月兎研究会

インドにおける月のうさぎ

Home       インドにおける月のうさぎ       中国における月のうさぎ       餅つきと日本の月のうさぎ       サイト作成者

月のうさぎの関する古い話で、最もよく知られているのは、インドの仏教説話「ジャータカ」に含まれている兎本生譚(ササ・ジャータカ)です。

ササ・ジャータカでは、帝釈天がバラモンの姿となって,かわうそ,ジャッカル,猿,ウサギのそれぞれに施しを求めた際,差し出せるものが何もないウサギが,自分の体を焼いて施しにしようと火に飛びこみます。そして、この行為を讃えた帝釈天が,月面に山の汁でウサギの姿を描き、天へと帰って行きます[1]。この話がいつ作られたのかについてははっきりとはしませんが、ジャータカに含まれるいくつかの説話の原型は紀元前3世紀ごろに成立したと考えられており[2,3]、かなり古いことが分かります。のちにこの兎本生譚は、唐の僧である玄奘によって大唐西域記に取り入れられ、それが日本にも伝わり今昔物語のなかにも収録されています(今昔物語への影響は文献[4]が詳しくまとめています)。


しかし、月のうさぎに関する最古の記録はジャータカではありません。仏教成立よりも前、紀元前6世紀ごろに作られたと考えられ[5]、バラモン教の祭祀を記した、ブラーフマナとよばれる文献の中にも、月にうさぎがいるという記述が見られます。


ジャイミニーヤ・ブラーフマナの「月の中の兎の物語」には、「月の中にあるものは兎である。何となれば、月は万物を支配するからである」と書かれていますし[6]、また、シャタパタ・ブラーフマナにも「月の中の兎」という記述があります[7]。このように、インドでは、月のうさぎは極めて古い時代から、バラモン教の伝統を通して語り継がれてきたことが分かります。実際、ササ・ジャータカでは、帝釈天はバラモンに化けて動物たちに近づいており、バラモン教の考えが仏教説話であるジャータカのストーリーに影響を与えたのではないでしょうか。


兎を月の生き物とした理由は何なのでしょうか。ジャイミニーヤ・ブラーフマナの訳には原語(サンスクリット語)で兎のことを「シャシャ」といい、支配するを「シャース」ということが書かれています[6]。つまり、月が万物を支配(シャース)することと、兎(シャシャ)の単語の類似が、両者を結びつけている要因となっているようです。サンスクリット語では、月のことをシャシン(兎を持つ者)とも呼ばれることがあると、訳者は述べています[6]。


古代インドでは、月は祭祀を行う目安となっており、ブラーフマナ文献にも満月や新月の祭祀のことが詳しく述べられています[7]。インドに限らず、月は古代の人々にとって重大な関心事だったようで、多くの地域で月が「死と再生」または「豊穣」のシンボルとなっていることを、ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデが報告しています[8]。欠けて消滅した後、再び現れるという月の性質が、生死の問題はもちろん、植物の生育とも対応づけられたようです。月が万物を支配するという考えは、バラモン教をはじめ古代のインドにとって大事な思想だったのでしょう。兎も繁殖力が強いことから、豊穣のシンボルとなり、似たような意味をもつ月と関連するようになったという考えも、兎と月を結びつける有力な説となっています[3,9]。


古代インドでは祭祀の際、ソーマという興奮飲料が用いられました。このソーマは、インド神話において、インドラ(仏教では帝釈天)に活力を与えるとされ、また、月の神とみなされています[10]。ソーマの原料については分かっていないようですが、インドの聖典「リグヴェーダ」には、ソーマは植物を圧搾して作られるという記述があります[10,11]。ジャータカでは、帝釈天が山の汁で月に兎の模様を描いていますが、これももしかすると、ソーマとの関連があるのかもしれません。さらに、兎は先祖を喜ばせる食物の一つと見なされていたようで[12]、火に飛び込んだ兎の話も、祭祀における供儀のような風習が影響しているのではないでしょうか。先ほど紹介したジャイミニーヤ・ブラーフマナには、月のうさぎの物語の続きが次のように語られています(筆者はサンスクリット語が読めないので、英訳版[13]を引用します)。


"He is a hare (sasa-) who is dwelling in the moon. For he controls (sasti) all here. He is Yama who is dwelling in the moon. For he restrains (yamayati) all here. Yama named the one who will devour, forsooth, is Death. Having appeased him with these oblation he wins urj among the worlds and the god Yama among the gods. To union with the god Yama and co-existence in his world he ascends who offers the agnihotra knowing thus."  (文献[13] 81ページより)


この文章の最初の部分は日本語訳[6]にも書かれていますが、英訳版[13]ではそれに続いて、月にはヤマという死を司る神がおり、"アグニホトラ"という火を用いた供犠を行えば、ヤマ(死)を克服できると述べられています(アグニホトラなどを含めた古代インドの祭祀の詳細については文献[11]に詳しく述べられています)。ジャータカを作った人は、このようなバラモン達が行うアグニホトラの要素を物語に取り入れたのだと思われます。


言語(シャシャとシャース)とシンボルの意味(豊穣)のどちらが先なのか、またどのようにして両者が関連づけられていったのかは不明ですが、とにかく月のうさぎの起源としては、インドが有力な候補地であることは確かです。文献以外には、紀元前180年ごろ作られたと考えられているインドのコインの中に、月と兎の模様が施されたものが見られます(図1)[14,15]。

図1:インドのコインに施された兎の図. Fabri (1935)より.

(参考文献)

[1] 中村元監修・補注 松村恒・松田慎也訳 ジャータカ全集4 春秋社.

[2] 岩本裕 インドの説話 紀伊國屋新書.

[3] 荒川紘 月の影-なぜウサギに見えたのか 形の文化史[9]芸道の形 所収 工作舎.

[4] 池上洵一 今昔物語集の世界 中世のあけぼの 以文社.

[5] 後藤敏文 インド・アーリヤ諸部族のインド進出を基に人類史を考える 国際哲学研究  3 (2014).

[6] 辻直四郎編 世界古典文学全集〈第3巻〉ヴェーダ・アヴェスター 筑摩書房.

[7] The Satapatha-Brahmana Part V Translated by Julius Eggeling.

[8] ミルチャ エリアーデ エリアーデ著作集 第二巻 豊穣と再生 宗教学概論2 せりか書房.

[9] 石田英一郎 人間と文化の探求 文藝春秋.

[10] 辻直四郎訳 リグ・ヴェーダ讃歌  岩波文庫.

[11] 阪本(後藤)純子 生命エネルギー循環の思想:「輪廻と業」理論の起源と形成. (RINDAS伝統思想シリーズ, 24) 龍谷大学現代インド研究センター (2015).

[12] 引田弘道 Markandeya Puranaにおける祖霊祭(中)  愛知学院大学文学部紀要 (1988).

[13] Bodewitz, H. W. Jaiminiya Brahmana I, 1-65: With a Study - Agnihotra and Pranagnihotra (Asian Studies). Brill Academic Publishers.

[14] Fabri, C. L. The Punch-marked Coins: A Survival of the Indus Civilization. Journal of the Royal Asiatic Society 67, 307-318 (1935).

[15] Cribb, J. The origins of the Indian coinage tradition. South Asian Studies 19, 1-13 (2003)


(最終更新日: 2021年1月1日)