月兎研究会

餅つきと日本の月のうさぎ

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1. 日本における月のうさぎの起源


月に兎がいるという文化はアジアの各国で見られます。日本もその例外ではありません。詳しい年代は定かではありませんが、日本では飛鳥時代ごろに、中国か高句麗から月のうさぎが伝わった可能性が高いようです(飛鳥時代に作られた天寿国繍帳という工芸品のとばりや、金銅灌頂幡という仏教用具に玉兎と壺の模様が施されています)[1]。


ただし、中国の伝統と異なり、天寿国繍帳と金銅灌頂幡にはカエルが描かれていません。日本では、6世紀に作られたと考えられている珍敷塚古墳から、カエルと共に月らしき円い模様(本当に月を表しているかは不明)が描かれた壁画が見つかっていますが、うさぎは描かれていません[1]。また7世紀の玉虫厨子という工芸品にも月像が描かれていますが、残念ながら模様がはっきりとせず、カエルがいるかどうかはよくわからないようです[1]。なぜ飛鳥時代の月の図にカエルがいないのかはよくわかりませんが、もしかしたら、遼の月像で論じたように(詳しくは中国における月のうさぎ参照)、中国の周辺には、月のカエルという文化が浸透していない地域があったのかもしれません。その場合、飛鳥時代の日本には、中国から直接ではなく、朝鮮半島を経由して月のうさぎが伝わった可能性が高そうですが[1]、そのあたりの事情はよくわかりません。単に飛鳥時代の人々はカエルが好きではなかっただけかもしれません。ただし、奈良時代以降になると、日本の月像にもうさぎとカエルが描かれるようになります[1]。


2. 餅つきと月のうさぎ


 2.1. 中国の月のうさぎと不死の仙薬との関係性


以上のように、日本における月のうさぎの伝わりかたやカエルとの関係性は興味深いテーマです。しかし、それにもまして日本の月文化として重要なことがあります。それは、日本では月のうさぎは餅を搗いていると考えられているということです。玉兎の本場中国では、兎が搗いているのは餅ではなく不死の仙薬です。中国で玉兎が広まった漢代の画像石には、「西王母(せいおうぼ)」という仙女の眷属として、玉兎が仙薬をくわえていたり、臼と杵で搗いていたりする図柄が見られます[2,3]。兎以外に、ヒキガエルや九尾の狐も西王母の眷属として描かれることが多いようです[3]。

中国では不老不死を求める「神仙思想」という考えが古くから信仰されており、西王母はその神仙思想における仙女とみなされています。西王母の本来の姿は、多くの研究があるにも関わらずよく分かっていません[4]。中国古代の地理書である「山海経」からは、西王母は崑崙山(こんろんさん)という山に住み、豹の尻尾や虎の歯を持つ、怪物のような存在であることが分かります[2,5]。この西王母が、神仙思想が高まるにつれ、怪物から次第に崑崙山の仙女になっていきました。崑崙山は中国では死者が昇る聖なる山と考えられていることから[3]、西王母にも徐々に仙女の性格が加えられていったのでしょう。

それではなぜ、月のうさぎと西王母が結びついたのでしょうか。はっきりしたことは分かりませんが、西王母は仙女だけでなく、月神としての性格も兼ね備えているようです[4]。そのため、月の中にいると考えられている兎とヒキガエルが西王母の眷属になったのかもしれません。

もう一つの考え方として興味深い点は、西王母が住むとされる崑崙山のいくつかの特徴(天地を結び、四つの川の水源となっているなど)には、インドの聖なる山である須弥山(しゅみせん)との共通点が見られるということです[6]。そのため、決定的な証拠こそないものの、インドにおける須弥山の観念が漢代以前から中国に伝わっている可能性があるそうです[6]。そして、その須弥山には、ジャータカで月に兎の絵を描いたインドラ(帝釈天)がいると考えられています。このことから、もし本当に崑崙山の観念に須弥山が影響を与えたならば、インドラと月のうさぎの関係(詳しくはインドにおける月のうさぎ参照)が崑崙山の西王母にも取り入れられたと考えられるのではないでしょうか。

では、玉兎と仙薬の関係はどうでしょうか。単純に西王母が神仙思想における仙女になったため、眷属の玉兎が不死の仙薬を作るようになったとも考えられますが、ここでひとつ重要な研究報告があります。それは、漢代の画像石の図柄を詳しく調べてみると、玉兎の他に「羽人」という羽の生えた仙人が不死の仙薬を作っているということです[2]。そして、この羽人は大きな耳を持っており、兎と姿が似ているのです。さらに、前漢時代の図像では、兎は月を表すものでしかなく、薬を作るという観念は薄いようです[2]。これらの点から論文の著者は、もともと仙薬と関係が深かったのは羽人の方で、次第におなじ西王母の従者で姿が似ている玉兎が羽人と混同されることにより、玉兎も仙薬を作るようになったのではないかと指摘しています[2]。もしかすると、月のうさぎが西王母と結びついていること自体も、羽人と混同されたことが原因なのかもしれません。

ただ残念ながら上述したように、西王母の起源や仙女になっていく過程、外来の文化の影響というようなことはよくわかっておらず、インド文化との関係も含め、さらなる研究に期待したいところです。例えば、インドの祭祀では、神々に不死をもたらすとされる「ソーマ」がインドラに捧げられていました[7]。この思想は西王母と不死の仙薬との関係に似ています。聞一多の指摘によれば、中国の神仙思想は、西方に住んでいた羌族(きょうぞく)の風習がもとになっているようです[8]。この説は確定的ではないようですが、神仙思想と西王母の発展に関する研究がさらに進めば、月のうさぎについても多くが明らかになると思われます。


2.2. 日本の月のうさぎと餅つきとの関係性

ここまで玉兎と不死の仙薬の関係を見てきました。それではなぜ、日本では月のうさぎが餅を搗いていると考えられるようになったのでしょうか。一般的には、十五夜の満月を意味する「望月」と「餅」がかかっているからという説が知られているようですが[9]、他にもいくつか考えるべき点があります。日本で月のうさぎが頻繁に取り上げられるのは、十五夜のお月見の時ですが、興味深いのは、お月見の時に団子ではなくサトイモが供えられる風習があるということです[10]。サトイモは焼畑農業で作られていた一般的な作物であるらしく、西日本や中国南部の焼畑を行っている地域の文化は「照葉樹林文化」と呼ばれ、稲作が伝わる以前の文化として注目されてきました[11,12]。そして、この照葉樹林文化圏では、餅が積極的に利用されていることが報告されています[12,13]。餅性の穀物を用いる地域というのは、日本以外では東南アジアや中国南部、台湾、韓国あたりに限られているらしく、その理由としては、焼畑農業で古くから栽培されていたサトイモのような粘性の高い食べ物が好まれたためではないかと指摘されています[12,13]。

中国では唐の終わりから宋の時代にかけて、十五夜に収穫祭の性格が備わってきたようです[14]。そして、この照葉樹林文化圏に住んでいるミャオ族やヤオ族の村々では、八月十五夜の日に、イモや餅を月に供えて収穫祭が行われていることが報告されています[15]。日本でも、中国の古典に影響を受け、徐々に宮廷文化として行事化されていったお月見が、室町時代のころから収穫祭として庶民の間に広まっていきました[14,16]。以上のことを考えると、日本では杵と臼で搗くものしてすぐに連想されるのは、薬ではなく餅であったみたいです。特に庶民にとっては、その傾向が強かったのではないかと思われます。

また、昔から日本では、餅は生命を更新・再生させてくれる特別な食べ物とみなされ、さまざまな儀礼(いわゆるハレの日)で食されたり、神様に捧げられたりしてきました[17]。このような餅の性質は、インドのソーマや、中国の仙薬と極めて類似しています。つまり「中国では仙薬を搗いていた月のうさぎが日本では餅を搗くように変化した」というよりも、「日本では餅に仙薬のような役割もあった」といえるのではないでしょうか。


2.3. 日本の月のうさぎはいつから餅をつきはじめたのか (詳細については筆者による文献[26]を参照)

それでは、月のうさぎの餅つきという日本の文化は、いつ頃から広まったことなのでしょうか。筆者の知る範囲でうさぎと餅つきの関係がはっきりと書かれた一番古い記録は、18世紀から19世紀にかけて活躍した、戯作者の式亭三馬が書いた「都もちおばあ団子」という広告文です[18]。この広告の冒頭に「遠からんものは餅つくうさぎの耳にも聞け」という文章があり、餅つきとうさぎが結びついていることが分かります。この広告文は1804年に式亭三馬によって刊行された「狂言綺語」という書物に収録されています[18]。また、少し後になりますが、1820年に初演を迎えた歌舞伎の演目「玉兎月影勝」に「三五夜中の新月の 中に餅つく玉兎」という歌詞があります。これらの記録を考慮すると、1800年ごろにはすでに、月のうさぎが餅をついているという考えは世間に広まっていたとみてよいのではないでしょうか。残念ながら、いまのところ筆者は、月のうさぎと餅つきの関係を示したこれより古い資料を把握していません。そのためここからは、図像による間接的な方法で、うさぎの餅つきが始まった時期を考えてみたいと思います。

冒頭で述べた通り、月にうさぎがいるという文化は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていることが、天寿国繍帳などの図柄からわかります。しかし、それらの図をよく見てみると、月のうさぎが搗いているのは臼というより、壺や瓶のような形をしています。この壺のような容器は、平安時代や鎌倉時代の月像にも登場しています(図1 b)。このような形状をした容器は、餅を搗くための道具には見えません。おそらくこれらは、中国の思想をそのまま取り入れているためと思われます(詳しくは中国における月のうさぎ参照)。さらに仏画の世界では、壺のような容器も消え、ただその場にいるだけのうさぎの図も登場しています(図1)。詳しい時期はわかっていませんが、平安末期にはインドのジャータカが基になった兎本生譚(詳しくはインドおける月のうさぎ参照)が収められた「今昔物語」が成立したと考えられています(今昔物語の兎本生譚は、インドから直接ではなく、唐の時代に玄奘によって書かれた大唐西域記の中の本生譚によって、間接的に日本に伝わったと考えられています[19])。何もしていないうさぎの図柄が仏画に現れたのは、もしかしたら宋代における中国の月像の変化に加えて、今昔物語や大唐西域記などによる仏教説話の影響もあるのかもしれません。このように、飛鳥時代から室町時代までの月像を見る限り、どうも室町時代以前の日本では、月のうさぎは餅をついているという考えは希薄なようです(少なくとも社会に広く浸透してはいなさそうです)。


図1 (a): 東寺十二天屏風月天像(平安) [20] (b):三井寺尊星王像(鎌倉) [21] (c):不動愛染感見記(鎌倉)[22]に見える月のうさぎ。室町時代以前の日本の月のうさぎは、臼ではなく壺と一緒の図(b)や、その場にいるだけのうさぎの図(a,c)が多い。

しかし、これが江戸時代になると状況が一変します。17世紀(1600年代)の後半になると、書物の中に、臼で何かを搗いている月のうさぎの図が登場してくるのです。これらの図は構図が共通していて、端に桂樹(木犀)があり、中心に杵を握って臼を搗いているうさぎが立っています(図2)。この構図は、宋代以降の中国の玉兎像を取り入れているのだと思われます。例えば、明の時代に出版された「三才図会」に、そっくりな玉兎の図が掲載されています(図2) (十二章という、皇帝だけが使うことのできるシンボルを紹介した項目にこの図があります)。そして、日本で出版された「和漢三才図会」にも、月の記述の部分にこの図が掲載されています(図2)[23]。

図2:1609年に明で出版された三才図会(国立国会図書館蔵)と、日本で出版された和漢三才図会[23]および、1781年版宝暦大雑書の月のうさぎ。17世紀の後半から18世紀後半にかけて、日本の玉兎が搗いている臼が、中国の図像のような側面が直線上のものからくびれた臼に変化していく。ただし、この傾向は絶対ではなく、元禄10年(1697年)版十体千字文絵抄(早稲田大学図書館所蔵)では、くびれた臼を搗くうさぎの図が描かれている。

このような、臼を搗くうさぎの図が最も頻繁に使用されているのは、日本では「大雑書」と呼ばれる書物です。大雑書というのは、生活における縁起や占いなどを記載した書物の名称で、江戸時代に多種多様な版が出版され、家庭に広まっていきました。さまざまな種類が出版されている大雑書は、江戸時代の月のうさぎを考察する上で非常に重要な資料です。そして、大雑書を含めた江戸時代の玉兎像を見ていくと、17世紀後半から18世紀前半では、臼の側面が直線状になっている図が多いのに対し(ただし、早稲田大学図書館所蔵の元禄10年(1697年)版十体千字文絵抄はくびれた臼)、18世紀の中頃から徐々にくびれの入った臼が多くなっていきます(図2,3)。日本では、穀物用の臼の場合、くびれた臼が伝統的な形で、側面がまっすぐな臼(胴臼)が使われ始めるのは江戸中期以降だということです[24]。17世紀後半にも直線の臼は作られていたようですが、それは洗濯や染物で布を叩くための臼のようです[25]。しかし、日本の月のうさぎは臼の歴史とは逆で、18世紀前半までは直線上の臼、それ以降になるとくびれた臼を搗いています(図3)。この食い違いの原因はなんなのでしょうか。


図3: 江戸時代の月のうさぎたち。17世紀後半から18世紀前半では側面が直線の臼が多いが、18世紀の後半になると、徐々にくびれた臼や木目のある臼の図に変化していく

はっきりとは断言できませんが、筆者はこれこそまさに、日本で月のうさぎが餅を搗きだした始まりなのではないかと考えています。上述したように、江戸時代の玉兎像は中国の影響を受けている可能性が高いのですが、仙薬を搗く中国のうさぎは、側面が直線の臼(石の臼?)を使っています(図2)。江戸時代の玉兎が初めのうち直線の臼を使っているのも、この中国の図像をそのままの形で取り入れたからではないでしょうか。場合によっては、本を書いた人自身は、月のうさぎは仙薬を搗いているという中国の文化を知っていたのかもしれません(ただし大雑書の中には、うさぎが薬を搗いているという説明はありません)。しかし、書物が徐々に世の中に広まるにつれ、本の絵を見た人々は自分たちの生活との関連から、月のうさぎは餅をついているのだと解釈するようになり、18世紀の中頃にもなると、うさぎの餅つきが当たり前の考えになったのではないでしょうか。そして本を出版する側のほうも、その後の版になると、日本伝統のくびれた臼へ絵を変化させたのではないかと推測できます。

 


これ以降の資料を見てみると、一度くびれ臼に変わったあとは、明治に到るまで、月のうさぎはくびれた臼を使っています。ただし18世紀中頃から、側面が直線の木臼が、実社会での餅つきで使われるようになるため、それに合わせたように、直線の木の臼(絵に木目が入っている)を搗いているうさぎの絵も見られます(図3)。

 


以上のことから、「いつ月のうさぎが餅を搗いているという文化ができたのか」という問いに対しては、18世紀の前半あたり(今から300年ほど前)ではないでしょうか。ただし、この考えはあくまでも臼の形から推測した間接的なものにすぎませんし、筆者が確認した資料も限られた数でしかありません。実際、前述したように、元禄10年版十体千字文絵抄ではうさぎはくびれた臼を搗いています。今後もし新たな資料が見つかれば、さらに詳しい考察が可能になると思います。(追記:月のうさぎの餅つきに関して、もう少し詳細な考察を文献[26]で行いました。)

 




(参考文献)

[1] 西川明彦 日像・月像の変遷 正倉院紀要16号 (1994).

[2] 小川博章 玉兎考-月の兎はどこから来たか 書籍文化 5, 5-22, (2003).

[3] 曽布川寛 崑崙山への昇仙 中公新書.

[4] 森雅子 西王母の原像:中国古代神話における地母神の研究 史学 56, 61-93, (1986).

[5] 山海経 平凡社ライブラリー.

[6] 荒川紘 須弥山と崑崙山 Katachi 形の文化史9 所収 工作舎.

[7] 辻直四郎訳 リグ・ヴェーダ讃歌  岩波文庫.

[8] 袁珂 中国の神話伝説 上 青土社.

[9] 吉野裕子 十二支 易・五行と日本の民俗 人文書院.

[10] 郷田洋文 年中行事の地域性と社会性 日本民俗学体系7 所収 平凡社.

[11] 佐々木高明 日本文化の基層を探る ナラ林文化と照葉樹林文化 NHKブックス.

[12] 佐々木高明 照葉樹林文化とは何か 中公新書.

[13] 阪本寧男 モチの文化誌 中公新書.

[14] 陳馳 平安時代における八月十五夜の観月の実態 歴史文化社会論講座紀要 15, 1-18, (2018).

[15] 竹村卓二 華南山地栽培民文化複合から観た我が国の焼畑儀礼と田の神信仰 民俗学研究 30, 311-328, (1966).

[16] 濱田文 中村充一 観月宴の成立 東京家政学院大学紀要 38, 47-68, 1998.

[17] 渡部忠世 深澤小百合 ものと人間の文化史89 もち(糯・餅)  法政大学出版局.

[18] 式亭三馬著 八巻俊雄編著 江戸の名コピー集 第2作 狂言綺語 牧歌舎.

[19] 池上洵一 今昔物語集の世界 中世のあけぼの 以文社.

[20] 東京国立博物館 特別展 国宝 東寺-空海と仏教曼荼羅 図録.

[21] 国宝 三井寺展 図録.

[22] 神奈川県立歴史博物館 特別展 鎌倉の日蓮聖人 ー中世人の信仰世界ー 図録.

[23] 寺島良安 (訳注)島田勇雄、竹島敦雄、樋口元巳 東洋文庫447 和漢三才図会1 平凡社.

[24] 三輪茂雄  ものと人間の文化史25 臼(うす) 法政大学出版局.

[25]人倫訓蒙図彙 第6巻国立国会図書館蔵 (https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444?tocOpened=1)

[26] 庄司大悟  月のうさぎはいつどのようにして餅をつき始めたのか     地質と文化 第4巻 第2号,  42-56 (2021).  (PDFリンク).


(最終更新日: 202193日)