劇団民芸公演「西の国の人気者」を岡山まで観に出かけ、楽屋で宇野重吉たちと話しているとき、菅原演出の助手として忙しく舞台裏を飛び回っている堀田清美に久しぶりに会った。一九五五年十一月その当時劇団民芸文芸部に、はいりたての彼は演出助手として実によい勉強をしていると喜んでいた。その際彼の作品「島」がテアトロに発表されたまゝ末尾に「ひとまず発表はするが改めて推敲(すいこう)したいので、上演はすべてお断り」と「島」のよりよい完成をはっきりと意思表示したまゝになっていることについて、宇野重吉、堀田清美たちと話した際、宇野重吉が堀田清美を公演の帰りに広島に降ろすから「島」について力を貸してほしいと私に話し、約束通り私を訪ねてきた。
堀田清美は一九二二年呉市に生まれ、(現在両親は音戸に住んでいる)終戦後上京、日立亀有工場に勤務、職場演劇人として島崎藤村の「破戒」四幕の脚色をして、自ら丑松を演じ、それ以後次々と「運転士の息子」「旗を守る者」「大潮」「子ねずみ」などを書き続け一九五〇年のレットパージの嵐の中で、自立演劇の中心的存在であったゝめ職場を追われた。その後民芸の宇野重吉に誘われて専門的演劇人として演出部に入り「島」の完成に励んでいた。首を切られたとき、「自分は何も悪いことをしていない、不合理なことが当然として通用することに大いなる怒りを感じた」その衝動は彼の人間、作家として今まで職場の仲間だけにつながっていた視野をもっと広い社会との対決まで追いつめ、その視野の広がりと衝動の発展が原爆の問題をとらえて「島」を書かし、その過程でテーマと誰に観(み)させるかの問題が肉体化され浮き彫りされたと考えてよいだろう。一九五二年ごろ同じ仲間の職場作家たちの会合で、「島」以前の作品について「自分たちの作品の表面に生(なま)の言葉が多いことは思想が浅いからだ」と反省し、人間の自然の法則において捉えるという論理も肯定し「島」の中の人間形象が平板で結晶のされ方が弱いという問題も、思想の方向と不信と共に素直に認め、木下順二が「ドラマトゥルギーは技術ではなく思想であるということを改めて考えさせられている」と言ったことを誠実に受けとろうとする営みを見せ、十年近い書くという生活の中で、自然主義的環境劇から抜け出す努力と格闘して「俺は喜劇を書きたい。そして強い人間になりたい。思想的センチメンタリズムから脱皮したい」と言うことの中で社会につながった生きた人間も捉(とら)え描きたいと熱烈な意欲を燃やし、その願いを実証せんとして民芸という職業劇団のなかで、また多くの知友たちに励まされ、叩(たた) かれて書き続けていたわけであった。
私を訪れた彼は「島」の含んでいる色々な問題を実にたくさん質問した。広島にきて原爆のことを知りたいと思うなら恐らく半年付き切りでかゝっていても足りないだろう。それほど原爆の事実は大きい現実で、数字と事実の上からの観念的な捉(とら) え方では真の意味での人間は解き難い。自分のぎりぎりの営みで原爆以後を生き抜いてきて、その苦しみ、その恐ろしさ、怒りをじっと耐え抜くことを余儀なくされ、言葉表現も貧しく、むしろ何も言い得ないで人生の片隅で生きのびてきた人達の生活、人間にふれ、その中から本物の原爆の本質的な人間の課題を発見することこそ最も大切なことである。こういった結論を私達は話し合いで感じたのではないかと思った。その後の便りでも終りに必ず「島」がんばっています、と書くことを忘れなかった。
久しい努力のすえ昨年九月民芸で「島」三幕四場が、よい作品になって舞台にのり、地方公演も好評を重ね最近また東京で再々上演をもつという。戯曲賞の感想文に「島」の公演後、何ともいえぬ自信喪失状態に見舞われ「島」が精一杯だぞ……という声が聞こえてきた」と正直な弱音をはいているが、彼一流のねばり強さでまたよい作品に取り組むことであろう。私はそれを明るい気持ちで楽しく待っている。「島」の広島公演も彼の受賞を祝い励ます意味でぜひ実現したいと希(ねが) う人は広島地方にたくさんいると思うのである。
1958年9月6中国新聞に掲載
(『ロンドの青春 大月洋演劇稿』より)