聶豹 じょうひょう (1487~1563)
【聶豹(じょうひょう)】1487~1563、字は文蔚、号は雙江、諡は貞襄、江西永豐の人、正徳十二年進士。
進士及第後、一旦郷里に帰省し、正徳十五年に華亭知県に赴任した。この時、生員であった徐階が教えを受けたと言う(『聶豹集』附錄、徐階撰「明故太子太保兵部尚書贈少保諡貞襄聶公豹墓志銘」、p.635)。その後、嘉靖五年の夏に福建巡按御史に赴任する際に王守仁と初めて会ったが、この時はまだ弟子を称するに至らなかった。福建では、養正書院を建て、王守仁の初刻本『傳習錄』、湛若水の『二業合一論』を刊行して学ぶものに示したという。その後、彼は王守仁に書簡を送り教えを請うが、それに対する王守仁の答書が、現行本『傳習錄』卷中に収める「答聶文蔚」である。聶豹は王守仁が死去した後の嘉靖十年頃に、香案・神位を設けて王守仁を祀り、錢德洪と王畿を証人にして門人の礼を執ったとされる(『王陽明全集』卷三十五「年譜三」、p.1302)。嘉靖十年十月に父が死去し、喪に服した後、山西平陽の知府として起復し、ついで、陝西副使に擢せられるが、嘉靖二十五年、権臣夏言に憎まれて致仕し、その翌年の冬には詔獄に入れられた。『明儒學案』卷十七「江右王門學案二」(p.370)に拠れば、この時に独自の良知「帰寂」説を確固たるものとしたと言う(先生之學、獄中閒久靜極、忽見此心真體、光明瑩徹、萬物皆備。乃喜曰、「此未發之中也、守是不失、天下之理皆從此出矣。」及出、與來學立靜坐法、使之歸寂以通感、執體以應用。)。
しかし、「良知」は「未發之中」であり、「致良知」とは静中において「未發之中」を予養することであるとする彼の「帰寂」説は、例えば、『明史』本伝にも指摘するように、王守仁の説とはかなり異同がある(及繫獄、著『困辨錄』、於王守仁說頗有異同云。)のは事実で、同門から痛烈に批判されることとなった。聶豹の「帰寂」説に向けられた批判の観点は、彼自身が「答東廓鄒司成四首」(『聶豹集』卷八、p.262)にまとめている(『明儒學案』にも引用されている)。
なお、荒木見悟氏は聶豹の「帰寂」思想について、「陽明学の後退」と論ずる(「聶双江における陽明学の後退」、『陽明学の展開と仏教』、研文出版、1984、pp.35-62)。だた、黃宗羲が指摘するように、同門の中でも羅洪先は彼の「帰寂」説に深く契合し、『困辨錄』のために「序文」「後序」を書いている(『羅洪先集』卷十一「困辨錄序」、pp.471-2、同「困辨錄後序」、pp.472-4)。「良知」の解釈をめぐって、彼の帰寂説と対極の関係にあるのが、王畿の「現成」説であった。両者の議論の詳細は、福田殖「王龍渓と聶雙江――『致知議略』における良知論争――」(『宋元明の朱子学と陽明学』、研文出版、2016)、小路口聡「王畿『致知議略』精読」(『東洋大学中国哲学文学科紀要』17、2009)を参照。
彼の逝去後、王畿が「祭聶雙江文」(『王畿集』卷十九、p.568)を書いているが、両者の交友にまで踏み込んだ内容ではない。ちなみに、聶豹はその晩年に、北虜南倭への対応で無力をさらし批判を集めたことが諸書に記されている。例えば、『明史』本伝によれば、聶豹はもともと臨機応変の才を欠くにもかかわらず、同郷の嚴嵩や門人の徐階の推薦のおかげで皇帝の信任を得ることとなり、嘉靖三十二年に兵部尚書に任ぜられ、ついで翌年には太子太保を加えられた。だが、倭寇が猖獗をきわめる情勢下で、中味の無い上奏を繰り返す彼の無能さに気付いた嘉靖帝は、俸禄を引下げ、三十四年二月に罷免した。聶豹の学問と直接関係するわけではないかもしれないが、軍旅にあってめざましい功績を挙げた王守仁とは正に対照的であった。
著作に、『大學臆説』、『困辨録』一卷、『雙江聶先生文集』十八卷等がある。
「陽明後学文献叢書」に、吳可爲整理『聶豹集』(鳳凰出版社、2007)が収録されている。
また、『陽明門下 上(陽明學大系第五卷)』(明徳出版社、1973)に、佐藤仁訳注「聶雙江先生文集抄」を収める。
さらに、その評伝に、吳震『聶豹 羅洪先評伝』(南京大学、2009)がある。
〔『明人傳記』914、『明史』202、『明儒學案』17〕
(鶴成久章)
訳注掲載誌
①吉田公平、小路口聡、早坂俊廣、鶴成久章、伊香賀隆、播本崇史「聶豹「会語」資料(復古書院記他)訳注:陽明門下の会語記録を読む(其の六)」『白山中国学』通巻27号、2021