以下の文章は福永個人の所感です。また、全ての分野に当てはまるものではないことをご承知おきください。
まず、そもそも「研究テーマとは何か」ですが、私は以下の3つの性質を満たす「問題」だと考えています。
性質1: まだ世界で解かれていない・達成されていない・調べられていない
性質2: 解く・達成する・調べる価値のある
性質3: 解く・達成する・調べることが出来る、少なくともそのことが期待される
まず「問題」であることが重要です。もちろん、「iPS細胞」とか「脳」のような研究の題材・方向性を意味して「研究テーマ」という言葉が使われることはありますが、実際に研究を進める上では具体的な問題を設定する必要があるので、この文章では「問題」について議論することにします。
性質1は新規性と呼ばれるもので、研究を特徴付ける非常に重要な性質です。どんなに面白いことでも、既に誰かが調べている・解いていることであれば、それは研究ではなく、勉強・車輪の再発明・再現実験と呼ばれます。ただし、この性質はかなり広く解釈されます。たとえば、ある細胞の性質について既に実験手法Aで確かめられていたが、全く異なる手法Bでもその性質を確かめることができた、という事も新規性になります(ただし性質2の問題で研究テーマにはならないこともあります。後述)。また、勉強・車輪の再発明・再現実験は研究において全く必要ないかというとそんなことはなく、別の研究テーマを解決する上で必要だったり、あるいは新しい研究テーマを見つけるための糸口になることが多くあります。ただし、勉強・車輪の再発明・再現実験は研究テーマそのものではないということは常に意識する必要があります。
新規性を担保することは容易なことではありません。数理・理論系の研究で優れた先生ですと、特に先行研究を調べずに「自分がある問題について考えつくしたならば、必ず何か新規性がある」という方針で研究を進める先生もいます。このタイプの先生の中には、まず研究をして結果を出し、論文を書き始める時にようやく先行研究を調べるという先生もいます。中には、論文を読むと研究の独自性がなくなるから研究をする前に論文を読むべきではないと主張する先生もいます。ただ、この「考えつくす」ということは普通には出来ることではありませんので、注意が必要です。
より一般的には、先行研究の論文を多く読んで、その問題がまだ解かれていないことを担保することになります。そのため、ゼロから研究テーマを設定する場合には、研究テーマを決める前にまずたくさん論文を読む必要があります。目安は分野によって違いますが、およそ100~200本と言われることが多いでしょう。ただ、これだけ論文を読まないと研究が始められないというのであれば、卒論などは始まる前に時間切れになってしまうので、指導教員の力を借りて時間を短縮することが一般的です。つまり、指導教員は今まで沢山論文を読んできているので、その専門分野において解かれていない問題を熟知しているはずです。特に、指導教員が最近書いた論文というのはその時点で新規性があることが保証されているわけですから、その論文を土台にして発展させる研究も新規性があることを担保しやすいということになります。
性質2は研究の意義の問題です。たとえば、私の家の玄関にどういう微生物がいるかという問題は、性質1と3を満たしますが、この問題を解くことには価値がありません。上の新規性の例で述べたように、「ある細胞の性質について既に実験手法Aで確かめられていたが、全く異なる手法Bでもその性質を確かめることができた」というケースでも、実験手法Bで何か追加の性質(実験コストが安いとか、別の性質も同時に調べる事が出来るとか、もしくはBで解けることを誰も想像していなかったとかでも実は良いですが)を満たしていないと、研究の意義はありません。もちろんその性質も、「1年かかる実験が1秒で出来るようになった」ということなら意義は大いにありそうですが、「ほとんど行われない実験で、1秒で出来る実験が0.9秒になった」ということなら意義はあまりありません。ただこれも、実験がものすごい行われるのならば、わずかな時間短縮であってもトータルで見ると大きく時間削減されることがあるので、1割減だから意味がないということではありません。(計算機の高速化の研究などではそういうことが多くあると思います。)
では、この研究の意義を判定するのが誰なのかということですが、基本的には専門家からなるコミュニティです。なお理論物理学者が生物科学の問題の価値・意義を判定出来ないように(もちろんその逆も然りですが)、ある分野の専門家は別の分野の専門家ではないので、コミュニティは分野ごとに分かれています。まぁコミュニティと言っても一枚岩ではないので、ある先生は価値がないと思った研究に対して、別の先生が非常に重要だと考えるなど意見が分かれることもありますが、大勢は存在します。また同じ研究テーマであっても、コミュニティが違うと評価は分かれる事は普通です。例えばある未解決問題の理論的解法を提唱して理論のコミュニティで評価されたとしても、応用のコミュニティでは現実応用性がないとして評価されないということがあります。逆にある現実的な問題を解決する手法を提案して応用のコミュニティでは評価されても、理論のコミュニティでは演習問題を解いただけとみなされることもあります。こう書くと権威主義的で、実際それによる弊害もありますが、大学から学位をもらうとか雑誌に投稿して論文が掲載されるということが既にその要素を含むので、システムとしてある程度やむを得ないようにも思います。
またここまでの話の帰結として、「私が面白いと思った」「興味がある」ということは、個人が研究を進める上での内発的動機として重要ではあるものの、それそのものは研究の意義・価値にはならないということがあります(これは初めて研究をする学生が非常に間違えやすいところです)。その内発的動機を、うまくコミュニティが認める意義・価値として表出する必要があります。またそのためには、コミュニティがどういう研究に価値・意義を見出しているのかを勉強しなければなりませんので、やはりまずはある程度論文を読んだり、指導教員の力を借りたりする必要があるだろうと思います。
性質3は、研究テーマの具体性・計画性の問題です。たとえば極端な例ですと、「どこでもドアを発明する」という問題は性質1と2を明らかに満たしますが、私の知る限りこの問題は現在のところ解けるとは思えません。もちろん、研究は上手くいくかどうかわからないものなので、本当に解けるかどうかはやってみないとわかりませんが、テーマの立案段階で妥当性がなくても良いということではありません。
また、一般的に誰がやっても解けないということではなく、環境や個人に依存した制約ゆえにその個人にとって解けないこともあります。制約にはさまざまな種類のものありますが、たとえば、どう実行してもその研究を期間内で終わらせる事が出来ないという時間的制約や、お金や設備あるいはデータがないという金銭的・設備的制約、あるいは当人の技術・能力が足りないという技術的制約があります。まぁ勉強して技術を身につけてから研究するという時間が十分にあるなら技術的制約は解決出来ることも多いですし、お金をかけて最新の設備を購入すれば研究を時間内に終わらせられるなら、それは時間的制約ではなく金銭的制約なので、この分類は表層的な分け方です。時間的制約は学生にとって非常に大きい制約です。卒論・修論で使える時間は1~2年ですから、この年限である程度の結果が出てくる事が期待されるテーマを選ぶ必要があります。金銭的・設備的制約については、所属している研究室の出来る範囲内で出来ることをやるしかありません(もちろん共同研究などで他の研究室の設備が使えることもありますが、そういう事が可能かということまで含めて「研究室の出来る範囲内」という意味です)。理論・情報系の研究室ではこの制約は比較的少ないですが、実験系の研究室ではこの制約は非常に大きいです。技術的制約は分野によって制約の有無がマチマチです。数理・理論系の分野は研究者当人の技術・能力に依拠することは非常に大きく、学部時代の講義の内容をしっかり理解していないとまず研究のスタートラインに立つ事も覚束ないのではと思います。学生が一年かけて解けなかった問題を教員が三日で解いてきたとか、教員が未解決問題として提示した問題を学生が一日で解いてきたとか、そういう話はざらにあります。実験系ですとそこまでの話はあまりないように思いますが、どちらかというと手先の器用さ・雑さに起因する問題はあるようで、たとえば神経解剖学などはかなり手先の器用さが求められるようです。
話をまとめると研究テーマとは、まだ解かれておらず、解く価値があり、そして解ける事が期待される問題です。そしてこれまでの説明から推測される通り、研究テーマを立てるというのは簡単ではなく非常に難しいことです。特に成熟している・流行している学問分野では、ゼロの状態から先行研究を読み込んで研究テーマを立てられるようになるまでに、十分に訓練を積んだ研究者であっても、一年くらいはかかると思います。ただし逆に、まだ分野が確立しておらず創成期にあるような分野では、先行研究も少なくコミュニティも緩い(多様性が認められやすい)ので意外とすぐにテーマがまとまることもあります。自分で研究テーマを考えることが第一目的の場合は、そういう分野を志向しても良いかもしれません。
ここまで研究テーマについて議論してきましたが、実のところ研究テーマではない課題を研究(?)しているようなケースは学生には多く見られます。つまり、性質1~3のうち、何かが欠失している課題です。卒論・修論の課題については、研究テーマの性質を満たしていなくても修了させてくれるところが多くあるので、学生にとって修了が目的であれば問題はないとはいえます(さすがに博論はまず無理ですが)。
なぜそうなるのかという原因は色々考えられます。実は指導教員もその課題が研究テーマであることに気づいていないという場合では、指導教員が新しい分野に挑戦しようとしたが論文の読み込みが十分ではなかったため、実は新規性のない課題を学生に与えていたという場合などが考えられます。とはいえこういうケースは珍しく、どちらかというと、指導教員はその課題が研究テーマになっていないことは気づいている場合の方が多いように思います。この理由は非常に様々です。たとえば、新規性や価値がなくても自発的に課題を設定することが重要であるという教育方針の場合が考えられます。実際、教員から与えられたテーマについて何も考えずに手を動かして実験していたら修了できました、みたいな話もないわけではないので、新規性などを無視してでも自発性を重視するという教育方針は場合によって意義があると思います。あるいは、言葉は悪いですが、指導教員自身が既に研究にやる気をなくしており、学生を無事に卒業させることだけを念頭においているケースもあると思います。また、卒論などは特に時間がないので、先行研究の再現実験をしていたら時間が過ぎてしまったということもありえます。これは卒論としては(定義として)研究テーマとはいえませんが、その再現実験によって課題を見つけられたので修士ではそれを解決するという事につながるのであれば、十分良い卒論であるともいえます。または、研究室にお金がないので十分に実験をすることができないので、お金のかからないことだけをやっている場合もあります。あとは、特に理論系に多いと思いますが、学生の学力などが十分ではないために研究テーマを遂行することができない場合もあります。
研究テーマを考えるのは十分に訓練を積んだ研究者でも簡単なことではありません。なので、たとえば毎年12人学生が卒論で配属されるとして、12人全員に学生の実力に応じた研究テーマを毎年与えるのは至難の業です。そして学生全員が研究に熱心であるとは想定しにくいので、せっかく考えた研究テーマも大半が日の目をみなくなる可能性が高いです。そうであれば、現実問題として、ある程度の学生が研究テーマではない課題に取り組むことになるのは、やむを得ないのかもしれません。