ヨシの一生
一生シリーズ 第四弾
一生シリーズ 第四弾
昭和十六年九月十五日、太平洋戦争が始まって日本中が大変な年に生を受けた。
四年後終戦、四才の私はかすかにアメリカの飛行機が頭上を物凄いスピードで北へ向かって飛んで行ったのを覚えている。
父は炭焼き、母は百姓、姉や兄は中学卒業と同時に働きに他所へ行った。私は妹達を見ながら、仕事を手伝ったりしていた。学校も行くには行ったのだが家の手伝いで休みが多かった。
六年生の国語の時間、一人一人文章を読まされた。私の番になりなんとかつっかえながら読み終えた。そしたら先生が、「とても上手でしたよ」と誉めてくれた。嬉しかった。学芸会という行事もあって、一人で踊らされた。とても恥ずかしかったけど、終わってみたら拍手喝采だった。
あっという間に中学も卒業の日、将来の当てもなく「さて明日から百姓か」と重い足取りで帰って来たのだが、なんと、私を待っていた人が居た。国語の時間に誉めてくれた先生だった。座るなり「学校の小使いにならないか」、すかさず母が「ヨシ、小使いになれ」と言う。内容も聞かず二つ返事でオーケーをだした。百姓はやりたくなかったので渡りに舟である。
四月一日から自転車で勤め始まった。仕事は簡単。先生方が朝礼で集まるとお茶を出し、先生方がそれぞれ教室に向かうタイミングで掃除を開始、それが終わると特にやる事はないので庭の草取りなどして時間をつぶした。その頃はテストなどガリ版刷りで先生が下書きをした物を印刷するのは私の仕事で毎日のようにやらされた。父兄などへの連絡等もガリ版刷りである。
雨量観測は毎日八時に行った。雨は降っても降らなくても、その日の天気の様子、風向きを茨城の気象庁へ知らせる。台風の日は一晩泊まり込みで一時間毎に知らせる。
ある時、いつものように職員室の掃除をしていたら、校長の机の上に気象庁からの観測手当の明細が置いてあるのが目に入った。そこには月三千円相当の金額が記されていた。私の給料と変わらない。これは何?どういう事?私は一度も手当を貰ってないというのに。
頭に血が上ったのは言うまでもない。もうやってられない。そこにあった受話器を取り気象庁のいつもの係の人に、「明日から観測を止めます。百葉箱を引き上げて下さい」と告げた。次の日三人の若い男性が来た。「何故止める。続けて欲しい」と二時間位ねばられた。その間校長は席をはずさず成り行きを見守っていた。多分私が「お金」の事を言うのではないかと思っていたのでしょう。たとえ校長が居なくてもその事は言わない。もし続けていたら次の人が大変な思いをすると思うと、私が止めて正解だと今でも思っている。
そんなこんなで色々あったが五年後一身上の都合で退職した。
かといって百姓はなんとしても好きになれず、のらりくらり過ごしていたある日、知り合いの知り合いだという人が尋ねて来た。開口一番、内科医院の受付をやらないかと。勿論二つ返事である。住み込みだったので有り難い話である。三食は院長の奥様が用意してくれた。掃除は高校生のアルバイトが授業終了後二時間位かけて丁寧に毎日続けていた。
受け付けの仕事は先輩が一人居たので私は患者さんから保険証を受け取りカルテに住所、氏名、年齢、電話番号を記入し、診察室に持って行く。間もなく診察が終わるとカルテを受け取り、注射、薬等の計算をして料金を受け取る。
その他毎日のように小便の検査、たまに大便、痰などの検査があった。便や痰などはガラス板にうすく伸ばして先生の元へ。最悪だったのは痰である。なかなか伸びないのである。レントゲンの検査は、その頃はフィルムを現像していた。暗室で最初に現像液にフィルムを浸す。すぐにアバラ骨がくっきりと白く浮かぶ。次に洗浄液に浸し、水を切り先生の元へ。
この作業を一度間違えた。洗浄液にいきなり浸してしまったのである。何しろ暗室なので確認もしっかり出来ずだった。暗室で頭が真っ白になった。急いで現像液に浸けても後の祭り。しかしいつまでもこうしてはいられない。何も写らないフィルムを持って先生に平謝り。物凄く怒られると思っていたら「仕方ないな。もう一度取り直しをするから、その旨電話をするように」と言われた。次の日、取り直しをして事なきを得た。
注射もやらせて貰った。前のめりになって見ていたので、やってみるかと。「ハイ、やらせて下さい。」実にいい時代である。看護学校も出ていない私がすんなり実施できたのである。
夜中、お腹が痛いと救急で来た患者さんには、浣腸をと言われたのでその通りしてあげた。間もなくトイレに行きすっきりして元気に帰って行った。その患者さんは私の家と近かったので、たまに会う事がある。最初は恥ずかしそうだったけど、最近は昔通りに話が出来る。
その病院に母が胃腸炎で入院した。一ヶ月くらいで退院出来たのだが、私も病み上がりの母の手助けをしなければならなくなり、一年程の勤めでやむなく退職した。タバコを吸っていた母は病気をしてから吸わなくなった。
しばらく畑仕事などしながらのらりくらり過ごしていたある日、近所の土方の親方が土方にならないかと言って来た。母もすっかり良くなったこともあるが、百姓はどうにも好きになれずにいたので行く事にした。主に道路工事、田んぼの土手などの修復であった。知らない土地へ点々と行けるのと、車中男女半々位で乗っていたので楽しい道中であった。しかしそれも私には長くは続かなかった。あこがれの東京へ家出同然で飛び出した。
最初に降りたのは赤羽駅の西口。駅前のにぎやかな町をぶらぶら歩いていると大衆食堂の玄関に「住み込み可」の募集が目に入った。此処なら食事にも困らず寝る事も出来る。店の中へ入りウェイトレスに声をかけた。主人が出て来て面接し、すぐに次の日から働かせてくれた。客の注文を聞き厨房に伝える。出来上がった物を客に出す。実に簡単な仕事である。休日には真向かいにある映画館で過ごしたり、電車に乗りあちこち見学していた。
しばらく楽しく働かせて貰っていたある日、おかみさんから改まった顔で「息子の嫁になって欲しい」と言われた。息子は息子で、すでに私が了解済みだと思っていたのか、誰も居ない時を見計らって私にアタックして来た。タイプではなかったので、その腕からするりと抜けた。此処で一生を送るつもりはない。次の日、店の休みを利用していつものように遊びに行くふりをして店を出た。しかしそのまま二度と戻らなかった。
行く当てもなく、電車に乗り横浜駅の西口で降りた。赤羽同様、にぎやかな駅前である。ぶらぶらあるいているとパチンコ屋の入口に「住み込み可」の張り紙が目に入った。思わずチーンジャラジャラと音楽が流れている店内に入り店員に「此処で働かせて下さい」と告げた。間もなく責任者が出て来てオーケーしてくれた。此処も仕事は簡単。音楽はその頃は有線などはなく、レコードをかけていた。その係は回り番で、当番が私に回って来た日は一日ラッキーだった。好きな曲を次から次とかけた。すると責任者が来て、そういう曲ばかりではなく「バランス良く」と言う。そうかパチンコ屋に合う曲でないと客の士気が上がらないのか、と少しガッカリはしたが満足な事には変わりなかった。
ある日めがねをかけたやせ気味の男性が黒崎と名乗り声をかけてきた。「付き合って欲しい」と。笑い顔が魅力的な人だった。間もなく付き合い、同棲を始めた。しばらくしてから判ってきたことは、女好きで仕事はルーズな人ということだった。それでもすぐには別れられず妊娠までしてしまった。ろくに働きもしないので生活は苦しい。すると親を頼って里帰りすることを選び、黒崎の生まれた所、北海道へ行く事にした。
北海道の家には、行かずゴケの妹と両親が居た。とてもいい人達だった。ある日、仕事なしの私を見かねて隣の人が仕事を世話してくれた。そこは間もなく開業するという内科医院だった。病院で働いていた私を見込んでの事だった。電車で二十分位で行けるので妊娠していてもそんなに負担にはならなかった。私以外に事務員が一人いて、私は看護婦として先生の回りで滞りなく仕事をこなしていた。しかし私の体は日毎に辛くなり、お腹は大きくなるばかりで、止めざるを得なかった。
出産の為に実家へ戻る事にした。相変わらず黒崎はろくに働かなかったので、私は別れるつもりで帰ったのだが黒崎はそんな事とも知らず時々会いに来ていた。やがて長男が生まれ、続いて長女が生まれた。それでも黒崎の性格は変わらず、離婚する事にした。黒崎からは未練がましく時々電話があったが、やがて電話も来なくなった。
子供二人が小学生になり上が三年生、下が二年生になった頃、同じ職場にいた五歳下の人とお付き合いをした。母と姉が気に入って姉が仲人をしてくれて、その人を迎えた。仕事はもちろん、何でも出来るので何かが壊れても全部修理してくれた。近所の人からはうらやましがれれる程だ。安定した暮らしをしてられるのは言うまでもなく今の夫のお陰である。
感謝感謝の日々である。
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