第 5 回 研 究 発 表 会

2020年10月25日 @オンライン開催

前川修『イメージを逆撫でする 写真論講義 理論編』/『イメージのヴァナキュラー 写真論講義 実例編』書評

発表1:増田展大

「書評:『イメージを逆撫でする』の謎」

発表2:きりとりめでる(無所属)

「写真研究の論点:前川修『イメージのヴァナキュラー 写真論講義実例編』書評」

共同討議

司 会:倉石信乃(明治大学)

登壇者:きりとりめでる(無所属)

土屋誠一(沖縄県立芸術大学)

中村史子(愛知県美術館)

前川修(近畿大学)

増田展大(九州大学)


発表要旨

書評:『イメージを逆撫でする』の謎

増田展大(九州大学)

前川修による著書『イメージを逆撫でする:写真論講義 理論編』は、20世紀以降の主要な写真理論について討究した著作である。実際に本書の目次を開けば、各章のタイトルに錚々たる欧米の論者たちの名前が並び、それぞれの写真論について濃密かつ批判的な読解が深められていく。W・ベンヤミン、R・バルト、P・ブルデュー、R・クラウス、G・バッチェンなど、写真に限らずとも映像や美術、視覚文化を考察しようとする読者にとって、本書は古典的かつ難解なイメージ論を読み進めるための有用なガイドとなることを期待させるだろう。

ただし序論から著者自身が断りを入れるように、本書を読み進める作業は決して平易ではない。「講義」と銘打たれた副題とは裏腹に、本書に登場する理論家たちの紹介や背景は抑制されており、膨大な数の先行研究が整理されると同時に、既存の写真論については一定程度の知識が前提とされる箇所もある。また全体として、モダニズム写真による形式の純化と、ポストモダニズム写真論による文脈の重視という傾向を対比しつつ、それでいて前者の「文脈」を抉り出し、後者の「形式」を浮かび上がらせるという、交錯したアプローチが採られてもいる。

そこで今回の書評では、本書を読み進める助けとなることを目的として、特に全体の構成に着目しながら以下の点について検討してみたい。

まず、タイトルの「逆撫で」が意味するところについて、この言葉がまずもって想起させるのはベンヤミンの歴史哲学であるだろう。先に挙げたように、本書ではモダニズムに括られる写真論の再考に始まり、1980年代以降のポストモダニズム期の写真論を経て、2000年に前後して技術的進展が突きつけたデジタル写真論が続く。おおよそ時系列に並んだ議論の流れが、読みやすく配列されたものであるにせよ、どのように「逆撫で」にされることになるのか。また、本書の終章を飾るのは、ロラン・バルトの著名な写真論である。現在まで多大な影響力を残すとはいえ、そのバルトの議論が先の章立ての流れを裏切るかのように結末部分に位置づけられていることがいったい何を意味しているのか。これらの謎を出発点として、各部ごとに内容をできるかぎり拾い上げつつ検討を試みたい。

写真研究の論点:前川修『イメージのヴァナキュラー写真論講義実例編』書評

きりとりめでる(無所属)

19世紀に始まった写真の実践と、たったいま写真と呼ばれるものは、どのように連続/差異があるのか。この180年程の営みを、歯切れの良い転換点(文化、技術、デジタル)を持ち込まずに、しかし、写真が多様な支持体とともに、どう使われてきたかを軸に振り返るのが、前川修の『イメージのヴァナキュラー写真論講義実例編』(2019)である。

本書がまず取り上げた使用例は「読む」であり、最古の写真集トルボットの『自然の鉛筆』(1844-46)だ。この写真集が今まで批評家や写真史家によってどのように記述されてきたかを追いながら、本書は読者に写真分析の歴史を追体験させ、そもそも『自然の鉛筆』の読者は誰だったのかという問いを挟みつつ、写真とテキストと写真のシークエンスを読み、「写真集」がその多重に意味を衝突させる場となっていると示す。

その次には、芸術の写真として一般に美術の教養をもたらし、美術史家の研究態度を方向付けたスライドによって「投影」することを、肖像写真を「身につける」ことを、撮影し、撮影されること、名刺写真(カルト・ド・ヴィジット)を「収集・とじる」ことを扱っている。このように、19世紀を中心とした写真の使用の容態をあらわした本書は、一貫して、「使用者の身体の痕跡は澱として写真という被膜に沈着していく」という、物質としての写真が何を引き起こし得たのかを拾い上げる。そして、最終章のセルフィ分析は、これらの使用の写真史の蓄積を応用する形で展開される。

本発表では最初に、今まで/これからの写真使用の実践分析の物差しとなるだろう本書の概略を確認し、その前提条件を考察する。次に、本書のセルフィ分析を中心に、これからの写真論の論点を検討する。