『新安理學先覺會言』解題
『新安理學先覺會言』は明代の韓夢鵬が編輯したものである。韓夢鵬、字は鳴起、代々、徽州の黟県に居住する。生卒年月は詳らかではない。その学術活動は、主に明の嘉靖と萬暦の時期である。『安徽通志』藝文考・子部提要の説くところによれば、当該書籍は明刻本であるが、しかしながら目下のところ考証が無い。わずかに安徽省博物館蔵の民国時期安徽通志館に伝わる抄本1册が現存するのみである。
『新安理學先覺會言』は全2巻あり、第1巻は新安同志会約の序文である。当時、心学と陽明学が盛んに行われていたため、郡には郡会があり、邑には邑会があり、更には、一家一族に至るまで、会を持たないものはなかった。しかしながら、会約の序を作る者は、たいていは心学を鼓吹する大家たちであった。たとえば、王守仁、湛若水、鄒守益、王畿、劉邦采、祝世禄、潘士藻らである。『江南通志』には、「皖南の講学が盛んだった時期は、民の俗は淳朴で、三代の風があった」とあるが、これを読むと推察できる。第2巻は会を主宰した諸先生が講論したもので、例えば、湛若水、羅汝芳、王畿、劉邦采、耿定向、洪垣らがいる。彼らは、四書・五経を取りあげて、その大義を明らかにしたり、性命天道を掲げて、微言を闡明したり、倫理紀鋼を命じたり、世間話を語ったりしたが、「これを読む者たちは、油然として孝悌の心が生まれた」。該書に出てくる人物や、講論の内容から見ると、16世紀中期の陽明心学の徽州における伝播と隆盛の状況が反映されているのが分かる。
宋明時期の徽州は、もっぱら「朱子の故郷」や「程朱の闕里」と呼ばれたように、程朱学が徽州にあって非常に高い地位をもっていた、そのため、明清の徽州地方の文獻資料に在っては、たとえば『新安学系録』や『紫陽書院志』などのように、一般には陽明学が徽州において伝播された情況はまったく記載されていない。しかしながら、『新安理學先覺會言』は、それに反して、心学の主要で代表的な人物たちが徽州で著した会序や発表した講演が詳しく記載されていて、[このことは]陽明心学が徽州で伝播し、隆盛した情況を反映しており、[そのことからも]陽明心学が当時の徽州の学術の主流であったと説くことができる。これは、この時期の徽州の学術の方向性を研究するには、一つの得がたい貴重な資料である。
他にも、現在、目にすることのできる『新安理學先覺會言』は、唯一の手抄本であり、それ故、整理点校して出版することは、非常に重要な価値があり、一定の文献的意義がある。
(解光宇『新安理學論綱』安徽大学出版社 2013)
訳注掲載誌
①陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の一」『白山中国学』通巻28号、2022
②陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其のニ」『白山中国学』通巻29号、2023
③陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の三」『白山中国学』通巻29号、2023
④陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の四」『白山中国学』通巻30号、2024
⑤陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の五」『白山中国学』通巻30号、2024
⑥陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の六」『東洋古典學研究』第58集、2024
⑦陽明後学会語研討会「韓夢鵬『新安理學先覺會言』訳注 其の七」『東洋古典學研究』第59集、2025