劇団広島民衆劇場年表より
一九五一年(昭和二六年)
●十二月九日、市内横川町旭映画劇場にて、劇団ぶどうの会の「夕鶴」公演で来広した劇作家木下順二、女優山本安英さん等「劇団ぶどうの会」の人達が、移動演劇さくら隊殉難碑(丸山定夫ほか八名)に花束をさゝげ冥福を祈った。
なお、この殉難碑は、中国新聞芸能記者の人達によって市内新川場(しんせんば)町の、どぶ川のほとりに建てられた。
また、一九五二年一二月には東京下目黒の羅漢寺に徳川夢声さんを中心に、さくら隊殉難碑が建造されている。
写真 左端に大月洋さん隣に木下順二さん山本安英さんとぶどうの会の劇団員
後に山本安英さんはこの時のことを、演劇人戦争犠牲者記念会ニュース第四号(一九五二年五月一五日〉に「広島を訪れて」と題して、次のように書いている。
……略……翌日(夕鶴公演のカーテンコールで)木下さんが、広島の人々こそ平和を願う人々だ。もうこんな悲しみは繰り返したくはない。と舞台からお話しになった時、お客様も舞台も、悲しみと怒りに強く結ばれ、深い平和への決意にひきこまれてゆきました。私はその感動を忘れることができません。その翌日、ぶどうの会全員と丸山さんの戦災地を訪れました。さゝやかな小路に面し、ドブ川のほとりに立っている記念碑、それは白いペンキで塗られた質素な木の碑でしたが、付近の方々が心尽くしに地面にさした四五輪(しごりん)の小菊に守られて、土地の方々や中国新聞の方々の平和を希(ねが)う美しい心にしっかり支えられ、様々な思いを込めて立っておりました。何とかしてもっと立派な石の碑を立てたい。それはどんなに質素なものでもよい、今立っている記念碑を更に育て、こういう不幸な方々の心を永久にきざみ、再びあのような人間の不幸を繰り返したくないという数知れない平和を願う人々の善意をもれなくこめた美しい記念碑を……。
ひざまずく私の心は底の底からゆさぶられる思いでした。あんなに民衆から愛され、しかも戦争でこんなに不幸に亡くなってしまった名優丸山さんそして友田さんを始め多くの演劇人、この嘆き、戦争への限りない憎しみはもう決して私達の心から消えさることはないでしょう。私はこの悲しみを二度と繰り返させまいという気持ちを心にこめ、美しく咲いた白菊を後にしました。
写真 碑と白菊と山本安英さん。
一九五五年(昭和三〇年)
●移動演劇さくら隊原爆殉難碑(伊藤喜朔デザイン)平和大通リ緑地帯に建つ。
八月六日除幕式に俳優座の永田靖さん、中芸の原田甲子郎さん等とゝもに民衆劇場の劇団員多数が参加、民衆劇場を代表して渡辺ほとりさんが、献花し冥福を祈った。
注 碑は、以前新川場(しんせんば)町に木碑が建てられていたが道路整備のため除去されていた。
その後広島の演劇人、文化人、その他東京など中央の演劇関係者等多くの平和と芸術を愛する人達の協力によって建立された。なお、大月洋氏は世界大会に出席していたゝめ参加できなかった。
写真=献花する民衆劇場の渡辺ほとりさん。
(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)
広島市民劇場初代事務局長