一九五五年九月一五日広島民衆劇場機関紙第九号掲載
八月六日の真昼の陽射(ひさ)しは焼けつくように熱つぽく十年前のあの日を想(おも)わせ私の心の深い疵(きず)はうごめいた。原水爆禁止世界大会本会議の休憩二時間を原爆構成詩演出のため劇団の稽古場へ急ぐ自動車の中で私は丸山定夫の遺稿「原っぱで」の一節が浮んできた。
草の実の 小さな粒よ
つぶらな ほんの小っぼけな
殻に過ぎないような……
吹けば飛んで 見えなくなってしまうような
このさゝやかなものゝ中に 一切の所有があるのか
成長が 道程が そしていろんな時の流れ
いつの時代でも戦争は貴重な多くの生命を叩(たた)き潰(つぶ)し、歴史の歩みに大きな穴をあけた。十年前原爆で消えた新劇の鬼才、丸山定夫の穴も実に深く何人(なにびと)によっても現代では埋めがたいものに思われる。原爆の惨禍は筆舌に尽くし難く、戦争への怒りと平和の希(ねが)いは波打ち広がり世界の良心と愛情は響き応(こた)えて原水爆禁止世界大会となって燃え昇った。その日演劇人の十年かけての念願であった丸山定夫ほか八名のさくら隊殉難碑が戦争にでもなれば飛行機の滑走路だと噂の高い平和大通り(百米道路)に建てられたことの想(おも)いは深い。
自動車を降りまだ誰もいない伊藤喜朔デザインの碑の前に立ち湧きあがる感慨が大きくうねる。熱いものが鼓動する。「叔父ワーニヤ」の幕切れのチエレーギンのギターが寂(さみ)しく響いてくる。「どん底」のルカのしゃがれた笑い声が心の舞台に小波を描く石碑も、私も、黙って立っている。そして一つになって………
この沈黙の答えは生きた創造と感動の火を燃やす営みへと私の希(ねが)いをふくらませて行き、八月六日の午後の陽射(ひざ)しは築地小劇場の優しいステージを照らすツワイライトと化して揺らいだ。
写真=1955年8月除幕式のあと花束を捧げ冥福を祈った劇団俳優座の永田靖さんと劇団広島民衆劇場の劇団員。
(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)
広島市民劇場初代事務局長