もらい)結願」といって、本堂などの建て直しや、その年に本尊のご開帳を行っている寺院で行う場合もありました。昭和4(1929)年には白井市清戸にある薬王寺で貰い結願が行われています。
印西大師は県内で最も長く続いている巡礼です。開設当初の明確な資料はありませんが、それでもなお続いているのは、人々の伝統を残したいという思いがあってこそだと言えるでしょう。
【白井大師】
白井大師は、明治 37(1904)年の日露戦争勝利祈願のため、白井市神々廻の神宮寺で始まったとされる巡礼です。札所は全 26ヶ所ですべて白井市内に所在します。創立当初は4月と9月に行われていたという記録があり、幾度かの変遷を経て 10 月最初の土日に行われるようになりました。
創立時に参加していたのは、当時組合村を構成した旧白井村の 18 地区、旧谷清村の3 地区の合計 21地区です。平塚地区に関しては、永治村という別の村に含まれたことから、参加していなかったと考えられます。白井大師に参加する地区は徐々に減っていき、最終的には5地区にまで減少します。
白井大師は平成 17(2005)年の巡礼を最後に解散しました。神々廻にある神宮寺の「白井市組合大師講解散記念碑」や白井下長殿(しもながとろ)集会所にある「弘法大師像」には、白井大師の開設理由や結願の様子などが刻まれています。解散後も白井大師を後世へと伝えようとする人々の思いが、この2基の記念碑から見て取れます。
印西大師と白井大師 「広報しろい」2009.3.15から
自分探しや癒しを求め、四国88カ所巡りが脚光を浴びています。
歴史的には江戸時代に庶民へ広まったもので、弘法大師ゆかりの寺(札所)を巡る道程は、1400㌔㍍余りにおよび、当時は一生に1度行けるかどうかの、また、帰れる保障もない命がけの旅でした。
そこで人々は講と呼ぶ信仰集団を作り「新四国」などの名で四国をまねた88カ所の札所を身近な地域の中に設けて巡礼を始めました。
印西大師もその一つで、1721年(享保6年)本埜村笠神にある南陽院の僧臨唱法印が開いた県内最古の大師講です。
印旛沼西岸の村々が関わったので印西(組)大師と言い、市内の札所は平塚、河原子、神々廻、谷田、清戸、法目、 上長殿、 下長殿、 中木戸、七次などの寺や堂にあります。
巡礼形態で全札所を巡る大廻り大師と一部を巡る小廻り大師があり、大廻りは毎年4月初旬、小廻りは、1月、5月、10月ごろ行われています。
印西大師では旗や弘法大師の御影(掛け軸)が重視され、露払い、案内旗、御影、黒旗
、先達、基寺三区旗、貝吹き、赤杖先達、各区村旗、一般講員の順で歩く姿が見られます。
印西大師開設に力のあった寺の地元は特に基寺地区と呼ばれて運営の中核を担い、最後を締めくくる結願は基寺地区で行われます。但し、「貰い結願」と言って、一般地区で特別に結願を譲ってもらうことがありました。
1929年(昭和4年)には清戸薬王寺(23番札所) で行われています。
写真は、「月刊 千葉ニュータウン2003.3.8」より転載させていただきましたが、いつ頃かは、不明。
印西大師に関わるものに白井大師があります。
1904年(明治 37年)神々廻の神宮寺を核に白井谷清村組合大師として開かれたものです。
記録には「白井村小廻大師」ともあり、平塚を除く市内21地区が参加して4月・9月に26の札所を巡っていました。
白井大師も昔は旗や御影を重視していましたが、戦後になって送り大師の形式や稚児行列など、東葛・印旛大師風の要素を取り込みました。
近年は10月最初の連休に実施されてきましたが、ニュータウンによる集落分断やさまざまな負担で参加は5地区に減少し、2005年(平成17年)を最後に休止しています。
白井市文化課文化班