高津駅と高津寮:57年目の想い出感傷徘徊

高津駅と高津寮:57年目の想い出感傷徘徊

まちもり散人(伊達美徳)

大学に入学して、最初に住んだのが学生寮で、川崎の高津にありました。1年生はここに入り、寮から高津駅まで歩き、大井町線で大岡山まで通学しました。

ですから、ここは遠くの各地から大学に入学してきた学生たち、しかも貧乏な学生たちが、初めて関東で暮らすところでした。

わたしがここに入ったのは、1957年の3月末からでした。わたしが育った家は、幼稚園から高校まで歩いて直ぐでしたから、生れてはじめて定期券を持って通学するのは、都会の大人になったような気がしました。

でも、それは1学年だけで、2年からは大学キャンパス内の寮に移ったので、また徒歩通学に戻りました。

高津寮は、大井町線高津駅から南東へ1キロ余、畑の中にポツンと、木造2階建ての寮室棟と、付属の木造平屋の食堂と舎監宿舎棟がありました。

(実は、こう記憶していたのですが、寮同期生から指摘があり、食堂棟はあったけど舎監棟は無くて、舎監ではなくて管理人が寮室棟の一部に住んでいたのでした。わたしの記憶のいい加減さを改めて知りました)

当時の川崎郊外は長十郎梨の産地であり、寮のまわりは一面の梨畑でした。収穫の秋のひところは、寮の中は梨の香りに満ちていました。一生分くらい梨を食ったような気がします。

それでも、いや、だからこそ、今も梨を大好きです。まわりの梨作農家のお方に、お礼とお詫びを申し上げます。

ここに、1955年、1966年、2014年の、高津寮があったあたりの航空写真があります。1955年はまさに梨畑の中ですが、10年後にはほぼ住宅地になり変わっています。

1955年高津寮(赤色円の中心)あたり

1966年の高津寮(黄色円の中心)あたり

2014年の高津寮(赤色円中心)あたり

さて、それから57年経った2015年の秋の日、その日の朝刊に、田園都市線宮崎台駅に、東急が経営する電車とバスの博物館があり、そこに高津駅の昭和30年代の姿を復元展示してある、近いうちに改装するので休館する、との記事を見ました。

そうか、あの生れて初めて定期券なるものを持って乗り降りしたあの駅のあの当時の姿か、なつかしや、今見ておかないともう見られなくなるとて、突然に思い立ってその博物館に出かけたのです。

で、これがその博物館にある復元展示の高津駅の姿です。

うーむ、こうだったかなあ、ここは室内ですから何とも雰囲気が違いすぎて、昔の姿を思い出せませんが、こうだったのでしょう。

わたしは鉄道マニア、鉄っちゃんではないので、鉄道模型やら電車やらいろいろ展示してありましたが興味がわかなくて、高津駅だけしげしげと見ました。

玉電がありました

外に出るとまだ陽は高い、それならついでに本物の高津駅に行ってみるか、そして高津寮まで歩いて行ってみようかなと、思いつきました。

5月初めにやった腰椎圧迫骨折がまだ治りきっていないのですが、歩くこともリハビリになるでしょう。

57年ぶりに降りた高津駅は、もちろんすっかり変わっています。高架駅になっています。昔のホームが一本で踏切を渡って改札に出るのとは大違いです。

今の高津駅の姿

さて通学に歩いた国道の府中街道に出ると、これまた沿道はビルに埋め尽くされて、昔のひなびた風情は全くありません。

高津駅を降りて南東方向へ

振り返れば高津駅の高架

うろ覚えの記憶の風景とは全く異なるので、本当にこの道だろうかと思いつつ、そこは都市計画が専門ですから地理的方向感覚には自信はあります。道筋は昔と変わりがないはず、このあたりで曲がればよいのだが、と思えどどうも分らない。

うまいことに交番がありました。こんにちは、50数年前の学生寮を探しているのですが、というと、いくらなんでもそりゃ訊かれても無理ですな、ごもっとも、では地図を見せてください。地図をしげしげと見て見当を付けたら、すぐ近くでした。まあまあ良かった。

交番の地図で見当をつけた高津寮の位置(赤色円)

高津駅を背にして国道を歩いてきて、南二子というバス停のすぐ向うから左に横道を入ります。

その交差点あたりには、中高層の共同住宅がたくさん立ち並び、その一階にはコンビニ店があります。あ、そうだ、その位置だったかに、田舎のなんでも屋のような店があったなあ、そうそう、クジラのベーコンなんて物を買った記憶があるなあ。

この信号の先を左に入る

その横道を入って15mほど歩いて、また右に路地に入る。昔の面影はないが、道の具合から、ここだったような気がします。

路地の右手に3階建の古い鉄筋コンクリート共同住宅があります。この建ち方は昔の寮室棟と同じだなあ、木造寮舎を壊して建てたのでしょう。

奥に空き地の駐車場があり、そこは食堂棟があった場所にちがいない、そう、たしかにここです、うん、うん、ここにちがいない、。

路地を入れば左は分譲共同住宅らしい、右奥に大学職員宿舎

右の宿舎等の位置に寮室棟が建っていたか、奥の空き地は食堂跡駐車場

食堂跡地の駐車場から振り返る

敷地入口の通り抜け禁止掲示に大学名が書いてあるのを発見

駐車場で少年が3人遊んでいたので、ここは東工大の宿舎かと聞いたら、そうだと教えてくれました。また宿舎から降りてきた女性にも聞いたら、そうであるとのこと、そうか、あの寮はこうなっているのであったか。

まわりには、びっしりと戸建てや共同ビルの住宅が埋め尽くしています。宿舎の外階段を3階まで登って見回しましたが、もちろん梨畑はどこにも見えません。

職員宿舎の外部階段3階から北西を見る

梨畑はなかったが柿畑を見つけた

また、とぼとぼと府中街道を高津駅に戻ります。通学していた頃とは大違いの大交通量で、うるさく空気が悪い。

高津駅の高架ホームに登り見回せば、北東に二子玉川駅周辺再開発の超高層ビル群が見えます。また南東の寮がある方向を見ると、屋根屋根ビルビルで、今や梨畑の影も形も見えません。

高津駅ホームから二子玉川の再開発ビル群を見る

高津駅のホームから高津寮方面を眺める

ということで、梨畑の青春の日々の風景は、田畑と畦道がそのまま住宅地になった乱雑な街の中に埋もれたのでした。

センチメンタルミニジャニ―、う~む、腰が痛くなったなあ。(2015/09/16)