画家の言葉②

【デッサンについて】

デッサンという言葉はフランス語で、英語だとドローイングとなる。

フランスでは対象の形を表現するという意味までこのデッサンを使うそうであるが、わが国ではもう日本語のように定着してしまっている感じもある。

とにかく、我々のような年代であれば、美術を勉強する場合、その実技勉強として、まずデッサンの勉強をみっちりやった上で、次の段階へと移るということになる。

デッサンができなければ、ものにならない。そのためには自分の背の高さまで描けなどと言われていたものだ。さて、今はどうか

パソコンで何でもでき、結果が出る時代。昔ほどデッサンには力を入れてないないのではないか。

その入り口付近で適当にすましているのではないか。

デッサン力=素晴らしい作者とは限らないが、それにかわるものが無いままでは淋しい。

【両輪】

みんな早くうまくなりたい、良い作品を描きたいと思って実技の制作に力を入れるけれども、それだけではまだ足りない。

一枚でも多く描くことそれ自体は大切なことで、集中して描き続けることが大事なのだけれども、一方で他の優れた作品と比べることや、

その作品の良さから学ぶことは自分の気付かなかった内容や新しい世界に出会うことであり、そのことが自分の作品制作に大きく帰ってくることと思う。

昔は絵画の勉強と言えばまず模写から始めたことでもわかる。

「見る」ことと「制作」することは言わば「両輪」であって方輪では走らない道理である。

【作品発表】

昔は展覧会に出品することは中々大変なことで、そのための制作はもちろん作品の出来不出来や費用のことまで気をもんだものである。とりわけ個展となったら尚更大変である。

その点、最近は社会が変わったこととあいまって、展覧会に対する考え方もずいぶんと柔らかくなったと言うか、良く言えば自由になったと言える。

芸大や美大に行った学生も、在学中にどんどん展覧会に出品したり、グループ展に個展とめざましい。

街の画廊も、これほど美術人口がいるのかと思えるほど実に多くの画廊が、カルチャーからプロでにぎわっている。作品と言うものを制作すれば人に見てもらいたいというのは世の常である。

まあお互い楽しめば良いと思うが、一方で作品を発表することによってきびしく作品と対峙していくことも忘れてはならないだろう。

【便利さについて】

人間は常に今よりは楽になりたいとか便利になりたいと思ってきた。そして豊かになり幸せになりたいと願ってきた。

その結果がパソコンやケータイと家電製品、車や新幹線、航空機へと発展し、日々進歩をつづけている。

けれどもこのことが我々に本当の意味で、幸せや豊かさを導き出してくれたかどうかは別だと思う。

クーラーは快適な温度を室内に作り出す反面、室外機は熱い熱風を外に放出する。

新幹線は早いが、そのためにサラリーマンは1日のうちに仕事を終わらせなければならない。

パソコンやケータイは大変便利だと思うが、そのことによって今まで以上に仕事量が減り楽になったかどうか。実際はその逆ではないだろうか?

本来の豊かさや幸せとは”もの”で縛られるものではないと思う。

【文字について】

最近はパソコンやケータイの大普及の結果、紙の上に文字を書くという行為も少なくなってきているのではないだろうか。

手で書くと言うより機会が印字しプリントする。結果、様々な字体で美しい文字がプリントされて出てくる。

今や、万年筆で一字一字文字を書くと言うことは、もはや古典の内容となってしまった感がある。

我々の年代では、昔、高校へ行く頃になると万年筆をプレゼントされ、それを制服の胸ポケットに差すと、世界が変わった感じがしたものだが、

今は文字も個性を無くし、だんだん記号化していっているように思い、さびしい気がする。

【下向く人たち】

特に朝と夕方、同じ風景に出会う。日本中、同じだと思う。バス停や駅のホームの、通学の学生やサラリーマンの姿は皆一様にケータイを片手に下を向いている。

バスや電車に乗ってもこの光景は変わらない。

私のようにケータイをもっていない人間から見ると、全く異様な光景に見える。

そこには、会話と言うものがない。たまに、新聞を広げたり文庫本を広げたりしている人を見るとホッとする。いつから、こんな風景ができたのだろう。もっと見るべきものはあると思う。

【遠ざかる言葉】

我々が使っていた言葉も、以前は使っていたがもう今は使わなくなってしまっているものがある。こういう言葉を死語と言うが、そこまでいかなくてもそれに向かって行っているものもある。

こういうのも一杯あるが、たとえば以前は喫茶店と言っていたが、今はカフェと呼び言う。内容の違いがあるからか、こちらの方がおしゃれ感があるからか。

確かに喫茶店と言えばおじさんやおばさんの姿がチラチラ横切るかも知れない。昔は純喫茶と言うものもあった。これなんかはもう死語に近い。

もう一つ、我々美術に関係あるものを取り上げると、今あまり画廊と呼ばない。ギャラリーと言う。

これなんかもギャラリーと言った方がカッコよくうつるからか。いづれにせよ、内容は同じようなものでも、外見を変えることによって、新しさを演出しているのかな。

【鉛筆の話】

我々の世代は、鉛筆をカッターナイフ等で良く削った。ヒゴノカミという万能ナイフもあって、こちらも特に男子であればいつも手にしていたものである。

もちろん、鉛筆削り機なるものも一方であって、これで削れば難なく削れるけれども、ただし誰が削っても同じ形で削れるところが良くもあり、面白くない。

カッターナイフやヒゴノカミで削るとどうしても、その人の個性と言うのも前方に出てて、中々味もあるわけである。それから少したってシャープペンシルなるものが登場した。

これによって、筆記用具は大改革される。もう、鉛筆を一本、一本削る子の姿も消えてしまった。

さて、ここで鉛筆を取り上げたのは、鉛筆デッサンをする時に鉛筆を削ることについて触れたかったからである。

鉛筆デッサンの場合、3Hぐらいから5B、6Bぐらいまで順に、薄く硬い鉛筆から、濃く柔らかい鉛筆まで複数本づつ使うわけである。

だから、デッサン用の鉛筆はかなりの量となるので、その鉛筆を全部削るのは結構時間もかかりその労力もいる。

削り方は、最初本部を削って、鉛筆の芯を長い目に出し、次にその芯をするどく削る。本部の削り角度と芯のそれがきっちり揃い、針の先のようにするどく削れれば合格で、見た目も美しい。

しかし、初心者では中々こうはいかない。途中で何度も芯を折って、それを何度もするうちに、長かった鉛筆もだんだん短くなってしまう。

けれども、何度もやっているうちに、つまり経験を重ねるうちに自然にきれいに削れるようになる。

しかし、こんな話を聞いたり、今鉛筆を削っている人の中には、なぜ、こんな風に削らなければならないのかと言う疑問も出てくることと思う

、なぜに対する解答は、実際に試してみるのが一番であるが、ここで、そのことについて答えさせていただくと、鉛筆デッサンは通常ハッチングと言って、鉛筆で引かれた線の重なりで表現される。

線が多く重なっていくと、その濃さも増し、逆に少ないとうすくなる。もちろん、薄い鉛筆を使った時と、濃い鉛筆を使った時とは変わってくるが、とにかく鉛筆デッサンの描写は線で表現する。

だから簡単に言えば、鉛筆の先が鋭ければ、それだけ精密に描けると言うことで、逆に、先が丸いと描写が鈍くなりやすいということになる。

ただ、個性もあるし、鉛筆の角度や指にかける力加減で内容も変わってくるので、一概に言えないところもあるが、一般的にはこういうことだ。鉛筆は奥が深い。

【風景写生について】

私はイタリアやスペインが好きで、その風景をスケッチするため今まで何度もおとずれている。

場所によっては何度行っても飽きない魅力を持っている。イタリアではベネチアやフィレンツェ、スペインではトレドなど、もう7,8回は訪れているかと思う。

短い旅行もあるが、わりと時間をかけた旅行もある。ひとりで行く時は大体1ヶ月くらいの時間をとってきている。

旅行する時、だいたい10号から4号までの大小5冊ぐらいのスケッチブックを持って行く。これがかなり重い。それに水彩用具一式、絵具は透明水彩の固形のものを使う。

油彩の道具は重さと量が大変なので、もっぱら水彩でスケッチをする。

そして、これらの画材が入ったバッグに加えて40ℓのリュックの荷物と、サブバッグと合わせて三つのバッグを持って移動するわけなので中々大変である。

ひとりの場合はトイレに行くときも、これらの荷物を持ち込む。日本のように外に置いておくということはできない。すればすぐ無くなる。

だからホテルが決まるまでは常にこの形で移動しなければならない。

中でもスペインの安宿はだいたい3階以上うえにフロントがあってエレベータなしときているから、満室であれば長い階段を何度も行き来しなければならず、まるで登山をしているような内容になる。

しかし、日本国内でスケッチをするのとは違って、わざわざヨーロッパにまで来ていると言う気持ちで気合も入る。

さて、私のスケッチだが、何かスケッチと言うと、短時間でサラサラと描いてしまうイメージがあるけれども、

私の場合は作品の大きさや描く場所によっても異なるが、結構時間をかけて描くことが多い。

例えば、10号大のスケッチブックを見開き(2枚分)で描く場合、約4時間以上かかってしまったりする。短くても、3時間くらいは風景に向き合って描いている。

その意味ではスケッチと言うよりは写生と言った方がいいかもしれない。

そこで、風景写生の内容だが、まず描く場所をさがすことから始める。だいたい移動とホテル探しをやった前日、ホテルにチェックインして荷物を置いた後、描くべき場所を探す。

あらかじめ、ガイドブックやマップであたりはつけてあるものの、実際に自分の足で歩いてみなければ描きたい場所は見つからない。

このように前日に写生のポイントを決めておくと、写生当日は余計な事をしなくてもただ写生するだけの時間が持ててあまり疲れないし、写生にその分集中できるわけである。

次に、私の場合の描き方であるが、まず色鉛筆の黒を使って、画面に(スケッチブックに)線描をする。色鉛筆だから消しゴムは使えない。一発勝負である。

この線描に大半の時間をかける。その後、透明水彩を使って画面に彩色していく、と言う技法である。

このやり方が今は一番、自分に合っているように思って続けているが、それまではいろいろと描き方の上で、ずいぶんと試行錯誤してきたものである

一番最初の頃は、水彩や油性のサインペンを使ったりし、次に割り箸に墨汁をつけて描いたりした。

私の場合、特に線描にこだわりがあるので、何の材料で線描するのかということが極めて重要になる。もちろん、はじめは普通の鉛筆を使ったりしたのであるが、

はじめてヨーロッパの石やレンガで造られた建造物が立ち並ぶ風景を前にした時は、そのあまりの圧倒的な迫力に射すくめられ、

鉛筆で描くことに何か弱々しい自分を感じてしまったからに他ならない。今はそうは思わないけれども、それぐらいのスケールの大きさを当初は感じた。

画材にはそれぞれの描く人の個性や考え方の違いもあるので、要は自分に合った材料を使えば良いわけであるが、ただ、何がどんな材料が合っているのか見つけることが大切だと思う。

私の場合その方法にたどりつくまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。

風景写生についてもう少し続けると、写生には天候が大きく影響する。描いている途中で雨がポトポト降ってくることもある。

以前、トレドの町を見下ろす山上で、そのパノラマを描いていた時、途中でにわかに雲行きが怪しくなったかと思うと雷鳴と共に激しい雨に襲われてしまった。

その時はまだ制作半ばであったので、木に傘を載せて、そのまま写生を続けた。

このような悪天候ではなくても、普通、午前の光と午後の光とは、かなり異なって対象の風景の見え方が変わってくるので、私の場合は午前に一枚、午後に一枚と、制作を分けている。

その他、一枚の写生の作品を描きあがるためには様々な工夫や努力がいる。何も風景写生に限らず、一枚の絵を描くことは、それに要する様々な作業や準備も含めて制作と言えると思う。

【パレットについて】

パレットを見れば、およそ、絵を描いているその人が見えてくるような気がするし、絵の内容まで表れてきそうである。

私は油絵を描いているので、ここで取り上げたパレットは油絵のパレットのことを言っている。パレットも使う人によって実に様々な顔を持っている。

時には、有名画家や大家と呼ばれた画家のパレットを展覧会等で見つけたりすると興味が尽きない

パレットに絵具を並べる場合、普通は白から順に、明るい色から暗い色まで並べるが、画家によっては、この絵具の色の置き方が異なり、実に面白いし、その配色の仕方まで読み取れる。

このように、絵具の並べ方は自由だが、ただし、共通することは、そこには各色の置かれるべき場所が決められていて、どんな場合も整然としている点である。だから、パレットを見ていても美しい。反対に、いいかげんに絵具を並べている人は、まったくパレットに魅力を感じない。中には絵具の置き場所も毎回変わり、置く色数も数色だけと言う人もいる。

こういう人は描いている絵も然りである。良い絵を描こうとしている人は、その姿勢がおのずとパレットにも表れ出るものである。

【パレット・美しい色】

この場合は、油彩画の場合を例にして話してみたいと思う。水彩画の場合は、透明水彩は、この内容はあてはまらない。

ガッシュ(不透明水彩)の場合が少しあてはまるが、水彩と油彩では、その内容がずいぶんと異なるので、別の機会としたい。

ここでは、油彩の油絵の具を取り上げて、その発色について触れてみたいと思う。

絵具のチューブから出した色そのものも美しいけれども、色と色を混色して、つまり混ぜ合わせて使った色はさらに美しい。

画材店に販売されている絵具のセットは、12色からせいぜい24色ぐらいまでである。

あとは自分の気に入った色のチューブを単品で求めることになるのであるが、それにしても色数からすれば、たかが知れているし、

自分の感じた色や思っている色を作るためには混色しなければならない。それに、チューブのままの色は生っぽいのである。

一口に混色と言っても、何色と何色を混ぜるか、その割合、そして、無彩色である白や黒を混ぜることによって、無限ではないにせよ、かなりの幅の色を得ることができる。

一般的に、混色する色数は、有彩色だけの場合は2色から3色までと言われている。それ以上の色を混ぜると、色は濁り、汚くなるし、その色の輝きもなくなる。

さらに色は、混色以外に重ね塗りをすることによって作ることもできる。最初に置いた色の上に別の色を重ねることによって、この場合も実に様々な色を作りことができる。

ただ、油絵具の場合、すぐに乾かないという性格上、技術的な側面もここには加わる。

半乾きの上に重ねる・完全に乾いてから重ねる・ベタ塗りで重ねる・ハッチング(網目のタッチ)の線描きで重ねる・・・等、多くの方法で結果が変わる

それから、自分の作りたい色以外に、その周囲にどのような色を持ってくるか置くかで、作った色の見え方も変化する。

美しい色を出したい、画面上に置きたい、美しい色で表現したいと思っても、それは一個の単独の色の美しさではないのである。

様々な色の組み合わせや、絵具の扱い方によって初めて得られるものなのである。

【絵の下地】

ここでも油彩画を描く上でのこととして地塗りについて取り上げてみる。地塗りのことをファンデーションとも言う。

その意味では、女性が化粧をするときに使うファンデーションと言う言葉を思い浮かべるとある意味理解できると思う。要は絵画を制作する上の下地作りにつながることである。

キャンバスやパネルに、直接最初から絵具で描いても、もちろん結果が良ければ良いわけであるが、

最初にファンデーションをしてからその上に絵具を置いて描いていくのと、何もしないで描くのではずいぶん結果が異なってしまう。

それではなぜファンデーションをするのかと言えば、一番の理由は絵具の発色の効果であり、その安定性や耐久性にある。

通常、ファンデーションホワイトやジェッソと言った地塗り用の塗料を使うが、他の方法でそれぞれに工夫してする。それらが乾いたら、サンドペーパー等で削って、上に絵具が付きやすくしたりする。これを数回すると美しい地塗りができるが、ここで言う地塗りは、この最初のファンデーションだけではない。

絵を描く時、自分の出したい色というものが当然ある。その色を作り出すためには、何層もいろんな色を下に置き、様々に重ねながら、

最終的に一番最後に上に置いた色が、下に置かれた色によって生かされるようにしなければならない。そのような地道な制作上の準備が下地作りである。

人によっては、絵の制作はこの下地作りが80%、90%と言う人もいるぐらい大切なものである。一枚の絵を前にした時、この絵の下地はどのような内容かと思ってみると面白い。

【絵を描く時のテーマ】

私は約40年間、絵を描いてきた。油彩画、いわゆる油絵である。それ以外に水彩画やスケッチにデッサンも合わせると、数の上でもかなりの作品数となる。

小さい時から絵を描くことは好きであったが、高校の美術部に入ったのが、絵画の道に向かうきっかけになった訳なので、その時代の分も時間に入れると、もう相当長く続けてきている。

この長い時間の中で、グループ展や個展、公募展に各種の展覧会にと作品発表を続けてきた。

この間、もちろん絵を描くこと以外でも人並みに生活する上で実に様々なことがあって、その中での制作である。

思えば自分なりに実によくやってきたものである。よく「継続は力なり」と言うが、続けていくことは中々大変である。

昔、先生から「制作することよりも、続けていくことが大変で大切なことだ」と言われたことを良く思い出す。

何をやっても3カ月以上は続かなかった自分が、何故か絵を描くことだけは続けてこれたことに対し驚くし、それを支えてくれた家族に感謝している。

さて、前置きがずいぶん長くなってしまったが、ここで取り上げたかったのは、絵を描く時のテーマについてである。

私自身、先にお話をしたように、長い画家人生の中で、絵を描く時のテーマもその間に様々に変わってきている。

最初の頃は静物や風景を描き、次に家族を描き、ヨーロッパ旅行から帰ると、フラメンコのダンサーを描いた。

しばらくたって、女性の群像や室内風景が続き、今描いている「私風景」と言うテーマに行きつく。「私風景」とは私が勝手にそう名をつけ呼んでいるのだが、これも室内風景のようなものである。

日常、私の周辺にある様々な「もの」たちがモチーフである。

例えば、段ボール箱、マネキン、ガラス瓶、紙や樹脂のパイプ、木片、乾燥した果実や植物、貝殻、化石…等、実に多種多様の無機質なものたちである。

人によってはガラクタとも見えるかもしれない。私はこれらの者たちを自分なりに構成し、そこに秩序を与え、私なりの室内を作り出す。

絵を描く時、「何を描くか」と言うことは大変重要なことだと思う。それは何をテーマにするかということであり、絵の内容を決定することになる。

私の経験では、この「何を描くか」という自身への問いかけに自然に導かれて出て来たテーマほど強く、その存在感があるように思う。

私自身、現在のテーマにたどり着くまで、絵を描くための材料としてだけあって、その結果、振り返ってみると、そのテーマ性が希薄であったように思う。

つまり、今のテーマに手ごたえのようなものを感じているわけであるが、「何を描くか」と言うことの裏には、絵を描く必然性があると思う。

そして、「何を描くか」の次には、それを「どう表現するか」ということにつながる。この二つの内容がうまく混ざると良い作品が生まれるように思う。

ただ、何度も取り上げてきている「何を描くか」というテーマがすぐに見つかる場合と、中々見つからない場合があると思う。

私の場合、今のテーマが見つかるまで、実に四半世紀の時間を使っているわけである。

自分が絶対これぞと思えるテーマにたどりつくまではそれなりに様々な努力や苦労があって、まさしく人生そのもののようでもある。

また、現在のテーマがそのまま続くと言うことにも限らず、先で、また違ったテーマにたどり着いたりもするわけで、ますますそのように思ってしまったりする。

その意味では「何を描くか」ということは、「どう生きるか」ということに向き合っていくことにもなるのではないかと思う。