『分析美学入門』訳者あとがき

本書のあとがきには誤植があったり謝辞に入れるべき人の名前を入れ忘れていたりしましたので、こちらに「あとがき完全版」を掲載しておきます。

訳者あとがき

本書はRobert Stecker, Aesthetics and the Philosophy of Art: an Introduction, 2nd edition, 2010. の翻訳である。著者は現在、セントラル・ミシガン大の哲学科教授を務めており、スタンフォード大の哲学百科事典(http://plato.stanford.edu/)の美学分野の編集者のひとりでもある。現代美学の代表的論者のひとりとして氏の名前を挙げることに、誰も異論はないだろう。現在も一流の学術誌に毎年精力的に論文を発表し続けており、その論じるトピックも非常に多岐にわたっている(以前「教授のご専門は何なのですか」と尋ねたら、「私には専門がないのです」という答えを返されびっくりしたのだが、それもいま思えば納得の答えである)。

本書は、本格的な分析美学の入門書としては、日本で初の翻訳となる。もちろんトピックを限定すれば、キャロリン・コースマイヤー『美学 ジェンダーの視点から』(長野順子・石田美紀・伊藤政志訳、三元社、2009年)、シンシア・フリーランド『でも、これがアートなの?:芸術理論入門』(藤原えりみ訳、ブリュッケ、2007年)など、英語圏の入門的美学書の翻訳はないわけではないが、ここまで多岐のトピックをあつかいつつ、議論の歴史を丁寧に紹介しているものは、本訳が初と言っていいだろう。入門書であるし、各章末にはまとめも付されているので、本書の内容をこのあとがきで改めてまとめる必要はないと思う。かわりに「分析美学」という分野についていくつかの説明をすることで、あとがきに代えることにしよう。

本書の原書のタイトルは、直訳すれば「美学と芸術哲学」であるが、日本では「分析美学」という呼び方のほうがよく用いられているので、本訳書のタイトルも『分析美学入門』とした。まずはこの呼称について、いくつか述べておこう。

本書であつかわれているのは、厳密にいえば、「分析哲学の伝統を受け継ぎつつ主に英語圏で行われている美学」である。タイトルには「分析美学」という語をもちいたものの、じつは最近ではanalytical aestheticsという語はあまり用いられなくなってきている。これには理由はいくつかある。ひとつには、「分析的哲学」「大陸的哲学」という区分が近年見直されつつある、という点が挙げられる。また、最近の英語圏の哲学は、認知科学や現象学など他分野の知見を多数取り入れつつ発展しており、もはや概念や言説の分析だけをやっているわけではない、という点もある(ほかには、「いまや英語圏の哲学こそが「ザ・哲学」だから、もはや「分析的」という形容詞を付さなくてもよいのだ」と言う人もいるかもしれないが、わたしとしては、それはやや偏狭な意見だと思う)。そして逆に、対立軸として「大陸的美学」という呼称を用いるのも、厳密には正しくない。フランスでは、Roger PouivetやJacques Morizotらの美学者が分析的なスタイルで仕事をしているし、ドイツ語圏でも、分析美学の知見を活かした著作が数多く出版されている。

とはいえ「分析美学」という呼称に意味がなくなったわけではない。現在もこの語であるていどの分野が画定できるのは確かだし、議論のスタイルを示すうえで、いまだその区分は一定の意味を有している。また、分析美学ではなく「現代美学」という語を提案する者もいるが、本書で扱われるような分野を指して「現代美学」と呼ぶことは、それはそれで仏独伊や非西洋の美学を無視することになってしまうだろう。以上のような事情から、本書のタイトルには「分析美学」という名称を用いることにした。これは、分析哲学の伝統を受け継ぎつつ主に英語圏で行われている美学、というゆるやかな範囲を指すものと理解していただきたい。

つぎに、現代の日本における分析美学の状況と、本書の翻訳にいたるまでの経緯を述べておこう。日本において、分析美学の翻訳・紹介が遅れていることは、かねてより業界内では共通の認識だった。巻末の文献表を見れば、その状況は一目で見てとれるだろう。すでに古典ともいえる文献や、論争のきっかけとなった重要論文のほぼすべてが未邦訳なのだ。分析系の哲学・倫理学や、フランス、ドイツ、イタリアの現代思想の紹介のされ方と比べると、この翻訳の遅れはかなり深刻である(そしてこの翻訳の少なさが学部教育や研究者育成にも少なからず影響を及ぼしていることについては、あらためて注意を喚起しておこう)。

わたしや同僚の研究仲間たちは、若輩ながらも研究者の端くれとしてこの状況に大いに危機感を抱き、「まずは翻訳論文集を」という目論見を抱きつつ、分析美学の勉強会をほそぼそと進めていた。ちょうどそのおり、三年前の2010年5月、著者のステッカー教授が来日して講演をすることになった。それをきっかけに氏の最新作である本書に目を通したわたしは、日本の分析美学の現状を変えるためには、地道に古典論文の翻訳を進めるのではなく、まずはひとつ最新の入門書を翻訳して、分析美学に興味をもつひとを増やすのもありなのではないか、と考えたのである。トピックが多岐にわたっていること、誰がどこで何を言ったかを丁寧に示してあること、文献紹介で各文献の内容まで紹介してあること、そして何よりも最新の議論が載っていること、これらの点で、本書はこの目論見にぴったりのものだった。とはいえ悲しいかな、現代の複雑多様な論争状況を把握できてもいないわたしには、この本の真の評価を見きわめる力量はなかった。そこでわたしは、(本文中にもたびたび登場する)イギリスの美学者ニック・ザングウィル教授に相談した。「この本を翻訳しようと思うのですが、ほかのもろもろの教科書とくらべて、どう思われますか」、と。教授からは「非常に良い本なので、ぜひ翻訳すべき」というGoサインを頂き、そのことが本翻訳にとりかかる最終的なひと押しとなったのである(ありがたいことにその返信には「でも論文集もつくりなさいね」と、重要論文の選定リストまで添付してあったのだが、いまだ論文集には取りかかれていない。すいません)。こうして本書を翻訳する決断のついたわたしは、ステッカー教授の講演後の酒の席で、無粋にも翻訳の打診を行い、快諾を頂いたのである。

翻訳作業を進める中で、ステッカー教授はとても丁寧に、そして驚くべき返信速度で質問に答えて下さった。ここに改めて感謝したい。本書のいくつかの章は、学術論文をベースにしており、そのため叙述がやや難解な箇所もあるが、主張や議論の進め方は非常にクリアであるので質問もしやすかった。分析美学という、日本にこれまであまりなじみのない分野の入門書として刊行することをふまえ、できるだけ主張の内実を損なわないようにわかりやすく意訳した箇所も少なくない。意訳し過ぎたせいで重要な含意を取りこぼしていないか、と訳者としては戦々恐々であるが、誤訳やの指摘や批判はぜひ遠慮なくお知らせいただきたい。わたしも気づきしだい、ブログなどを通じて誤訳情報を公開していくつもりである(また原著には多数の誤植があるので、原著を参照される方のために、その訂正表などもアップしておく)。

本書の基本的なメッセージは、序に述べられたように、美学と芸術哲学は重なり合うものの別の分野である、というものである。だが、そうした専門家向けのメッセージとは別に、本書が伝えている重要なことが一つある。それは、感性の働きや芸術については、たんに語るだけでなく、議論することができるということだ(この「議論する」という姿勢は、分析系の哲学を特徴づける重要な要素である)。著者自身、こう述べている。「どうぞ読者の方々も、各章で提示されるさまざまな議論に、自分の立場をはっきりさせながら参加してほしい。その結果、あなたがわたしと異なる立場をとるようになっても、それはまったくかまわないのだ」(「まえがき」p. 3)、と。また、本書で用いられている概念、思考法、議論の組み立て方などは、芸術以外の、日常のあらゆる場面でも応用がきくものである。どうか皆様も、本書の議論を参考にしつつ、身の回りの文化的事象について考えてみてほしい。文化的事象について議論をすることの楽しさ、これを伝えることができたならば、訳者としては望外の喜びである。

最後に謝辞を。本書を翻訳するにあたっては、本当にたくさんの人にお世話になりました。翻訳の謝辞としては異例かもしれませんが、最初に、勁草書房の関戸詳子さんにお礼を述べておきたいと思います。関戸さんには、わたしのような若僧がいきなり持ち込んで来た翻訳計画に、とても丁寧に対応していただきました。あらためてお礼申し上げます。このプロジェクトの最初の扉を開いてくださったのは、貴方です。はじめはゴミのような訳文を送りつけて、とても困らせたかもしれません。関戸さんの優しいプレッシャーの下、改稿に改稿を重ねました。そのぶん刊行はだいぶ遅れましたが、すこしは読みやすい訳文をお届けできたでしょうか。

次に、訳稿を検討していただいた先輩、同僚、後輩の方々に、胸いっぱいの感謝を(最後のほうは、もはや個人訳というよりは、なかば共同翻訳プロジェクトのようになっておりましたね)。勉強会のメンバーである秋葉剛史、植村玄輝、八重樫徹の三方には、初期段階の訳稿を見ていただきました。哲学的素用のまったく無かった私を一から鍛え上げていただき、本当に感謝しております。また分析美学の勉強会メンバー、とりわけ今井晋、木下頌子、櫻井一成、柴田康太郎、鈴木生郎、副田一穂、高田敦史、寺町英明、松永伸司、吉成優、渡辺一暁の各氏には、分担で各章の訳文を丁寧に検討していただきました。住田朋久さんには、仕上げ段階でかなりの分量に目を通していただきました。皆様の丁寧なチェックによって、わたしは自分の日本語運用能力への自信を日に日に失っていったのですが、それも今となっては良い思い出です。訳文の最終的な責任がわたしにあるのは言うまでもありませんが、読者の方々が本訳文にすこしでも満足していただけたのであれば、それはここに名前を挙げた方々のおかげです。改めてここでお礼を述べておきます。

北野雅弘教授には、ありがたいことに、入稿直前に私訳を見せていただきました。おかげで重大な誤訳を数多く発見できましたし、訳文もよりこなれたものに直すことができました。また、小田部胤久教授、加治屋健司准教授には、訳注を付す上で重要なアドバイスをいただきました。

最後に、恩師である西村清和教授へここで感謝を表しておきたいと思います。東京大学に赴任依頼、西村教授は毎年分析美学の文献購読のゼミを開講し、われわれ学生に分析美学のおもしろさを伝え続けて下さいました。本訳書は、教授が日本に蒔きつづけてこられた分析美学の種からの、一つの発芽ともいえます。ほんとうは教授の退官前に本書をプレゼントしたかったのですが、わたしの仕事の遅さゆえそれもかないませんでした。すいません。遅くなりましたが、いつもどおり厳しいご批判をいただければと思います。教授がつねづねおっしゃっていた通り、美学ってほんとおもしろいですね。

2013年3月

森 功次