Hong Kong Heritage香港の建築

Study of Modern Architecture: Hong Kong『アジアにおける近代建築の基礎研究』 香港編

目次

1.都市史概略

2.建築技術者及び建築家の系譜

3.建築遺産現存状況

4.建築遺産目録一覧及び地図

5.建築遺産目録

6.連合王国公文書館所蔵建築図面目録

1.都市史概説

黎明期

未だ中国とイギリスの間で阿片戦争が行われていた1841年1月、イギリス政府貿易監督官エリオットは香港島に植民地政府の樹立を宣言し、その北岸に軍事基地を置くことにした。この島を領有することになったのは、広東において阿片戦争が長引いているという軍事的配慮が強く働いたからだといわれ、実際はここよりも膨大な中国人人口が近くに控えていた舟山列島が商業的に有力視されていた。そして,正式の割譲(1843年6月)を待たずに,マカオからイギリス人商人や宣教師たちが多数移住してきて,イギリス軍は彼らと同居するようになった。そして,軍は島の北岸中央部に砲台と司令部を,またウエスト・ポイントに補給施設と兵舎を置いた。また,このような軍事力に守られて民間商人たちも用地を確保して行き,最も力のあったジャーデン・マセソン商会は唯一小さな平野が開けていたハピィ・ヴァリィと船着場となるイースト・ポイントを,またリンゼイ商会はスプリング・ガーデン(現在のセントラル地区の一部)を,それぞれ中国人地主から買収した。このように,軍が香港島を軍事基地と倉庫の施設としてだけ位置付け,後は民間商人たちの自由意志に任せたことから分かるように,最初期香港では全体的な都市計画は行われなかった。ところが,このことは後に大きな土地問題を引き起こすことになった。

土地改革と初期建設技術者組織

すなわち,最初の5カ月間民間商人たちは現地中国人から購入した土地にそれぞれ建設活動を行っていたにもかかわらず、41年6月になって総督エリオットはそれを無効とし、新たに土地を区画し直し、競売に付することにした。当初、クィーンズ街をはさんで海側と斜面側に間口100フィートの区画をそれぞれ100づつ用意するはずであったが、実際に測量をし、居住可能な場所を検討してみると、海側に40区画しか確保できないことが分かった。それでも、政府は優先的に6区画を取り、1区画を保留とし、残り33区画の使用権を民間に売却した。

政府は41年6月に初めて40区画を売却したが、しかしそれ以外の土地は商社らが個人的に中国人土地所有者から買い上げたもので、土地分配の平等や税収の確保から、二代目総督ポッティンジャーは再び土地改革に取り組まなければならなかった。さらに、香港政庁は本国政府からの十分な補助金を望むことができなかったから、唯一安定的な財源である地代の確保のために土地改革は急務であった。そのため、41年10月マイリウス(Captain G. F. Mylius)を土地測量師(Land Officer)に任命し、北岸一帯を初めて測量させるとともに、42年3月土地改革実施を検討する土地委員会(Land Committee)を組織した。そして、彼らによって街路の配置、ヨーロッパ人居住区と中国人居住区の位置と範囲、軍事用地の範囲、波止場の位置、補償の方法などを定めた。このように、ポッティンジャーはヨーロッパ系商人と協力し香港を貿易拠点にすることに尽力したが、しかし香港に対する本国政府の姿勢は「商品を安全に保管しておく倉庫」としか考えず、「軍事施設と倉庫以外の建物はすべて撤去しなければならない」というものであった。

土地委員会の答申に基づき政庁は,ポゼッション・ポイントまでのクィーンズ街海側の土地25エーカーを不法に所有していた民間から買い上げ、新たに間口105フィート幅で101区画に整備し直し、その使用権を再度民間に売却することができた。このようにして中環地区から上環地区にかけてのクィーンズ街とプラヤ(埠頭)に挟まれた土地が形成され,ここが東アジアへの足がかりのために香港に集まったヨーロッパ系商人たちの一等地になった。

軍工事局が初期の建設事業全体に対してイニシアチヴを取り,資材は途中中国遠征隊が立ち寄ったシンガポールで積み込み,そして倉庫はその煉瓦と石を使って,また兵舎や商館はその木材を使ってそれぞれ建設した。エイテルによれば,居住施設の多くはインドや東南アジアに居住するヨーロッパ人に最もよく用いられていたバンガローと言われている。木造平屋の建物の周囲にヴェランダを巡らしたもので,屋根は茅葺きであったらしい。1842年暮れから43年にかけて建設されたこのバンガローは,その年の夏に台風と白蟻の襲来によって大被害を受けてしまった。そのため,イギリス陸軍工兵隊は被害調査を行い,改善案を策定することにした(Aldrich's Report, WO4467)。この報告書を作成したのが工兵隊技師アルドリッチで,彼は周辺の中国建築からより勾配のきつい瓦葺き屋根を採用し,また近くの島(Stone Cutter Island)に産する良質な石材を用いて本体とヴェランダを組積造にすることにし,さらにヴェランダの幅を最少10フィートにすることにした。また,マカオのコンプラードール(買弁)たちを仲介として中国人の石工、煉瓦工、大工などを広東から雇い入れ,軍工事局(Ordnance Department)が中心となって本格的な建設活動を開始していった。1846年のブルーブックは,「過去18ヶ月間の官民の建築工事の進展はまことに目ざましいものがあり,これは中国人の安くて良質な労働力なくしてはありえなかった。このような建設の遂行は他のどの植民地にもないものである」(Blue Book, 1846, BPP)と述べている。

工兵隊の改善案を基に最初に竣工したのが下級士官用宿舎で,その後20世紀初頭までこの様式は香港の広く用いられた。1846年政府が民生政府に移管されると,軍工事部は工兵隊局(Royal Engineers' Office)と公共事業局(Surveyor General's Office)に分割され,それぞれの下で初期の施設建築が建てられていった。A.T.ゴードンが公共事業局の初代技師長となったが,技師長補佐であったC.St.G.クレヴァリィ(Charles St. Geroge Cleverly)が1847年以降その職務を継ぎ,その後退職するまで20年余りほぼすべての公共建築と,おそらくかなりの民間建築をも設計していったらしく,彼の作品としてコロニアル教会(現聖ジョン教会堂,1849年竣工),初代総督府(1855年竣工)や上環地区警察署(1862年竣工),ストーンカッター島刑務所(1868年竣工)など多数が現存している。また,工兵隊局設計のものとして現存するのは指令官官邸(現茶文具博物館,アルドリッチ設計, 1846年竣工)がある。

セントラルからプラヤに面して建設された軍事施設,植民地官庁やヨーロッパ系商会に対して様々なサーヴィスを提供するために,必然的にクィーンズ街の陸側が中国人居住地となっていった。1847年のブルーブックの中でクレヴァリィは,「1843年の私の最初の測量から始まっていた住宅の建設のために,私はここ数カ月市街地計画図を作成する必要がありました」(Blue Book, 1847, BPP)と述べており,斜面傾斜が緩く,僅かな平地があった太平山一帯が公共事業局によって中国人街となった。従って,この辺一帯は香港でも最も早くから中国人街として開けたところで,現在でも格子状の街路から計画の痕跡が見られる。

市街地の形成と衛生問題

このように公共事業局が計画した中国人街とその住宅は,当然中国人の伝統的町屋とは異なるものであった。もう少し詳細に建設の経緯とプランを見てみよう。これについては1870年代に入ってから政庁によって大々的な調査が行われることになり,その報告書から建設当初の様子を知ることができる。この調査が行われるようになったのは,中国人街における高い死亡率及び伝染病感染率が,ヨーロッパ人居住者と兵士の健康を脅かすとみなされたからであった。調査は1881年に衛生技師チャドウィックによって始められた。その報告書によれば,初期中国人街はイギリス軍に協力するコンプラドール(買弁)たちが,広東から呼んできた労働力たちに居住施設を提供するために建設した住居兼店舗のものであった。そのため,バザールと呼ばれた。次第に,より多くの住居が必要となり,彼らは太平山地区に住居を建設し,それを中国人労働者たちに床単位,間仕切り単位,あるいは寝台単位で貸し出した。構造部は広東製煉瓦で作られ、開口部回りや一階入り口の梁には香港産花崗岩が用いられた。一階床は赤色タイル式または版築で、その奥の調理場の床は花崗岩が敷かれ、そして二階は樅の丸太の上に板を張って作られていた。間口幅15フィート前後、奥行き30~60フィートの住戸が街路に沿って連続し、背中合わせ(back to back)に建ち並ぶこともあった。一階部分は街路に全開放され、もっぱら店舗や作業場(Shop)として使われ、後方には奥行き7フィートほどの調理場(cook house)が設けられ、その上の二階床と屋根には4~5フィート四方の煙抜きが開けられていた。室内は、一階が店舗や作業場に使われる場合を除いて、ほとんど10フィート四方に間仕切りされて貸し出され、チャドウィックの調査によれば、そこにはたいてい十数人が寝起きし、最大高密居住として8つの連続住戸に428人の労働者が住んでいた例をあげている。

このような住居はイギリスのテラスハウス式の労働者住宅に非常によく似ており,それが参考にされたのであろう。「建築規則」は公衆衛生の問題を建築的に解決するために1856年になって初めて制定され,住居の各部の材料、寸法、そして構法が定められ、各住戸に調理場と便所を備えた三階建てまでの建築が正式に許された。おそらく、チャドウィックが描いた建物はこの建築規則を最小限遵守しており、1856年以降に建設されたものと思われる。歩廊がつけばシンガポールの中国人街の建物と全く同じ形態になり,また単身者居住に合わせた特異な使い方も共通していた。この歩廊の設置は,できるだけ多くの住民に居室を提供するために1878年に「ヴェランダ規則」によって許可され,結果的に東南アジアから南中国の中国人街の特徴的な町並みになっていった。

民間建築家と中国人請負業者

香港に移住してきた民間人たちは,最初期には軍工事局から,次いで公共事業局から公式・非公式の技術的支援を受けて自らの建設活動を行ったが,有力な商会は自ら建築技術者を遠隔地から呼び寄せることができた。香港に初めてやってきた民間建築家は,ジャーデン・マセソン商会が1844年頃にカルカッタから呼び寄せた人物で,イーストポイントに3階建ての倉庫を設計,建設した。彼が誰であったのか定かではないが,1847年の香港にはE.アッシュワース(Edward Ashworth)とG.ストゥローン(George Strauchan)という二人の建築家が居住していた。おそらく,その建築家とはジャーデンとマセソンと同じようにスコットランド出身であったストゥローンであったと思われ,彼は1846年に自らの設計でヴィクトリアクラブを,1855年には公共事業局に協力して総督府を竣工させている。総督府では,周囲に一階ドリス式オーダー二階イオニア式オーダーの列柱廊を巡らしたグリーク・リヴァイヴァル様式を用いており(MR1766),この建築は前述したイーストポイントのJM商会倉庫と邸宅やセントラルのJM商会事務所,さらに香港工兵隊様式とも酷似するものであり,限られた活動地でお互いに影響し合っていたのであろう。周囲に列柱廊が巡らされたコンパクトな商館建築は,東アジアで最初に香港に出現し,そしてストゥローンやアッシュワース,そして工務局技師によって中国と日本の開港場へと伝えられたと考えられる。

香港の官民の建設事業に関わった中国人の中から,しだいに自ら請負を行って行く者が出現した。アチョイ(Achoy)はシンガポールのドックヤードの職工であったが,イギリス軍とともに1841年に香港にやってきて請負業を始め,P&O事務所や為替交換所などを施工した。アチョイしても,その後請負を始めたアロック(Aluck)も,香港でヨーロッパ人と中国人居住者の間に立って様々な商売に手を広げ,初期の中国人エリートに成長していった。そして,ワンチャイやシェウンワン地区の廟や寺院の多くは彼らの寄進によって建設されている。

埋め立てと生活基盤の整備

20世紀初頭までの香港の建築の発展は,プラヤとともにあった。初期にはここに列柱ヴェランダを巡らした2,3階建ての商館建築が建ち並び,ついで1860年代にはアーケードヴェランダの4階建ての商館建築に代わったが,ここはいつも香港建築の顔であり,海からやってくる人々の心を魅了してやまなかった。しかし,実際はデント商会らの建設反対にあってプラヤは分断されたままであったし,また1867年のものを始め頻繁に襲来した台風によって初期の強度の弱いプラヤは大打撃を受け,1870年代はこのプラヤの再建は急務の仕事になった。これも一部の土地所有者の反対にあったが,やっと1877年になって工事が始められた。ところが,その間業務用地の不足が顕在化し,政庁は1887年プラヤの海側を埋め立て,65エーカーの土地と総延長1万フィートの新プラヤを建設することを決めた。1888年に始まった工事は1904年に竣工し,ここに公共建築が中心に建設されることになり,これによってかつてのプラヤの意味は失われた。最初に建てられた公共施設は裁判所で,これは植民地省顧問を勤めていたアストン・ウェッブ(Aston Webb)が自ら設計したもので,実施設計には事務所の共同経営者であったE.イングレス・ベル(E.Ingress Bell)が当たった。続いて,電報局,郵便局,港湾局などが建てられた。また,この時代生活基盤の整備も進み,1888年にピーク・トラムウェイが開通すると,有力な外国人たちは競って冷涼な高台に住居を建てるようになり,ピークの開発が一気に進んだ。さらに,1904年最初の市電が開通し,それまでの人力車に取って代わった。

総督府は,1929年ボールルームが増築され,さらに1942年日本軍政下日本人建築家藤村によって大改築が行われ現在の姿になった。経済的な理由により,クレヴァリィとストゥーロンが設計した元の構造部をできるだけ利用したと言われている。

参考文献

1. Eitel, E.J.,Europe in China, 1895.

2. 20th Century Impressions of Hong Kong, 1908.

3. Smith, C.T., Early Buildings in Hong Kong, 1965.

3. Hong Kong Connoiseur's Collection, 1985.

4. Hong Kong Heritage, 1989.

5. A History of Kowloon-Canton Railway, 1990.

6. The Building of Hong Kong, 1990.

7. Cameron, N.,An Illustrated History of Hong Kong, 1991.

2.建築技術者及び建築家の系譜

東アジアでイギリス陸軍工兵隊(Royal Engineer)という最初の建築技術者たちを駐留させた香港は,その後中国と日本に開かれる外国人居留地の建築にも大きな影響を与えていったと考えられる。この工兵隊と公共事業局,および民間建築事務所の建築師の系譜を明らかにしてみたい。

香港駐留工兵隊

工兵隊(Royal Engineer)とは,連合王国ケント州チャサム(Chatham)の陸軍工兵隊学校で軍事関係の建設技術を学び、卒業後軍属になったものを指す。多くは陸軍に入ったが,一部は東インド会社軍隊に入った。氏名の最後につけ加えられたR.E.が,工兵隊の資格を示している。

阿片戦争に従軍したのは,イギリス陸軍とインド東インド会社軍の所属の工兵隊たちで,初期香港の官民のほぼすべての建築事業を手がけたと考えられる。その中でアルドリッチ(Major Aldrich)とT.B.コリンソン(T.B. Collinson)は,1843年に香港最初の測量図を完成させ,また同年台風と白蟻被害に対する施設建築の改善案を調査,作成した。このように,彼らは香港最初期の建築の様式を決める際に決定的な役割を果たしたと考えられる。

1843年に工兵隊局(Royal Engineers' Office)として独立し,4,5人の工兵隊と数名の補佐を擁していた。イギリス軍の中国や日本への遠征時には必ず同行し,威海衛や横浜には軍とともに駐留した。50年代には工兵隊としてS.L.バード(S.L. Bird),F.ブライン(F. Brain),F.クレメンツ(F.Clements),S.G.ローリング(S.G. Rawling),C.C.タフツ(C.C. Taffs)などが工兵隊局にいた。また,S.L.バードの弟であったS.G.バード(Sotheby Godfrey Bird)が同時に補佐として勤めており,イギリスに割譲された九龍地区の測量を1860年に行い,また63年頃公共事業局に移り,さらに67年頃には民間建築事務所(Bird & Co.)を開設した。78年にはウィルソン&サルウェイ事務所(Wilson & Salway)の共同経営者になっている。また,F.ブラインは1860年に日本にやってきて,横浜の駐屯所を建設している。ローリングは59年に水道施設設計コンペで一等案をかち取ったことにを契機に,メドレンと共同で建築事務所(Rawling & Medlen)を開き,さらに61年には時計台の設計コンペもかち取っている。

60年代にはダイアック(J. Diack)が香港工兵隊局に補佐として所属しており,香港で彼が手がけた建築は確認されていないが,70年に日本の工部省に雇われ海軍兵学校などを設計している。このように,工兵隊技師たちが民間に移ることが多かったのは,香港最初の技術者として公式,非公式に民間の仕事を手伝うことが多く,そのため第一次建設ブームには自ら建築事務所を開くことになったのだと考えられる。しかし,70年代に入ると,公共事業局や民間事務所の建設技術者は本国から直接来ることが多くなり,工兵隊技師たちが公共事業局や民間に移ることはなくなっていった。

香港公共事業局技師

エリオットの軍政の下の1841年7月,J.R.バード(J.R. Bird)を監督として公共事業局が,またG.F.マイリス(G.F. Mylius)を測量師として土地事務所(Land Office)がそれぞれ設立された。最初に建設された民政用建築は,刑務所と裁判所であった。1843年6月香港島の正式割譲と共に民政のための行政組織が再編成され,土地局兼土木技師長にA.T.ゴードン(A.T. Gordon),技師長補佐にC.St.G.クレーヴァリィ(C.St.G. Cleverly),土地局補佐としてテレント(Terrant),道路監督官としてM.ブルース(M. Bruce)がそれぞれ任命された。さらに,同年8月には技師長補佐にハヴィランド(Havilland)が加わった。その後,1846年にかけてJ.ポップ(J. Pope)が公共事業局に加わり,また同年12月にはゴードンに代わってクレーヴァリィが技師長職に就いた。この時期の最大の懸案は,総督官邸,総督府と教会堂の建設であり,初代技師長ゴードンと工兵隊のアルドリッチによる計画を経て,二代目技師長クレーヴァリィの手によってやっと1851年に着工(G.ストゥローンと共同),1855年に竣工した(Eitel)。

1850年代に入ると,中国人人口の増加に伴って犯罪や公衆衛生が大きな問題になり,植民地医師C.デンプスター(Carroll Dempster)の提言を入れて下水システムの整備と中国人家屋の換気の完備などを義務付けることにし,これは1856年に制定され最初の建築規則になった。60年代の大事業は,新刑務所,造幣局,上下水道,九龍の堤防の建設であった。造幣局は1866年4月に創業を開始したが,採算が取れずに同年末に廃止,1868年に日本政府に売却されることになった。ヴィクトリアン・ゴシック様式の建物の設計者は定かではないが,T.W.キンダー(T.W. Kinder, A.M.I.C.E.)が建設・機械据え付け監督を行い,その後大阪の造幣局の建設にも携わっている。

中国に開港した居留地の領事館の建設も香港公共事業局の仕事に含まれ,広州の民間商館の再建も彼らが中国側の賠償金を用いて手掛けたと思われる。1859年にはクレーヴァリィは広州沙面の埋立造成計画図や領事館建築の設計図を作成し,また技師長補佐のウォルカー(Theo. Walker)は福州の領事館などの設計を行った。1868年にはクレーヴァリィは職を辞するが,それまでの25年間香港の初期建設事業の最大の貢献者であった。補佐を勤めたウォルカーやクラーク(Clark)が任期途中で死亡したことを考えると,彼の長期にわたるサーヴィスは非常に希有な存在であった。1867年,技師補を勤めていたC.H.ストーリィ(C.H. Storey)とその子C.Jr.ストーリィ(C.Jr. Storey)は民間に移り,これがローリング&メドレンとともに香港最初期の建築事務所となった。これに少し遅れて,1870年技師長代理であったW.ウィルソン(Wilberforce Wilson)はサルウェイとともに建築事務所を開いている。

二代目L.M.モーソン(L.M. Moorson)は1872年に病気を理由に技師長職を辞し,臨時的に工兵隊のマックハーディ(Mchardy)が職に就いた。1873年J.M.プライス(J.M. Price)が正式に三代目技師長に就き,補佐にE.ボードラー(E.Bowdler)を雇った。この70年代の大事業はタイタム貯水池の建設とプラヤの再建であった。4代目技師長W.チャサム(W. Chatham)の代には大学の設立と九龍の開発が大事業であり,イギリスで世紀の建築教育を受けた建築家を雇ったり,民間土木建築事務所に設計を依頼した。S.H.イクサー(S.H. Ixer)はロジャー・スミスの門下生で,1909年頃香港公共事業局に入り,香港大学などを設計するとともに,その後香港大学建築学科の講師をも勤めた。A.G.W.ティックル(A.G.W. Tickle)は1910年代から20年代にかけてクィーンズ・カレッジ,セントラル警察署増築,ヴィクトリア刑務所増築,マウンテン・ロッジ増築などを担当した。M.ウッド(Marshall Wood)は,上記の二人とほぼ同じ時期に香港公共事業局に勤めていながら,広州のサン・ホテル,グリフィス邸,ロシア帝国領事館,ヴィクトリア・ホテル,香港上海銀行広州支店などの民間建築を多数手がけた。

20世紀初頭の大事業として九龍・広東鉄道の建設があげられ,これは公共事業局に民間建設コンサルタントJ.W.バリィ&パートーナーズ(John Wolfe Barry & Partners)が協力して1906年から工事が始まった。また九龍駅舎の方は,1913年マラヤ連邦州鉄道の建築技師A.R.フバック(A.R. Hubback, R.I.B.A.)の設計案を実施することにし,1915年に完成した。

民間建築事務所

ストーリィ親子は1860年頃から公共事業局の勤めていたが,二人とも1866年頃に退職し,ストーリィ親子事務所(Storey & Son)を開設している。おそらく,公共事業局時代からかなりの民間建築をも手がけていたと考えられる。香港での建築作品は確認されていないが,1869年には神戸の仕事に所員のJ.スメドレィ(J. Smedly)を派遣していることから,手広く東アジアの開港場で民間商社の仕事を手がけていたのであろう。しかし,1870年代末には香港の建築界から姿を消している。

ストーレィ親子建築事務所とともに設立の早いのはローリング&メドレン事務所(Rawling & Medlen)で,前述したようにローリングは工兵隊局出身であったが,メドレンについては不明である。建築作品としてはセントラルの時計台しか確認されておらず,またこちらも70年代半ばには姿を消した。

パーマー&ターナー事務所(Palmer & Turner)は,その前身がW.サルウェイ(William Salway)によって1868年に設立されて以来,今日まで東アジアを代表する建築事務所である。サルウェイはオーストラリアに生まれ,イギリスで建築教育を受けた後,1868年から香港で11年間民間の建築設計を手掛けることになった。彼は,1870年に公共事業局技師補W.ウイルソン(Wilberforce Wilson)とパートナーを組んでウイルソン&サルウエイ事務所(Wilson & Salway)を興し,初期にはジャーマン・クラブ(1872年竣工),聖ピーターズ・シーメンズ教会(St. Peters' Seamen's Church, 1872年竣工),チャータード銀行(Chartered Bank, 1878年竣工)などを手掛け,特にヴィクトリアン・ゴシック様式を好んだ。サルウェイは1874年に王立建築家協会の準会員に選ばれたが,1878年に工兵隊局のS.G.バードを迎え入れたのを契機にオーストラリアに帰った。事務所の建築デザインの能力を補うために,1882年にC.パーマー(Clement Palmer)をイギリスから雇い入れた。また,ウイルソンが退職すると構造担当にA.ターナー(Arthur Turner)を迎えたが,彼の経歴については不明である。初期にはイギリスのエドワーディアン・バロック様式を好み,代表的作品として香港上海銀行(Hong Kong & Shangahi Bank, 1886年竣工),総督府増築(Government House Annexe, 1891年竣工),チャータード銀行(Chartered Bank, 1894年竣工),香港クラブ(Hong Kong Club, 1897年竣工),マウンテン・ロッジ(Mountain Lodge, 1902年竣工),ヴィクトリア病院(Victoria Hospital, 1903年竣工),アレクサンドラ・ハウス(Alexandra House, 1904年竣工)などが挙げられる。1920年代末にはモダニズム様式をも手をがけるようになり,代表的作品として戦争記念看護院(Hong Kong War Memorial Nursing Home, 1932年竣工),香港上海銀行(Hong Kong & Shanghai Bank, 1935年竣工)が挙げられる。1923年にはG.L.ウイルソン(G.L. Wilson)に上海事務所を担当させ,そこでも最多産の建築事務所となった。しかし,30年代半ばからの中国国内における政情不安により,活動をジョーホール,ラングーン,マドラスなどに移していった。

ダンバイ,ルイス&オレンジ事務所(Danby, Leigh & Orange)は1890年頃設立され,その後20年間パーマー&ターナーともに香港を代表する建築事務所であった。公共事業局とともに広東九龍鉄道の実施設計や施工を手掛け,また香港大学(Hong Kong University, 1911年竣工)の設計を行ったことが知られている。20世紀初頭の香港土木建築界をリードしたもう一つの建築土木事務所はデニソン,ラム&ギブス事務所(Denison, Ram & Gibbs)で,ラム(E.A. Ram, F.R.I.B.A.)は1880年代末に香港で事務所を自営し,1901年頃に土木技師であったデニソンとギブスと事務所を共同経営することになった。自営時代の代表的作品として,香港ゴルフクラブ(Hong Kong Golf Club, 1893年設計),三井物産香港支店(Mitsui Bussan Kaisya, 1893年設計)が挙げられる。

このラムを含めて,19世紀末には多くの個人設計事務所が出現した。他のイギリス王立建築家協会員としてW.St.L.ハンコック(W.St.L. Hancock),J.レム(John Lemm),R.N.ヘイウィット(R.N.Hewitt)イギリス土木技師学会員としてB.B.ハーカー(B.B. Harker)などが活動していたが,個別の作品については不明である。しかし,このような個人事務所があったとしても,20世紀前半までの香港民間建築界の特徴は大事務所の活動が抜きんでいたことと,これら全てが土木技師と建築家の共同組織であったことであった。

また,様式的特徴は,80年代までは建物の周囲に巡らされた奥行きの深いヴェランダに代表され,さらに1860年代初頭までの石造列柱式ヴェランダとその後煉瓦造アーケードヴェランダに代わっていった。ヴィクトリアン・ゴシック様式が60年代から70年代にかけて僅かな民間建築を用いられただけで,1890年代以降は圧倒的にエドワーディアン・バロック様式が流行した。これらの様式の流行は基本的に本国と同調するものであるが,特にゴシックやその後の近代様式にまして古典系の様式が好まれたのは,香港が大英帝国の東アジアの拠点としてヨーロッパ文明の普遍性を表現するためであったと考えられる。

3.建築遺産現存状況

今回の建築遺産の現存調査範囲は,香港島の全域と九龍半島の旧境界線道路沿線まであったが,目録に見られるように現存しているものは80件を数えるにすぎず,連合王国植民地となっている全域を入れたとしても100件を越えることはないであろう。内訳を分類すると,公共建築(行政施設,学校施設,生活基盤施設,病院等)49件,宗教建築23件,商業建築2件,民間住宅6件となっている。この現存状況の特徴は,第一は香港島の斜面に集中していることと,第二は公共建築や宗教建築に集中していることがあげられる。そして,1880年以前に商業建築がひしめいていたプラヤやクィーン街沿いは,第二次世界対戦以後すべて建て替えが行われ,何一つ残っていない。

このように現存例が少ないのは周辺の都市に比べると顕著な現象であり,平地が狭いという香港の地理的条件を除いても,いくつかの大きな理由があったと考えられる。第一は,1880年代のプラヤの埋立拡張によって,それまで香港島の「顔」であったその建築群が陳腐なものとなり、再開発の対象になってしまったこと。第二は,第二次世界対戦後大陸からの移民が増大し,さらに欧米諸国や日本からの投資増大によって,それまでの商業施設や住宅施設が手狭なものとなり,再開発が進められたこと。第三に,民間の再開発に対して歴史的建築を保護・保全する行政・民間の配慮がなかったことがあげられよう。現在,政府の遺跡記念物局がその指定と保存への助言を行っているが,遅きに失した感は否めない。 

4.建築遺産目録一覧 INVENTORY OF ARCHITECTURAL HERITAGES IN HONG KONG

(present name/former name/address/structure/construction year/architect/builder

/featuer/sources)

1.RESIDENT HOUSE/??/FILTER BEDS EF.2/2F,MASONRY/??/PWD/??

2.MAIN BUILDING, UNIVERSITY OF HONG KONG/POK FU LAM RD./SCHOOL BLDG/3F+B,MASONRY+STUCCO/1910/12/LEIGH & ORANGE/COLONIAL RENAISSANCE STYLE/IN SEARCH P.81

3.HUNG HING YING BUILDING, UNIVERSITY OF HONG KONG/BONHAM RD./HALL/1F,MASONRY+STUCCO

4.FUNG PING SHAN MUSEUM, UNIVERSITY OF HONG KONG/BONHAM RD./HALL/3F,MASONRY

5.STUDENT DORMITORY, UNIVERSITY OF HONG KONG/3F,RC+BRICK

6.RESIDENT HOUSE/CONDIT RD./2F,MASONRY+STUCCO/

7.RESIDENT HOUSE/BONHAM RD.65/3F,RC+STUCCO/

8.KING'S COLLEGE(英皇書院)/BONHAM RD.63A/SCHOOL BLDG/3F,MASONRY/

9.KAU YAN CHURCH/WESTERN ST./RELIGIOUS BLDG/3F+1B,MASONRY+STUCCO

10.WESTERN DISTRICT COMMUNITY CENTER(西区社区中心)/WESTERN ST.36A/PUBLIC BLDG/3F+1B,RD+STUCCO/

11.METHADONE TREATMENT CENTER/CHINESE LUNATIC ASYLUM/EASTERN ST./HOSPITAL/2F+1B,BRICK/1885?/VERANDAH/HONG KONG GOING

12.PSYCHIATRIC CENTER/HIGH ST./HOSPITAL&LABORATORY/2F+1B,MASONRY/1892/PWD/VERANDAH/HONG KONG GOING

13.ST.STEPHEN'S GIRL'S COLLEGE/PARK RD.37/SCHOOL BLDG/4F,MASONRY+STUCCO/1924/HONG KONG HERITAGE

14.HOP YAT CHURCH(中華基督教会合一堂)/BONHAM RD./RELIGIOUS BLDG/BRICK+STUCCO/1925?/HONG KONG GOING

15.PATHOLOGICAL INSTITUTE*10/BACTERIOLOGICAL INSTITUTE/CAINE RD./MEDICAL INSTITUTE/2F+1B,BRICK/GOVERNMENT/1902/LEIGH&ORANGE/PALLADIAN WINDOW/DR.HUNTER,FIRST GVMT BACTERIOLOGIST WORKED WITH KITASATO/HONG KONG HERITAGE

16.U LUM TERRACE(裕林台)/LADDER ST./??

17.YMCA(中華基督教青年會)*10/BRIDGES ST.51/HALL/3F+2B,BRICK/CHINESE STYLE ROOF

18.KONG WESTERN MARKET/CONNAUGHT RD.CENTRAL/MARKET BLDG/4F+3B,MASONRY/1906/PWD/SANG LEE&CO./IN SEARCH P.77

19.OHEL LEAH SYNAGOGUE/70 ROBINSON RD./RELIGIOUS BLDG/MASONRY+STUCCO/1901/02/LEIGH&ORANGE/LEAH WAS MOTHER OF JACOB SASSOON & HIS BROTHERS/IN SEARCH P.83

20.CHURCH OF JESUS CHRIST OF LATTER DAY'S SAINTS/CASTLE RD.7/4F+1P,MASONRY/??

21.INTERNATIONAL ARBITRATION CENTER*41/CENTRAL POLICE STATION/ARBUTHNOT RD.1/POLICE/4F,RC+STUCCO/1914/

22.CENTRAL POLICE STATION, SOUTH BLOCK*40/HOLLYWOOD RD.10/POLICE/4F,RC+STUCCO/1919/PWD

23.CENTRAL POLIS STATION, NORTH BLOCK/HOLLYWOOD RD.10/GOVERNMENT BLDG/3F,MASONRY+STUCCO/1864/PWD(CLEVERLY)/MPGG118

24.CATHEDRAL OF THE IMMACULATE CONCEPTION/CAINE RD.16/RELIGIOUS BLDG/MASONRY+STUCCO/1883;88/CRAWLEY HANSEN, COMPANY OF LONDON/20TH CENTURY

25.FOREIGN CORRESPONDENTS'CLUB/DAIRY FARM COMPANY/LOWER ALBERT RD.2/CLUB BLDG/3F,MASONRY+STUCCO/1892;1913/IN SEARCH P.83

26.BISHOP'S HOUSE(聖公會香港澳教区)*38/ST.PAUL'S COLLEGE/LOWER ALBERT RD.1/RESIDENT HOUSE/2F+1B,MASONRY+STUCCO/1848;1851/IN SEARCH P.71

27.GOVERNMENT HOUSE*37/UPPER ALBERT RD./GOVERNMENT BLDG/MASONRY+PLASTER/1855;1942/PWD(C.G.CLEVERLY)/PWD;SHIMIZU-GUMI/REMODELLED BY SEIICHI FUJIMURA,JAPANESE ARCHITECT/IN SEARCH P.71

28.ST.JOHN'S CATHEDORAL/GARDEN RD.4-8/RELIGIOUS BLDG/MASONRY+STUCCO/1849;72/PWD(POPE)/GOTHIC STYLE/OLDEST WESTERN BLDG IN HK/IN SEARCH P.71

29.GOVERNMENT INFORMATION SERVICES DEPT./VICTORIA DISTRICT COURT,FRENCH MISSIONARY/BATTERY PATH 1/GOVERNMENT BLDG/3F+1B,MASONRY/1915/19/PWD/HONGKONG HERITAGE16

30.BANK OF CHINA*34/DES VOEUX RD.CENTRAL 2A/BANK BLDG/14F+1B,RC/BANK OF CHINA/1950/PALMER&TURNER/WIMPEY&CO./TALL STOREY

31.LEGISLATIVE COUNCIL CHAMBERS(最高法院大楼)/SUPREME COURT BUILDING/CHATER RD./2F+PH, MASONRY/1903/12/A.WEBB&I.BELL+PWD/CHAN A TONG/CLASSICAL COLONIAL STYLE/IN SEARCH P.79

32.TEA WARE MUSEUM/BRITISH MILITARY HEADQUATER HOUSE/COTTON TREE DRIVE/MUSEUM/2F,MASONRY+STUCCO/1844/46/E.ALDRICH, R.E./COLONIAL STYLE,VENETIAN WINDOW/IN SEARCH P.71

33.HELENA MAY INSTITUTE/GARDEN RD./3F+1B,MASONRY+STUCCO/1916/EDWARDIAN CLASSICAL REVIVAL/HELENA WAS WIFE OF HENRY MAY, FORMER GOVERNOR/IN SEARCH P.83/

34.ST.PAUL'S CO-EDUCATIONAL COLLEGE/MCDNNEL RD.33/SCHOOL BLDG/2F,BRICK

35.FIRST CHURCH OF CHRIST SCIENTIST H.K./MACDONNEL RD.31/RELIGOUS BLDG/MASONRY+STUCCO/1849?

36.HEADMASTER RESIDENCE OF MILLITARY SCHOOL/BORRET RD.10/RESIDENT BLDG/2F,BRICK/1910?/RE'S OFFICE/WITHIN SITE OF VICTORIA BARRACKS/MPHH390             

37.HELPING HAND*48/BRITISH MILLITARY HOSPITAL/BORRET RD.12/OFFICE BLDG/3B+1B,BRICK/1906/RE'S OFFICE/VERANDAH/HONG KONG HERITAGE 

38.CHINESE INTERNATIONAL SCHOOL/BRITISH MILITARY HOSPITAL/BORRET RD.10/MILITARY BLDG/BRICK/1906/RE'S OFFICE/VERANDAH/HONG KONG HERITAGE  

39.CHINESE METHODIST CHURCH/HENESSY RD.34/RELIGIOUS BLDG/BRICK/1935

40.WAN CHAI POLIS STATION/GLOUCESTER RD./PWD

41.WAN CHAI POST OFFICE/QUEEN'S RD. EAST/GOVERNMENT BLDG/1F,MASONEY+STUCCO/GOVERNMENT/1915/PWD/IN SEARCH P.85

42.RUTONJEE SANATORIUM/QUEEN'S RD.EAST 266/HOSPITAL/2F,RC+STUCCO/1909/CHAU&LEE/

43.ROMAN CATHOLIC CEMETERY/WONG NAI CHUNG RD./1F,MASONRY+STUCCO?//

44.CEMETERY CHAPEL/WONG NAINCHUNG RD./1F,MASONRY+STUCCO/??

45.PARSEE CEMETERY/WONG NAI CHUNG RD./1F,MASONRY/??

46.ST.JOHN AMBULANCE BRIGADE HEADQUATER/TAI HANG RD.2/4F.RC+STUCCO/1957

47.ST.MARGARET'S CHURCH*84/BROADWOOD RD.2A/RELIGIOUS BLDG/MASONRY

48.PO KOK SCHOOL(寶覚学校)/SHAN KWONG RD.11/SCHOOL BLDG/2F+1B,RC+STUCCO/??

49.TUNG ?? KOK YUEN(東蓮覚苑)/SHAN KWONG RD.15/SCHOOL BLDG/2F+1P,MASONRY/??

50.HILLVIEM VILLAS*78/PLANTATION RD.22/HOUSING/5F,RC+STUCCO

51.PALMER'S HOUSE/PEAK/DWELLING HOUSE/1F+1B,BRICK+STUCCO/1885?/PALMER&TURNER/TALL STOREY

52.SHARP HOUSE, MATILDA HOSPITAL/VICTORIA HOSPITAL/PEAK/DWELLING HOUSE/2F,MASONRY+STUCCO/1903?/PALMER&TURNER

53.OUT-PATIENT DEPT.,MATILDA HOSPITAL/VICTORIA HOSPITAL/BARKER RD./HOSPITAL/2F+1B,BRICK+STUCCO/1903/PALMER&TURNER/TALL STOREY

54.DEVELOPMENT CENTER, MATILDA HOSPITAL/VICTORIA HOSPITAL/PEAK/HOSPITAL/2F+1B,MASONRY+STUCCO/1903/PALMER&TURNER/TALL STOREY         

55.NURSES'RESIDENCE, MATILDA HOSPITAL/VICTORIA HOSPITAL/PEAK/DWELLING HOUSE/1F,BRICK/1903?/PALMER&TURNER/TALL STOREY

56.HONG KONG UNIVERSITY HALL/DOUGLES CASTLE/POK FU LAM RD./HALL/HONG KONG UNIVERSITY/1861/DOUGLAS WAS OWNER OF DOUGLAS STEAMSHIP CO./HONG KONG HERITAGE

57.STANLEY POLICE STATION/STANLEY VILLAGE RD./GOVERNMENT BLDG/2F+1B,MASONRY+STUCCO/1859/PWD/GEORGIAN COLONIAL/IN SEARCH P.75

58.MARTIN HOSTEL, ST.STPHEN'S COLLEGE/TUNG TAU WAN RD.22/SCHOOL BLDG/3F,RC+STUCCO/1929/PALMER&TURNER/TALL STOREY

59.TAI TAM RESERVOIER/TAI TAM RD./PWD

60.CLOCK TOWER, KOWLOON-CANTON RAILWAY TERMINAL/MASONRY/1916/A.B.HUBBACK/EDWARDIAN CLASSICAL REVIVAL/HUBBACK WAS GOVERNMENT ARCHITECT FOR FEDERATED MALAYSTATES/IN SEARCH P.83

61.MARINE POLICE HEADQUARTERS/HEADQUARTER OF WATER POLICE/SALISBURY RD./GOVERNMENT BLDG/3F+1B,MASONRY+STUCCO/1868/PWD(CLEVERLY)/VERANDAH,VICTORIAN COLONIAL/THIRD FLOOR WAS ADDED IN 1920S/IN SEARCH P.75

62.PENINSULA HOTEL*97/SALISBURY RD./HOTEL/7F,RC+STUCCO/LEIGH&ORANGE/SEAPORTS

63.SIGNAL TOWER/BLACKHEAD'S HILL,TSIM SHA TSUI TOWER/MASONRY/1907/PWD/12.8M HIGH,5.4M SQUARE/IN SEARCH P.77

64.OFFICE BUILDING, HONG KONG MUSEUM/KOWLOON BARRACKES/KOWLOON PARK/2F,MASONRY+STUCCO/PROBABLY BUILT IN 1880S

65.ST.ANDREW'S ANGLICAN SCHOOL/NATHAN RD.136/SCHOOL BLDG/1F+1B,MASONRY+STUCCO/1913?

66.ST.ANDREW'S ANGLICAN CHURCH/NATHAN RD.138/RELIGIOUS BLDG/BRICK/1904;06/BRYER,ARCHITECT/20TN CENTURY

67.ROSSARY CHURCH/CHATAM RD.SOUTH 125/RELIGOUS BLDG/MASONRY+STUCCO/1905/PALMER&TURNER/TALL STOREY

68.ST.MARRY'S CANOSSIAN COLLEGE/AUSTIN RD.158-162/SCHOOL BLDG/3F,MASONRY+STUCCO

69.CLUB DE RECREIO(西洋波会)*96/CASSOIGNE RD.20/PUBLIC BLDG/1F,RC+STUCCO

70.JUDICIARY CENTRAL FILM REPOSITORY*94/CASCOIGANE RD.38/SCHOOL BLDG/3F,RC+BRICK

71.YAU MA TEI POLIS STATION/PUBLIC SQUARE ST./3F,RC+STUCCO/19??/PWD

72.HOME FOR HOMELES PEOPLE(油麻地露宿者之家)/YA MA TEI POST OFFICE/SHANGHAI ST.344/2F,BRICK

73.ROYAL OBSERVATORY/NATHAN RD./GOVERNMENT BLDG/2F,MASONRY+STUCCO/1884/PWD(PRICE)/VERANDAH,VICTORIAN COLONIAL/PROPOSAL BY H.S.PALMER REGLECTED IN 1882./IN SEARCH P.77

74.YAU MA TEI SERVICE RESERVOIR WATER SUPPLIES/NATHAN RD./INFRASTRUCTURE/RC/1932/WITHIN ROYAL OBSERVATRY

75.DIOCEAN BOY'S SCHOOL/ARGYLE ST.117-121/SCHOOL BLDG/3F,RC+STUCCO

76.KOWLOON HOSPITAL/ARGYLE ST./HOSPITAL BLDG/2F,RC+STUCCO

77.MARYKNOLL CONVENT SCHOOL*57/WATERLOO RD.130/SCHOOL BLDG/2F,RC/1936/PALMER&TURNER/TALL STOREY

78.DIOCEAN CHURCH(聖公會基督堂)/WATERLOO RD.132/1F,RC+STUCCO

79.LA SALLE PRIMARY SCHOOL/LA SALE RD.10/SCHOOL BLDG/3F,RC+STUCCO/19??

80.ST.TERESA CHURCH/PRINCE EDWARD RD.WEST/RELIGIOUS BLDG/RC+STONE/1932/