私の名前は“いまを”。平成二十二年で九十六歳。大正三年一月二十五日生まれのうし年です。
母が言うには一年遅れで出生届をしたらしいので実年齢は九十七歳かもしれません。
当時父は若いせいもあったのでしょう。何年も家を出たまま帰ってこないという生活が続いていたのです。私が生まれた時もどこかに行ったきり。一年ぶりで、ぶらりと帰ってきたというのです。それから届けを出したというのですから、もしそのまま帰ってこなかったとしたら、私の出生記録は一体どうなっていたのでしょうか。
私が生まれた頃は生活にはかなりの余裕があったらしく、私も贅沢をしていたほうだったと思います。
私の生まれた所は宮城の鳴子温泉です。温泉街ですので大変賑わっていました。大きな川を挟んで旅館がずらりと並んでいました。
私が物心が付く頃父は、その旅館の中の少し小さめで、外からでもすぐに部屋の様子が分かる所でキレイな女の人を何人も侍らせて、毎晩のように遊んでいたことを、記憶の断片で覚えています。
母が「お父っつぁんを迎えにいってこ(いってこい)“というので三歳下の弟と迎えに行くのですが、母の心配をよそに私たちはその辺で道草をして、帰りが遅くなり度々怒られました。
旅館街では芝居やらサーカス、相撲など、たくさん見物ができました。子供なのでちょろちょろと隙間から入って見物できたのです。
しかしそんな暮らしも長くは続きませんでした。最近、今住んでいるここ、那須でも「那須水害」がありましたが、私が九つの時、そのような、いやそれ以上と思われる水害があったのです。私の家も、母が作っていた作物も全て流されてしまったのです。
川にお湯が流れていて、いつも学校をさぼって一日中遊んだその川に真っ黒な水が流れました。温泉旅館もほとんど無くなってしまいました。
それから何日もしないうちに両親は其処を離れる決意をしたのです。故郷を離れ、見ず知らずの土地に行くことになったのです。両親としては相当の苦労を覚悟したことでしょう。私達を可愛がってくれた叔父、叔母、従兄弟や親戚、そして友達に別れを告げ私たち家族は汽車に乗りました。
汽車は毎日見ていたので珍しくは無かったのですが、乗ることは初めてでした。弟と私はとても喜び大はしゃぎです。母に何度も注意されました。
しかし何時間過ぎても降りるでもなく、私と弟はほとほと飽きてしまい、次第に不安が募ってきました。
子供でしたから、いざ皆に別れを言ってもすぐにまた合えるものだとこの時は思っていたのでした。
汽車は各駅停車でしたので駅には止まるのですが、両親は一向に降りる気配をさせません。母にどこまで行くのか、いつ降りるのかを聞いてみても「まだだ」、「もうすぐだ」と言うばかりです。
そのうち疲れて眠ってしまいました。次の日もまた次の日も同じ汽車の中でした。汽車はこちらの思いも知らずに、相変わらず黒い煙を上げてゆっくりと、実にゆっくりとゴトゴトと走っていました。
三日目の昼頃、ようやく汽車から降りました。白河駅でした。何度も止まっては走り出す汽車に期待と絶望を繰り返し、着の身着のまま何日も、オモチャも本も無く大分退屈で焦燥な思いでようやく汽車を降りたのでした。
家族銘々に小さな包みを持ち、長く座っていた汽車から降りられた喜びもさておいて、今度はひたすら歩くことが待っていました。何時間も何時間も歩きました。
自然と、汽車に乗っていた時と同じ事を聞いてしまいます。「どこに行くの?」、「いつ着くの?」と。返ってくる言葉はやっぱり「未だだ」、「もうすぐだ」の一言でした。普段口数の少ない父は益々寡黙になり、こちらは一層切なく不安になりました。
両親はそんな子供を励ますでもなく、私たちは疲れと悲しさで一杯でした。
友達のこと、懐かしいあの人、あの山、あの川、両親も辛かったことでしょう。黙々と歩き続けてやっと立ち止まりました。
と、その目の前に現れたのは今まで見たことも無いような見窄らしい「小屋」の前でした。どうやら此処がこれから住む家らしい。今にも倒れそうな家の前で胸がつぶれそうになりました。するとその土地の人が現れ、促されるまま、この小屋に私たちは入ったのです。
同時に私は疲れがどっと出てすぐに眠ってしまいました。深い眠りでした。
どの位眠ったのでしょう。屋根の隙間から入ってくる太陽の光がまぶしく目に入って目覚めました。「ああ、ここはやっぱり昨日着いたあの家なのだろうか。」弟も未だ寝ています。外へ出てみると、そこは林の真ん中でした。葉っぱの透間からはこぼれるような光がキラキラと見え、一層まぶしく、こんなに太陽が近くに感じられるとは、と子供心ながらにもとても感動しました。
すると、遠くの方から母の声がします。既に父も母も働いていました。
「ご飯を食べろ!」よく響く声です。鳥のさえずりも、何人かの子供の遊ぶ声もします。母の声のした方を見渡してみると何やら大きな「窯」が見え、その向こうからは煙が出ています。さらに木を切っている人、それを運ぶ人、釜の中へ木を入れている人、みんな活き活きと働いていました。
これまで、仕事などしないで遊んでばかりいた私でしたが、食事を済ませると、すぐに手伝いをさせられました。この日から、もう遊んではいられなくなりました。
次の日、父は弟を連れて学校へ行きました。
学校までの道を教えたり、先生に挨拶や転校の手続きをする為です。
学校までは四キロの道程があったといいます。一年生の弟には少し厳しかったことでしょう。それでも男の子です。次の日から一人で出かけていきました。
しかし、一人で通い始めたその日、夕方の暗くなる頃になっても帰ってきません。心配になり、父は真っ暗な道を学校へと向かいました。残された母と私はガタガタする家の中、怖さで益々体が震えて止まりません。
その時です。外で「ガタッ」と音がしたのです。母は「ヤスオが?」(ヤスオなのか?)と言い乍(なが)ら戸を開けると、途端に弟が入って来ました。入って来るなり弟は「ヒヒヒ」だか「ヘヘヘ」だか音にならない言葉を発したものですから、私も恐さが頂点になり頭がどうにかなりそうでした。
弟は一回だけ通ったことしか無い道をよく帰ってこれたものです。
間もなく、行き違いになった父も帰って来ましたが、入って来るなり「このバカッ」と弟にあびせたのです。まるで労わることを知らない父でした。父としては嬉しさの反動だったのでしょうが。
弟はそれから、粗末な冷めた食事を一人黙々と食べてました。お腹が空いたのか恐かったのか喉を詰まらせながら食べていました。
当事であっても、こんな生活を送っていても、男は学校に行ってなければ将来困るということで、両親は弟を学校に通わせました。
しかし女である私には学校も無用ということで、家の手伝いをしていました。
その手伝い生活も長くなかったのです。
私は口減らしの為に、奉公に出されてしまいました。
奉公先は栃木県矢板の大きな百姓家でした。そこには私と同じように口減らしの人、中にはそれ以外の理由で奉公にいる人がいたのか、よく分かりませんが、数人の奉公人が居ました。
私はその中でも年少だったのです。そんなことも関係なく次の日から容赦も無く仕事をさせられました。奉公が始まってから一年位は子守が私の主な仕事でした。
とは言っても畑仕事もさせられました。畑仕事の時、クワで土をおこす作業となると、先輩達は他人を労わるでもなく後ろから押すわ、前から引っ張るわでやりきれない思いでした。辛い日々でした。
夜はいつも枕が濡れます。それでも疲れているので、いつの間にか深い眠りについてしまうのです。
と思うと、もう朝で疲れも取れぬままその日の作業が続くという日々でした。
それでも冬になると作業は少なくなり奉公人は広い家で丸くなり、女の人はお針や編み物などをしました。そのお陰もあり、結婚してから子供ができても下着からオムツまで作ってやれました。
お正月になると家に帰る事が出来ました。
少しのおみやげをご主人から頂き、足取りも軽く約二時間をかけて家に帰りました。その頃、両親は栃木県塩原の関谷の山奥に移っていました。炭焼きは同じ土地には長くいられないのです。(雑木だけを炭にするので、その山の木が切り尽くされると二十年は木の成長を待たなくてはなりません。一山を買って炭焼きをするので、近くで山の売買が出来なければ、どんな遠くの山でも移らざえるをえないのです。山と人が対等に話が出来ていた頃の話です。)
初めて家に帰る時は母が奉公先にまで迎えに来ていました。家に着くなり、私は「もう矢板には行かね」(行かない)と言ったら、こっぴどく怒られました。その時は年季奉公に出されていたことも、その約束事も解りませんでしたから何で怒られるのかが、とても不満でした。
一週間程の休みがあったと思います。今度は一人で矢板に行くのですが足の重いこと、それでもようやく着いた時には皆夕食も終わっていました。早い人はもう寝ていました。電気もなくテレビも本も無い時代でしたから食べれば寝るだけなのです。何人かは未だ帰らない人も居ました。
ご主人に挨拶し私も寝ることにしましたが、母が何故あんなに怒ったのか訳がわからないまま、いつの間にか眠ってしまいました。
後で解ったのですが、五年の年季で私のこの小さな体と引き換えにお金をもらっていたようです。両親は最後までそれは言わなかったのですが、仲間同志の話でうすうすとは感じていました。
農作業は体は疲れますが、年季が開ける頃には大分楽に熟(こな)せるようになりました。同じ作業の繰り返しですから。
十六歳の終わりにやっと年季が開けました。
身の回りの荷物(といっても、来た時から少し増えた位の)を両手に持ち、お世話になったご主人と、仲間、少し仲良くなった友に挨拶をし、心晴れ晴れ帰って来ました。
娘ざかりの私は少しの化粧品を求め、それを眺めたりして、今までにない幸せな気分を味わいました。紅なども塗ってみました。
母も、よく頑張ったと何日かは大目に遊ばせてくれました。と思ったら母には母の考えがあったのです。
どこでどのように相談がまとまるのか、本人の意思などいつも通りません。結婚が待っていたのです。
当時はそういうものでしたし、家に居ても炭焼きでしたので、私は結婚に対してあまり抵抗もなく、少しの希望と期待を抱いて結婚することになりました。既に親同士が決めたことなのでどうすることも出来ないことでもあったのですが…
夫になる人は私より十歳上のハンサムな人でした。でも耳が不自由でいわゆる「啞(おし)」だったのです。手話など出来ないですからただお辞儀をして胸の中で「これから宜しくお願いします。」と言いました。
母の言うには可哀想だから行ってやれという夫への同情心らしいのですが、本当は夫が農家だったので食いっぱぐれが無いという魂胆があったようです。
継いでからの農作業は、矢板で覚えて来たものですから、そんなに苦にはならなかったのですが、私が若いせいか近所の人には大分バカにされました。おまけに炭焼きの子と必ず言われるのです。
嫁入り道具などなく何も持たずに結婚したので、おまけに「貧乏」という台詞も付け加えられていました。炭焼きと貧乏、夫は啞、マイナス要素ばかりです。しかし、それが何故いじめの対象になるのか理解に苦しみました。何を言われても黙っている術しかありません。言い返しをすれば「若いくせに」「生意気だ」と言われるのです。
矢板でも同じような目に会っていたので我慢することには慣れていたのですが、結婚してからも大分泣いたものです。おまけに子供も出来るわ出来るわで十一人も生みました。体に休みが無く精神的にも参りました。一向に暮らしもよくなりません。食べ物はあってもお金が無いので幼くして死んだ子も何人かいました。今となっては手遅れですから、可哀想なことをしたものです。
残っている子供達も近所のいじめと貧乏で肩身の狭い思いとひもじい暮らしをさせてしまいました。
何人目かの子供が生まれた時、突然目が見えなくなってしまいました。「鳥目」といって夜になると何も見えなくなってしまうのです。
近所の誰かがニワトリの生き血がいいというので早速、(その頃はどこでもニワトリを飼っていました。)夫は一番元気そうな鳥を捕まえて来て足を縛り、その辺の木に逆さにつるし頭を左手に持ちナタを右手に持っていきなり首をブツンと切ります。周りに血が飛び散ります。すかさずナタを離し用意しておいたドンブリを首の下に置き血が一滴も垂れなくなったところで夫が私の目の前まで持ってきたのです。それまで飲む覚悟は出来ていても、いざ「早く飲め」と言われるととまどいました。また「早く」と言う夫の声(手話)がします。早く飲まないと血が固まってしまうのです。
少し甘いようなドロリとして今まで味わったことの無い味でした。
鳥が三羽ぐらい犠牲になった頃、あら不思議見えるではありませんか。素直に誰かの言う事を聞いて実行したからだと、夫も私もつくづく思ったものです。これで医者に行かずに済みます。気分的にも体に力が付いたような感じがします。
しかし相変わらずオッパイの出が悪く子供はいつもピーピー泣いていました。その声を聞いてもすぐには畑から戻って来られません。一段落して帰ってみると泣き疲れて眠っていました。上の子は自分でおにぎりなどを作って食べていました。
秋に生まれた子の時など、なぜか柿が食べたくてどうしようもありませんでした。柿は体が冷えるという姑の言うことなど聞いてもいられません。
隠れて何個も食べました。元々オッパイの出が悪かったので、さほど気になりません。それよりも柿を食べられた満足感で一杯でした。これは黙目あれば黙目という物を片っ端から食べました。兎に角腹が減ってどうにもならなかったのです。何を食べても栄養価の高い物など無いのですから、すぐに腹が減っていつもヒョロヒョロとしてスマートな体付きをしていました。
子供が大きくなり一人ひとり働くようになってからはやっと人並みの生活が出来るようになりました。
子供たちは誰一人曲がらず素直に育ち明るく一人ひとりが自立できる人間になってくれました。それは何よりも私の誇りであります。
人はそれぞれ苦労の無い人は居ないと思います。私なりの体験を通して今落ち着いて考えられる事は全て神の加護あったればこそと自負しています。
したたかに
生きてく術を
神様が
導き教え
強く生きよと