RNA ポリメラーゼは、細胞内でゲノムDNAの塩基情報をRNAに転写するタンパク質酵素です。地球上の生物の遺伝子発現は、この「転写」と呼ばれる分子過程から始まります。RNAポリメラーゼがDNA上を移動しながら転写反応を行うとき、読み誤りは10万回に1回程度しかおこりません (Imashimizu et al., NAR 2013)。熱揺らぎを利用するしかない状況で、これほど正確な化学反応を行う分子機構は大変面白いのですが謎です。この分子機能の謎を説明するため、生体高分子が持つ電荷や極性・疎水性表面から色々な摂動を受けて空間・時間的に不均一化している水分子達(水和水と呼びます)の集団的な運動を捉えようとしています。水和水を含め、水溶媒のダイナミクスを空間的・時間的に均一と考えると、この仕組みを説明できないからです。
生体高分子の水溶液にサブテラヘルツ(sub-THz, ~ 0.1 THz-0.3 THz)周波数領域の電磁波を高強度で照射すると、水分子の回転運動や生体高分子の振動運動と相互作用します。その直後、特定の分子の運動が受け取った照射エネルギーは急速に熱エネルギーに変換されます(熱緩和)。この熱緩和のタイムスケールに対して、生体高分子の大きな構造変化や、それに起因する化学反応は桁違いに遅いため、sub-THz波は熱と同じ作用しか化学反応に及ぼさないというのが大勢の見方でした。しかし、生体分子機能を生み出す分子反応過程は複雑で一般的にはよくわかっていません。その素過程のタイムスケールが元々とても短い可能性や、緩和時間が元々とても長い相互作用に照射エネルギーが入り込む可能性もあります。もっともありそうなのは、照射中の生体高分子水溶液の再水和に遅い平衡緩和があり、その再水和のタイムスケールを決めるポテンシャル障壁が照射によって変化する可能性です。他にも、印加したsub-THz波のコヒーレントな性質によって、滑らかな形状の分子のエネルギー分布が少しいびつになったり、高強度のsub-THz波を印加して系を非平衡状態にした時に起こる分子振動の位相凝縮(フレーリッヒ凝縮)と関係しているのかもしれません。実は、上に書いた可能性は全て背後でつながっていて、1つのシンプルな概念から引き出されるものかもしれません。
とにかく、sub-THz電磁波によって分子運動が励起されてから熱に変換される間に起こる緩和過程の変化の観測から、そういった分子機構を知るヒントが得られるはずで、色々挑戦してみると面白いことがわかってきました。これまでに、sub-THz照射に依存した配向分極の時間変化を高感度で調べられる誘電分光法を開発し、タンパク質リゾチームの結晶粉末を水と混合し、再水和による水分子集団とタンパク質の時間変化を調べました。すると、通常の加熱では見られなかったタンパク質と水の相互作用が徐々に変化する様子が捉えられてきました(Nature commn., 2023)。照射によるタンパク質ダイナミクスの変化の観測にも成功しています (Biophys J 2021) 。
それから、sub-THz照射に依存した転写反応変化をDNAシーケンサーでハイスループット検出し、その作用を統計的に評価する手法も開発しました。Sub-THz波を適切な条件で水溶液中の転写複合体に照射すると、複数の転写反応過程が変わり、単なる昇温では説明できない現象が得られてきました(この現象の計測と解釈には自信がありますが、すぐに信じてもらえないので、後で投稿する予定)。このような面白い現象の背後にある分子機構を説明するための学問はまだ確立されていませんから、テラバイオロジーという新しい学問に挑戦しています。