産総研に入所した2018年から、私はsub-THz帯(0.1~0.3 THz)の電磁波と水系生体材料との相互作用から生まれる現象に着目した研究を行ってきた。比較的高強度での発振が可能なsub-THz帯の電磁波と極性分子との強い相互作用を積極的に活用し、生物・化学反応を制御しようというアイディア自体は古くから存在するし、そう思ったことがある人は多いと思う。私がこの研究を始めたきっかけは、生物機能の謎をどうにか分子科学の言葉で説明したいという意欲から辿りついたというのが本音である。
私はこの研究を始める以前、RNA polymerase(RNAP)というDNAの遺伝情報を転写してRNAを合成する酵素の研究をしていた。正確には、この酵素をモデルとして使い、生物の分子マシンが高いfidelityで化学反応を行う分子機構を調べていた(今も調べている)。生物にとって、遺伝情報の読み誤りは全システムの破綻に繋がるので、いかにfidelityを維持するかは本質的課題である。RNAPによる転写の読み誤りは10万に1回程度しか起こらない(NAR2013, Genome Biol 2015)。しかし、生物の分子機能で利用できるエネルギーは kBT付近であり、ナノサイズ・水溶媒なので、RNAPは周囲の水分子の熱揺らぎに激しく晒される。ということはRNAPによる転写反応には、熱揺らぎを妨げるのではなく、巧みに偏らせて利用する分子機構が存在するはずである。生物の化学反応が起こる水溶液の熱揺らぎを考えた場合、生体高分子周りでは、水分子の運動が水和によって大きく不均一になる。タンパク質の場合は疎水性空洞や表面の電荷の配置で水素結合ネットワークに個性を作り出せるのが面白く、これが水素結合の揺らぎを偏らせて機能発現に利用する正体にも見える。そこで、水素結合の揺らぎのような曖昧な記述に対して、時空間的に不均一な水分子の運動モードの概念を導入する必要があると考えた。そして、これらの分子運動の多くの時間領域と周期が対応するTHz帯の電磁波を強度や周波数などの条件を変えて照射し、生体高分子周りの水素結合の揺らぎに摂動を与えるアプローチを考えた(下図)。
生体高分子を含む水系に照射したTHz波は水に強く吸収され、照射エネルギーは急速に熱エネルギーに変換される。このため、熱的な応答が観測されて終わりというのが、この実験アプローチに対する大方の予想である。しかし、生体反応へのTHz波照射によって、温度上昇からは説明できない非熱的な応答が観測されたとする。すると、生体高分子を含む水系の水素結合ネットワークにTHz波と選択的に相互作用できる「何か」や、照射エネルギーが急速に熱エネルギーに変換されない「何か」があるはずである。そのような「何か」を見つけ出し、その中身をしぶとく調べることで、熱揺らぎを利用する 生体分子機能のブラックボックスを分子科学の言葉で説明できるチャンスが生まれる、と期待した。
照射実験を行う時点では、高周波と物質の相互作用における微視的詳細はあまり難しく考える必要はない(というか、考えてわかることは限られる)。あくまでも現象の精密な測定を行い、温度上昇で説明できる現象か否かを徹底的に検証する。どうしても温度上昇で説明できない現象が観測された場合に、現象から得られたヒントを手がかりに、中身をじっくり吟味する次のステップに進む(実際にやってみると、温度上昇とは質的に逆のsub-THz照射作用が複数の実験で観測されたことには驚きである。Biophys J 2021, Nature commn 2023)。
このようなアプローチを通して得られた現象を説明していく学問を「テラバイロジー」と名づけてみたが、この考え方自体は複雑な生物現象を対象とする学問に古くからある。遺伝子型に変異という摂動を与え、表現型の変化を観察して遺伝子の機能を調べる遺伝学の考え方と基本的には同じではないかと思っている(下図)。生物現象のブラックボックスの中身を調べる手段として、適切な摂動を与えて系の応答を調べるアプローチ以外にあるのだろうか。
私たちの研究から、sub-THz波照射による生体高分子水溶液への非熱的作用は、試料がもともと非平衡状態(水和構造の形成が遅く、測定のタイムスケールで平衡に達していない状態)にある場合に観測されることが示唆された。水和と関係する遅い平衡緩和は、試験管内に限ったことでない。細胞の分子過程にこそ沢山あると予想している。これら非平衡状態の水溶液おける観測結果が、 sub-THz波と水和水の分子運動との相互作用でわかり始めた核心部分と感じている。
これまで主に、溶媒(水和構造)の平衡緩和に対する sub-THz 波照射の影響を調べてきた結果、現象としては説得力のある知見が得られてきた。2025年の現在、これを新しいバイオロジーとして深める段階に入ったと感じている。まず、この平衡緩和への照射効果が、生化学反応における溶媒効果(生化学反応と同程度か、それ以上に遅い)の変化として機能に現れるかについて調べている。