【マチエールについて】
鉛筆デッサンをする時、その陰影をつけるために網目の線によって暗く調子をつけていくが、これをハッチング描法と言う。要は線と線が重なり合って、明暗の調子が表現されるわけで当然、線が多く集まった部分はそれだけ暗くなって行く。もちろん、使う鉛筆の濃さや、鉛筆にかける力によってその内容も変化する。もちろん、こすったりしても良いが、ハッチングを使って描く方が合理的である。
一方、鉛筆デッサンと違って、絵具を使う場合、とりわけ油絵具の場合は実に様々な描写内容となる。この場合は当然筆を使うわけであるから、筆によるタッチ、筆触となる。この場合も、鉛筆デッサンのハッチング描法は筆でももちろん可能で、写実的な絵は昔からこのやり方で描かれる場合が多い。
その他、油彩によるタッチはその描く画家によって、それぞれ個性豊かに描かれてきた。モネにはモネのタッチ、ゴッホやルノワールとそれぞれかつての印象派の画家たちも、そのタッチによって色彩豊かな画面を作ってきた。中には、シスレーやジャックのようにその色彩の純度を大切にするあまり、点描によって描く画家も登場する。
このように、鉛筆や筆によって画面に明暗の調子や色彩の調子を作っていく中で、その絵のマチエール―絵肌が生み出されていく。特に油絵具の場合は、その絵具の性格から様々なマチエールが生み出される。優れた作品はマチエールも素晴らしい。例えば、ゴッホの絵から、あの独特なタッチを取って別のタッチを考えた場合、そのマチエールはもうゴッホではなくなるだろう。
マチエールと絵は、大切な関係で、これを抜きに絵画は語れないと思う。又、マチエールは何も筆によるタッチだけではなく、ペインティングナイフや他のメディウムや下地材等さまざまな方法で作ったりもできる。有名なクールベの「波」の絵は、ペインティングナイフを使って表現されているし、現代においては、絵具を削ったり引っかいたり、画面にコラージュしたり・・・と多種多様な方法で、マチエールが作られて行っている。
ただ私自身は、マチエール作りのためのマチエールのようなものは好きになれない。それなりの必然性の中で生み出された自然なマチエールが好きである。絵作りのために作ったマチエールにはどこか無理があり、不自然でしっくり感じない。それから、絵画の作品を見る時、写真で見る印象と実物を前にして見る場合の大きな違いは、その色彩もさることながら、このマチエールが写真では中々伝わってこないからである。
実物を前にその作品を見る時、その筆使いから画家の息遣いまでも伝わってきたりするものである。現代社会はさまざまなメディアが発達し、その結果、映像や各種の印刷物を通して簡単に作品を見ることができるが、それから受ける感動は本物ではないと言える。
【デッサンの大切さ】
美術ではどのような分野を目指す人も、デッサンの実技勉強がまず必要です。それはデッサン力と言っても良いと思います。ではなぜデッサンが必要なのでしょうか。自分の思いを作品にするためにはものを観察する眼と表現できる技術が必要です。これらは観察力と描写力として美術のすべての基礎と言えます。いくら素晴らしいアイデアやイメージがあっても、それを思ったように表現できなければなりません。
デッサンの実技を勉強していく中で、今まで何となく見ていたものも対象(モチーフ)を観察する眼によって見えていなかった内容に触れ、その美しさや本質を受け止めることができるのです。そしてデッサンの実技の中で、形の見方をはじめ構図や明暗の調子、材質感、空間…といった制作をしていく上での大切な要素を勉強します。
例えれば、デッサンは大きな木の幹です。その大樹の枝が、着彩や色彩、立体…といったようにそれぞれの専攻実技となります。デッサン力のあるなしによって、自らが目指す専攻領域の内容も大きく変わってしまいます
【一枚の絵による思い出】
以前、パリでルーブル美術館の中世からルネサンス期の絵画の作品を観て巡った後で、オルセー美術館の印象派の画家の絵に接した時、心から救われたような気分になったことがある。それ程、印象派の絵画の色彩は美しく眼に飛び込んできた。印象派が出現する以前までの絵画は私には色彩的には茶色ぽく感じる固有色の世界に映る。
私自身も実はこの印象派の一枚の絵によって少なからず影響を受けている。もう半世紀も昔の話であるが、確か小学校の4年生か5年生ぐらいの思い出であったと思う。図工の科目以外はぜんぜんダメな私は、時々自分の描いた絵を学校からコンクールなどに出してもらって賞をもらったりして唯一自分を慰めていたが、当時、私の通う小学校赴任されてきた山本靖先生という青年教師がおられた。
いつもパイプタバコを燻らせておられる今で言うデンディーな先生だった。この先生にある日、放課後に図書館に来るよう言われた。何も悪いことをした覚えもないが、一人で図書館に行くことは不安で勇気が必要だったが、約束の時間に部屋に入るといきなり一冊の画集を見せられた。それはパリの駅に機関車が煙を一杯はきながら入ってきている絵だった。その絵をみている私に山本先生は「汽車の煙は黒くないだろう。青い煙をはいているだろう」と説明して下さった。
その時の驚きの内容は、今でも私の中に忘れられない強い印象として残っていて、案外その時に、先生から絵画に対する見方を変え、一つの方向性を作っていただいたのではないかと思っている。
それから中学生、高校生とずいぶんと時間がたってから、あの時の一枚の絵は、印象派のモネの描いた「サン・ラザール駅」という作品であると言うことを知って、その時も驚きと感動を覚えたのである。
私に色彩の美しさを教えて下さった山本先生とは20年ほど前にあった小学校の同窓会で再会することができた。先生はその時は中学校の社会の先生で、私も中学校で美術を教えていたので教育現場の話が中心になってしまったが、それからまた、長い時間が過ぎて、あの山本先生は病気で亡くなられてしまった。もっと絵についてお話をしたかったし、何より私の絵を見て頂きたかったと今では悔やんでいる。
「現実に向ける眼差し」
太古の昔から我ら人類は「描く」という行為を通じて、感じていること、考えていることを伝えて来た。そして、その描かれた絵画は現代の社会に生きる我々が見ても、現代に十分通じる内容を持っている。例えば約2万年〜1万年前に描かれたラスコーやアルタミラの洞窟絵画は、その写実的な表現力とその迫力に驚かされる。これらは毎日生活の糧のため、命がけで狩猟していた人々の現実への厳しいまなざしの結果が一頭のヒツジ(野牛)のデッサンに表れているのである。このことを、今の同じ「描く」と言う行為を行っている我々と重ね合わせて見ると考えさせられるものがある。
「寺子屋美術研究所」
現在の薬師山美術研究所は、様々な変遷を巡りながら約20年の歴史を作って来ている。この間、実に多くの生徒達と、その指導者たる講師と接して来た。今までのことを振り返る時、それだけ感慨深いものがある。もともと、私が19年間勤めていた中学校の美術教師を辞めるにあたり、現在の自宅の二階のアトリエで、近所の一般の人達や、美大・美術系高校受験の生徒達に来てもらってやり始めた急ごしらえの教室であった。
当時は机も椅子もなく、私が日曜大工で作ったベニヤ板のパネルが机代わりで、その下にビールのケースを台に置き、座布団を敷いて、みんな座って制作してもらった。とても美術研究所と言える代物ではなく、まさしく寺子屋であった。そんな寺子屋にも、そのうち少しづつ生徒も増えて、遠くは大阪近辺からも通って来れる生徒まで出て来てそれなりに活気があった
【風呂友】
私は銭湯が大変好きである。毎日のように銭湯に出かけている。もともと、銭湯には今のように行っていたわけではなく、そのきっかけは今から34年ほど前に遡る。当時、私は公立中学校の美術教師をやっていたが、当時の学校は荒れ放題で、金八先生が10人いても、とても落ち着かない状態であった。
そんな激務の中、同僚のM先生が(彼は理科の教師であった)毎日の疲れを取るのに良いとすすめて誘ってくれたのが銭湯であり、その中にある「サウナ」であった。彼も、私が制作活動を一方でやっているように、演劇活動を当時やっていた関係で、この銭湯のサウナで毎日疲れを癒していたのである。彼から教えてもらったこの「サウナ入浴法」ははじめあまり気乗りもしなかったが、そのうち徐々に深みにはまって入って今日にいたっている。
現在、よく行っている銭湯は「若葉湯」と言って、京都市北区の北大路新町にある。暇なときは営業開始の3時前に行って、表に暖簾がつりさげられるのを待つこともよくあるぐらいの銭湯好きで、風呂に入れば最低2時間は入っている。もちろんすべての時間風呂に入っているわけではなく、脱衣所で休憩したりの時間も入れてである。
だいたいサウナには毎回4~5回入り、そのたびごとに水風呂に入ることを繰り返している。特に夏場は、実に爽快でそのようにして風呂でくつろいでいると、心身ともに開放されて実に気分がよい。とても家の風呂ではこうはいかない。こんな風呂好きにはやはり同じ仲間がたくさんいて、銭湯に行けば、その気の置けない連中と世間話をするのも楽しみの一つである。
内容も政治、経済、スポーツ、芸能から世界情勢まで、多岐にわたっている。所謂この世間話は案外その内容は的を得ている場合が多いと感じている。又、この「若葉湯」では「若葉会」なるものがあって1~2か月に1回、気のあった仲間で飲み会もやっている。銭湯通いもこうなってくると実に楽しく、中々やめられそうにもない。
【酒場】
最近は「酒場」と呼べるような飲み屋(今で言うところの居酒屋)がめっきり少なくなった。何かコンビニの店内のようなところが多くまったくガッカリする。その実ひと昔前までは、黒澤明の映画のシーンに出てくるような実に味のある酒場があちらこちらにあって、我々を楽しませてくれた。
中でも、四条大宮から市場堀川の間、四条通に面して北側にあった「マルマン酒場」は私にとっては最良の酒場と言えた。酒は名物の「マルマンカクテル」で、シングルとダブルがあった。これは焼酎(少し茶褐色をしている)をラムネで割って飲むのである。当時1000円札一枚で楽しむことができた。
客筋も多士済々で、一方で文化サロンのような一面もあった。よく一緒に飲みに行った友人と今の仕事を辞めたら、毎晩ここに飲みに行こうと話していたのだが、残念なことにしばらくして無くなってしまった。
【時計】
昔から、時計には随分とお世話になってきている。目覚まし時計から掛け時計、腕時計と、毎日時計を見ながら生活しているが、中でも腕時計は一番お世話になっていて、私の場合、寝る時も腕にはめたままという形であるので、時計を腕から外すのは風呂に入る時ぐらいということになっている。
なぜこのようなことになってしまったのかは分からないが、多分、私が時間を気にする性格からか、仕事柄そうなるのか、とにかく、腕に時計をはめていないと落ち着かない。そのうち腕時計も外し、周囲の時計も遠ざけたいと思っているのだが・・・
【シエナの町】
私はスペインとイタリアが好きで、その風景スケッチをするため、何度かそれぞれの国へ旅した。だいたい4月から5月にかけての時期に約1ヶ月くらいの日程であるが、スペインは暑く、ものすごく乾燥していて、1日歩いていると肌がざらざらになり唇も切れる時がある。
その点、イタリアはスペインよりは過ごしやすいように思う。スペインもそうであるが、イタリアも、どこを向いても絵になるような街ばかりである。ベネチアの運河沿いの古くて美しい家々、オルビエトのような古い山岳都市の街や、サンジェミニアーノの塔の街、ジオットの壁画で有名なアッシジ・・・といろいろあるが、その数多くある中で、私はシエナの街が好きで気に入っている。
シエナは文字通り、褐色の美しい街である。それは街の広場にあるプッコリコ宮殿のマンジャの塔に登り、その上から街を見下ろすとわかる。中世の街の家々の屋根が視界一杯に拡がって圧巻である。
この街全体が、中世の当時そのままに生き続けているような錯覚に陥ってしまう。油絵具の中にバーントシエナという色があるが、これはこのシエナの街の名前からついたと言われているそうである。そのため、絵の制作をするたびごとにこのチューブを手にとってシエナの街を思い出すということになる。
【寺子屋美術研究所2】
寺子屋美術教室は、2,3年ほど続いたが、そのうち家の一階部分を大幅にリフォームし、研究所のアトリエとした。この時折りたたみ式の机とパイプ椅子を入れて、初めて研究所の体裁が整った。
受験生の方も徐々に増えて、講師も依頼し来てもらった。その後、私の当初の予定とは異なって生徒の人数が増え続け、北大路教室を新たに開設し、授業の集中強化を図った。
この北大路教室が薬師山美術研究所の受験コースの中核を担っていくわけであるが、そのうち、今出川教室の増設や福井教室の新設にまで発展することになった。もともと、北大路教室の開設と共に、京都府北部(舞鶴)や福井市でのワンデイスクールや集中講習を行ってきた関係が福井教室を開設するきっかけにつながっている。
また一方で、大阪の私立高校の美術コースからの依頼で出張授業に出向いたりと、とにかくこの当時は研究所的にはかなり活発な時代であった。
生徒数も、高校生だけで100人、浪人生は30人ほどいて、それ以外に高2、高1生、中学生と続いて全部で200人ぐらいは在籍生徒がいたと思う。とても今では考えられない人数である。そのため、夏期講習では研究書のアトリエ以外に、施設を借りて実技講習を実施したぐらいであった。