「表現の萎縮展」企画者に聞く

文 きつね

編集 『メインストリーム』編集部

 物議を醸したあいちトリエンナーレと同時期に開催、これまた物議を醸したなごやトリエンナーレ。知名度こそあいトリに劣るものの、その問題意識と不運は戦後史に残るレベル。超芸術を標榜し、断じて作品を作らない&展示しない異色のなごトリの終盤を飾る作品展示・表現の萎縮展は、一周まわって異色であった。その意図は? 経緯は? 一介のきつねが遡るなごやトリエンナーレ、第一弾は「表現の萎縮展」企画者に聞く。


表現の萎縮展?

 10月初旬。2ヶ月前に中止されていたあいちトリエンナーレ・表現の不自由展が、紆余曲折の末に再開された。反対派と賛成派が入り乱れる殺伐としたTLに、しれっと流れてきた文字、「表現の萎縮展」。アカウントは「なごやトリエンナーレ」。

 なごやトリエンナーレについては、そのへんのきつねよりは知っている。この夏、そして秋、私のTLにはなごやトリエンナーレの話題がよく流れてきたものだ。きつねだって、最近は人間に化けるためにSNSを使いこなすのだ。

 それは、奇妙な人間たちの物語だった。自らの原理原則を言語化し、その言葉に自ら従うという人間の在り方そのもの、それが何というか過剰なのだ。人間であることをムリしてやっている、という印象を私は受けた。言ってよければ、人間に化けるきつねかたぬきに似ていた。私は彼らに興味を持った——。

なごやトリエンナーレ・水掛け逮捕事件

 なごやトリエンナーレはあいちトリエンナーレの誤植ではない。混同している人は多いが、両者は別物だ。

 なごやトリエンナーレが話題になったのは、幸か不幸か彼らの芸術監督——いや、彼らは超芸術監督と言っていた——が逮捕された水掛け逮捕事件のときだろう。

 遡ること2ヶ月。超芸術監督が、あいちトリエンナーレのスタッフに頼まれて道を清掃する(編注:きつねは把握していないが、あいちトリエンナーレがなごやトリエンナーレに清掃を依頼するのには複雑な理由があるが、別の物語として今回は割愛する。これに限らず、なごやトリエンナーレの経緯や超芸術監督と逮捕された人物の関係についてのきつねの理解には決して間違ってはいないが説明不十分な点があることをご了承いただきたい。これらについて次回以降で詳しく述べる)。ついでに、あいちトリエンナーレ会場である愛知芸術文化センターを清掃しようと思い立ち、友人と一緒にバケツと雑巾とを持って入ったところ、警官に囲まれた。警官は、一番年若い彼らの友人を囲んだようだ。超芸術監督は警官の気をそらそうとした。そのとき、どこからともなく「そのバケツに入っているのはガソリンじゃないか?」という声が聞こえた。超芸術監督は持っていたバケツの水を「ガソリンだ」と言いながらひっくり返した。水が警官に掛かった。たちどころに超芸術監督は全警官の気をひき、全警官にとって水はガソリンとなった。

 このことは、「水とは何か」という根源的な問いを人間たちに突きつける。水に触れて「水だ」と発語されれば、それはヘレン・ケラーが絶叫するほど水なのだ。しかし、水に触れて「ガソリンだ」と発語されれば、それは逮捕者が出るほどガソリンなのだ。超芸術監督は超危険人物として逮捕された。なぜなら、この夏、京都アニメーション第1スタジオにガソリンが撒かれ、放火され、多数の人間が亡くなった痛ましい事件は、誰の記憶にも新しかったからだ。そして、表現の不自由展に電話やメールで抗議した匿名の人間の中には、「ガソリンを撒くぞ」というとっておきの脅迫文句を使う者がいたからだ。そんな訳で、愛知芸術文化センターはピリピリした空気に包まれていたのだった。

 友人たちはすぐさま救援を行なった。超芸術監督——マスメディアの報道では自称・室伏良平と書かれていた——は、拘置所に接見に来た友人に超然と「なごやトリエンナーレ会場へようこそ」と言ったらしい。「私が起訴されれば、裁判所がなごやトリエンナーレのメイン会場となるだろう」とも。「頭痛が痛い」と、救援に奔走する友人はこぼした。スケールが小さいんだか大きいんだかわからない闘いに明け暮れている一派が名古屋にいるらしい、という情報が、私のTLを賑わせた。

 ネット上では、自称・室伏氏について様々な言説が飛び交っていた。テロリスト、朝鮮人、極左、共産党、極右、あいちトリエンナーレの工作員……。当の室伏氏は、水をガソリンと呼んだだけにしては多すぎる勾留日数を経て釈放された。なごやトリエンナーレはその後も、元アナキストとたぬきの対談(編注:9月7日に愛知芸術文化センターで行われた元アナキストの千坂恭二氏と『メインストリーム』編集部のトーク「アート・反アート・現在・たぬき」を指す。きつねの知ったかぶりである)とか、「レプティリアンデモ」(編注:10月13日に行われた爬虫類人に反対するデモ。既存のヘイトスピーチを戯画化するスタイルが賛否を呼んだ。これも今回は割愛する)とか、多様な企画を元気に打ち出していたらしい。しかし、“作品”の展示だけはない。異色のトリエンナーレだった。

超芸術とは?

 なごやトリエンナーレの奇妙さは、その不運な冒険話以外にもある。

 最近雑誌に掲載されたインタビュー(編注:文末参照)を読むと、作品を作ったり展示したりしないということが彼らの最大の特徴だ。一見、あたかも往年の反芸術だが、彼らは反芸術にも与しないという。代わりに彼らが提唱している超芸術は政治を意味する。彼らは「名古屋の砂漠化を目指す」と言っているが、政治によって(仮に)実現する砂漠こそが作品、と言いたい訳でもないらしい。“芸術の政治化”とも異なり、あくまでも作品を無視するスタンスらしい。なごやトリエンナーレはあいちトリエンナーレのアンチでもない。「なごやトリエンナーレをやっているんだけど、どうも脇にあいちトリエンナーレというものをやっているやつらがいるようだ」と彼らはインタビューで言っている。

 2番目の特徴は、全体の組織図がつかめないことだ。例えば、超芸術監督の名前は自由流襟座或(じゆうる・えりざある)。つまり革命家・バクーニンの偽名、ジュール・エリザールに倣ったのだろう(私の先祖はバクーニンのエリマキだったから詳しいのだ)。バクーニンと違うのは、自由流襟座或が複数人によって使われる名前である点だ(その中に室伏氏も含まれる)。偽名は、本名を隠すためだけではなく、人間の物質的な頭数を隠したり、別の何らかの価値観を提示するためにも使える。そもそも本名とは現行の国家の制度に過ぎない、とバクーニンなら言うだろうし、頭数とは肉体の問題に過ぎない、とさえ言うかもしれない。「肉体には暴力を、魂には幻影を」と言っていた彼ならば。 

 飄々とした芸風と裏腹に、なごやトリエンナーレのサイトに載っている水掛け逮捕事件に関する「声明」には、一種の凄味がある。

8.7芸文センター清掃行動声明文

 砂漠とか神とか、果てはナチスの登場する難解な文章が、ある種名状しがたい悲しみをたたえている。仲間が微罪で逮捕されて悲しい、といった普通の人間らしい感情に基づいた話ではない。芸術を愛し、人間を、生活を愛するといった永い永い人間の営み、今、そのどん詰まりに人間はいるのだ、その外には砂漠しかないのだ、それでも外を目指すのだ、という、歴史と現状認識のもたらす悲しみだ。袋小路と砂漠の二択を迫られる人間たちの苦悩に、私さえ胸が詰まった。

表現の萎縮展の謎

 表現の萎縮展の話に戻ろう。告知には画像が添えられていた。

表現の萎縮展ビラ

 中央に描いてあるのは例のバケツだろうか。その傍らにはステートメントが——いや、文字が重なって、とても読めない。字間が萎縮したとでも言うべきか(編注:このデザインは、ステートメントの字間を除き、赤瀬川原平らの「表現の不自由展」ポスターを踏襲している。赤瀬川らは1963年、千円札を拡大模写するなどの作品を発表、さらに「千円札のオモテだけを一色で印刷」したものに手を加え作品として発表し、1965年、後者が通貨及証券模造取締法違反に問われて起訴され、その裁判をパフォーマンスと化したのち、1967年、それらを題材に同展を開いた。なごやトリエンナーレと赤瀬川らの類似と差異は次回以降で詳しく述べる)。

 参加作家の名前も謎めいている。「釣崎清隆」というのはカルト的人気の死体写真家だろう。「自称・室伏良平」は水掛け逮捕事件の彼。しかし「リチャード・マット」はかのマルセル・デュシャンがニューヨーク・アンデパンダン展に便器を出展したとき用いた偽名だし、「ジェーン・ドゥ」「ジョン・スミス」「山田太郎」などは、もはや偽名であることを隠す気すらない(本名なら申し訳ない)。「高城男」は枢軸国が勝利した世界を描くP.K.ディックの小説だろう。「来夢来人」や「多恋人」はよくある、誰か止めてやればよかったのにと思わせるスナックの名前。「匿名希望」は匿名希望だろう。「たぬき」は、元アナキストと対談したという例のたぬきだろうか。30年前に琵琶湖畔から飛び立って以来生死不明の伝説の偉人、「風船おじさん」も名を連ねている。

 なごやトリエンナーレのサイトにも、いつの間にか萎縮展のページができていた。チラシでは読めなかったステートメントも、ちゃんと読める形で掲載されている。しかし内容は、冒頭からたぬきにつままれたようだ。

表現の萎縮展ステートメント

元URL https://www.nagoyatriennale.info/isyuku(現在は閉鎖)

 どうやら、作品を作ったり展示したりすることに反対を表明していたなごやトリエンナーレには、もともと作品展示の企画・なんとかナーレがあったらしい。しかし水掛け逮捕事件の“風評被害”、つまり参加作家にとばっちりの及ぶ恐れがあった。そこで一旦は中止した展示企画だったが、最後になって再起動したらしい。「直接行動を是としてきたなごやトリエンナーレであるが超芸術の一つの実験としてオブジェクト群を公開する」と書かれている。

 署名は「自由流襟座或」ではなく隅石亞蘭(すみいし・あらん)、肩書きは「なごやトリエンナーレ超芸術監督」ではなくなんとかナーレ汎芸術監督。名前や役職と物理的な頭数が一致しないなごやトリエンナーレの常套手段を考えれば、これは超芸術監督の別人格だろうか? それとも、物質的に別の個体だろうか? 

 原理原則と真面目に向き合おうとするとき、人格——きつね格でもいい——が分裂せざるを得ない場合のあることを、私は知っている。複数人のグループであれば、グループはそういうとき、分裂の道を選ぶだろう。

 肉体に暴力を、魂に幻影を。

 私はなおさら彼らに興味を持った。

 会場は名古屋・「特殊書店ビブリオマニア」。会期は10月12日から20日。ひとつ名古屋へ行ってくるか。謎の展示を見たい。企画した人に会えるかもしれない。たぬきにも会えるだろうか。人間の原理原則に無理に適応しているであろうたぬきの境遇は他人事ではない。もはや、きつねもたぬきだ。それに、風船おじさんの元気な証拠をこの目で見たい。思えば、彼も1人の、人間社会になじめなかった個体であった。

表現の萎縮展へ

 ビブリオマニアは、名古屋市の中心街・栄の青果店の2階にあった。道路に面した入口に、フリーメイソンで有名なモチーフ・“プロビデンスの眼”をデザインした旗と表現の萎縮展のチラシが貼ってある。

ビブリオマニア入口

 細い階段を上がり、ドアを開けるとそこは本屋さん。その奥に掛かったカーテンの陰から黒づくめの出で立ちに眼鏡を掛けた人物が現れた。

「表現の萎縮展を観にきたのですが……」

「そうですか。こちらへどうぞ」

 カーテンで仕切られた奥の小部屋に案内された。レンタルビデオ店のアダルトコーナーに似ている。

「ごゆっくり……」

 数畳ぶんのスペースにはびっしりと「オブジェクト群」が「公開」されていた。引き裂かれた紙片が床に散乱している。キャプション札が落ちているところをみると、これも展示作品だろうか。

「これは踏んで大丈夫です。そういう作品ですから」と黒衣の人物が教えてくれる。

「この落ちている鍵も作品ですか?」

「あ、それは私の鍵です。あぶない、あぶない」

 室内には2人の先客が、熱心に作品を鑑賞していた。

「これは凄いですねえ。全然萎縮してないじゃないですか」表現の不自由展で話題になった《平和の少女像》に似た大きな人形を撮影している男性が言う。よく見ると、人形には手足が4本ずつ。顔も二重になっている。隣に木製の椅子が置いてあるところは、不自由展と一緒だ。

《平和の二少女像》

《平和の二少女像》キャプション



「どうぞ腰掛けてみてください。これは開催の直前に作家さんから連絡をいただいて、展示させて欲しいと……それで急遽加えたものです。だからチラシには名前がないんです。映像小道具や特殊メイクの会社のプロの作家さんですね。そうそう、SNSへの写真の投稿は、会期が終わるまではお控えいただけますか。最近のSNS、どこからどんな抗議が飛んでくるか……作家さんたちを巻き込みたくないんです」

 黒衣の人物の説明に私も耳を傾ける。

「他の作家さんは、こちらの釣崎清隆さんを除いて、プロはほとんどいません。私が様々なところで知り合った方たちです」

「風船おじさんはお元気ですか?」思い切って聞いてみた。

「ああ、今日はおられないのですがお元気ですよ。これが作品です」

風船おじさん作品

風船おじさんキャプション

「たぬきは?」

「たぬきの作品はこれですね。ステートメントにも書きましたが、最初に企画した時点では40人と2匹に展示を依頼したんです。いろいろありまして、半分くらいになってしまいました。たぬきは残ってくれたんですが、もう1匹は逃げちゃった」

たぬき作品・キャプション

「もしかして、あなたが隅石亜蘭さんですか?」

「ええ、私が展示の責任者です」

「なごやトリエンナーレの他の企画もあなたが?」

「おや、まだ自由流襟座或さんにはお会いしてないのですね。いいえ、私は自由流さんではありません。自由流さんや他のなごやトリエンナーレの人はこの展示にはあまり関わっていないんですよ」

「もしよろしければお話聞かせていただけないでしょうか?」

その間にも次々と観客が入ってくる。頃合いを見計らって、隅石氏は快く質問に答えてくれた。

企画者の話

 「何の話でしたっけ? そうそう、なごやトリエンナーレの他の企画は超芸術監督の自由流襟座或さんです。でもこの展示は私の企画なんです。私は隅石亜蘭という偽名で汎芸術監督を名乗っています。

 長く名古屋に住んでいて、歴代のあいちトリエンナーレも4回くらい観てきたんですが、あいトリの時期に他になにか展示でもなんでもやれたらいいなとずっと思っていたんです。なんとかナーレという名前で——」

 「あいトリをディスっているのではなくて?」

 「ええ、反対や対抗の意図はありません。賑やかしみたいなものです。

 それで、以前からの知り合いの作家さんたちに声を掛けたんですが、その際、名古屋アナキズム研究会という、政治思想系の団体も誘ってみたんです。このアナキズム研究会が思いがけず乗り気になった。彼らが超芸術監督になって、その主導でなごやトリエンナーレが発足し、色々な政治思想系の企画が動き始めました」

 なごやトリエンナーレは“作品を作らない” というスタンスなのだから“展示をしよう”という方向にはそのまま乗れないのだろう。詳しくはご本人に聞いてください、と言いながら、隅石氏は続けた。

「だから、彼らガチ勢の傍らで、私のようなエンジョイ勢は当初考えていた展示・なんとかナーレの企画をこっそり温めていたんです」

 つまり、超芸術監督・自由流襟座或と汎芸術監督・隅石亜蘭は物質的に別人なのだった。隅石氏がきつねとかたぬきとか“信用できない語り手”とかではなく、こちらを化かそうとしているのでなければ。

おたくの筋を通す

「そこへ、ステートメントにも書いたように例の事件が起こり——」

「水掛け逮捕ですか?」

「ご存知なんですね。そのとき、被疑者について流言飛語が飛び交いました。このまま展示をしたら、呼んでいた作家さんたちも攻撃されるかもしれない。それで展示はいったん諦めたんです。 

 同じ時期に起こったのが表現の不自由展の中止でした。これに関しては、私も一介のおたくとして(編注:ここでは、“おたく”と“オタク”のニュアンスが使い分けられている。おたくは、80年代に宅八郎が命名した意味での元祖おたくである。オタクは、現在一般に使われている意味である)思うところがあった。“エログロ大好きサブカルクソ野郎”として考えざるを得なかった。今回の展示で、釣崎清隆さんの、死体写真をわざとゴミ袋に入れた作品がありますね。あのように、“グロい”物、自分の大事に思ってきたものが、これからどんどんゴミ袋に入れられていくと思うんです。

 “サブカルクソ野郎”やオタクたちが、不自由展の支持者に“首くくれ” なんてリプを飛ばしてる。そんなことやってたら自分に返ってくるよ、と言いたかった。

 私の理想とするオタクって、“おたく物知りですねえ” “いえいえ、おたくこそ”って、お互いを尊重できる人たちなんです。マウントを取り合ったり、ましてや相手の存在を否定するような人たちになって欲しくないんです。

 また“サブカルクソ野郎”とかおたくの趣味って一般的な方たちからは眉をひそめられたり、時には攻撃の対象とされることさえあります。

 感情の発露だけで展示を潰せるなら、いずれ私たちの好きなものは全てヤられるでしょう。だから、私は表現の不自由展の是非や手段はともかくとして、潰すべきではないと考えます」

萎縮と偽名

 「それで、潰された不自由展の問題に対する隅石なりのアンサーの気持ちで、リスクはあるがやはり展示をやろうと思った。なごトリ内の企画ですが、なごトリとは別の責任者を立てる設定にしたんです。ちょうど、作品を作らないなごトリと作品を作るなんとかナーレ、つまり“名古屋砂漠推進派”と“もともと名古屋は砂漠だよ派”がケンカ別れしたっていう裏設定も思い付きました」

 なんとかナーレはなごやトリエンナーレの一部だが全ての原理原則を共有するわけではない、と表明するためのフィクションなのだろう。名古屋が砂漠という話が気になるが、とりあえず先を聞こう。

 「あいトリ内の不自由展と似た立場かなと思っています。これは後から気がついたんですが、なごトリが結果的にあいトリのネガになってるんです。なごトリをあいトリとしたら、なんとかナーレの萎縮展は不自由展ですね」

 隅石氏はパソコンを開き、なごやトリエンナーレのサイトからなんとかナーレのページを開いた。

 「萎縮展のステートメントは私が書きました。設定は脚色していますが、嘘は書いてません。モンティ・パイソンや『銀河ヒッチハイク・ガイド』みたいな、大真面目にふざけた文章を考えました。

 参加作家の名前は、ほとんどが私の付けた偽名です。本名は、釣崎さんと自称・室伏さんとさっきご覧になった《平和の二少女像》の相蘇敬介さんくらい。これは、作家を守るという意味もあるけれど、言いたいことを言えない雰囲気 、つまり萎縮を表現したかった。実際、展示して叩かれる事はほとんどないと思ったけれど、見当違いで感情的な攻撃を受けるケースは水掛け逮捕でも不自由展でも散々見たし、今後どこでもありうることでしょう。この展示では、“偽名”というのがコンセプトとして重要なんです。

 ステートメントの署名の隅石亜蘭というのはアラン・スミシー、アメリカの映画監督の名前が元ネタです。それも、映画監督が何らかの事情で本名を出せないときに名乗る名前、あるいは責任逃れの名前なんです。他のもそれぞれ元ネタがある。調べてみてください。面白いんですよ(編注:文末参照)」


アートシーンは閉鎖的?

 「なごトリにはアートの専門家は実はいないんです。だからみんな、ステートメントを書いたり活動しながら調べました。

 萎縮展の参加作家も、アートの素養は特にない人がほとんど。アートについては私も詳しいわけではない。このような企画も初めてで、勉強中です。」

 この特設書棚は、と隅石氏は売り場の一角を指した。

 「この棚の本は、自分の勉強の過程や、問題意識の表現でもあります。アート関係の本だけではなくて……たとえばこの『テコンダー朴』。桜井誠の帯文がついてますね。これは、日本人はクソ、と言い募る韓国人を過剰に戯画化して右も左もおちょくった漫画です。みんな読んでみたいけど、買うのは絶対イヤ、という本でしょう。

 今の“アート業界”って、なんだかアートの言葉を他に伝わるように言い換えようとしないと思うんです。ステートメントにも書いたのですが、アート=神、キュレーター=シャーマンのようだと私は考えています。神々はただのオブジェになり、その神性は見えなくなり、シャーマンは口を閉ざしてしまい神の世界はやがて閉じられた。アートの言語を民衆に伝えられず、一方で民衆はアートに一方的な信仰を持っている。

 “アートは感じたままでいい”とか言ってたら、みんな感じたまま電凸するようになってしまった。観る側にも、キャプションを読む習慣があまりない。まあ、現代アートがわかりにくいと言われる理由には、抽象が多いということもあると思います。今回のあいトリも抽象が多かった。そこへ、《平和の少女像》とか昭和天皇の写真を燃やすなどの具象がポンと入ってきたらこういう反応になった、という面もあると思う」

名古屋砂漠を巡って

 なごやトリエンナーレとなんとかナーレ=萎縮展の経緯やスタンスの違いがなんとなく見えてきた。声明文やインタビューにもあったように、なごやトリエンナーレは現状の袋小路に“砂漠”を対峙させる名古屋砂漠推進派。それに対し、先程隅石氏の言った、もともと名古屋は砂漠だよ派とはどういう意味だろう?

 「目指さなくても名古屋は、もともと砂漠です。不毛なんです。そこに蜃気楼に過ぎないかもしれないがアートや文化を打ち建ててるんだ、それを守ろう、というのが、なんとかナーレの立場です」

 そういえば、名古屋の鳥瞰図の上に壊れたおもちゃが散乱している作品が展示されていた。

 「名古屋は80年代にオリンピックを誘致して、最後の最後で負けたんです。五輪が来るものとばかり思って、名古屋五輪の歌まで作ってたのにね。鳥瞰図の上にあるレコードがそれです。場所とか予算とか、色々なものがそこで宙吊りになってしまった。それで腹いせみたいに国際デザイン博を誘致した。“デザイン都市・名古屋” を夢見て。でも、開催したところでデザインが根付く訳もないし、収益的にも大失敗でした。この鳥瞰図はその頃の名古屋です。今の名古屋は、そのときの夢をまだ見ているんです」



《素晴らしき新世界》

《素晴らしき新世界》キャプション

水掛け逮捕事件から裁判公演 へ

 「そして、水掛け逮捕事件の資料がこちらです」

 やはり、なごやトリエンナーレの立場からすると、あくまでも“資料”であって作品ではないようだ。

 「自称・室伏良平」と書かれたキャプション札の隣に、勾留中に書かれた獄中通信・『結束』や、勾留理由開示請求などの書類が無造作に置かれたり、壁に貼られたりしている。墨塗りの新聞もある。勾留中に読む新聞は、被疑者自身の事件に関する記事を塗りつぶされてから渡されるのだという。例のバケツと雑巾も展示されていた。証拠品として押収されたときのままだという雑巾は、かすかな異臭を放っている。

 それらの間に、事件を巡ってツイッターにあふれた言説のプリントアウトがばら撒かれている。ツイート主の名前は黒いマジックで塗りつぶされていた。

『結束』紙

バケツ

ツイッター

 萎縮展会場の出口にビラが置かれていた。この展示は数日でおしまいだが、この後なごやトリエンナーレは裁判公演を予定しているようだ。「裁判所がなごやトリエンナーレのメイン会場になる」という室伏氏の言葉が現実になるらしい。

裁判ビラ

 既視感のある構図だ。『エイリアンVSアバター』だろうか。と思ったら、DVDも置いてあった。

DVD




 「裁判の話は、他のなごやトリエンナーレの人たちに聞いたほうがよいでしょう。せっかくですから、水掛け逮捕事件の救援をやった人たちのお店にも行ってみてください。自由流さんも来ると思います。私の話とはまた違った話を聞けるかもしれません。「Queer+s 」というバーです。ここからすぐです。マスターが喜ぶでしょう。先日たぬきが行きましたが、だいぶ気に入ったとみえてまだ帰ってこない。鍋にでもされてなければいいんですが。後で私も晩御飯を食べに行きますよ」   

 初対面の者に話を聞かせてくれた隅石氏に礼を言い、私は教えられたバーに向かう。

      

続く(編注:Queer+sに行くという報告を最後に、きつねとは連絡が取れない。食われていないことを祈りたい)


編注

雑誌:『情況』2019年夏号「謎の団体を解剖する!」および大野左紀子氏の論評「受動的“自由”の拒否から立ち上がる世界への“強制”」参照。


偽名:萎縮展の参加作家の名前について編集部で調べたところ以下がわかった。

【隅石亜蘭】アラン・スミシー。アメリカで1968年~99年、映画制作中に映画監督が何らかの理由で降板してポストが空席になったり、何らかの問題で自らの監督作品として責任を負いたくない場合にクレジットされる偽名。使用には厳密な規定があり、全米監督協会による審査・認定のもとに使用されていた。

【矢立筆】矢立肇。サンライズのアニメーション作品企画部が用いる共同ペンネーム。

【東堂ひずゐ】東堂いづみ。東映アニメーションが用いる共同ペンネーム。

【空毎そ・そ・そ・そ】空母そ・そ・そ・そ。庵野秀明の別名義。

【ごんべ】名無しの権兵衛のことと思われる。 ゲーム「いっき」の主人公としても有名。

【ジョン・スミス】小説などの創作作品において登場人物がジョン・スミスと名乗る場合、それが暗に偽名であることを示していることもある。

【クワトロ・バジーナ】『ガンダム』の登場人物シャアの別名。シャアはガンダム歴においてよく偽名を使う。

【ハラルト・シュテュンプケ】架空の人物。架空の生き物「鼻行類」を解説した書籍『鼻行類』の著者。中の人はドイツの動物学者ゲロルフ・シュタイナー。

【八腕三郎】八手三郎。東映映像本部テレビプロデューサーの共同ペンネーム。

【足塚藤雄】足塚不二雄。藤子不二雄として知られる藤本弘と安孫子素雄が活動最初期に一瞬使用していた共同ペンネーム。

【ニコラ・ブルバキ】架空の数学者。主にフランスの若手の数学者集団のペンネーム。

【モーゼス・ベン・ヨハイ】架空の人物。ワシントンD.C.在住のユダヤ人。『ミシェル・ド・ノストラダムスの未来記』の著者。監修の飛鳥昭雄の作とされる。

【沼止三】沼正三。小説『家畜人ヤプー』により知られる覆面作家。

【行方未知】ジャン・ド・ベール(Jean de Berg)『イマージュ』(1956)の翻訳者。著者の正体は小説家アラン・ロブ=グリエと結婚した女優カトリーヌ・ロブ=グリエ。翻訳者・行方未知は不詳。菅原孝雄とか生田耕作とか言われている。

【刈々博士】狩々博士(かりがり ひろし)。『ドグラ・マグラの夢 覚醒する夢野久作』(三一書房 、1971)の著者。本名の斎藤幸男名義ではボルヘスの翻訳がある。他に斎藤博士のペンネームがある。