一九五四年八月オール広島掲載
迎夏のカーテンが上がると、毎年のごとく訪れる数々のプロセニアム・アーチが私の想(おも)いの頁を豊かにしてくれている。或(あ)るものは云(い)うにも哀(かな)しい火花であり、或(あ)るものは微笑(ほほえ)ましくもおさえきれぬ喜びの清らかさであり、その心の怒りに人間不信をヒューマニズムの響きで生きる営みに警告したい想(おも)いもある。
今は民芸映画社長であり特異なマスクを持ち前の豊かな人間味と情緒的な演技力で、舞台に、映画に、ラジオに活躍し安定した歩みを続けている宇野重吉が、その昔、急行で広島を通るから駅に出てほしいと云ってきたので、私は駅に出た。停車中に話もつきず、そのまゝ急行に乗り込み次の停車駅宮島まで同行、別れたことがあったが、そのとき広島駅のプラットホームに丸狩り頭のガンさん(丸山定夫)が十米位を往(ゆ)き復(かえ)り往(ゆ)き復(かえ)り胸を張り、手をあげて呼吸しながら真夏の整調運動をしているのが私の目についた。宇野重吉と話している私に気がついて「やあ、お久しゅう、お元気?」と声をかけてきたので私は「丸山さん、重ちゃんや赤木さん(信欣三夫人)も帰りに広島に降りて遊んで行きます。一緒にどうですか」と誘うと例の人なつかしい庶民の目を細めながら「あゝ、ありがとう、広島はなかなか忘れ難い街でね、降りるとちよっと離れ難いんでなあ、残念だなあ、今度はちっとも暇がないんでね、残念だな」と幾度も残念をくり返しながら握手して別れた想(おも)い出の余じんが……、その後八月六日広島の炎の街を比治山(ひしやま)から鯛尾(たいび)島へ、それから小屋浦(こやうら)へ転々として東京からかけつけた演出家の八田元夫たちに厳島(いつくしま)のお寺へ、(丸山定夫たち桜隊移動劇団は八月五日に同寺へ移動しているはずであった)打撲と裂傷と肋膜(ろくまく)と肺炎の重病の身を運ばれ、八月一五日敗戦放送を聞きながら、骨と皮ばかりになった身体をしみじみ見て「また芝居のできる世になったんだね。二年待ってくれ、この身体を癒(なお)してきっといゝ芝居をやって見せるよ」と遠く明日に想(おも)いを走らせ、夜遅く広島から帰った八田元夫が静かな寝姿に近づいてゆくと既に冷たくなって誰にも気づかれず、さよならも云(い)はずに死んでいった丸山定夫の最後がドラマのフォーカスになって、広島駅の丸山定夫につながり、原っぱに等しい百米道路の殉難碑の中から庶人と名人芸の膨らみをもった、しゃがれ声の渋い囁(ささや)きで、草の実を詩(うた)った「原っぱ」の詩を口ずさんでいるガンさん(丸山定夫)が、哀(かな)しいギターを弾くチェレーギンになったりして想(おも)いをだぎらせるのであるが、丸山定夫の消えた大きな穴は埋め難くもう見られ得ぬ寂(さみ)しさは、これだけでも八月の想(おも)いは私のプロセニアム・アーチに決して忘れてならぬドラマの響きを叩(たた)き続けることである。
(「『ロンドの青春』平和と演劇を愛した大月洋の足あと」より)
広島市民劇場初代事務局長