我が町は徳川幕府初期まで茫々たる葦原の湿地帯でありその名も「中之郷午島四ヶ村」と呼ばれていた。
それ以来主なる記録を挙げるならば明暦の大火後万治2年両国橋の架橋並びに本所築地奉行を設けて堅川、大横川を掘柵、業平橋を架橋源森川を掘搾枕橋を架けて開拓に当つたな、度かさなる水害のため延宝8年に開拓事業は放棄され再び昔の葦原と化した。
元禄元年に江戸府内狭少の為再び本所開拓奉行を設け武家・神社・仏閣を中心とした町作りを始めた。我が町の旧称中之郷ハ軒町も源森川北岸のハ軒の草家だったらしく元禄6年3万坪の広大な水戸下屋敷築造により延命寺と共に南岸の中の郷瓦町6,418坪の一隅に移転せしめられたものでこの時代に南蔵門も墨堤の畔より移転していた。
正徳3年には三河以来の生業である瓦作りが新興の町々に水利の便を利して資材を供給し人□も増加し江戸市街地に編入された程の賑いをなした。
安永3年東僑を架したので枕橋、源森橋、業平橋を利用して水戸、佐倉、四ツ木、下総への街道の要街地となった。
嘉永年代の我が町を賑むるに開運不動尊の延命寺1,842坪しばられ地蔵業平天神の南蔵院99坪と延命寺門前町990坪通りを越して小梅代地5,144坪旗本大久保甚左衛門屋敷源森川と大横川の出合う角に森川伊豆守(下総国生実1万石の大名)の下屋敷、川には猪口舟が人々の便に利用され往来していた。江戸末期に舟の大川への流出を洪水防止の為瓦職の人々にって源守橋に水門ができた。
明治維新の新しい波の下に武家中心より庶民中心の街作りにと変わり明治初年横川町に貧困者の集りの共同長屋小梅業町(小梅代地が小梅町についで小梅業平町と改称)に簡易旅館が開業され始め鉄道馬車の厩舎等ができ、人□が激増した明治11年本所区が誕生した。一方教育の面も文久年間より寺子屋が我が町には2軒あったが明治35年横川小学校が開校された。
交通面では明治35年に東武鉄道が業平橋西畔に進出し、41年には貨物も取扱い旅客共一大駅となった。 43年には市電が吾妻橋を渡って我が町を縦貫して業干橋東畔まで更に押上まで延長され大正14年には私営バスも我が町に乗入れてきた。
商工業の面ではドロンコの大通りには今猶盛業中の商店が軒を並べ料理屋、寄席もできた。明治中年には東洋ガラス工場、神谷酒造工場ができガス水道も敷設されて町民の生活も向上してきました。
大正12年9月関東大震災により焼土と化したが町民一致の復旧の努力によって再建され区画整理をなし今日にみる基盤目の区画となり都下水処理場も小梅橋もできた。
昭和5年8月に中之郷ハ軒町5、144坪、小梅業平町6、∠目8坪(3分の1)3丁会が合併して吾妻橋3丁目会21、175坪となった。
昭和6年満州事変以来第二次世界大戦と時局克服の為町民一致協力したが昭和20年3月の大空襲で再起不能と思われる被害を被り焼土と化して町民は離散したが終戦となるや両建に立上り防犯協会を設立し昭和28年4月には町会も再発足し町民の福利活動をなした。昭和35年12月には下町初めての都営地下鉄本所吾妻橋駅が官民の協力の下に完成されて都心まで15分の交通至便の町となった。区営「しいのき遊園地」も設置され町会再発足、20周年行事も祝したが昭和41年には町名と区画変更が一方的に改正を迫られたが町民の一致した反対運動により我が町名の保存に成功した。
更に昭和49年町民永年の念願であった町会会館建設の準備が進められ町会長はじめ役員、町民の一丸となった努力と関係各位のご尽力により同52年2月見事に完成した。これにより名実共に墨田区の名門町会としての発展を成し遂げたのである。