明治三十三年十一月十八日、父(みよし※)は、菊地家の長男として生を受けました。
しかし全く耳が聞こえず、つまり啞だったのです。
当時、菊地家は「菊屋」の屋号で四ヶ村に知れ渡る程の大地主であり、また豪商でもありました。使用人が何人もいて、父は「坊ちゃん、坊ちゃん」と皆に可愛がられて育ちました。
作り酒屋もしていて、秋には新潟から大勢の職人が来て酒が出来上がるまで居てくれたそうです。材木問屋もしていました。材木は馬車で鬼怒川まで運び、其処から船で荒川へ、そして江戸で卸します。
相当な現金が入ったそうです。
その仕事は父の父が請け負っていました。最初は真面目に往復していたのですが、祖父は酒と女に溺れ、入った金では足りなくなり、あっという間に莫大な借金になっていたのです。
父九才の時でした。
土地は人手に渡り、酒蔵、刀、掛軸、馬など金目のものは全て無くなり、それでも足りなくて親戚からも援助して貰って助けられました。
菊地家の中で成人している人はどこか働き口を見つけ、使用人は家に戻り、父は従兄弟の家に預けられました。幸いだったのは、その家族の育て方が良かったのでしょう、父は読み書き、そろばん、何でも吸収してできるようになりました。ただ、父からは学校に行った話は聞いたことはないので、学校には行ってなかったかも知れません。
菊地家から新宅(※)に出た親戚の方が七反歩(一反歩は三百坪)の畑を買い戻してくれて父を呼び戻し百姓を始めたのは父、二十歳の時でした。
親戚としても本宅を復活させたいのと、父を何とかしてあげたいという思いがあったのでしょう。元々器用な父はたちまち村の人皆から頼られる存在になっていきました。
※新宅:本家・本宅に対しての新宅。分家の意味。
やがて妻を迎え子ができ、安定した生活が続いていましたが、昭和十六年一月、太平洋戦争が勃発。村の若い衆は兵隊さんに駆り出され、父は障害があるにもかかわらず、駄目元で検査を受けに行きました。が、結局受からず、兵隊さんにはなれませんでした。
父は、後々までその悔しさを語っていました。しかし、近所には男手が無く、向こう三軒両隣へお手伝いに行き、大忙しでした。
四年間続いた戦争も終わり、立派になって戦地から帰ってきた人、戦地で亡くなった人は気の毒でしたが、取り敢えず村でも落ち着きを取り戻しました。
さあこれからと言う時、父は未だ朝露が残っている柿の木に登り、柿の実を採り始めました。私が露が無くなってからと言うのを聞かずに登ったのです。
バリバリバリッ!という物凄い音が家の中まで聞こえました。
すぐ駆け付けましたが、父はすでに柿の木の根元にうずくまっていました。手には真っ二つに折れた棹が握られ、柿の実が二、三個入ったカゴが転がっていました。私はすぐに父を起こして、手に付いた血を拭いたりしているとパッと目を開き、何事かという素振りをし、すぐに柿の木から落ちた事を覚りました。自分で歩けるのでホッとしました。
その日は一日寝て過ごしましたが、とうとう柿の木から落ちて三年目に寝込んでしまいました。お医者に診て貰いましたが、どこも悪い所は無いとの事。それでも薬は出して行きましたが、父は「俺に毒を飲ませるのか」と言って一切口にしません。そのせいか、あっという間に息を引き取りました。七十歳でした。
昭和四十六年二月四日、正にその日、テレビではグアムのジャングルで敗戦も知らずに生き延びていた横井庄一さんが元気な姿で映し出されたのです。(※)
※横井庄一さんがグアムで見つかったとされているのは昭和四十七年一月二十四日。
偶然と言えばそれまでですが、私はその時奇跡という不思議な巡り合わせを感じたのです。
生きていた事が奇跡、しかし生きていた。
兵隊さんになりたくてもなれなかった父、横井さんと父を結び付けるのは無理があるかも知れません。でも私は父に語りかけたのです。
「父ちゃん、父ちゃんは前世では兵隊さんだったんだよ」と。更に「横井さんは、父ちゃんの生まれ変わりかも知れないね」と。もし、横井さんと話す機会があったら、父の事を話したり、ジャングルでの体験話を聞いて、その話を父に報告したいと強く思っています。
子煩悩だった父に感謝、そしてありがとう。
※
みよし。「美」の旧字体といわれる。