月兎研究会

中国における月のうさぎ

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1. 中国における月のうさぎの起源


アジアの玉兎文化において中心的な役割を果たしてきたのは、何と言っても中国です。そもそも「玉兎」という月のうさぎの名称自体、西晋時代の傳玄が擬天問の中で「月中、何かある、白兎薬を搗く」と詠じたことから、玉のような色をした白兎が玉兎になったといわれています[1]。唐の時代には、詩人たちが、玉兎のことを詩の中で取り上げるようになりました[1]。


中国における月と兎の関係を示す有名な書物は、戦国時代の屈原が書いたとされる「楚辞」です[2]。そのなかの天問に「厥の利維れ何ぞ, 而して顧菟腹に在り(何のよいことがあって,顧菟は月の中にいるのだろう)」という一文があり、このなかの顧菟(こと)がうさぎのことだと考えられてきました。もし本当に、顧菟がうさぎならば、中国では紀元前4-3世紀ごろには、月のうさぎが知られていたことになります。


しかし、このとき一つ注意しなければならないことがあります。というのも、中国の古典学者である聞一多(ぶんいった)が、顧菟はうさぎではなくヒキガエル(蟾蜍=せんじょ)のことを指していると指摘しているからです[1,3]。聞一多説によれば、蟾蜍の蜍と兎の読み方が似ているため、月に兎がいると考えられるようになったようです。じじつ中国では、兎と共にヒキガエルも月の生き物として、古典や伝説の中で、長い間語り継がれてきました。


中国ではっきりと月のうさぎが確認できるものは、1970年代に馬王堆漢墓から発掘された、帛画(絹の上に描かれた絵)です(図1)。この帛画には、三日月と一緒にヒキガエルと兎の図柄が施されています。馬王堆漢墓は長沙国の丞相だった利蒼の墓であることが判明していることから、仮に楚辞の顧菟がヒキガエルを表しているとしても、紀元前2世紀には、月のうさぎが中国で知られていたことが分かります。


図1: 馬王堆漢墓の帛画の一部(紀元前2世紀)

インドでは紀元前6世紀ごろすでに、月のうさぎがバラモン教の思想の中で語られています(詳しくはインドにおける月のうさぎ参照)が、中国の玉兎はインドから伝わったのでしょうか。それとも、2つの場所で独立に発生したのでしょうか。聞一多はヒキガエルを表す顧菟が、兎と混同されることで、月のうさぎが誕生したとしていますが、仮に顧菟がヒキガエルだとしても、後の時代にインドから月のうさぎが中国に伝わった可能性もあります。


馬王堆漢墓の帛画の年代を考慮すると、もし月のうさぎが中国に伝わったならば、それは仏教伝来やシルクロード開拓以前である可能性が極めて高くなります[4]。残念ながら、玉兎文化の伝搬に関する記録はありませんが、シルクロードの開拓以前における、中国と西方の国々との交流を示す記録や出土品ならばいくつか残されています。


まず、司馬遷による史記の大宛列伝には、月氏の匈奴討伐への協力を取り付けるため、張騫が西方に赴くと、大宛の人々は漢のことを知っていて、貿易を望んでいたと書かれています[5]。さらに張騫は、大夏(バクトリア)の市場で邛の竹杖と蜀の布を見つけ、それらがインドから仕入れられていることを知ります[5]。つまり、張騫が遠征を行う以前から、詳しいルートは分からないものの、インドを含めた西方の地域と中国は何らかの形で交流していたようなのです。また、中国にははるか昔より、西方から玉がもたらされ、崑崙の玉として珍重されていますし[6]、インドとは少し場所が異なりますが、アルタイ山脈のバジリク古墳群からは中国産の絹織物が出土しています[7]。バジリク古墳群の年代ははっきりとは分からないものの、紀元前5-4世紀、一部が紀元前3世紀と見積もられており、張騫の遠征以前であることは確かなようです[7]。


これらの記録や出土品から、中国にはシルクロード開拓以前から、西方との交流があったと考えられるのではないでしょうか。だとすると、月のうさぎもまた、西方の文化として中国にもたらされたのかもしれません。中国の地方文化を詳細に分析したエバーハルトも、月のうさぎは中国の外から入ってきた観念ではないかと推測しています[8]。もちろん、聞一多が指摘しているように、音の類似によって中国国内で玉兎が生まれた可能性も否定はできません。


中国では漢代になると、身分の高い人たちの墓室の石に、様々な模様が施されるようになりました。これらの石は画像石と呼ばれ、当時の文化を知る手がかりとなっています。そして、画像石の中には、玉兎が描かれているものも複数存在しています[1,9]。また、漢代の鏡にも玉兎の紋様が施されていることから[10]、起源がどうであれ、中国で月のうさぎが広まったのが漢代であることは確実なようです。文献に月のうさぎが登場するようになるのもやはり漢代からで、前漢の学者である劉向が書いたとされる「五経通義」に「月中に兎と蟾蜍と有るは何ぞ」月に兎がいることが述べられています[11]。さらに、後漢の時代になると、張衡の「霊憲」や王充の「論衡」も月のうさぎのことを言及しています(ただし、王充は月にうさぎがいることには否定的です) [12,13]。

図2: 新莽墓壁画(1世紀)

2. 中国における月のうさぎの変化


前漢時代、カエル(樹が加わる場合もあります)とともに姿だけが描かれていた月のうさぎ(図1)は、後漢ごろになると、次第に崑崙山に住む「西王母(せいおうぼ)」という女神の眷属として、杵と臼で薬を搗くようになります(図2)。それ以降、カエルと一緒に月にいる図や、月ではなく西王母の傍にいる図など、様々なバリエーションの図像が作られるようになりますが、西暦500年ごろから徐々に、図3のような中心に桂樹(木犀の樹)を配置し、その左右にカエルとうさぎを描くという構図に固定化されていきます(北魏時代の石棺に、桂樹の左にカエル、右に薬を搗くうさぎがいる図が見られます[14])。そして、この図像は唐の時代に入ると、鏡や絵画に盛んに現れるようになり、日本でも奈良や平安時代の月像として用いられています。また、月のうさぎは詩にも取り入れられ、例えば李白は「把酒問月」という詩で、”白兎薬を搗きて秋復た春”と詠っています。

図3: 月宫嫦娥故事紋銅鏡(唐代)

しかし、唐が終わって宋の時代に入ると、中国の月像に一大変化が起こります。それまで中心に立っていた桂樹が端の方により、代わりに薬を搗くうさぎが中心に描かれるようになるのです(図4)。そして何よりも大きな変化として、宋以降、月の中にカエルが描かれなくなっていきます。漢の時代以来、中国の月像には、カエルが単独で描かれるか、うさぎが描かれる場合でも、一部をのぞいて、カエルが一緒に描かれてきました[1]。つまり、宋より前の中国では、月の生き物の主役はうさぎではなく、どちらかというとカエルだったのです(唐代では両者並存)。それが、宋以降になると、月の中の動物はうさぎだけになってしまいます。

図4: 銅鏡(宋代)

© The Trustees of the British Museum. (CC BY-NC-SA 4.0)

なぜ宋代にカエルが描かれなくなったのかについてはよくわかりません。特別深い理由などなく、単にうさぎだけの図のほうが好まれただけかもしれません。ただ、ひとつ興味深い資料として、2003年に内蒙古自治区の吐爾基山遼墓から見つかった牌飾(はいしょく)とよばれる装飾品があります(図5)。宋の北部に存在した遼という国で作られたこの装飾品には、中央には桂樹が、右下にはうさぎが彫られていますが、おもしろいことに、桂樹の左下はカエルではなく、刃物のようなもので木を切ろうとしている人の姿が彫られています(図5)。図録の解説によると、この人物は「呉剛」という人物だと考えられているようです[15]。呉剛というのは、月の神話に出てくる人の名前で、唐代に書かれた「酉陽雑俎」という書物によると、呉剛は仙術を学んだが過失を犯したため月に流され、月の木を切らされているようです[16]。そして酉陽雑俎には、呉剛は西河という現在の山西省あたりの出身であるということが書かれています[16]。

図5: 月宮伐桂紋銀牌飾(遼代)[15]. 中央の桂樹の右下にうさぎ、左下に刃物で木を切る呉剛の姿が彫られている。

 呉剛が西河の出身だと考えられているということ、そして、遼の墓から呉剛の姿が彫られた装飾品が見つかっているということを考えると、もしかしたら北部の国々では中国とは異なる月の文化(神話)があり、宋の時代になってそれらの地域からの文化が入ってくることによって、月のカエルという従来の文化は希薄になってしまったのかもしれません。


これはあくまでも推測であって、正直、一点の資料だけからここまで論じるのは強引かもしれません。しかし理由は別にあるとしても、いったんカエルが消えると、それ以降の中国では清の時代にいたっても、桂樹と薬を搗くうさぎという構図の図像が用いられていきます。この変化は日本の月像にも影響を与えたらしく、平安時代にうさぎのみの月像が仏画に現れるようになります(詳しくは餅つきと日本の月のうさぎ参照)。





(参考文献)

[1] 小川博章 玉兎考-月の兎はどこから来たか 書文化 5, 5-22, (2003).

[2] 早川清孝 新釈漢文体系 楚辞 明治書院.

[3] 貝塚茂樹  中国神話の起源 角川文庫.

[4] 池上洵一 今昔物語集の世界 中世のあけぼの 以文社.

[5] 司馬遷 史記8 ちくま学芸文庫.

[6] 栄新江 敦煌の民族と東西交流 東方書店.

[7] 川又正智 漢代以前のシルクロード 雄山閣.

[8] W・エバーハルト 古代中国の地方文化 華南・華東 六興出版

[9] 曽布川寛 崑崙山への昇仙 中公新書.

[10] 西村俊範 三角縁神獣鏡の二・三の問題について 京都学園大学人間文化学会紀要 (35), 61-96, (2015).

[11] 芸文類聚訓読付索引1  大東文化大学東洋研究所.

[12] 科学の名著2 中国天文数学集 朝日出版社.

[13] 山田勝美 新釈漢文体系 論衡 中 明治書院.

[14] 蘇哲 魏晋南北朝壁画墓の世界 白帝社.

[15] 大辽五京: 内蒙古出土文物暨辽南京建城1080年展 図録 首都博物館編 文物出版社.

[16] 段成式 今村与志雄訳注 酉陽雑俎1 東洋文庫382 平凡社.


(最終更新日: 202193日)