古き時代を思いだして
昭和32年卒電気工学科卒業 光井 英雄
(東京都市大学名誉教授)
1)昭和30年代
戦後間もない昭和24年に、本学が新制大学として発足した頃は、人材、施設共に不足していた時代であった。私が本学に就任(初任1給万円)したときは、丁度、五島慶太育英会理事長の大学の発展には、環境整備が重要であると述べられ大学全体が基盤作りの時代で、教員の増強と設備の充実を図ることにあった。
当時、電気工学科の専任は、電気機器専門の高橋教授、馬場助教授2と名の助手(後に付属高校の教員として転出)、1名の技術員であった。
教員の増強は、昭和31年に佐藤講師(職名は就任当時)が就任したのを始めに、32年に鳥山教授(東北大学の定年前に)、光井副手(当時は助手になる前の職名)、33年堺講師、沼倉教授(東京都電気研究所長)、34年唐沢副手、35年伊藤副手、37年海老原技術員、38年高田助手(副手の職名は無くなった)、岸田助手、篠原助手(44年退職)の就任があり、30年代の約10年間で11名の増員が図られた。この内7名は本学OBで、34年以降の就任は全てOBであった。この当時、他から中堅の教員を採用することは、処遇や設備の面からも厳しい状況にあった。従って、若手の本学OBを採用し育てる形にしたようであった。
施設の面では、学生実験用の電気機器関係の設備は、新しい直流発電機等が導入されつつあった。当時の電気機器実験室には、直流電源用の大型発電機の他に、今では珍しい古い時代からの水銀整流器があった。
高橋教授他で電気機器研究室を構成していたが、研究が出来るような環境にはなかった。高橋教授が知人の某クラッチ会社から電磁クラッチの性能試験を依頼され、その試験を学生用電気機器実験室で就任間もない私と技術員とで行っていた位であった。まだシンクロスコープ等ないので学生実験用の電磁オッシログラフを使って、クラッチの着脱試験を行っていた思い出がある。
昭和30年代の卒業研究は、実験設備などが十分ではなく、4年生全員が学内で実験ができる状況にはなかった。従って、学生を実験のグループと文献調査のグループに分けて実施していた。また、一部は外部の研究機関などに依頼したりしていた。
学内で本格的な研究が出来るようになったのは、昭和32年に烏山教授が着任し、佐藤助教授、光井と33年に堺講師が加わって高電圧研究室を設立したのが最初であった。初めて研究室へ配属された卒論学生は18名であったが、当時の研究室の実験設備(主な設備50㎸試験用変圧器、100㎸衝撃電圧発生装置、真空蒸着装置等)から実験を伴う卒業研究が実施できるのは、その内8名で残りの10名は文献調査による卒論作成となった。初めて学内で実験を伴う卒業研究が出来るということで、応募者が多く配属を決めるのが大変であった。
下記の写真は、昭和33年に卒業した高電圧研究室の1期生達と、研究室の教員鳥山教授、佐藤助教授、光井の3名が写っている。
その後、昭和33年に沼倉教授が着任すると唐沢副手とで電気材料研究室が、更に、高電圧研究室から分離して堺講師と伊藤副手で放電研究室が設立された。
何とか4年生全員の卒業研究が、学内の実験設備で実施できるようになったのは昭和40年頃からであった。
2)昭和40年代~60年代
昭和40年に10号館、41年本館、43年に図書館と主要な建物が新設された。この本館と図書館はすでに撤去され、両方とも新しくなった。10号館も数年後に撤去されて新しくなるとのこと、これで昭和30、40年代に建てられたほとんどの建物が無くなってしまう。写真は完成間もない頃の10号館で周囲の樹木が小さい、50年以上経って現在は屋上に届く位に育っている。
当時この10号館へは、電気工学科の研究室と学生実験室のすべてが移動してーか所にまとまり、実験装置なども充実してきた。また、教員の増強もあり昭和40年に村田講師、41年に堤井講師、藤川、曽禰助手、42年には堀内助手(後に原研へ移動)、43年松村助手、46年庄司助手(後に退職)が就任した。その後、48年に服部助教授(RCA)着任で40年代に7名の増員となった。この間に高橋教授が定年、馬場助教授の退職もあったが、後任に山本(富士電機:42年死去)、平田(日立)の両教授が着任し、山本教授の後任に相田教授(元富士電機)が就任し篠原、海老原助手とで電気機器研究室を、平田教授と庄司助手で電機制御研究室とに別れた。
人材の強化と設備の充実によって、新たに村田講師、堀内助手による放射線計測研究室と、堤井講師、松村助手でプラズマ研究室ができた。これにより電気工学科は6研究室体制となり、4年生全員の卒業研究が学科内で行えるようになった。しかし、ここに至るまでには、10数年に及ぶ長い道のりであった。
次に着手したのは、教育面での充実を図ることであった。40年代教員の年齢構成は、年配の教授(定年後の着任者が多い)と若い講師、助手が多く中間層が少なかった。そこで若手教員が検討の結果、講師、助手全員(10名)で学生実験の教育を強化するため、実験結果の報告はレポートをもとに個人面接の形式にした。このためレポートチェックと面接には、かなり遅くまで時間を要することになった。この方式に対して学生の間では、恐怖の実験等と言われていた。また、この時期に学生実験室の実験装置の向上を目指してかなりの予算を投入し、電子回路関係の増設や特に新規テーマとしてアナログコンピュータやサーボモーターなど制御系の導入を図った。
この昭和40年代は、学科の各研究室充実と学生実験室の強化で、大学として研究と教育という二つの目的を行うことが出来る形になってきた。
更に、昭和41年と43年には、研究と教育のさらなる向上を目指して大学院の修士課程と博士課程が設置された。
修士課程の1期生に岸田、曽禰、藤川助手の3名が、特例として現職のまま入学を許可され、2年後に修了し初の工学修士が誕生した。その後は年々入学者が増加し、多いい時で70名位となっていた。
昭和40年代末から50年始め頃にかけて、定年退職者、新規着任等による教員と移動もあり、研究室の統廃合が行われ慌ただしい時期で、学科の基礎作りが一段落した頃であった。
新規着任者と研究室は、昭和48年に服部助教授の電子物性研究室(電気材料研を名称変更)、佐藤教授(原研所長兼務)、唐沢講師、岸田講師で電気基礎研究室、伊藤助教授と藤川講師(後に山田教授と自動制御研)の移動による電気応用研究室、49年片木教授(日立:相田教授定年)と海老原講師で電気機器研究室、飯島助手(後に高圧研へ)が放射線計測研、53年山田教授(日立)による自動制御研究室設立、同年平田教授の定年と北尾助手の退職もあり電機制御研究室の閉鎖等があった。
下記の写真は、昭和50年12月の電気工学科教職員と電子顕微鏡室(吉田助手:後の機器分析室)、電算機室(後の情報処理センター)、ガラス加工室の技術職員3名を含む忘年会で、専任が約30名の大所帯になっていた。
当時は1研究室3名の教職員(教授、助教授か講師、助手か技術員)から成っていた。他に学生実験室の技術職員3名と合わせて上記の人数であった。
この期間にほぼ現在の学科の基盤が出来上がったと言える。しかし、電気工学の分野は、電子工学や情報工学等を含め急速な発展を遂げていた。学科でもこれに対応するように、電子工学に関する学科目数の増加が著しくなり、もはや電気工学科と言うよりは電気電子工学科と呼ぶに相応しい内容となった。この状況から学科の名称を昭和60年「電気電子工学科」へ変更することにした。当時、この名称の大学は、国公私立あわせて5校のみで本学を入れて6校となった。
名称変更には文部省の認可が必要で、そのため本学科のカリキュラムを持参し説明に文部省へ何度か出掛け認可してもらった思い出がある。 また、年代は失念したが、本学科は電気主任技術者資格の1次試験免除の認定大学であったが、通産省(現経済産業省)より再審査を行う旨の通達が有り、実験装置などの確認に担当官が来学されたので実験室等へ案内し説明を行った。また、通産省へカリキュラムを持参し指定科目などの内容に就いて担当官へ説明をした。その結果後日、指定大学として認定する旨の連絡があり、安堵した記憶がある。
昭和61年に機械工学科から電気工学科へ、電気・電子系の研究室を学科内に設置したい旨の申し出があった。学科で検討した結呆、放電研究室の高田助教授を移籍することにした、更に環境情報学部の新設に伴ってそちらへ移動した。
高田教授の移動、片木教授の死去、佐藤教授の定年なども有ったが、その後、昭和50年代後半から60年、平成の初期にかけて教員の補強が続いた。放電研へ湯本助手、計測制御研へ持木講師、田口助手、電子物性研へ森木講師、野平助手、自動制御研へ志田助手、電気機器研へ烏居助手、電気応用研へ江原技術員、新設の画像処理研へ小杉教授(NIT)がそれぞれ就任した。
3)平成年代初期
平成2年には服部教授の初めてクリーンルームのある半導体特別研究室が、文科省の特別助成金を得て10号館裏に完成した。
平成3年頃、電気電子、電子通信の両学科でそれぞれ情報関連の学科目の教育と研究を行っていたが、両学科から情報関連の研究室を合わせて電子情報工学科を新設することが話し合われた。しかし、大学側の事情もあって暫く保留となった。その後平成6年に3号館(五島記念館)の完成で、電気電子工学科の半分の研究室「放電(後の気体エレクトロニックス)、自動制御、計測制御、電子物性、システム情報」が移動した。
10号館には高電圧(後に電力情報)、プラズマ、電気応用、電気機器の4研究室と、学生実験室(第1~第4)、電気事務室が残った。
この3号館には、どの学科を入居させるかで検討委員会が設けられ、実験系の3学科(機械、電気電子、土木)から1学科を入居させることになった。検討の基準としたのは、各学科がすでに占有している床面積を比較して、一番少ない学科を移転させることになった。その結果、電気電子が最も少なくて移転することになった。この時、10号館の図面を見ながら電気電子の研究室と実験室の面積を詳細に計算した記憶がある。なお電子通信は入居していた6号館が撤去されたので、先に完成していた3号館の後半の部分へすでに移転していた。
平成9年には、保留となっていた電子情報工学科の申請が認められて、新設された。電気電子より気体工レクトロニックス(堺、湯本、浜村)自動制御(山田、藤川、志田)画像処理(小杉)の3研究室が電子情報工学科へ移籍した。しかし、その後、平成12年に気体エレクトロニックス研は電気電子へ戻り、計測制御研(村田、持木、桑子)が電子情報へ移籍し、新たに松本教授(元京都大学情報工学科教授:京大へ何度か就任のお願いに伺った記憶有り)を迎えソフトウエア研究室を設けた。
以上、私の記憶にある平成年代の初期頃までの学科の変遷を記述してみました。
2021年3月11日寄稿
電友会事務局