「意味の大海へ――推薦の言葉に代えて」(澤田治美)
澤田治美先生に執筆いただいた「推薦の言葉」を掲載します.
意味の大海へ――推薦の言葉に代えて
澤田治美
本書『言語における意味』は、Alan Cruseの名著Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford University Press, 2011)の日本語版である。このたび、新進気鋭の言語学徒である片岡宏仁氏の訳業を通して、東京電気大学出版局からすぐれた日本語版が刊行されたことに喜びを禁じえない。多くの読者が本書を読んでことばの意味に興味を抱いていただけることを願っている。
言語やコミュニケーションにとって最も興味深いテーマの一つが、「意味とは何か」ということである。例えば、「あなたの言っていることの意味がわからない」と言う時の「意味がわからない」は、しばしば「納得できない」に等しく、「そんな意味で言ったんじゃない」と言う場合には、「発言の意図は別のところにある。誤解しないで欲しい」と訴えている。乳幼児の泣き声にもちゃんと「意味」がある(「おなかがすいた」、「眠たい」など)。こうしたことから考えてみると、意味が私たちの「心」のありようと深く結びついているかがわかる。古くは、「情(こころ)」という語に「意味」という意味があった。
本書は、4部構成となっており、第1部は言語学の基本概念を、第2部は語の意味を、第3部は文法の意味を、そして、第4部はコンテクストの意味、すなわち、語用論を扱っている。例が豊富に挙げられ、説明が丁寧でわかりやすい。以下、本書を読んで筆者が啓発された点を幾つか挙げてみたい。
まず、二重目的語の意味に関する個所がある。第3部の14.6.3節で二重目的語構文が論じられている。 よく知られているように、構文文法では、文法構造は意味と直接結び付いているとみなされている。
次の例を比較してみよう。
(1) Mary showed her mother the photograph. (=二重目的語構文)
(メアリーは母にその写真を見せた。)
(2)Mary showed the photograph to her mother (but her nearsighted mother couldn’t see it). (=前置詞与格構文)
(メアリーは母にその写真を見せた(しかし、母は近眼でそれが見えなかった。)
(Goldberg 1995: 33)
(1)は二重目的語構文であり、(2)は前置詞与格構文(すなわち、前置詞のtoを用いた構文)である。Goldberg (1995: 35)によれば、(1)の二重目的語構文の場合には、「メアリーの母が実際にその写真を見た」という含意があるが、(2)の前置詞与格構文の場合には、必ずしもそのような含意はないという。すなわち、クルーズが述べているように、(1)においては、間接目的語(=her mother)は直接目的語(=the photograph)の「受け取り手」(recipient)でなければならない。この場合、写真を見たということは、写真の被写体を(目で)「受け取った」ことになると考えられる。
こうした観点から、次の日本語の例を考えてみたい。
(3)
a. 太郎は上司に{手紙/年賀状/辞表/メール}を書いた。
b. *太郎は花子に{卒業論文/原稿/日記/覚書}を書いた。
(3)の両文が英語の二重目的語文に相当する「AにBをVする」という構文であると想定した場合、V(=動詞)として同じく行為動詞「書く」が用いられていても、適格性に違いがある。すなわち、手紙、年賀状、辞表、メールなど、特定の人物に宛てて書く(あるいは送る)ことが前提となっているような物を書く場合には適格であるが、卒業論文、原稿、日記、覚書、など、必ずしも特定の人物に宛てて書く(あるいは送る)とは限らないような物を書く場合には不適格である。こうした問題は、構文の問題(すなわち、文法の意味)であるとともに、すぐれて語の意味の問題(本書第2部で詳述されている)でもある。
また、本書第3部の第20.1.2.1節では、次の例が論じられている。
(4)
A: Have you cleared the table and washed the dishes? (食卓の片付けと食器洗いはもう終わったの?)
B: I’ve cleared the table. (食卓の片付けはね。)
(5)
A: Am I in time for supper? (夕食、まだ大丈夫?)
B: I’ve cleared the table. (もう食卓片付けちゃったわ。)
クルーズによれば、意味論的には、“I’ve cleared the table.”という一つの意味しか持たない表現でも、語用論的には、文脈しだいで様々な解釈を受けるという。すなわち、(4)では、話し手B(例えば、テレビを見ている娘)は、話し手A(例えば、母親)の問いに対して、食卓の片付けだけは終えたが、言外に「食器洗いはまだ済ませていない」と答えている。一方、(5)では、話し手B(例えば、妻)は、話し手A(例えば、夜遅く帰宅した夫)の問いに対して、言外に、食卓は片付けてしまったから、「もう夕食はない」、すなわち、「今頃帰宅してももう遅い」と答えているのである。
このようなやり取りは日常会話では日常茶飯事である。私たちのコミュニケーションにおいては、海面に浮かぶ「口にされた意味」(=文字通りの意味)だけでなく、海面下にある「含まれた意味」(=言外の意味)が重要な役割を果たしているのである。
一口に「意味」といっても、実はいろいろな内実を含んでいる。では、「人生の意味」とは何であろうか。それをつきつめようとすれば、問題は、ことばを超えてその人の置かれた状況へと広がっていく。ことばの意味を氷山にたとえれば、海面に浮かぶ「文字通りの意味」は氷山全体の6分の1ほどで、残りの6分の5は海面下にある。海面下とは、発話の場面であり、事柄の背景であり、その人の置かれた状況であり、社会であり、そして、人生である。
『夜と霧』は、ユダヤ人としてアウシュビッツ強制収容所に囚われ、奇跡的に生還したウィーンの精神医学者V. E. フランクルの生々しい体験記である。彼はある夜、灯りのない収容所で、極限状況に置かれた仲間の囚人たちに話をする機会を得た時、次のように語った。「人の命は常にいかなる状況のもとでも意味をもつ。そして、命の存在の無限の意味は苦悩と死をも含むものである」。『夜と霧』は私たちに意味の底知れぬ深さを教えてくれる。
言葉は大海原である。それは深く、広く、時に大きく姿を変える。本書を携えて、読者の方々と共に意味を求める航海に乗り出したいものである。
引用文献
Goldberg, Adele E. (1995) A Construction Grammar Approach to Argument Structure. Chicago: The University of Chicago Press. (河上誓作・早瀬尚子・谷口一美・堀田優子訳 (2001) 『構文文法論――英語構文への認知的アプローチ』研究社)