アイリッシュ・ハープ小史 寺本圭佑編

「アイリッシュ・ハープの揺籃期」 9世紀から11世紀ころ

ハープの起源は、古代エジプト、シュメール文明にまでさかのぼり、遅くとも紀元前2800年ころから存在していました。それらの古いハープにはすべて「支柱」がありませんでした。中世以降ヨーロッパで広く演奏される「支柱のあるハープ」の原型はそれほど古くから知られていたわけではありません。現存する最古の「支柱のある三角形のハープ」の図像資料のひとつは、かつてスコットランドにいたピクト族が8世紀か9世紀ころに作った石の彫刻にみられます。一方アイルランドでは、9世紀頃でもまだ四角い弦楽器が演奏されており、三角形のハープは演奏されていませんでした。ようやく11世紀に、三角形のハープが描かれるようになりました。最初、アイルランドではハープを cruit と呼んでいましたが、のちに、Clairseach と呼ぶようになりました。

「ウェールズとアイリッシュ・ハープ」 12世紀から13世紀ころ

ウェールズの君主グリフィズ・アプ・カナン (c.1055-1137) は、亡命先のアイルランドからウェールズ北部のアングルシー島に侵攻しました。このときグリフィズが従えていたアイルランド人ハープ奏者たちがウェールズのハープ音楽を改革したという伝説が残されています。アイルランド人は当時のウェールズのハープの音色を軽蔑して、teilinn と呼んだといいます。teilinn とは「みつばちのぶんぶんうなる音」を意味する言葉で、ウェールズ語でハープを意味する Telyn の語源になったといわれています。 ジョン王のアイルランド遠征に随行したギラルドゥス・カンブレンシス (c.1146-c.1223) というウェールズ人聖職者がいました。彼は「スコットランドとウェールズはアイルランドの音楽をまねしようとしている」と述べ、アイルランド人によるハープ演奏の素晴らしさを称えていました。 中世ウェールズのハープには「メジャー」という独自の音楽理論がありました。メジャーとは10の組み合わせによるコードパターンです。伝説によると、メジャーは1098年にアイルランドのグレンダーロッホで制定されたといいます。中世ウェールズのハープには、さまざまな調弦法がありました。その中には、「アイルランドの奇妙な調弦」や「アイルランドの悲しい調弦」という名前のものがありました。

「現存する最古のアイリッシュ・ハープの実例」14世紀から16世紀ころ

14世紀ころに演奏されていたアイリッシュ・ハープの実例が現存しています。この29弦のハープは、18世紀後半にアイルランドのリムリックで発見され、現在ダブリンのトリニティ・カレッジに保存されています。曲がった支柱、金属弦、ネックと支柱の継ぎ目が正面から見た際にT字型になっているのがアイリッシュ・ハープの特徴です。共鳴胴は1本の木をくりぬいて作られており、背面は木の板で閉じられています。金属弦で共鳴胴を破損しないために、弦を通す穴には蹄鉄型の金属が打ちつけられています。また伝統的なアイリッシュ・ハープには「姉妹」と呼ばれるユニゾンで調弦される弦が存在しました。 トリニティ・カレッジのハープと同様の構造をもった楽器が、スコットランドでも演奏されていました。クイーン・メアリ・ハープとラモント・ハープがそれです。これらの資料は、アイルランドとスコットランドのハープの親近性を示すものです。16世紀のヘンリー8世の時代には、アイリッシュ・ハープが硬貨のデザインに用いられ、すでにアイルランドの象徴になっていました。

「アイリッシュ・ハープの黄金時代」 16世紀後半から17世紀前半

 16世紀後半から17世紀前半は、アイリッシュ・ハープの黄金時代でした。アイリッシュ・ハープは王侯貴族の間で大変もてはやされました。エリザベス1世の宮廷にはコーマック・マクダーモットというアイルランド人ハープ奏者が雇われており、ダニエル・ダフ・オカヒルという盲目のハープ奏者が英国王室でアン・オブ・デンマークとヘンリエッタ・マリアに仕えていました。ダービー・スコットはデンマークのクリスティアン1世の宮廷でハープを演奏していました。ジェームズ1世は自身が優れたハープ奏者として有名でした。哲学者フランシス・ベーコンはアイリッシュ・ハープの「とろけるような長い響きをもった」音色を絶賛しています。16世紀末のアイルランドを描写した次のような言説があります。「一般的に彼らはひどい音楽中毒である。アイルランドにはハープを演奏できないジェントリはいないし、すべての家に12台のハープがある。彼らはいつも食事の際や、それ以外の楽しみの時間にハープを演奏する奏者を雇っている」アイリッシュ・ハープの流行とともに、楽器の構造に変化が見られるようになります。17世紀前半には弦の数を増やして、臨時記号が演奏できる改良が試みられたのです。そのような実例として「ダルウェイ残欠」があります。ネックに残されたピンの配置からこのハープは、臨時記号が演奏できる楽器だったと考えられています。

「大陸のアイリッシュ・ハープ」 16世紀から17世紀前半

 16世紀後半から17世紀に、アイリッシュ・ハープは大陸でもよく知られるようになっていました。イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイの父ヴィンツェンツォ・ガリレイは1581年に、2列に配され半音階が演奏できる58弦のアイリッシュ・ハープについて記し、演奏家が両手の爪を長くのばして、美しくとがらせていることについて描写しています。ドイツのプレトリウスは1619年の『シンタグマ・ムジクム』で、アイリッシュ・ハープを図像付きで解説しています。「この楽器はかなり太い真鍮の弦が43本張られており、ここから美しい響きが生まれる」と記しています。彼が記したアイリッシュ・ハープも半音階が演奏できるものでした。 このように、16世紀後半から17世紀前半にかけて、アイリッシュ・ハープはもはや、一地方の民族楽器ではなく、一般的な楽器のひとつとしてみなされていたのです。しかし半音階のアイリッシュ・ハープの制作は一時的な現象にとどまり、17世紀後半からは再び全音階のアイリッシュ・ハープが演奏されるようになりました。

「カロラン(1670-1738)の登場」 17世紀末から18世紀

1649年のクロムウェル侵攻により、アイルランドのすべてのハープが破壊されたという伝説が残されています。その後、アイルランドは1689年から始まるウィリアマイト戦争に敗れます。アイリッシュ・ハープ史上最も有名なカロランは、終戦の1691年からハープ奏者としての活動をはじめました。 カロランは1670年にアイルランド東部のミース州に生まれました。18歳のころ天然痘にかかり、一命を取りとめたものの失明してしまいました。その結果彼職業的ハープ奏者への道を歩むことを決意したのです。彼はひとつの場所にとどまることなく、根無し草のように各地の家を転々とし、領主をたたえる詩とハープ音楽を作曲しました。1720年ころ、彼はメアリ・マガイアという女性と結婚し、6人の娘と1人の息子をもうけました。彼は家族とリートリム州のモヒルで農場経営をしていましたが、長年放浪の生活を続けていた彼に、定住生活はできませんでした。すぐに放浪の生活に戻ってしまったのです。1733年に妻に先立たれた悲しみをいやすためか、カロランはウィスキーにおぼれ、酒の力を借りて作曲するようになりました。自分の死期を悟ったカロランは、初めてハープを学んだマクダーモット・ロー家に向かいます。医師に見放されたカロランは最後に1杯のウィスキーを所望しました。そして長年の友である杯に別れを告げて、1738年の325日に息を引き取りました。彼の頭蓋骨は当時地域住民に削り取られ、薬として飲用されていたといいます。現在はダブリンの博物館に保存されています。

「アイリッシュ・ハープの斜陽」18世紀末

カロランの音楽は次の世代のハープ奏者たちに継承され、死後もその名声は衰えることはありませんでした。カロランは英国におけるヘンデルに相当する国民的音楽家とみなされるようになっていました。18世紀を通してアイリッシュ・ハープは徐々に衰退していきました。特にアイルランドの南部では、イーリアン・パイプ(肘でふいごを押すバグパイプ)がさかんに演奏され、早い時期にハープにとって代わりました。また、英国ではウェルシュ・ハープが流行し、ウェールズ人ハープ奏者がダブリンの劇場で演奏会を行っていました。アイルランド人ハープ奏者たちは、古い伝統音楽を忘れていき、ヘンデルやコレッリといった外国の音楽を演奏するようになりました。そのような現状を嘆いて、1780年代にグラナードでハープフェスティヴァルが開催されました。このフェスティヴァルでは優れた演奏家に賞金が与えられました。1792年には、ベルファスト・ハープフェスティヴァルが開催されました。このときに、エドワード・バンティングというオルガン奏者が参加しており、ハープ奏者たちの演奏を採譜していました。最年長のハープ奏者はデニス・ヘンプソン(1695-1807) でした。彼は異様に頭が大きく、醜い風貌だったことで知られており、「ふたつ頭の男」という異名を得ていました。彼は古いハープ音楽を記憶していた生き字引のような存在で、伝統的な長い爪の演奏技法を固持していました。彼は長命で112歳まで生きていました。彼のハープは現在ダブリンのギネス本社に所蔵されています。

「伝統の断絶」 19世紀後半

ベルファスト・ハープフェスティヴァルのあと、アイリッシュ・ハープの伝統は途絶えようとしていました。そこで、ハープを復興させるためにハープ協会が設立されました。1808年にバンティングらによって、ベルファスト・ハープ協会が設立されました。ここではアーサー・オニールが、盲目の孤児たちにハープを教えていました。1809年にダブリンでもハープ協会が設立され、パトリック・クインがハープを教えていましたが、2つの協会は資金難により1812年に解散しました。その後、インドにいたアイルランド人たちの援助により、第二次ベルファスト・ハープ協会が1819年に設立されました。ここではオニールに学んだ生徒であるヴァレンタイン・レイニーらが教師をしていました。レイニーはスコットランドの詩人ロバート・バーンズの甥でした。この協会も1840年ころに資金難により消滅してしまいました。 1842年にドロヘダのドミニコ会修道士によって新しいハープ協会が設立されました。ここでは、第二次ベルファスト・ハープ協会で学んだヒュー・フレイザーが16人以上の生徒を教えていました。この協会が1845年に解散した背景には大飢饉があったといわれています。第二次ベルファスト・ハープ協会で学んだ盲目のパトリック・バーンは、ロンドンやスコットランドで活躍し、アルバート公のハープ奏者に任命されました。スコットランドで写真が撮影された時、彼は時代錯誤の衣装を着せられていました。1863年にバーンが他界したことによって、アイルランドの金属弦ハープは歴史の表舞台から姿を消しました。

「新しいハープの伝統のはじまり」 20世紀

11世紀から19世紀に至るまでアイルランドでは金属弦ハープが演奏されていましたが、ついに19世紀末からガット弦が張られたハープが演奏されるようになりました。この楽器は、それ以前のアイリッシュ・ハープと区別するために「ネオ・アイリッシュ・ハープ」と呼ばれることもあります。20世紀初頭にダブリンの女子修道院で、アトラクタ・コフィという人物によってハープが教えられていました。彼女は1903年に教則本を出版しましたが、それはネオ・アイリッシュ・ハープのためのものでした。ネオ・アイリッシュ・ハープの特徴は、弦の素材が異なるだけではなく、ブレード(あるいはレバー)と呼ばれる装置によって半音を変化させることができる点が挙げられます。また、演奏技法もペダルハープから借用したもので、本来のアイリッシュ・ハープの演奏技法とは異なります。当然ながら、音色も金属弦ハープとガット弦ハープではまったく異なっています。20世紀初頭にアメリカのクラークがネオ・アイリッシュ・ハープを製作し、日本でも同様の楽器が製作されるようになりました。現在でもこの楽器が広く演奏されています。これらのハープの多くは丸みを帯びた形をしています。それは19世紀初頭にダブリンのジョン・イーガンが製作していたハープの形態を模倣したものでした。

「金属弦ハープの復興」 20世紀末から21世紀初頭

20世紀を通して、金属弦ハープはガット、あるいはナイロン弦のハープにとって代わられました。伝統的なハープ音楽はネオ・アイリッシュ・ハープで演奏されるようになりました。しかし、1980年ころにアメリカのアン・ヘイマンが古い金属弦ハープの演奏法を復元することに成功しました。彼女が1988年に出版した『ゲーリック・ハープの秘密』は、初めて出版された金属弦ハープのための教則本でした。ここには、特殊な記譜法によって、ダンピングの技法が書かれています。金属弦ハープはネオ・アイリッシュ・ハープよりも残響音が長いため、ダンピングという技法によって、弾いた音を消音しなくてはならないのです。 2002年には、シボーン・アームストロングを会長として、「アイルランドヒストリカルハープ協会」が設立されました。この協会では、毎年8月にサマースクールを開催し、金属弦ハープ奏者の交流や講習を行っています。アームストロングは2008年に来日し、東京と京都でトリニティ・カレッジ・ハープのレプリカで演奏会を行いました。現在アメリカのディヴィド・コルティエやスコットランドのアーディヴァルらによって、すぐれた金属弦ハープが製作されています。このように、21世紀は少しずつ金属弦ハープが一般的な楽器として認識されていく時代になると思います。