Chinatown華人街

Chinatowns and Chinese Settlements around South China Sea

南シナ海沿岸の華人街

published by Gakugei Publishing Co., Japan, 2005,  and Korean Maritime University Press (2012).

はじめに 海の時代へ

黄河文明やインダス文明にみられるように、古代大文明は農耕に適した大河の流域に誕生した。そこで蓄えた富を背景に、周辺諸国を統一するとともに支配体制を整え、各地に行政や軍事のための拠点を建設していった。これが前三世紀、秦朝始皇帝による中国統一であり、マウリア朝アショーカ王によるインド統一の事業であった。その後、領土範囲を変えながら、次々と統一王朝が栄枯盛衰を繰り返していった。

このような政治的な動きが東西の文物・物産の交流を促し、恒常的な交易ルートと施設を作り上げるようになった。唐代、このルートを経て中国から西方にもたらされた生糸は古代ローマで珍重され、そのため後年シルクロードと呼ばれるようになった。さらに、中国の範図が最大限に達した元朝期、イタリア人のマルコ・ポーロが内陸ルートを経て中国に達し、東方諸国に関する貴重な情報を西方にもたらすことになった。

それまでのヨーロッパ人にとって、東方のイメージはもっぱら十字軍遠征に関わるものであり、それ以東については漠然としていた。ポーロは、そこにどんな人がどんな暮らしをしているのか、またどんな品物を産出しているのかを書き記し、さらにそれまでヨーロッパ人には知られていなかった中国に達する海路の存在を示した。内陸の統一王朝が弱体化すると政情不安などによって交易ルートが利用できなくなり、海上ルートが東西交流の担い手としてより重要になっていった。

十五世紀はそんな節目の時代で、明朝永楽帝は南海の港市国家に主従関係を明らかにし、朝貢貿易を促すために鄭和(ていわ)を指揮官とする艦隊を派遣した。これら港市にはすでに中国人が居住していたこともあり、この使節団は寄港先で手厚くもてなされ、鄭和を祀る祠堂が建立されたり、あげくにはそのまま港市に留まる中国人船員もいた。しかしながら明朝は、広東、寧波、泉州(後に福州に移される)に市舶司を設置し、官営による朝貢貿易だけを許す海禁政策をとったため、民間人は密貿易に走るようになった。彼らにとって、邸和の使節団に同行した馬歓が著した『瀛涯勝覧』は南海進出の最良の手引き書となった。

南海の港市国家は中国との朝貢貿易に従うだけではなく、お互いに貿易を関係を持った。その一つである琉球王国は、よく知られているように、邏羅(シャム)、安南(アンナン)、爪哇(ジャワ)、三仏斉(旧シュリビジャヤ、パレンバン)、満刺加(マラッカ)などに広範に貿易船を派遣し、日本と朝鮮を結ぶ中継貿易によって多大な富を築いた。マラッカもまた、インド洋と南シナ海を結節する位置にあたり、風待ちのために東西の貿易船が立ち寄り、大いに栄えた。

ヨーロッパにおいても海路による東方進出が目指され、真っ先にポルトガルとスペインが海外発展事業を後押しし、いわゆる大航海時代をリードしていった。ポルトガル国マヌエル王はアフリカ西岸を南下する探検隊を組織し、ついに一四九七年にはヴァスコ・ダ・ガマによってアフリカ西岸の喜望峰を回航し、インド西岸のカリカットに達する航海路を発見することに成功した。そして、ガマをインド総督に任命し、一五一一年にはゴアとマラッカを手中に納め、日本に達する海路の大動脈を確立した。

こうして、中国を中心とする海域アジアの地域的貿易ネットワークが世界経済に開かれてゆき、それとともにそれまでの小さな港市が大都市へと、あるいは近代都市や植民地都市へとダイナミックに再編成されていった。これらは、今日アジアを代表する都市に成長しており、言い換えると、十五世紀に入ると内陸都市が東西交易上の役割を失っていったのに対して、海側の都市が歴史舞台の主役となっていった。そこで本書は、アジア海域に焦点を当て、過去五世紀に渡りそこで居住地と建築がどのように形作られてきたのかをみてゆくことにする。

一章 アジアの都市文明

中国の都城:格子状都市の系譜 

近代以前のアジア都市の代表とあげるとすれば、中国の都城であろう。漢代に著された『周礼』の「考工記」の巻に、中央に宮殿を置き、その周囲に格子状に街路を配置し、さらに市域を城壁で囲んだ計画がみられる(注1)。天界が円形であるのに対して、地界は四角い形をしており、そこの統治を任された皇帝は四角い都を築き、さらに中心に自らの住まいである宮殿を置いた(図1.1)。このように『周礼』の都城は中華のコスモロジーを映し出し、また内陸の幾多の外敵との戦いの経験から防御しやすく、さらに都市を統治管理がしやすく、合理的な形態であった。「考工記」に描かれた理想都市は、長安に見られるように宮殿と官衙施設はしだいに北側に置かれるようになるが、 基本的配置は中国の行政都市に脈々と受け継がれていった(図1.2)。古代中国文化は日本や朝鮮やベトナムなどの周辺諸国にも受け入れられ、そこでも格子状都市をモデルとする王都建設が行われた。

格子状の都市計画は、短期間で広範に行政拠点を建設してゆく場合には特に効率的であった。実際、世界各地で実施例が見られ、古代ギリシャは地中海沿岸で、スペインは中南米やフィリピン諸島で、イギリスは北米やオーストラリアでそれぞれこのやり方を実践した(注2)。言い換えれば、これは入植地の常套的な都市建設手法であった。

風水居住地

しかしながら、人が集住する目的は行政以外にもあり、そこではもっと別な居住地づくりが行われた。中国では祖先を祀る墓地を選ぶ場合、気脈に基づく選地を行った。この知識は風水として体系化され、現世の居住地の選地にも適用された(注3)。具体的には北側に気脈となる丘陵部があり、また川が北西から南方に流れ、その間の平地に居住地を築くと災いが少なく繁栄が続くというものである。この風水による居住地づくりは中国から朝鮮半島や日本列島にまで広く影響を与えた。

もう一つ人が集まる目的には商売があり、そのための場所は、何よりも交通の要所でなければならなかった。近世以前は陸路よりも水路の方がずっと便利な交通手段であり、中国の地方都市も多くは大河の近くに築かれており、その川岸付近に「港町」が開かれ、あるいは地方都市からまったく独立して水運上の要所に商業を中心にした港町が開かれた(注4)。後者は「鎮」などと呼ばれ、そこは格子状の都市建設も、風水による選地も行われたわけではなく、もっと別な形成原理が働いていた。おそらくは、これから述べる南シナ海沿岸の港市と同じような特徴を持っていたのであろう。

仏教・ヒンドゥの都市

インド古代文明を築いたインド・アーリア語族は、宇宙の隠された法則を発見しようとして哲学を発展させ、またその法則に従って日々の生活を実践しようとした。彼らの宇宙原理は、民族と部分的に職業をもとに定められた五つの社会階層を基本にし、聖職者であるブラフマを最上層に、次にカシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラと続き、そしてこれらの混血によって派生した者を最下層とした(注5)。アーリア語族社会では、これら五つの階層を宇宙原理に従って空間配置して居住地を作る必要があった。この宇宙原理は仏教・ヒンドゥ教の中でマンダラとして図像化され(図1.3)、さらに『シルパ・シャーストラ』で技術書として体系化され、より実践的な空間配置の手法が書き記された(注6)。

インドの主要統一王朝であるマウリア朝やグプタ朝はガンジス川流域を、またチャールキヤ朝はデカン高原一円を支配し、基本的には農業生産に基盤をおきながらも、交通網を整備して商業の発展にもつとめた。実際、マウリア朝の首都であったパトナーから多数の中国とローマの遺品が発見され、国際都市であったことがわかっている。また、周辺諸国に積極的に仏教使節団を派遣し、スリ・ランカやシュリ・ヴィジャヤ(マレイ半島からスマトラ島一帯にあった王国)では仏教が大いに栄えることになった。その様子は仏典を求めてインドに赴いた中国人僧侶の義浄(注8)が旅行記に書き記している。

十世紀なると江南の杭州を都とする南宋が成立し、また同じ頃南インド東海岸を支配するチョーラ朝が東方進出をはかったために、南シナ海を経由する東西の貿易交通路が開けていった。この中継地としての役割を担ったのがマラッカ海峡一帯を治めたシュリビジャヤ王国であったが、当時はまだ、インドシナのクメール王国や、ジャワ島のマタラム王国のように、農業生産を支配基盤とした王国がより大きな力を持ってい。言い換えると、農地領土の支配を指向する大王国が貿易に熱心でなかったため、弱小の王国がより貿易を活路を求めることになったのであろう。このようにして、内陸の割合強力な仏教・ヒンドゥ王国に従いながらも、マルコポーロが書き記したように海岸域には商業を基盤とする多数の小さな権力(港市)が開かれていた(図1.4)。

港市権力

この地域は熱帯モンスーン地域にあり、その暑くて湿った気候風土は植物の育成には非常に適していたが、人間が住むにはさまざまな危険に囲まれていた。そのため、危害を加える動植物から離れて、河口や高台など割合健康的な場所を選んで居住地を築き、首長の下で緩やかな統合を維持していた。そこの海と森からは特異な品物が産され、それは現地住民によってはほとんど消費されないが、東西の大文明が希求するものがあった。そして、それを森林や周辺河川から集積するために簡易の居住地が開かれ、そのいくつかは外来商人らも住む恒久的な居住地に成長し、小さな権力が統治するようになっていったのである。

具体的には、マレイ半島のクラ地峡やカンボジア南部のオケオで紀元数世紀のローマ金貨が発見されているように、西方の商人がこの地域の産物を求めて東進してきて、沿岸の交易地や港で貿易を始めたことがわかる。西方の商人らを引きつけたのは、中国の陶磁器や海域アジアの島々に産する香辛料であった。その代表である胡椒はもともとはインド南部の原産で、すでに古代ローマ帝国内で薬材や調味料として知られていたが、ヨーロッパで大きな需要を呼ぶのは十字軍遠征以後のことである。インド、ペルシャ、アラブの商人たちが運んできた商品を、現在のイタリアの都市国家の商人たちが仲介し、莫大な富を築いたことは良く知られている。これとほぼ同じ時期、東方の宋代中国でもこの品物に対する需要がおき、これらの南アジアや西アジアの商人たちはインドから各種香辛料などを中国に運び、帰りは中国から陶磁器などを携えて帰った。東西を結ぶ内陸路がシルクルートであれば、こちらはセラミックロードやスパイスロードと呼ばれる由縁である(写真1.1、1.2)。

イスラーム教と港市の成長

この小規模な権力を世界史上に登場させることになるのは、次にやってくるイスラーム商人たちとの接触であった。仏教・ヒンドゥ王国が基本的に内陸で農業生産を基盤とした政治と宗教を執り行ったのに対し、七世紀アラビア半島に登場したイスラーム教はその気候風土から農業生産より商業活動を重視した。この彼らの居住地では、日乾煉瓦で敷地外周に高い壁を築き、閉鎖的な住宅を作った。また、中心地には宗教施設であるモスクと、商業施設のバザール(スークともいう)を置くようになった。これらの商業都市の間をキャラバン(隊商)が行き交い、その途中には休憩や中継取引のためにキャラバンスライが設置された(写真1.3)。

内陸路は強力な権力が保護する間は機能していたが、九世紀にアッバース朝が倒れ、内陸は多数の小王朝に分裂し、さらに十三世紀にはモンゴル系王朝が勢力をのばすと、必ずしも安全ではなくなかった。アラビア人商人たちは、かわって海上交通路を求め、アラビア半島を回航して紅海やアフリカ東岸方面へ、またインド洋を渡りマラッカ半島を経て南シナ海方面へと大々的に進出した。貿易船にはイスラーム教宗教家たちも同乗し、訪れる場所場所で商取引のかたわらイスラーム教を広めた。現地港市権力は、このイスラーム教新来者たちとのつき合いが大きな利益を生むことを知ると、彼らに自治的居住を許し、さらに自らもイスラーム教を受け入れた。すでにそこには現地住民や中国人移民が居住しており、新たにイスラーム教住民をまじえてこれまで以上に多民族都市の性格を強めていった。しかしながら、熱帯モンスーン地域の海域アジアは、イスラームが誕生し、基礎を築いた中近東とは文化地理的条件が大きく異なり、都市や住まいを根底からかえるものではなかったようだ。

一方、中国国内では、宋朝と元朝が海外貿易を奨励し、その便宜を図るために杭州、寧波、泉州、広州に貿易管理機関である市舶司を置き、外国人住民専用の居住地が開かれた。これは「蕃坊」と呼ばれ、そこにはモスクが建立され、現在でもその遺構を目にするとができる(写真1.4、1.5)。明代に入ると永楽帝は南海に鄭和の遠征隊を派遣し、港市王国に朝貢貿易を促した。この鄭和の来訪を記念して、彼を祀る三宝公を建立する港市もあったり(写真1.6、1.7)、また鄭和に同行した馬歓は見聞した南海事情を『沿岸照覧』として著し、南シナ海沿岸の交流に新時代を開くことになった。

このように、西からインド・アラビア商人が香料と陶磁器などを求め海を東進し、また中国が南海港市王国との朝貢貿易を積極的に進めたので、十五世紀の南シナ海沿岸では港市が大きく成長した。これら港市王国は、大きくは中国に従いながらも、西からやってくるイスラーム商人ともうまくやり、また相互にも通商関係を発展させていった。私たちの最も身近な存在としては琉球王国があり、日本、朝鮮、中国だけではなく、安南(現在のベトナム)、暹羅(現在のタイ王国)マラッカ、パレンバン、ジャワなどに頻繁に貿易船を派遣していた。南シナ海からインド洋に出る結節点周辺では、マラッカ王国がイスラーム教を受け入れるとともに、シュリヴィジャヤ王国下のパレンバンに代わって、歴史の表舞台に登場していった。


1.斯波義信『中国都市史』東京大学出版会、 2002

2.John W. Reps, The making of urban America : a history of city planning in the United States, Princeton University Press, 1965

3.黄永融『風水都市 : 歴史都市の空間構成』学芸出版社、1999

4.高村雅彦『中国江南の都市とくらし : 水のまちの環境形成』山川出版社、 2000

5.中村元『古代インド』講談社、 2004

6.Prabhakar V. Begde, Ancient and mediaeval town-planning in India, Sagar Publications, 1978

7.義浄(635~713)。唐代の僧。六七一年、仏典を求めて海路インドに渡り、六九五年洛陽に帰還。その旅行記「南海寄帰内法伝」「大唐西域求法高僧伝」は当時のインドと東南アジアを知る重要資料。

二章 外国人居住地の形成

十五世紀の南シナ海沿岸にはたくさんの港市が成長し、そこには現地住民の他に東方から中国人、西方からインド・アラビア人が集まって住み始め、流動性の高い多民族都市の様相を呈していた。これらの住民たちは、どのような居住地を作っていたのであろうか。

元代中国では、前述したように泉州や広東などの市舶司が置かれた都市には、外国人専用居住地である「蕃坊」があてがわれた。特にイスラーム教徒は、宗教において漢民族と大きく異なり、それに伴う衝突を避けるためだったといわれている。モスクの遺構が現存するように、最盛期には大きな人口を有していたのであろうが、明代半ばに海禁政策によって民間貿易が禁止されると、外国人コミュニティが衰退し今日では「蕃坊」の形跡をたどることは難しい。

島嶼部の港市でも、外国人の定住者が増加するとともに民族ごとの専用居住地が作られていったようだ。イスラーム商人がマラッカに居住地を開いていく様を、十六世紀初頭ポルトガル人トメ・ピレス(注1)は次のように述べている。

「イスラーム教徒の商人が来たことをたいへん喜び、かれらに敬意を払って、定住するための場所とメスキータを建てるための場所を与えた。イスラーム教徒はその場所を手に入れたので、土地の様式に従って美しい家を作り、集落を作った。かれらは大々的に取引を始めたが、これは主としてこれらのイスラーム教徒が豊かだったからである。王はかれらから大きな利益を得て満足したので、かれらに対して自治権を与えた。」(注2)

当時、イスラーム商人たちは大きなコミュニティを形成し、そこに組積造モスク(メスキータ)1棟と木造モスク数棟を建てていた。同じように、イスラーム教を受け入れたジャワ人やアチェ人などもそれぞれの首長のもとでコミュニティを維持し、モスクを持っていたのであろう。かつて港市であった都市には今日でも、民族名が付加された地名や街路名が残っているが、中国人の場合を除くと政治や地勢の変化によって実体としては消滅したものが多い(写真2.1)。消えてしまった大きな理由は、十七世紀以降オランダとイギリスによる支配があげられ、その過程で港市が機能を失うとともに民族居住地が離散し、または植民地都市の中に再編成されてしまった。興味深いのは、ペナンのチュリア・ストリートやアルメニアン・ストリートのように、イギリス植民地都市では民族名は街路に付けられ、オランダ領であったジャワ島ではプチナン(中国人地区)やプコジャン(イスラーム教徒地区)のように地区に付けられた。

マラッカの中国人

多くの民族居住地が消滅する中で、中国人の方は現在でも「中華街」や「チャイナタウン」と呼ばれ、割合よく残っている。前述したように、その理由は彼らはイギリス・オランダ植民地都市で大きな役割を演じたためである。マレイ王国統治のマラッカでは、他の民族と同じように居住地が与えられ、そこに集住していた。『武備誌』(注3)によれば、中国船が到着すると港市管理者は急いで倉庫群を建造し、品物の取引の準備にとりかかったと述べられ、市場はあるが恒常的な大きな保管施設はなかったようだ。十六世紀末のバンテンに関するイギリス人の記録によれば、権力者は外国人たち反乱を起こさないように組積造で建物を造ることを禁止したため、商人たちは地下に商品を貯蔵していた。マレイ語

マレイ王国時代の町と建物についてはこれくらいしかわからず、具体的な姿はポルトガルが支配してから明らかになる。ポルトガルは、一五一一年マレイ王国からこの都市を奪取し、王宮のあった丘に城塞を築き、ついでマラッカ川対岸の居住地を作り直した。インド・アラブのイスラム教徒たちはマレイ王国側を支援したという理由で、殺害・追放され、代わって中国人たちが商業に最も有利な河岸域を占めていった。十七世紀初頭、エレディアによれば(注4)マラッカのウペという郊外地にはサン・トーメとサン・エステーバの二つの教区があり、中国人は後者の方に住んでいた(図2.1)。

「そのもう一つの教区であるセン・エステーバはカンポン・チナと呼ばれ、河口の海岸のジャワ市場から北東方向に堤防に沿って、城壁の一部になっている門壁の四百ファトムの長さに広がっている。」(注5)

城塞からマラッカ川を挟んだ対岸は実質的には中国人街であり、絵図(図2.2)を拡大して全図と比較すると、河口から少しさかのぼった右岸に市場と船着き場が並び、街路には倉庫や住居らしい建物が建っていたことがわかる。ここは一般商人と港湾労働者が居住するところであったのに対し、海岸線に平行に走る街路にはしっかりとした建物が並んでおり、裕福な中国人たちが生活していたようだ。ポルトガル支配時代には、支配層や富裕層は耐久性や防火性を考え、自らの建物をできるかぎり組積造で建設していた。一六四一年にオランダに支配権が移るとともに、ポルトガル時代の有力住民は一掃され、また主要街路を除くとほとんどの建物は建て替えられてしまった。港市再興のために新たな中国人が招聘されたが、すでにマラッカの衰退は止められなかった。

ポルトガル支配のマラッカに代わって外国貿易商人たちが注目したのはジャワ島北海岸で、ここは香料諸島を結ぶ主要航路上にあり、またマラッカ海峡ほど海賊からの襲撃の心配はいらなかった。前述したようにここの港市権力もアラビア商人との接触によりイスラーム教を受け入れ、その一つバンテンは十六世紀末オランダ人ハウトマンが訪れたときにはたくさんの商品で賑わっていた(注6)。ここには丘はなかったが、マラッカと同じように町の中央を河が流れ、中央のモスクと広場を取り囲むように民族ごとの居住地が拡がっていた。そして、東側(図2.5では左側)には大きな市場が開かれ、ここで世界各地からの商人たちが忙しく品物の値段交渉をしている姿が浮かべられる。

オランダとイギリスの両東インド会社は中国人たちと同じ西側に居住地が与えられ、成功裏に商館を設置することができた。しかし、そこでは他の外来商人と同じ条件で商売しなければならず、特に中国人商人たちとは熾烈な競争となった。一つの逸話として、イギリス商館員たちは他の商人と同じように木造の建物を建て、防火のために屋根に砂を敷き、大事な商品は地下倉庫に納めていたという。しかし、表では友好を装っていた隣人の中国人が地下道を掘り、イギリス商館から商品を盗もうとしていたというのである(注7)。

ヨーロッパ人のアジア進出

さらにイギリスとオランダの権益争いも激しさを増し、オランダがアジアの商品をヨーロッパに向けて安全かつ安定的に輸出するために専用貿易拠点の建設を決心するには時間がかからなった。この計画を積極的に押し進めたのがオランダ東インド会社の初代東インド総督クーンで、一六一九年スンダクラパの現地権力を撃退して、ここに要塞都市の建設を始めた。これがバタフィアである(注8)。

この建設事業にバンテンから多くの中国人職工が移ってきてきたが、それでも足りずクーンは中国南部からも職工・労働者を勧誘してきた。一六一九年に四百名だったのが、一六二〇年には八百名となり、一六三二年には二千五百名近くにまで増加していった。そして、港市やポルトガル植民地都市の場合と同じように、バタフィア政庁は中国人の有力者をカピタン(首長)に任命し、同民族の統治を任せていた。

バタフィアはヨーロッパ型の計画都市であり、そこに東インド会社職員とオランダ人市民を住まわせるために、道路や運河などのインフラストラクチャーを整備し、さらに各種建物も東インド会社が建設した(図2.6、2.7)。アジア系住民は会社の建物を借りる場合もあったが、多くは空いた土地に自らのやり方で建物を建設した。十七世紀半ば、バタヴィアに滞在していたニューホフは次のように述べている。

「中国人はほかのどのアジア系住民よりも勤勉であり、ここで忙しく働いている。彼らは魚を売ったり、米や黍を耕しているものもいるが、多くは商売に従事している。(中略)彼らは、一人の中国人統治者のもとで本国の規則と習慣に則って生活している。(中略)彼らは城内の至る所に住んでおり、その中でも西部に大部分が住み、また大河の両側にも多い。彼らの家は低く、二階建てになっている。」

民族ごとにそれぞれのカピタンの下で生活していたが、専用居住地はなく、雑居していたことが分かる。それでも、中国人の場合、生活習慣一般がそうであるように家屋の作り方も本国のものを踏襲していたので、外観から容易に識別することできた。実際、一七四一年の中国人虐殺絵図(図2.8)によれば、市場周辺の建物はすべて中国風に描かれており、誇張があるにしてもほぼこの通りだったのであろう。この虐殺事件の際、城内の多くの中国人の家屋は壊され、城外に移住させられたので、まったく遺構は残っていない。その後、城外南部に新たに居住地が開かれ、また徐々に城内に中国人人口が戻ってきたが、二十世紀初頭までカピタンの下で厳重な住民管理が行われた。今日のグロドク地区である。オランダ支配下のジャワ島では、中国人街は他民族との雑居居住から隔離居住へと変化していった。

このように見てくると、マラッカなどの伝統的港市権力が行っていた民族別支配はポルトガル、オランダ、イギリスの植民地都市に受け継がれたが、ジャワ島を除くと厳密に民族ごとに専用居住地を制度化したことはなかったことが分かる。多くはある民族の人口集中が高かったり、もしくは寺廟建築など民族文化を視覚的に表すものが集中していた場合に、その民族名が地域や街路に冠せられたようだ。民族ごとに集住することは言語や生活習慣などの面で多民族との摩擦を減らすという利点がだけではなく、民族ごとに得意な職種があるので、江戸時代の城下町のようにその職種ごと通りに集中した結果民族的色合いがでるようになったのだと思われる。

南洋中国人居住地の成立と発展

中国人居住地は、資料から明らかになるのは、ヨーロッパ人商人がやってくる十六世紀以後のことであり、成立背景からは次のように分類できる。

◆福建・広東省の沿岸の漁村・港町(国内新居住地)

明代の海禁政策にもかかわらず、福建の商人は新たな商品を求め、また漁民はより安定した生活を求め台湾海峡対岸や広東省沿岸方面までかけるようになり、一部はそこに住み着いた。沿岸地域は当時人口が少なく、福建移住者らは自由に居住地を開くことができ、その後地方行政網の中に取り込まれていった。特に漁民にとって、珠江河口(マカオ島、ランタオ島、坪洲、長洲、香港島、九龍半島など)や台湾海峡の島々(澎湖諸島)は恰好の居住地であったようだ。その一つ、台湾の鹿港は。十八世紀から十九世紀にかけて各種特産物の積出港として大いに栄え、現在でも古い寺廟が残っている。

◆現地港市内の民族居住地(都市内自発的集住地)

貿易や商売のために南シナ海を越えて港市王国港市に渡り、現地権力の許可を得て定住した。先住現地住民と雑居することもあったが、人口が増加するとともに民族居住地が与えられ、首長により自治を行った。ほとんどの場合、河岸近くに居住地があてがわれたが、マラッカやアユタヤなどほとんどの場合、この都市内の自発的集住地であった。

◆都市郊外の居住地(都市外強制集住地)

現地権力から既存の都市から離れた水運の便のよいところに、境界のはっきりした専用居住地が与えられた。ヴェトナムのフエやホイアンなどがこの都市外強制集住地の例で、江戸時代長崎の「唐人町」はもっと徹底しており、都市外強制集住地と呼ぶべきであろう。

◆ヨーロッパ商館都市内の居住地(商館都市自発的集住地)

ポルトガル・オランダ支配下のマラッカ、オランダ支配下のバタフィアなど、政庁に任命された民族首長の管理下におかれたが、特に専用居住地はなく、他の民族との雑居した。しかし、生活や仕事の便宜のために、ある地区に集住する傾向は見られた

◆ヨーロッパ植民地都市内の居住地(植民地都市支援型集住地)

急速に建設された植民地都市ではその機能を支えるために多くの労働者や職工が必要とされた。シンガポールのクレタ・アヤー地区や香港のタイピンシャン地区は植民地都市とともに設置されたが、横浜や神戸の中華街では周辺地区では外国人居住地から少し遅れて解説された。


1.トメ・ピレス『東方諸国記』岩波大航海時代叢書、1976年。

2.トメ・ピレス『東方諸国記』岩波大航海時代叢書、1976年。

3.馬歓『瀛涯勝覧』

4.マラッカについてのエレディアの記述は、『東方諸国記』巻末におさめられている。

5.『東方諸国記』巻末参照。

6.ハウトマン、ファン・ネック『東インド諸島への航海』岩波大航海時代叢書、1981年。

7.Scot,

8.泉田英雄「海域アジアの都市計画」『国宝への旅 城と城下町』朝日新聞、2001年

三章 華人街の空間構成Spacial Patter of Chinese Settlements

前章では海域アジアにおける居住地成立の背景をいくつかに分類しながら振り返ってきたので、ここではそれがどのような空間構成になっているのかをみてゆくことにする。

中国南部から過去一千年以上にわたり、多数の中国人が海を越えて対岸の南シナ海沿岸に定住したことから、本調査を始める前には福建省から広東省にかけても転々と港湾都市や漁村が並んでいるのであろうと想像していた。日本列島には多数の港町があり、特に江戸時代に北前船が往来した瀬戸内海から日本海沿岸北部では港町が大いに栄え、今日までその形跡を見ることができる。ところが、中国南部にはもともと良港となる立地に乏しく、また明代から清代まで海禁政策のために、港湾都市は市舶司の置かれた寧波、福州、広州に限られてしまった。その他に国内貿易のために汕頭や廈門などの港町があったが、大きく成長するのは十九世紀半ば以降、外国人居留地が設けられてからである。そのような状態の中でも、島々が点在し、魚影の濃い珠江の河口や台湾海峡対岸に、福建人たちは漁業や南海物産取引きのために小さな居住地を開いていった。

三-一 自発的漁業居住地:珠江河口の漁村Indigenous Fishery Village

中国国内では、一九六五年から十年間に及ぶ文化大革命が吹き荒れ、多くの伝統的文化が破壊されたのに対して、香港や台湾ではそうではなかった(注1)。特に、香港の離島や新界には古い居住地の姿がよく残っていることに驚かされる。古くは明代の『武備志』(ぶびし)に挿入されている「鄭和図」(ていわず)の中に香港島対岸に媽祖(まそ)を祀った祠堂が描かれ、また多数残る媽祖廟の建立由来から、一八四一年のイギリス占領以前にすでに多数の漁村があったことが分かる。

古い居住地の特定は、現在の道路地図を利用して、イギリス支配以前と思われる寺廟や地名を探し出すことから始める(図3.1)。香港島北岸の銅鑼湾や、九龍半島西岸の彌敦廟街と茎湾廟崗街に、それぞれ天后廟が残っているが、十九世紀後半の都市開発のさいに完全に当初の集落形態は撤去され、新たに格子状に街路が作り直されてしまった。しかし、新界や離島はそうではなく、天后宮や媽祖廟が存在する集落には、その地形に対応した街路パターンと古い住まいが残っている(写真3.1)。また、二〇〇一年五月に訪問した際、多くの漁業居住地では媽祖聖誕祭に京劇団が后宮前広場で巡回公演を行っているのを目にし、住民から篤い信仰を受けていた(注2)。急激に住環境が代わりつつある香港でも、新界と離島には居住地と結びついた信仰がよく残されているのである。このように居住地と一帯となったものの他に、大廟湾や塔門洲では天后宮が孤立して存在しており、これらはより神聖な祠堂と見なされているようだ。

西貢天后古廟(Tin Hau Temple/Miew, Sai Kung)

西貢は新界の東海岸に位置し、東方に西貢湾(Inner Port Shelter)の鏡のような水面が広がっている。居住地は入り江の少し奥の高さ十メートルの丘を背にして東側に広がっており、漁村として最適な立地であった。現在、中層住宅の建設のために東浜は埋め立てられてしまい、古い寺廟は港に直接面しなくなってしまった(図3.2)。

最重要の寺廟は天后古廟で(写真3.3)、今から約七百年以前の元代に媽祖を祀るために創建され、その後隣に関帝廟が併設された。天后古廟の前には広場があり、かつてここが河岸であったことが分かる。五月の媽祖聖誕祭では、この広場に大きな仮設の劇場が建設され、私たちが訪問したときには京劇が催されていた(写真3.2)。

古廟から南方に続く通りの約百メートル先に土地の守り神である土地公が祀られている(写真3.4)。この二つの祠堂を結ぶ通り沿いには日用品・雑貨店が並び、所狭しと品物を広げ、天井が見えないほどであった(写真3.5)。一階部分が店屋、二階が住居になり、街路に面して細長い建物が横に並ぶ典型的な街屋となっている。かつて住民は漁業をやっていたが、現在は九龍などに働きに出かけ必ずしもそうではないようだ。

長洲天后廟(Tin Hau Temple/Miew, Cheung Chau)

長洲は離島の一つで、香港島からフェリーに乗って小一時間でこの島に到着する。東西に長い島であるが、中央部で大きくくびれ、波の少ない西側は天然の良港になっている。海岸に平行に走る街路には飲食店が並び、その奥には短期賃貸アパートが多数あり、現在は香港人の週末行楽地となっている。市街地の南側の大石口には古代遺跡(古石刻)があり、それを背にし海に向かって天后廟が建っている(図3.3)。大岩や大樹が集落の守り神や航海の目印になることはよくあり、十九世紀以前のマカオの媽祖廟と集落の立地と酷似する。

この天后宮は十八世紀前半に建てられ、一七八九年に北端に建立された北帝廟とともに、この居住地を鎮守している(写真3.6)。天后宮から海岸までの約百メートルは広場になっており、かつてここが河岸になっていた。また、宮の右手百数十メートル先には土地公が置かれ、この二つの祠堂の間には奥行きの深い古い街屋が並び、これが居住者によっての最初の商店街であった(写真3.7)。

その他の居住地の天后廟Other Tin Hau Temple/Miew

坪洲(露坪街)、吉澳洲(西澳)、南Y洲(榕樹湾、図3.4)、マカオにおける天后廟を中心にしたと居住地(図3.5、写真3.10)は、西貢と長洲(大石口)の空間構成と同じように天后廟の前が広場となり河岸まで続き、この軸線と右手直角方向に街が並び、その奥に土地公が配置されていた。すると、これらの居住地には共通した空間構成原理が働いていたと考えられる。一方、馬湾と塔門洲の天后廟(写真3.8、3.9)には居住地は付設されておらず、その立地から判断すると、船舶から航海安全を祈願する寺廟として建設されたようだ。

南Y島榕樹湾Lamma Island.

坪洲Peng chao Island.

三-二 都市外専用居住地:ヴェトナムIndependent Settlement in Vietnam

小型帆船であるジャンク船による航海の場合、南シナ海を一気に横断するよりも中国南部から沿岸沿い南下しインドシナ半島を経由して、マレイ半島やジャワ島に達する方が安全であった。インドシナ内陸には中国・日本で珍重される香木などの産出があり、また南海物産買い付けの中継地点として重要であった。十世紀から十四世紀にはチャンパ王国がこの地域を支配し、中部沿岸に港湾商業都市ヴィジャヤを、また内陸部に聖都ミーソン築いていた。しだいに北部の黎朝が勢力を南方に及ぼし、十七世紀には黎朝の一派である広南阮(カンナム・グエン)氏によって統治されるようになった。

ホイアンHoian

阮はチャンパに代わって中継貿易を担い、ヴェトナム中部のトゥボン川から少しさかのぼったところに貿易港を開いた。これがホイアンで、十七世紀以降を多くの外国人商人が居住し、日本人街があったことが知られている。十九八八年、ヴェトナムが外国人旅行者の受入を再開するとともに、東京大学の藤森照信教授とここを訪れたが、街の中を豚がうろつき回っており、本当にうらさびれた田舎町という風情であった。一九九四年からは昭和女子大を中心とする研究チームによって、ホイアンの歴史研究と街並み保存事業が進められ(注3)、一九九九年には世界遺産に登録された。

さまざまな遺構は中国に関わるものばかりで、日本人街がどこにあったのかは不明である(写真3.12)。中国人街の方は、明郷石界(写真3.15)と彫られた石を東側境界とし、そこから西方の「来遠橋」のかかる小川までの地域であった(図3.7)。そうすると、阮朝は外国人商人を歓迎しながらも、彼らを民族ごとの専用居住地に閉じこめようとしていたと考えられる。

古い建物は、十七世紀に川岸であったチャンフー街の北側に集中しており、東端はホイアンで確認されている最古の建物である福建会館(写真3.13)の境内となっている。この建物は一七五七年に再建されているが、もともとは一六七一年天后廟として創建された。福建会館という名前が示すように、福建省出身者が寄進し、軒先が大きく反り上がった福建建築様式を伝えている。最初期は広い境内を抱えていたが、しだいに移住者に土地を貸すようになった。

福建会館の建物はまっすぐ河岸を向いているではなく、変わったことに大きく南西方向に振れている。その方向には山頂があり、古老によれば、これは軸線上にある茶眉山から放出される気を受け止めるためだという。これは道教の祠堂の配置によくある考え方で、他の華人街においても見られる。その後川岸は土砂の堆積によって前進し、フランス植民地時代には拡張した街路の中に市場が建設され、初期の河岸の姿は消えてしまった。

福建会館からチャンフー街の西方には中華会館と十指に余る数の公祠が建ち並び、比較的良い状態で維持されている。そのことから、少なくとも数世代続く家系が多数存在していることが分かる。西端の「来遠橋」の手前には、広東建築様式の廣肇会館(関帝廟、写真3.14)が建ち、地元商売や職工に就くことが多かった広東人によって商売繁盛を祈って建設されたのであろう。土地公は、「来遠橋」の下を流れる川の左岸の大樹の下にひっそりと置かれている(写真3.16)。

このように、ホイアンは中継港として大きく発展し、その安定したコミュニティによって文廟を含む多くの祠堂が建設されてきた。特に宗祠は、ここから分家していった人たちの心のより所であるため、本家の手によってその建物は大事に維持管理されてきたようだ。そのおかげもあって、全盛期を過ぎた今でも地方商業都市として機能しながら歴史都市としての体面を保っていたため、世界遺産への登録へとつながっていった。

フエHue

ヴェトナムは中国に近いこともあり、ホイアンの他に多数の中国人街が形成された。広南阮氏はホイアンを外国人の中継貿易港とする一方で、フエに本拠を置き、十七世紀半ばにはここを正式な都とした。フエ自体も河口から十数キロ遡ったところにあり、河岸としてよい条件を備えている。明代末に京城手前数キロの左岸に中国人居住地が開かれ、タインハ(清河)と名付けられた(図3.8)。その後、住民は京城近傍に移り住んだだめに遺構が残るのみである。この居住地の川下側に天后宮(写真3.17)が、また約六百メートル川上側に関帝廟(写真3.18)が建っており、この二つの寺廟が長手方向の境界であったようだ。ちょうど中央部に井戸と河岸跡がある(写真3.19)。奥行きは約百五十メートルほどで、一個だけ境界石が残っていた。ホイアンの場合と同じように、居住地境界を厳格に定めるというのは広南阮氏の政策であったと考えられるが、寺廟と街路による居住地の空間配置は自発的な居住地の作り方と共通する。

タインハの初期中国人街は、京城の完成とともに城外東側のドンバ地区に移り、この周辺に百年以上の歴史を持つ古い廟建築(写真3.20、21、22)と家屋が多数残っている。ホイアンとともに、ヴェトナムが世界に誇る歴史都市として、日本を含む海外の支援を受けて積極的な保存修復事業が進んでいる。その中で、この歴史的建築に並ならぬ関心を持ち、以前から私たちの研究調査に協力してくれた遺跡保存局のヴ・フー・ミン氏が一九九八年に列車事故で亡くなったことは、大変残念なことであった。

ロンスエン、ミトーLonxien, Mito

西山党の乱後、再興した阮朝は、インドシナ半島東岸全域を領土とし、清朝にならって行政網を敷いた。これらの都市にも華人街が併設され、南部ではミトー、カントー、ロンスエンなどでは中心商業地を形成している(図3.9)。言い換えれば、ベトナムの都市開発は、華人が最初から経済的側面を担うことで進んでいった。居住地の空間構成もホイアンとフエのものと酷似し、川下側に観音廟(媽祖廟、図3.23)、川上側に関帝廟(関帝廟)が配置され、この二つを結ぶ一本の街路の両側に商店兼住居の建物が並んでいる。ロンスエンの場合、フランス植民地時代に街路が拡幅・直線化され、さらに北側にアーケード付きの新市街地が作られた。ミトーでは、居住地の左手に廣肇会館がおかれ、そこに関帝と媽祖が一緒に祀られている(写真3.24、25)。

このように、阮朝下の華人街は行政都市から割合遠く離れたところに、限られた区域が与えられ、商業居住地として開かれた。メコン流域では、地域の商業開発を担う形で華人街が発展してゆき、今日では地方都市中心市街地を形成している。天后廟から関帝廟までが居住地の大きさになっており、ホイアンを除くと百メートル程度の長さであった。後述するように、小規模な土地公に代わって、関帝廟や城隍廟が西端を占め、建築様式からも広東人の主導によって居住地作りが行われたようだ。

三・三 内陸都市から交易都市へ:タイ王国Thailand: Inland Cities to Water City

タイ民族は、十三世紀半ばにクメール王朝の支配を脱して平原の中央部にスコータイ王朝を建設した(図3.10)。この都はアンコールなどのクメールの聖都を手本として、四方を城壁で囲み、中心に主寺院と王宮を置いた。ところが、次のアユティア王朝は仏教を崇拝することに変わりにはなかったが、都をチャオ・プラヤ川沿いに移し、それとともに人工的な方形型から川の蛇行を生かした曲線型の都市形態とし、水運を重視するようになった。これは国の基盤を農業一辺倒から貿易へと移行したためと考えられ、その後、十八世紀末から始まるバンコク王朝も都をチャオプラヤ川のより下流に移していった。

アユティアAuthia

タイ王国最初の水際都市であったアユティアは、ビルマ軍の侵略のために城内の建築はほとんど崩壊し、当時の居住地の様子は文献と残された仏教遺跡から知るしかない(図3.11)。日本人には、山田長政という名の人物が一六二〇年頃日本人街を率い、そしてタイ国王を軍事的に支援したことでよく知られている。オランダやフランスの外交施設団の記録によれば、十六世紀アユティア朝は中国と朝貢貿易を行いながら、周辺国家とも積極的に貿易を行い、そのため多数の外国人が居住していた。

当時、カトリック宣教師として滞在してたタシャール神父は、新来のマカサール人がどのように居住地を開いていったのかを次のように述べている。

「シャムの町から大砲二射程ほどの場所を、王子と彼に付き従う者共の家を建てるようにと割り当てられた。この場所はそれ以降、この国の呼びならわしに基づいて、マカッサル人地区と名付けられた。(中略)わざわざこの場所を彼らのために指定したのは、すぐ近くに彼らと同じ宗教、つまりイスラム教を奉じるマレー人の地区があったからで、既に二、三のモスクも建てられていた。これは全て、逆境にある彼らに、いたわりと慰めをもたらすため何一つなおざりにすまいとの配慮だったのだ」(注4)。

ここには、貿易関係を樹立するためにマカッサール王から使わされた王子使節団が、シャム王によっては丁寧にもてなされ、同族のマレイ人居住地近くに居住地があてがわれたことが述べられている。他にも「日本人」をはじめ、「中国人」「ポルトガル人」「マレイ人」「コーチシナ人」などの居住地が見られ、これらも王によって割り当てられたのであろう。

バンコクBangkok

ビルマ軍の侵略後、タイ王国は一七八六年にチャオプラヤ川を少し下ったところのバンコクに新たな都を建設し、「クルンテープ」と名付けた。すでに清朝の解禁は緩み、福建人だけではなく潮洲人や客家人たちも南洋に渡りはじめ、特に潮洲人たちはシャム湾沿岸に居住地を開き、ヴェトナムのハティエンでは独自権力として覇権を競うまでになっていた。潮洲系華人がメナム川沿いに大きな関心を示したのは、流域に産する米などの物産を取り引きすることができるからで、新都バンコクでも積極的な経済活動を担っていった。

アユティアと同じように、バンコクの都もチャオプラヤ川が大きく湾曲した内側に築かれ、華人街はそこから一キロメートルほど下流に下ったところにに開かれた。ヤワラートと呼ばれ、そこにもいくつかの古い祠堂が存在している(図3.12)。一番東側に天后古廟(写真3.26)があり、その西方向に客属関帝廟、城隍廟(写真3.28)、関帝古廟(写真3.27)が点在している。この場合古廟と呼ばれるように、天后廟と関帝廟が最初に建立され、華人街として発展するに従い城隍廟が造営されたと考えられる。これら三つの祠堂はすべてチャオプラヤ川を向いているが、一直線上にはない。おそらく、十九世紀末にこの華人街が開かれたときにはこの線と平行に川岸が走り、その後現在のように埋め立てられ、道路が建設されたのではないだろうか。土地公でなく城隍神を居住地安全に祀るのはシャム湾沿岸の華人街で共通するらしく、ロンスエン、ソンクラ、プケットでも見られた。


1.瀬川昌久『中国人の村落と宗族—香港新界農村の社会人類学的研究』弘文堂、1991年。

2.国際交流基金「平成七年度研究者派遣事業」により、香港中文大学に六ヶ月間滞在し、広範に沿岸域の集落を調査研究することができた。

3.ホイアン町並み保存プロジェクトチーム『ベトナム・ホイアンの町並みと建築』昭和女子大学国際文化研究所、1997年。

4.ショワジ・タシャール『シャム旅行記』岩波書店、1991年。

三-四-二 マレイ半島

インド洋と南シナ海を往来するには、今日ではマラッカ海峡が利用されるが、未だに海賊が跋扈しているように、十世紀頃まではより安全な陸路が選ばれた。それはマレイ半島の一番狭い地点を横切ることであり、実際、クラ地峡周辺には古代ローマコインが発見されている。十世紀をすぎる頃、やっとマラッカ海峡沿岸に強力な権力が誕生し、スマトラ島のパレンバンに都をおいた。これは仏教・ヒンドゥ教を奉じるシュリヴィジャヤ王国であるが、最近の研究ではインド洋からマラッカ海峡に入る地点にも一大拠点を置いており、いくつかの都市を持っていたことが指摘されている。マレイシア北部のクダー州のジュライ山麓にヒンドゥ寺院遺跡が存在していることから、この近くに港湾都市があったと考えられている。

しかし、都市遺跡は何も発見されておらず、立地も形態も不明である。十五世紀末にマラッカ王国がイスラーム教を受容し、覇権を拡大するとともに、シュリヴィジャヤ王国下の港市権力は小王国として独立することになった。今日のタイ南部のナコンシタマラート、ソンクラー、パタニ、マレイシア側のクランタンやクダーなどがそれに当たり、後にみなイスラーム教を受け入れたるが、シュリヴィジャヤ期の仏教・ヒンドゥ教を融合させた特異な文化を持っている。

パタニPattani

パタニ王国は、十五世紀、マラッカ王国に続いてイスラーム教を受け入れ、シャム王国に従属しながら、独自に琉球、ジャワ、チャンパなどと広範な通商関係を築いていった。その王宮は、今日のパタニの町から十キロメートル近く海岸線沿いを南下したクリーセ村近傍にあったが、王宮らしい形跡は何も発見されていない。

代わって未完のモスクと大きな中国人墓地があり(写真3.29、3.30)、言い伝えによれば前者は十八世紀半ばパタニ王国に仕えていた華人高官がイスラーム教に改宗するとともに建設を計画したが、彼の妹は兄のイスラーム教改宗に反対し、モスクが完成しないよう呪いをかけて自殺したという。兄が亡き妹のために築いたといわれる墓と未完のモスクは、イスラーム教のマレイ人からも道教の華人からも篤い信仰を受け、毎日多くの礼拝者が訪れている(注1)。モスクが未完となった本当の理由は、組積造に関わる知識と技術に不慣れであったため、ドームをかけることができなかったためであろう。

このパタニは十八世紀末にシャム王国から攻撃を受け、多くの住民たちは数キロ西方のパタニ川河口に移り住んだ。左岸にはマレイ系住民の一戸建ての高床式住居が建ち並び、一方、左岸には店舗兼住居の街屋が街路沿いに並び、対照的な景観となっている(写真3.31)。現在、経済的に衰退し、住民は州都のハジャイや首都のバンコクに引っ越し、ほとんどの店舗は空家となっている。

現華人街は霊慈聖宮の建設年代から約二百年も遡ることができ、パタニ川に平行に走る街路とそれに直行する街路の二つから成り立っている(図3.13.写真3.32)。川に直行する街路の奥に林姑娘と媽祖を一緒に祀った霊慈聖宮などの華人関連施設があり、クリーセ村の宗教施設とともにここにも毎日多くの華人参拝者が訪れている(写真3.33)。この街路沿いには大型の街屋が立ち並び、角地の華人カピタン邸をはじめ有力者たちが住んでいた。百年以上も経つ古いものも多く残っており、タイ国内における貴重な建築遺産であるばかりではなく、ここから各地に移り住んでいった華人たちの故地として、また彼らのアイディンティティとしても重要な存在である。

パタニPattani.

ソンクラSongkhla.

プケットPhuket.

ソンクラーSongkhla

タイ南部のシャム湾側に大きな湖があり、その湖から湾への入口の南側岬に現在のソンクラーの市街地が広がっている(写真3.35)。岬の突端には航海の目印となるような二つの丘があり、港町としての立地条件は良いが、大きな王権が育つ場所としてあまりにも防御に難点があった。そのため、北側岬にあったマレイ王国は長らく北方のナコンシータマラート王国の一属国の地位に置かれた。十八世紀後半、チャオプラヤ川下流にトンブリー朝が誕生すると、当地の有力華人が新たにソンクラー王に任命され、彼の下で現在の都市が発展していった。この王は名前を呉譲といい、福建省海澄出身で、彼の一族は二十世紀初頭まで実権を握った。

一八三六年に現在の位置に遷都したといわれているが、後述するように寺廟の建設年代から判断するとすでに華人街は存在していたようだ。また、ベトナムの阮朝もタイのアユタヤ朝も文化の異なる外国人を王宮近くに住まわせることはしなかったが、ここの王宮と華人街は小川を挟んで隣接しており、華人支配者の存在がそうさせたのであろう(図3.14)。主街路はノイ丘頂上を望むように配置され、それに沿って北から福徳祠、三霊殿(城皇神、関帝、清水神、写真3.36)、天后宮(写真3.35)の三祠堂が間隔を置かずに西を向いて建っている。天后宮は乾龍元年(一七九六年)建立で、この中で最古の建築である。この天后宮と福徳祠から湖岸に達する街路が開かれており(写真3.37)、もともとこの二つだけだったのが、後から真ん中に三霊殿が付け加えられたのであろう。このように三寺廟があまりにも近接していることを考えると、これらが居住地の境界を示すものではなく、おそらく権力から広範な土地に住むことが許され、そこに現地住民と混住していたのであろう。

クランタンKelantan

パタニから約百キロシャム湾岸を南下するとマレイシアとの国境に達し、そこを流れるクランタン川河口のコタバルの町にもマレイ王国が存在していた。クランタン王国よ呼ばれ、パタニと同じ頃にイスラーム教を受け入れ、王都はその後大きな破壊を受けずに今日まで続いている。王都はクランタン川を数キロメートル遡った右岸にあり、王室船着場から直角方向に広場(パダン)、謁見所(バライ)、王宮跡(イスタナ)の主要施設が一直線に並んでいる(図3.15)。これはマレイ王国の都市空間構成を知る上で貴重な遺構である。

華人街は、王都域からクラディ川を越えて一キロメートル河口方向にいったとこにあり、空地だらけになっているが、鎮興宮(天后廟)、土地公、船着き場の三つの施設がそろって残っている。鎮興宮は一八六八年に建立されているが、華人街はもっと古くから存在していたはずで、再建なのかもしれない。というのは、王都側の船着き場はもともとは王家専用であり、そこから来賓を迎える広場と謁見所へと続き、まったくの儀礼の空間であった。一方、華人街には荷役用の船着き場があり、王国の対外的経済活動を一手に引き受けていたことからわかる。

クランタン王国では、おそらく王都の建設ともに儀礼と経済的活動を明確に分けることを望み、華人街を王宮域からこのように遠ざけたと考えられる。類似の例としては、直線的な都市形態のタイ南部のナコーンシタマラートがあり、また聖俗が明確に分離されており、仏教・ヒンドゥ教から大きな影響をうけたと考えられる。クランタン王国と似たような条件の下で、十九世紀、トレンガヌ、パハン、クダーなどのマレイ王国が併存しており、さらにまた、インド洋側にもプケットをはじめとする多民族・多層文化の港市が存在し、華人街を含んだ都市の歴史と空間構成の研究は興味深いテーマである。


1.桜井由躬雄編『岩波講座東南アジア史4 東南アジア近世国家群の展開』岩波書店、2001年。

クランタンKelantan.

マラッカMalaca

前述したように、一六四一年オランダがポルトガル支配のマラッカを奪取するとき、多くの市街地の建物を焼き払ってしまった。すでにオランダはバタフィアの建設と都市経営の経験があり、再建に際し政庁は建設労働者や商人として大変有能な中国人を招き入れた。現在のマラッカ川西岸の市街地はこの時に再建され、僅かなポルトガル系住民、インド出身のヒンドゥ教やモスレムの住民の他、大多数は華人が移り住んた。華人たちは、それ以来数世紀以上にわたり定住し、その間に土着の衣食住の文化を取り入れた。このような人たちはババと呼ばれ、十八世紀末にはペナンへ、一八一九年以降にはシンガポールへと移住し、イギリス東インド会社の商館都市の建設と経済的発展を担った。今日では、若い人たちはクアラルンプールへと仕事を求めて出ることが多く、老人世帯と空き家が目立つ。しかし、パタニと同じように、ここを故地とするマラッカ海峡沿岸の華人にとって文化的アイデンティティとなっており、市と住民は歴史遺産都市としての取り組みを行っている(写真3.45)。

マラッカ旧市街地には(図3.16)、海岸線と並行に海側から三本の通りが走っており、トン・タン・チェン・ロック通りとハン・ジュバット通りは立派な華人街屋によって占められ、裕福な華人たちが居住していたことがわかる(写真3.46)。三本目の金工通りには、その名が示す通り河岸に近いところでは各種職工が店を構え、奥にゆくと、ヒンドゥ寺院、モスク、道教寺廟(青雲亭)と主要な宗教施設が並んでいる。一番北方の通りは斜めに走り、青雲亭(写真3.47)によってプタニ通りとトコン通りに分断されている。現状にポルトガル時代の地図を重ね合わせると、次のことがわかってくる。第一は、十七世紀初頭にはハン・ジュバット通り近くまで浜が迫っており、この通りとトン・タンチェン・ロック通り沿いの立派な華人街屋は十八世紀後半になってから建てられた。第二は、金工通りはポルトガル時代から存在していた通りで、すでに河岸としてさまざまな職工と民族住民が住み、そのために宗教施設が背後に作られた。第三は、ポルトガル時代のプタニ通りとトコン通りは低い城壁があったところで、オランダ時代になって城壁が取り払われ、それとともに青雲亭前庭が河岸まで延長され、結果的に二本の通りに分断されてしまったのであろう。

青雲亭は天后を祀っており、前庭にマストが飾られているように航海安全の馬祖信仰に基づくものである。ホイアンの福建会館のように軸線が街路と直交せず、遠方のブキット・チナ(中国丘)を向いている。青雲亭からプタニ通りを東進すると、東端に土地神を祀った福徳祠があり、その前方は大きな広場になっている(写真3.48)。現在でも露天市が開かれ、青雲亭前とともに河岸になっていたのであろう。このように、川に向かって左手に航海安全神、右手に土地神を配置するという空間構成は他の華人街に共通するものであるが、ポルトガルとオランダの植民地都市に組み込まれたおかげで、窮屈な空間配置になってしまった。

青雲亭も福徳祠も海峡華人の篤い信仰対象になっており、またマレイ半島随一の歴史都市として週末はシンガポールを初めとする観光客で賑わう。そのため、マラッカ州はこの旧市街地をユネスコ世界遺産に登録申請しようとしており、官民の間で修復保存と再活性化の議論が進行中である。しかしながら、マレイ人優先政策をとるマレイシアにあって、多民族・多文化の歴史都市と謳っていながら、華人建築と華人文化が際だったマラッカの位置づけは微妙である。

ペナンPenang

マラッカ海峡のインド洋側出口にある島で、マレイ半島から二キロメートほど離れている。その半島を臨む東突端部に旧市街地が広がっており(図3.17)、コムタ高層ビルの最上階展望台から市街地が手に取るように見え、光景は圧巻である(写真3.49)。もともとは、半島側のクダー王国下の漁村があったところで、一七八六年、イギリス東インド会社のカントリートレーダーであったフランシス・ライトがこの島の東端部を譲り受け、都市建設を始めた。一八二〇年頃の地図を見ると、北岸沿いに要塞、演習場、行政機関からなる軍事・行政地区があり、この西方にヨーロッパ人たちの居住地が広がっていた。一方、アジア系住民には軍事・行政地区の南側に約五百メートル四方の土地が与えられ、西境界線沿いにキリスト教教会、中国寺院、モスクの宗教施設を並べた。

一八二七年にシンガポールとマラッカとともに英領「海峡植民地」を形成し、火災の教訓を生かして一八三二年、建築規則によって市街地建物はすべて耐火造とされた。一八七〇年に入るとスエズ運河の開通により大型汽船が来航するようになり、それらが停泊できるようにビーチ通の海岸線が埋め立てられた。一九二〇年代から三〇年代にかけて防火と公衆衛生のための都市改善事業が実施され、下水道や裏小路が整備された。第二次世界大戦後には、建物の荒廃化を防ぐために賃貸規制法が施行され、そのおかげでほぼ約百年前の姿を維持することになった。現在、市政府とペナンヘリティージ・トラストは建物と景観の修復保存事業を進めており、マラッカと一緒にユネスコに世界遺産登録申請を準備している。

初期居住地に南北方向に走る通りは、キング通りやクィーン通りというようにイギリスに由来する名前の付け方であるが、東西方向の通りは北側から、ビショップ通り、チャイナ通り(写真3.50)、マーケット通り(写真3.51)、チュリア通りと、民族や施設の特徴から名前がつけられている。通り名が示すとおり、華人と南インド人が主要な住民であった。街区の方は、当初から通りに沿って奥に細長く区画割りされており、街屋が連続して並ぶように都市計画されたのがわかる。。

チャイナ通りの西方の突き当たりに観音廟(媽祖廟)があり、もともとはこの裏にあった小丘を背に建立され、海や船着場から眺めることができるようになっていた。また、この観音廟をはじめ南北に走る通り沿いには多くの寺廟が存在する。まず、ピット通りの南端には福徳祠が大樹の陰に置かれ(写真3.52)、一九九八年に訪問したときにはこの祠堂前広場で盂蘭盆が執り行われていた。

キング通りがチャイナ通りと交わる付近には嘉応会館、中山会館、廣肇会館、関帝伍廟(写真3.53)が集まっており、そこからキング通り南方には、李氏宗祠、陳氏宗祠、ナゴール・ドゥルガ・モスクなどが並び、そしてチュリア通りの対面には林宗祠が通りを眺めている(写真3.54)。同じように、クィーン通りがチュリア通りとぶつかる対面にも潮洲会館(写真3.55)があり、この通りの行き止まりになっている。あたかも居住地を守るように大きな寺廟が周囲に配置され、その中に会館や宗祠などの身近な小さな寺廟が点在する。このような空間配置はホイアンでも見られたが、ペナンではより徹底しており、それがイギリス植民地都市の枠組みの中で実現されたことがユニークである。

すなわち、イギリス植民地権力は貿易、港湾、都市開発の労働力として華人を住まわせるために居住地を開き、街屋建設を前提とした街路配置までを行うが、その後の開発は華人居住者の自由に任せたといえる。

シンガポールSingapore

シンガポール島はマレイ半島南端にあり、ジャワ海と南シナ海とインド洋を結ぶ要所に位置する。そのため、シュリビジャヤ時代にすでに港市があったことが知られているが、強力な王国は誕生せず、本格的な都市建設は東インド会社のトーマス・スタンフォード・ラッフルズの到着を待たなければならなかった。彼は、イギリスが中国・日本との貿易を進めるために、ペナンとベンクーレン(スマトラ島西岸)に代わる中継港を探していた。この島は現地権力の拠点とはなっておらず、また絶好の立地であった。一八一九年、ラッフルズは支配者から島の南岸部の割譲を受け、自ら立案した都市計画に基づいて都市を建設していった。まず、川の左岸を軍事・行政地区とヨーロッパ人居住地に、右岸をアジア人居住地と業務地区に指定した(図3.18)。

しかしながら、ラッフルズの求めに応じて移住してきた華人たちは、テロック・アヤの海岸沿いに居住地を開き(図3.19)、そこに天福宮(媽祖廟、写真3.56)とと福徳祠を建立した。この二つの寺廟はシンガポール最古の建築であり、シンガポール華人の大事な信仰施設となっている。この地域には平地が限られ、その後やってくる多くの華人たちはラッフルズの都市計画に定められた地区に居住していった。そこにはヒンドゥ寺院とモスクが建てられながら(写真3.57)、華人寺廟はない。現在、この地区はクレタ・アヤ(牛水車)と呼ばれ、一九九九年に初期チャイナタウンとして歴史地区に指定された(写真3.58)。

このようにみてくると、一八一九年、ラッフルズによるシンガポール建設のかけ声に誘われて集まってきた南洋華人たちは、それがどれほど発展するか想像がつかないままに、マラッカやペナンの立地と空間配置のやり方を踏襲して海岸近くに急遽居住地を開いたことが想像される。しかしながら、天福宮の背後には丘があるため居住地の発展性に乏しく、さらに一八二二年の都市計画によって華人を含むアジア人たちの居住地はシンガポール川右岸後背地に指定され、天福宮周辺の居住地は初期の姿のまま取り残されることになった。サウス・ブリッジ・ロード北側一帯に開かれた居住地にはイスラームとヒンドゥの寺院が設けられたが、すでに道教関連の寺廟は建設されなかった。このことは、イスラーム、ヒンドゥ、キリスト教が日常生活の規範としてあるのに対して、道教寺廟はそれぞれ特定の活動のために捧げられることをよく示している。


1. 鶴見良行『マラッカ』みすず書房、2000年

2. S・H・ホワイト『ペナン都市の歴史』学芸出版社、1996年。

3. N・エドワーズ著・泉田英雄訳『住まいからみた社会史:シンガポール1819-1939』日本経済評論社、2000年。

4. 生田真人編『クアラルンプール・シンガポール アジアの大都市3』日本評論社、2000年。

三-四 ボルネオ島Borneo (Kalimantan)

ボルネオ島の中国人は客家出身者が多く、彼らは十八世紀末に福建と広東から渡ってきた。一時は西ボルネオ一帯に独立国を作るまでに勢力を持ち、現在も都市部のマジョリティを形成しているが、その後福建人、広東人、海南人などが移民してきている。

クチンKucing

十九世紀半ば、イギリス人商人のチャールズ・ブルックスがブルネイ王国からこの地の支配権を譲り受け、クチン川を遡ったところに首都を建設した。これが現在、マレイシアのサラワク州都クチン市となっており、ジャングルツアーを目当てにやってくる観光客相手の商売でにぎわっている(写真3.59)。ブルックスは北岸に総督官邸を置き、南岸に行政地区と現地人地区を明確に分けて配置した(図3.20、写真3.60)。この新都市の建設と奥地の開発のために華人住民が招聘され、彼らは河岸沿いの通りではさまざまな卸商を、その奥の通りでは木工業を営んだ。

クチン川上流の森林には家具製作に適した木材が産出され、そのため木工業が繁盛し、大工通りと呼ばれるようになった。その通り沿いに主要な寺廟が配置されており、西側に天后宮(写真3.61)、通りの東端に関帝廟(写真3.62)、そして広場を挟んで土地公(写真3.63)が並んでいる。航海安全の女神である天后宮の前広場は商業的に発達しておらず、代わりに関帝廟と土地公の間には京劇用舞台が設けられており、人々の日常の信仰施設として関帝廟が主祠堂になっているのがわかる。華人住民のマジョリティが客家と潮州人であり、木工関連の仕事を営んでいる彼らにとって、御利益のある関帝の方が大事であったのであろう。

華人居住地内の通りは緩やかな曲線を描き、寺廟の配置の後に地形に合わせながら配置されたことが想像される。このように、植民地権力の都市計画では、おおざっぱに華人居住地が指定されただけで、街路や寺廟は割合自由に配置することができたようだ。

西カリマンタン:ポンティアナック、ムンパワ、スンガイ・プニュ、シンカワンWest Kalimantan, Pontianak, Munpawa, Sengai Punyu, Singkawan, Monterado

十八世紀初頭の地図には川に沿ってムンパワ、スンガイ・プニュやモンテラドなど多数の居住地の名前が見え、これらの居住地は上流から産する森林・鉱山資源を集めて輸出し、非常に繁栄していたらしい。ところが今日そこを訪ねてみると、川岸に沿って十数戸の家屋が建ち並ぶ程度の小村か、場合によっては消え去ってしまっている。この地域では内陸の物産が商品として注目されると集積基地として一気に居住地が出現し、またその枯渇とともに急速に消滅する、とても栄枯衰勢が激しいところなのであろう。中国人居住地形成のフロンティアといえるかもしれない。

どちらにも信仰施設は残っており、共通して河岸と天后廟が右手にあり、左手にいくつかの家屋が並び、一番外れに土地公が位置する。香港の新界や離島にもこのような単純な配置構成の居住地があり、19世紀になってからも、作られ続けていたことが分かる。家屋は媽祖廟と土地公を結ぶ通りに面して建てられ、多くは倉庫兼住居の構成になっている。奥地では瓦は手に入らないため、多くはニッパ椰子の葉で屋根が葺かれていた。スンガイ・プニュではロングハウスのように十数件の家屋が連続して建てられていた。

三-五 ジャワ島Java

東南アジア史研究の碩学、セデスが指摘するように、東南アジアの小権力はインドの王権思想を受け入れることで国の形を整え、そしてインドや中国の大帝国に認知されるようになった。東西の大文明がこの地域に関心を示すようになった大きな理由は、ここの海や森林に潜在する特異な産物にあり、港市国家はそれを集積し、宗主国へ朝貢したり、港市相互の間で交換するにより経済的に豊かになっていった。この消費地中国と産地を結ぶように、福建人もこの港市交易ネットワークを利用し、貿易活動に参加していった。行く先々で居住地を開き、十五世紀にはマレイ半島のマラッカ、スマトラ島のパレンバン、ジャワ島のトゥバンなどでは一大勢力となっていた。

十五世紀末のマラッカは港市国家として最も繁栄していたが、一五一一年にポルトガルによって支配されてしまう。ポルトガルの独占貿易に対抗して、他の商人たちは別の商品集散地を探さなければならず、ジャワ島北岸の港市がより重要性を増していった。すでにそこでは、西方からのイスラーム商人たちとの取引を通して権力者たちがイスラーム教を受け入れており、十五世紀末から一六世紀にかけて「ワリ・ソンコ(七人の聖人)」の活躍で、グリセック、トゥバン、ジュパラ、デマック、チレボン、バンテンなどの小港市国家が次々とイスラーム化していった(図3.23)。

イスラーム教の受容によって、都市にも変化が生じ、それまでの仏教・ヒンドゥ寺院が消え、代わってモスクが建設されることになった。この建築の計画には必要条件があり、それはメッカを向いて礼拝することで、キブラと呼ばれる。ジャワ島の場合、建物を西に向けることになり、王宮前アルン・アルン(広場)周囲では、西側に配置するのが最も都合がよかった。そうすると、東から西方向に、玄関、礼拝所、ミヒラブ(壁龕)が一直線に並ぶことになり、人の動きがスムーズになる。

ジャワの都市は、それまでの仏教・ヒンドゥを基層とし、その上にこのイスラーム要素が付け加えられた。さらに、オランダ植民地支配期には官庁、公共施設、要塞などがアルン・アルンの北側と東側に建設されて。こうしてアルン・アルンを中心としたジャワ都市の典型が完成していった。この過程で華人街がどのように変化していったのか、バンテン、スマラン、ラサムなどの事例から明らかにみてみよう

バンテンBanten

十六世紀半ばにデマック王国から支配を脱し、ハッサン・ウディンがバンテン・ギランを捨てて、現在のバンテンの地に新たに都市を建設した。この王国でも、アユタヤ王国と同じように聖都から商都への変化が見られることは興味深い。バンテンの都市は、一五九六年にここを訪問したオランダ人商人ハウトマンによれば、周囲を防壁と堀で守られ、中心に王宮、広場、モスクがあり、その間に家臣たちの木造高床の家屋が建ち並んでいた(図3.24)。また、王宮から海(北方)、山(南方)、そして陸(西方)へ向かう三本の直線の道が走っていた。

市場は、もともとは市内中心部近くにあったが、外国人商人の渡来が増加するとともに、市外東側に市場に移された。ここの商取引からあがる税金は、支配階層の大きな収入源であった。外国人商人たちは、外国人商人たちはバンテン川河口左岸に専用居住地をあてがわれ、王の指示に従って最初木造で建物を建設した。一六〇二年から三年間滞在したイギリス人E・スコットによれば、この居住地区には民族ごとの区分はなく、家屋密度が高まるとともに火災の発生が多くなり、その教訓から王の許可を得て三年後には大部分煉瓦造へと建て替えられたらしい。こんな短期間に組積造化が進んだのは、華人やヨーロッパ人にとって慣れ親しんだ技術であったからであろう。建物の恒久化がすすむとともに、外国人住民たちはそれぞれの信仰施設を持つようになり、ハウトマンは悪魔に礼拝する華人や、イスラーム教に改宗した華人の存在について記述している。

オランダ東インド会社商館は、自らの利益を守るために建物の防御を固めたためにバンテン王から反乱の嫌疑をかけられることになった。王は華人たちの助けをかりてオランダ商人を追い出そうとしたが、一六一九年反対に打ち負かされ、王は逃れ、王宮と全華人地区は破壊され、華人の多くはスンダ・クラパ(後のバタフィア、現ジャカルタ)に移住することになった。一部の華人系住民は戻ってきて、一六二四年頃までに居住地を再建し、一六八二年からオランダの直接支配を受けながら、華人街は十八世紀末頃まで存続していた。

外国人居住地はもともとバンテン川河口左岸にあったのが、オランダ支配時代に華人街としておよそ五百メートル上流に移された。一七三八年の地図によれば、河岸沿いに建物が密集し、また北側にモスクが建っていることがわかるが、それ以上のことは不明である。街跡地にはモスクのミナレット(写真3.73)と数棟の華人家屋(写真3.72)が残るのみで、天后宮(写真3.74)は外に移っており、十七世紀の空間構成を伺い知ることはできない。

スマランSemarang

明朝永楽帝が派遣した鄭和の艦隊がここに寄港したといわれ、現在の市域から西北方向を数キロ離れたところにに三保公が建っている。ここには福徳正神と馬祖が一緒に祀られており、十五世紀この辺に市街地があった。その後、海岸線が後退したため、ここを支配していたイスラーム小王国は王宮をスマラン川河口近くに移したが、一六七八年からはオランダが中部ジャワの軍事拠点のための都市開発を行っていった。当初は、東インド会社はスマラン川河口近くの東側に要塞を築き、そして他の植民地都市と同じように、自らにさまざまな便宜を提供させ、現地住民との仲介者とさせるために、そのすぐ対岸に華人街を開いた。そこでリーダーであるカピタンと、補佐役のルーテナントが任命され、彼らの下で華人住民たちは半自治権を行使していた(図3.25)。

今日のインドネシアでは華人街は一般にプチナンと呼ばれ、その中でもスマランの華人街は最大規模のものである。スマラン川が大きく蛇行する内部に形成され、特異な空間構成と形態をしているので、そこが華人街であることはすぐに見分けがつく(図3.26)。このような形態になったのは、一七四〇年にバタヴィアで起きた「華人虐殺」の影響であり、この事件後すぐにスマランの華人たちは居住地周りに木柵を張り巡らし、見張り台を配置するなどして防御を施した。こうして、大覚寺(観音廟、写真3.75)はスマラン川を遡りVOC要塞を経て華人街にやってくる船を監視し、また他の五つの福徳祠(写真3.76、77、78)は正面の街路上での人々の動きを監視するように配置されたと考えられる。これほど多くの福徳祠を持つ華人街は他では見られない。

最終的にオランダ軍によって反乱リーダーは処刑され、武装解除された。ほどなく華人が街に戻ってきて、居住地の再建を始めた。その後、華人住民がオランダ植民地支配を間接的に支えることで富裕層になってゆくと、現地住民との経済的格差は広がり、地方都市では民族的軋轢が強まった。それを解消するために、一八四一年オランダ政庁は「居住地制限法('Wijkenstelsel', Settlement Restiction)」を発布し、華人住民が他のアジア系住民と雑居しないようにした。一九一五年に廃止されるまでこの規則によって華人街は非常に高密度の状態でとどまることになり、それとともに人口過密が進み、衛生問題が顕在化することになった。二十世紀初頭オランダ人衛生技師ティレマがスマランの華人街を舞台に都市居住調査を実施するが、このような政治経済的背景があった。

独立後の最大の事件は、一九六六年にインドネシア政府は共産主義運動に関連して中国との国交を断ち、中国系住民にインドネシアへの忠誠(=中国文化の放棄)を迫ったことで、それを甘受できなかった大量の華人は中国に帰国することになった。それでも、現在、西側の一帯は通りはごとに特化しており、一番西側の通りは市場街(写真3.79)、その東側の通りは卸街(写真3.80)、そして北側に職工街(写真3.81)になっており、それぞれとても活気があり、スマランの華人街の勢いを感じる。

ラサムLasem

ラサムはスマランとスラバヤのほぼ中間に位置し、内陸のマジャパイト王国の外港として一五世紀に非常に栄えていた。内陸には造船や木工のための良材が産出され、トゥバンとともに華人の商人や職工がラサム川沿いに居を構えていた。一六世紀末にイスラームのデマ王国に、続いて一六二〇年代にはマタラム王国によって支配され、さらに一八世紀に入るとオランダにより間接統治され、今日まで場所を少し移転させながら華人街が維持継承されている。プラティオ氏の調査によれば、初期の華人街はラサム川の東岸沿いに形成され、そこには一七世紀後半に建立されたと考えられる天后廟(写真3.82)と数棟の華人住居が現存する(図3.27)。一七四〇年、バタフィアで起きた華人虐殺事件後、避難民が移り住みようになり、西側にも華人街が拡大していった。さらに、一九世紀初頭グロト・ポスウェグ(通信街道)の開通とともに、この街道沿いにも市街地が発展していった。

このようにしてできあがった街並みはとても特徴的で、他の華人街が街屋によって構成されているのに対して、ここでは通り沿いに高い塀を巡らし、外に対して閉鎖的な住宅によって占められている(写真3.83、84,85)。ラサムのような地方都市では、華人たちは政治経済的支配者と現地住民の間の仲介者としての役割を演じて富裕階層となったために、利益と家族を守るために、このような屋敷造りをすることになったのであろう。すなわち、居住地内の住民に物品を小売りすることは考えず、もっぱら物産の中継・加工のための施設が必要であったため、中庭型住宅の方が都合がよかったのであろう。オランダ支配期の二十世紀初頭に街路拡幅が行われた際に煉瓦壁が作り直され、またインドネシア独立後の華人は移籍運動の際に防御がより固められており、痛々しい景観をしている。

トゥバンTuban

トゥバンもまた、スダユやラサムとともにマジャパイト王国の外港の一つであり、鄭和の遠征隊が書き記しているように、早くから華人が定住していた。また、南洋華人の発祥の地として重要であるだけではなく、イスラーム布教に功績があった九聖人の一人がここに眠っていることから、ジャワ島における巡礼地の一つになっている。一五九九年にここを訪れたファン・ネックは、ジャワ島で最も美しい都市であると賞賛しているが、大型船が入港するための港がなかっため、その後の経済発展に取り残され、今日の街の姿から当時の繁栄は想像できない。

現在のトゥバンの中心部はオランダ支配期に作り直され、アルン・アルンを市役所、モスク(写真3.86)、そして天后宮(写真3.87)が取り囲む構成になっており、基本的には典型的なジャワ都市の空間構成となっている(図3.28)。しかし、大きな相違点は天后宮の位置で、それはアルン・アルンの北側に面して配置され、このようにジャワの都市にあって華人寺廟が市中心地を占めることは大変珍しい。おそらく、トゥバンにおける華人の歴史的存在が大きかったため、オランダ支配時代にモスク、オランダ植民地権力、華人信仰の三つを尊重して都市が再編成されたのであろう。おそらくは天后宮はもともとここではなく、トゥバンのもう一つの主寺廟である関帝廟近くにあったのであろう。現在、この二つの寺廟の間にはジャワ人の一戸建て住居が建ち並び、華人特有の街屋はみられない。数百年におよぶ居住の歴史の中で多くは同化してしまったり、あるいはスマランやスラバヤなどのより大きな都市へと移住してしまった。二つの寺廟以外に長い華人街の存在を物語るものはない。

レンバンRembang

レンバンは、ラサムからスマランの方向におよそ百キロメートルいったところにあり、一八世紀半ばに内陸の森林産物を搬出するための拠点として建設された。しかし、十九世紀末にスマランに鉄道駅と港湾施設が整備されると、積出港としての価値は薄れ、今日訪れると、およそ百年の間、時が止まったような感じを受ける。既存の都市がなかったので、中心部はオランダ植民地権力のための教会、役所、学校などの公共・行政・文教施設が占め、モスクはない。華人街はレンバン川が流れる西部に広がり、すでに十八世紀末の地図に描かれていた。そこの北側に華人カピタンの邸宅(写真3.88)と、レンバン川河口東岸には中国人寺廟が描かれており、現在でも目にすることができる(図3.29)。この寺廟は馬祖を祀った慈恵宮(道光二一年、写真3.87)であり、沖合の船舶の目印になるような高い二本のマストが前庭に建っている。慈恵宮からカピタン邸の間にはいくつか華人の屋敷がみられるが、ラサムと同じように周囲に高い壁を巡らした一戸建ての住宅である。このように、河岸、馬祖廟、街屋の構成要素がみられず、オランダ植民地支配下で居住地開発に大きな制限を受けたため、華人街特有の空間配置を実現できなかったのであろう。

この他にも、スマランから東方のデマック、ジュパラ、ジュアナ、またその西方のプカロンガン、チレボンなど、ジャワ島北海岸沿いの都市には、天后宮を主廟にいただく華人街が存在する(写真3.89、90)。すべてがオランダ植民地時代の居住規制や都市再開発によって著しく改変され、河岸、馬祖廟、土地公、街屋という構成要素が一定の場所を占める空間配置にはなっていないのが大きな特徴である。さらにスラカルタやジョクジャカルタなどの内陸都市では、華人街は市場と隣接して存在しているが、そこでは生活安全の土地公や福徳正神と、商売繁盛の関帝廟が主廟となっている。

四-六 フィリピン諸島の華人街Chinese Settlements in the Philippines

フィリピン諸島には中国が欲する森林海産物に恵まれ、南シナ海側の沿岸の港市王国は明朝と密な交易関係を結んだ。そのため、多くの華人が福建地方からこの地に移住し、居住地を築いたはずであるが、その後、スペイン植民地権力下での都市開発事業によって港市の姿は不明である。スペイン植民地権力は、ラテンアメリカでの植民地事業の過程で効率的な行政体制と都市建設方法を考えだし、これは「インディアス大法典」として発布された。この中で格子状の街路配置、プラザ回りの主要施設の配置、さらに大型一戸建て住宅(パラッゾ)を基本にした敷地割りが定められていた。行政網の整備とともに全国的に実施され、今日のフィリピンの主要都市の受け継がれている。その中で、福建省の対岸に当たるマニラ、サン・フェルナンデス、ヴィガンの都市を通して、スペイン植民地権力の都市建設において華人街がどのように位置づけられたのかを明らかにする。

マニラManila

スペイン時代の建設史については、アントニー・リーズが『植民地マニラ』の中で詳細に論考している。それによれば、湾の入江にマレイ・イスラーム王が王都を開いており、そこを奪取してスペイン植民地権力はフィリピン諸島支配の拠点を築いた。「インディアス大法典」が発布される直前に、いまだ敵対勢力に囲まれた状態の中で建設が始まったため、非常に防御を重点に置いた都市計画となった。そのため、都市と周囲から明確に区画し、周囲を城壁と堡塁で囲んでイントラムロス(城内)を作り、その中に主要施設と居住地を配置した。現地人は最初イントラムロスに住まわせられたが、華人の勢力拡大を恐れた政庁によって城外に移された。ここはパリアンと名付けられ、十九世紀には華人街は人口増加によりパシグ河対岸のビノンドに拡大していった。

今日ではビノンドがマニラ華人街として知られているが、多くの華人がキリスト教を受け入れてしまったために、表だって道教の寺廟は見あたらず、また華人街としての空間構成も見いだすことはできない。このような特徴がマニラだけのことなかの、地方都市における華人街の展開をみてゆくことにする。

サン・フェルナンデスSan Fernandez

サン・フェルナンデスはミンダナオ島西岸に位置し、小さな入江の中に都市が築かれた。ここは、フィリピンの都市の中で華人の比率が最も高く、大きな媽祖廟が存在することで有名である。中心部にはプラザを取り囲むように教会と市役所があり(写真3.92)、ここから海側に向けて格子状の街路が配置されている。インディアス大法典にもとづく都市建設が行われたようだ。小さな川の左岸に市場があり、これまでの事例からこの付近が華人街としての最高の立地である。ところが、サン・フェルナンデスでは郊外の高台に馬祖廟が建てられており、市街地から離れしまっている(写真3.93、94)。

サン・フェルナンデスから北方におおそ百キロメートルいったところにヴィガンの街があり、ここも華人人口の比率が高い。プラザを中心とした格子状の街路配置によって都市建設が行われ、ここでもキリスト教会以外の宗教施設を基礎とする民族居住地は見られない。このように、スペイン植民地支配とともに、既存居住地があった場合、それは根こそぎ取り壊され、彼らの行政システムと都市計画に基づいてまったく新しい都市が建設された。さらに、キリスト教至上の都市空間にあって、特徴的な華人街が発展する余地はまったくなく、その結果、サン・フェルナンデスのように道教を信仰する華人たちがどうしても寺廟を建設したい場合、市街地の外に建てられなければなかった。フィリピンにおける華人街は、南シナ海沿岸の他の都市と比較すると、非常に限られた発展しかしなかった。


参考文献

1. ジョン・D.レッグ著(中村光男訳)『インドネシア歴史と現在 : 学際的地域研究入門』サイマル出版会、1984年。

2. 坂井隆『港市国家バンテンと陶磁貿易』同成社、2002年。

3. H.J. de Graaf and Th. G. Th. Pigeaud, Chinese Muslims in Java in the 15th and 16th centuries the Malay Annals of Semarang and Cerbon, 1984.

4. Robert R. Reed, Colonial Manila : the context of Hispanic urbanism and process of morphogenesis, 1978.

三-七 福建省沿岸の華人街

前章では、中国本土ではなく、南洋における華人街を成立背景による分類の典型例を紹介し、空間構成に大きな特徴があることが分かった。ではその特徴はいったいどこで形成されてきたのであろう。

泉州Qieng Zhou

福建省沿岸の都市は、今世紀初頭民国政府によって都市近代化事業が実施され、また文化大革命期に道教や土着信仰の施設が取り壊され、台湾との臨戦体制の中で港が改造され、さらに近年開放政策によって急速に都市再開発がすすみ、伝統的な建築を調べるのが非常に難しくなってきている。その中で福建省の泉州は福州や廈門の大都市から離れており、また晋江をかなり遡ったところにあったため、最近まであまり大きな都市再開発は行われなかった。この都市は、かつてアラビア語資料にザイトンと書き記されていたように、元代から清代初めまで市舶司が置かれ、外国貿易船の入港地(市舶司)として栄え、城外には蕃坊(外国人居住地)が築かれていた。また、南洋に大勢の移民を出したことで有名で、本調査にとってとても魅力的で重要な都市である。一九九一年に初めて訪問し、当市にある華僑大学の教員の協力を得て、旧市街地の概略調査を実施した。ついで、一九九五年の調査では多数の建物を実測調査することができ、非常に貴重なデータを得ることができた。というのは、すでに再開発事業が進行中で、二〇〇一年二月に訪問した時には実にたくさんの建物が消えてしまっていた。

泉州の旧市街地は二つの部分から成り立っている(図3-32)。一つはかつて城壁で囲まれていた都城部分で、清代までここに官衙施設と官吏たちの住まいがあった。もう一つは城外の河岸近くの居住地で、ここに大勢の商人、職工、労働者たちが住み、泉州を経済的に支えていた。そこで、明代から清代にかけて最も賑わっていたのが聚寳街界隈で、南海物産をはじめとする各地からの商品と人で溢れかえっていた。

聚寳街は、かつては河岸と天后宮を結んでいた(写真3.95、96)。この天后宮は一一九六年に創建され、眉州の天后祖廟とともに現存する最古の媽祖廟である(写真3.97、98、99)。そのため、人々から篤い信仰を集め、台湾をはじめとする華人の来訪が絶えない。この廟前の通りを西方に数百メートル行くと、本堂は残っていないが地名から土地公があったことがわかる。清代に入ると市舶司が福州市に移され、さらに近代以降は廈門に開港されたために、そのおかげで泉州の旧市街地は割合古い姿のまま残ることになった。二十世紀初頭には、河岸地区に南洋で一旗揚げて帰郷した華人の洋館がいくつか建設され、伝統的な建築群の中で特に目を引く(写真3.100)。

福州Fu Zhou

福州は、漢代に閊越支配の拠点が築かれたが、本格的都城の建設は晋代に始まる。太守は高名な風水師、郭撲に尋ねて越王山(屏山)を背にして、子城を築城した。宋代まに南方に拡張され、また中州の間に浮橋を並べて問江に達する街路(現中亭街)が建設され、この街路により都城と対岸の倉山地区が結ばれた。この城市の立地は、左右前方には青龍と白虎に見立てた丘があり、また川が北西から東の方向に流れ、さらに真南に小山を望むことができ、まことに風水の原理にかなうものであった(図3.33、写真3.101)。

福州は南中国の行政と国内通商の要であったが、明代半ば(十五世紀末)に市舶司が泉州からここに移されたことで重要性が増した。琉球を含む外国朝貢使節団のための施設が置かれるようになり、「進貢廠」や「柔遠駅(琉球館)」とは呼ばれた。このすぐ近くには天妃宮があり、おそらく外国朝貢使節団のために設けられ、琉球の冊封使は船に安置した天妃小祠堂に安全を祈願しながら航海し、福州に到着すればこの天妃にお礼の参拝を行ったのであろう(写真3.102、103)。残念なことに、文化大革命時に多くの寺廟が取り壊されてしまい、この天妃宮は家具屋に改造されていた。

二〇世紀初頭の地図を見ると、川岸近くにもう一つの天后廟があったことがわかる。これは河岸地域の西部にあり、一般の貿易商人、船乗り、漁民などのためのものだったのであろう。一九九四年に訪問した時、こちらの天妃宮は石灰工場に転用されてしまっていた。旧琉球館近くの天妃宮から西方向へ延びる通りには、職工の作業場、店舗、住居を兼ねた街屋が並び(写真3.104)、この北側の通りには一般庶民の専用住宅が並んでいた(写真3.105)。生鮮食品や日用雑貨を売る店舗はこの辺の通りにはなく、すべて中亭街と新中華街に集中していた。福徳祠、土地公、宗祠などの信仰の建物はまったく消え去っており、これは一九九〇年以前に道教信仰否定と用途地区制にもとづく都市再開発が行われことを意味する。かつてこの辺一帯にも、南洋華人街のように居住地と信仰施設が密接に結びついた空間構成が存在していたはずであるが、一九六〇年代の文化大革命とその後の都市再開発事業によって、河岸地域全体の伝統的空間構成は史料とわずかな遺構によってにしかたどることができないようになってしまった。信仰に代わって経済主導の街作りが行われており、福州の河岸地区に伝統的な居住地と建築とはまったく異なる新「中華街」(写真3.106)が出現したことは皮肉なことである。

台湾Taiwan

明代、台湾島から中国内で珍重される商品が産出されることが広く知られ、鄭成功の乱が治まるとともに、清朝による本格的統治と移住が始まった。一六八三(康二二)年、福建省の海軍提督により台湾島中部の河口近くに天后宮が寄進され(写真3.107)、居住地が開かれた。これが鹿港で、翌年には奉天宮が建立され(写真3.108)、また福徳祠が併設されたことから、これらの廟の間に最初期の居住地が開かれたのであろう(図3.34)。その後、一七五四年(乾隆一九)に城隍廟、一七八六年(乾隆五一)に新祖宮が建立され、十八世紀末には天后宮と城隍廟を結ぶ街路は「不見天」と呼ばれるほど人と物で溢れる街屋街になった(写真3.109)。

現在の天后宮の位置は、河口への土砂の堆積で海岸線から離れたが、その前の広場は河岸までつながり、また右手に土地公がある配置は、泉州の河岸地区、香港の交易漁村、南洋華人街と共通する特徴である。

澎湖島は、 元末に巡検司が置かれ、福建から多数の人口が移民したが、明代に倭寇などの海賊の巣窟になり、鹿港と同じように清代になってから本格的統治が始まった。天后宮も一六八四年になって建立され(写真3.110)、それ以後馬公市の市街地が形成されたようだ(写真3.111)。日本植民地時代に街路を中心とした市街地再開発が行われたが、天后宮周辺では狭い街路が入り組み、多くの史跡がの残されている。天后宮の南広場はかつては船着場まで続き、恐らく右手に土地公があったと考えられる。台南も天后宮を中心にした居住地開発が行われたことがわかり(写真3.112)、街路の様子から日本植民地時代に大きく再開発されてしまった。

このように、南洋華人の故郷であった福建省沿岸の歴史的居住地を見てくると、泉州は十八世紀以降海外貿易が衰退し、また文化大革命による建築遺産の破壊が行われなかったおかげで、幸運にも南洋華人街の原型のような居住地空間構成が残されることになった。十七世紀末から台湾海峡周辺でも同じような空間構成を持った居住地が形成され、都市再開発が進まなかった鹿港や澎湖などで目にすることができる。

四章 華人街の構成要素

四-一 寺廟

これまで見てきたように、文化大革命が吹き荒れた都市を除くと、南シナ海沿岸の河岸居住地では寺廟はなくてはならない存在であった。また、居住地自体が衰退しても、寺廟だけは居住の歴史を刻む記念碑として住人らの手によって、信仰の対象として保存されていた。このように寺廟は南中国の河岸居住地や南洋華人街にとって重要な構成要素であり、その意味をひとつひとつ詳しく見てゆくことにする。

媽祖廟

福建省は丘陵部によって占められており、人々の間で農業より漁業や交易の方が盛んであった。航海術が未発達な時代には航海安全を神に頼り、そのため彼らは祈願し、感謝するために廟を建立したり、小祠堂を船舶に安置することもした。東シナ海や南シナ海沿岸では古くから航海安全の素朴な信仰があったが、十世紀末に明確な信仰対象が誕生した。それが媽祖で、福建省蒲田に住んでいた林姓の女性が、漁業のために海にでていた父と兄を祈願によって遭難から救ったために、その後航海安全に対する霊力があると信じられるようになったことによる。宋代に中央政府から道教の一神として認められると、天后や天妃と命名され、さらに仏教の観音と一緒になることもあった。

この道教神は眉州の天后祖廟(写真4.1)のものを本神とするため、新たに媽祖廟を開くときにはここから分神を受ける必要があった(図4.1)。そのため、この信仰を持つ人が漁業や交易のために遠隔地に長く住むようになれば、身近で航海安全を祈願できるように、媽祖の分神を受け、それをしかるべき場所に祀った(写真4.2、4.3)。開廟に際して、皇帝に廟としての承認を求める献上品を贈り、代わりに鐘が送られてくることになる(写真4.4)。住民たちは媽祖に廟建築を寄進し、その入り口脇にこの鐘を掲げ、また、建立由来を石碑に彫り、内部の壁に埋め込んだ。

媽祖廟は、乗船者たちが河岸から目視でき、上陸後まっすぐにやってこれるように、船着場から少し奥まったところに配置され、この広場が華人だけではなく各地から物産を持って日々集まってくる人たちの市場になった。居住地は媽祖廟から右手あるいは上流方向に川岸に対して平行に開かれ、一番奥には土地公あるいは福徳祠が祀られた。この二つの廟を結ぶように最初の街路が開かれ、ここでは交易品が貯蔵され、また日用雑貨が売られた。そのため、この街路に沿って店屋が並び、奥は倉庫、作業場、住居などとして使われた。居住地の大きさは住民の数に左右されるが、基本的には住民が二つの寺廟を容易に参拝できるように二、三百メートルの距離であった(図4.2)。

このようにして、福建省眉州天后祖廟を頂点とする媽祖信仰ネットワークが形成され、泉州の天后宮とともに現在でも中国国内外からの参拝者が絶えない。媽祖は端正でふくよかな女性の人形で表され、廟内の中央奥に安置される(写真4.5)。両壁沿いに千里眼と順風耳が並び(写真4.6、4.7)、また天后小廟を乗せた小舟も安置されることがある。時には、ベトナムのフエのように居住地が非常に限られてしまった場合、天后の両脇に福徳正神と関帝も併置され、三神一緒に祀られることもある。

江戸時代の日本では、中国貿易は長崎を通して福建人によって担われており、彼らは媽祖を主神とする興福寺を一六二〇年に中島川沿い完成させた(写真4.9)。それは唐人屋敷が完成する以前のことであり、寺廟を寄進するほど財力のあった華人たちなので、おそらくは興福寺から中島川上流の一帯にを居住地を作っていたと想像される。一六八九年に陸側の唐人屋敷に隔離されるようになると、ほどなくして華人たちはそこに媽祖と土地公を寄進しており、居住地の空間構成は南洋華人街のものとは違ってしまったが、この二つが最重要信仰施設であったことがわかる。

建設年代を見ると(表4.1)、媽祖廟は宋代に徐々に福建省から広東省の沿岸都市へと徐々に南下し、明代末の順治時代に香港、マカオ、マラッカなどに建立されたことがわかる。いわゆる鄭成功の乱の後、清朝下ではしばらく媽祖廟建立の動きはなくなるが、乾隆帝代になると台湾西岸と広東沿岸を中心に多数造営され、南シナ海を経てマレイ半島のソンクラにまで達した。最後の建設ブームは十八世紀末から十九世紀にかけておこり、シャム湾沿岸や西ボルネオ島沿岸で現地権力から半自治的権限を得て居住地を開いたり(写真4.10)、さらには植民地都市を建設し貿易拡大を狙うイギリスやオランダの植民地都市の経済活動に参画し、チャイナタウンを形成するようになっていった。

十九世紀中期以降、廈門や香港から多くの中国人が海外に渡ったが、西洋諸国の植民地都市および専用居住地(租界)の都市サービスを担うためや、内陸開発のための労働力としてであり、汽船による航海は安全であったし、彼らには媽祖は必要とされなかった。

関帝廟

関帝は、よく知られているように『三国志演義』に登場する武将、関羽を神格化したもので、算術にも優れていたことから商売繁盛の神として商人や職人の間で信仰されるようになった(図4.3)。そのため、媽祖と異なって本神をもたず、また居住地内で特定の位置を占めることもなかった。最も多く海外進出した福建人の中にも商人も職工もいたが、南シナ海沿岸では漁業を営んだり、物産を海を隔てて取り引きすることが彼らの主立った生業であった。代わって広東人は、都市内に定住してて品物を売買し、飲食店を営み、また家具調度品などを製作するなどのサービス業を得意とし、そのため彼らにとって商売繁盛の関帝の方がありがたかった。特に、広州から数十キロ西方の佛山は腕のいい職工を排出することで有名で、そのためここからの出身者たちはホイアンやペナンなどで関帝廟に同郷会を併設した廣肇会館を建設した(写真4.11)。

海岸に面した南洋華人街では、トゥバンのように貿易機能を失っても関帝廟だけは旧居住地に残り(写真4.12)、またナコンシタマラートのような内陸都市の場合にははじめから関帝廟だけが建立されたようだ(写真4.13)。幕末、日本が開港するとともに、そこに居住する外国人とともに広東人がやってきて、日本にはなかった各種都市サービスを外国人に提供した。この職工商人たちにとって最も大事な神は商売繁盛の関帝であり、そのため横浜と神戸には関帝廟が開かれることになったと考えられる(写真4.14、4.15)。

土地公、福徳祠、城隍神、石敢当

土地神(土地公、土地爺)は居住地の陰陽をつかさどる神で、正式には福徳正神と呼ばれる(写真4.18)。南洋華人街では媽祖廟と一対となって居住地の反対側に置かれ、この二つの祠堂を結ぶ通りの両側に居住地が開かれた。ペナンやホイアンのように住民が多い場合に二、三百メートルも離れることもあったが、それ以上離れることはなく、これが居住地としてまとまりのある最大の規模と考えられる。土地公は大樹の根本の小祠であったりして、単純で素朴な構造物の場合が多い(写真4.19)。格式があがるにつれて立派な建物になり、土地神の中で最上位の城煌の場合、台湾の鹿港、澎湖、台北などのように、大きな門をくぐり、その先に祠堂の建築が並んでいることが多い。しかし、大陸側では、一九九〇年代に私たちが調査した際、かつてはそこにあったはずの城煌廟が福州、泉州、廈門、潮州、広州では見つけることができなかった。タイのバンコク、ソンクラにも城煌廟が存在し、そこの広東系華人たちが大きな力を有していたことが想像される(写真4.20、4.21)。

石敢当は中国人の間で悪鬼や邪鬼の進入を遮断するものと考えられ、香港や台湾はもちろんのこと、身近では沖縄でも見ることができる(写真4.22、4.23)。しかしながら、西洋植民地都市内のチャイナタウンではまったく目にするはできず、おそらく、植民地都市では公道上に私物を置くことは厳しく禁止されていたので、石敢当をたてる余地がなかったためと思われる。。

宗廟、会館

中国人は強い祖先崇拝の観念を持ち、海外でも住居を建てるときには必ず祖堂を中心に据え、ある程度の富を蓄えると本国の大宗廟に寄進をし、さらに周辺に居住する同族の人たちと協力して宗祠を建設してきた(図4.4)。ホイアンやペナンには多数の宗祠の建物が見られ、ここでは長期にわたって経済的繁栄に恵まれ、そのため同族の人たちの海外拠点に成長しのであろう(写真4.24、4.25、4.26.)。汽船時代になっても、故郷に帰ることは容易ではなく、海外の宗祠に位牌が祀られることもあった。特に客族(客家)の人たちは、故地との結びつきを強く維持し、地域同族者の親睦と互助のために宗祠を中心にした会館を建設している(写真4.27)。会館には他に、職業ごとや大きな地域ごとのものもある。

宗祠や会館は規模の大きな華人街に必ずあるとは限らず、インドネシアのスマランやスラバヤでは華人をめぐる政治的状況が長い間不安定であったためか、ほとんど宗祠や会館は見いだすことはできない。オランダ植民地時代からインドネシア独立後も華人は権力側からいつも警戒され、人目に付かず大勢の人が集まる建物は基本的に存在しなかったようだ。対照的に、シンガポールやマレイシアやシンガポールは、イギリス植民地時代に宗祠や会館を舞台に会頭(秘密結社)が跋扈したように、これらの施設の建設が許され、その多くが現存している。これは、イギリスは植民地支配の中でクラブやサークルといった集団活動を認めていることと関係しているのだと思われる。

宗廟は、海外でさえも一旦設立されると、氏族のアイデンティティとなり、寄進によって極力維持されることになる。また、道教の寺廟には必ず行事が付随し、調査の過程で天后聖誕祭や盂蘭盆などの祭りを目にすることができた(写真4-28)。


参考文献

1. 瀬川昌久編『香港社会の人類学 : 総括と展望』風響社、1997年。

2. 窪徳忠編『沖縄の風水』平河出版社、 1990年

3. 郭中端, 堀込憲二共著『中国人の街づくり』相模書房、1980年

五章 華人街の都市住居と景観

中国南部の都市住居

四合院

中国の城市は行政拠点であり、そこに勤める官吏たちには身分に応じて土地が分け与えられた。大きな街区は東西に走る巷(小路)によって細分化され、官吏たちはこの通りに沿って壁と門を設け、中に四合院あるいは三合院式住居を建てて住んだ(図5.1、写真5.1-9)。門から軸線上に院(中庭)と庁(広間)が交互に並び、奥に深い配置になっている(写真5.2、5.3)。手前の庁に道教の神が祀られているようにそこの中庭は公式な空間であるのに対して、奥の庁には家族の写真や祖先の位牌が祀られ、もっぱら家族のための中庭になっていた。一番奥は厨房か使用人部屋になっていることが多く、屎尿は馬桶で回収することになっていたので、便所はなかった。

中心軸に配置された中庭と庁の両側には房(部屋)が並び、家族構成員はここに住み、使用人は脇の通路から出入りするようになっていた。官吏や商人の富裕層は大家族制をとり、ことのほか格式を重んじていたので、より大きな住宅を必要とした。しかし、一九六〇年代後半から七〇年代の文化大革命期には、大規模住宅の所有者は特権階級として弾圧され、彼らの住宅は政府に没収され、住宅に困窮していた家族に分与された。一九九〇年代初頭に南中国の都市を調査し始めたとき、まだ清代からの四合院や三合院が多数残っており、その中に四~五家族が一緒に生活していた。このような居住状態ではかつての住宅の意味は失われ、また美しい装飾があっても維持管理されなくなっていた。九〇年代後半には都市再開発の波が押し寄せ、歴史的な四合院住宅はどんどん高層住宅に建て替えられ、毎年毎年街の姿は大きく変化している。

南洋に移り住んだ華人たちは、基本的には四合院や三合院式住宅を建設することはなかった。例外は一部の特権階級の人たちで、清朝から領事に任命された華人の邸宅は贅を尽くした四合院式邸宅(写真5.10-11)であった。

福建の小規模街屋

城市が四合院の集まりであれば、河岸地区はいわゆる街屋の街であった。街路は地形に応じて曲がり、また街角には道教に関わるさまざまな祠堂が立ち、さらに街屋の店先には品物が並べられ、信仰、商売、生活が入り交じった空間であった。建物平面も四合院式のような格式張った一様な形態をとらず、とても多様な姿をしていた。両者の大きな違いは住宅の規模、装飾の有無、軸線配置の厳格さにあり、街屋は限られた敷地に建てられるために必ずしも院と庁は設けられず、また左右対称が堅持されることもなかった。しかしながら、街屋の基本的構造は単純で、街路沿いに間口が狭く、奥に深い敷に、両側に壁を作り、その上に母屋を掛け渡して屋根としている(図5-3、写真5-12)。

図5.4の泉州の街屋は、二十世紀初頭、現在の家主の先々代が右の住戸と一緒に建設し、雑貨屋を始めた。現在この家では店は閉じたが、隣では商売を続けており、第二次世界大戦以前の空間の使い方を知ることができる。正面中央の入口の両側に大きな窓が開けられ、通行人から見えるようにそこの棚の上に商品が並べられていた(写真5.13)。一階には一室しかなく、手前が商品置場置、奥が居間と食堂に使われ、奥の壁には祖堂置かれていた。厨房は奥右手に小さく作られ、一階部分は商売と家族の共用の空間であった(写真5.14)。寝室は二階に置かれ、前後に二室に分割されていた。

構造は木造軸組の二階建てで、妻側の柱間には焼成煉瓦を積み、平側は板壁としている。屋根は、二つの妻壁の間に母屋を掛け渡し、垂木の上に瓦を葺いている。全体に質素な造りで、彫刻などの装飾は全くなかった。

前の事例には中庭がなかったが、その他のほとんどの例では小さいながらも中庭が設けられていた(図5.5)。この住宅は二十世紀初頭に専用住宅として建設され、平面は軸対称を取ってはおらず、右手に祖堂が置かれた広間とその奥に寝室、そして中庭を挟んで厨房へと続いている(写真5.15-16)。左手には三つの寝室が配置され、二階がないために一階の片側に寝室を設けることになったのであろう。このように、入口の正面に祖堂を置くことや、厨房を一番奥に設けるやり方は他と共通しているが、敷地の状況に合わせて寝室を一階の片側に並べることも行われた。

福建の中規模街屋

福州市河岸部の中亭街近くでは、泉州に比較すると奥に長い街屋が多かった。中庭がついて、間口に対しておよそ二倍以上の奥行きのものを中規模型と呼ぶことにする。図5.6の街屋は十九世紀末に建設され、もともと通りに近い部分で商いを営んでいた。現在脇の通路から奥の部屋に行くようにな っているが、かつではこの貸間が広間になっており、その正面に祖堂が飾られていた(写真5.17-18)。割合ゆったりした中庭の片側の奥に厨房があり、二階には二つの寝室が設けられていた。

福州のもう一つの中規模街屋の例には中庭がなく(図5.7)、またまったく軸対称に従ってはいない。このように、入口から入った広間の正面に祖堂を置き、一番奥を厨房にするという原理は維持されているものの、部屋の配置には多様性があることがわかる(写真5.19-21)。

五-二 南洋華人街の街屋

福建沿岸都市の街屋は、コンパクトに公と私の空間を前後に並べながら、実に多様な平面と立面をしていた。それに比較すると、南洋華人街のものは規模が大きく、また均質な立面と平面をしているようだ。海外居住地では現地権力から居住範囲を定められることはあっても、建築規則はないか、あるいは非常に緩やかなものであったろう。

ホイアンとフエの街屋

前章で述べたように、フエがカンナム阮氏の王都であるのに対して、ホイアンは外港の関係にあり、華人街にもその特徴がよく現れている。すなわち、ホイアンでは華人に対して政治的に強い締め付けはなく、より自由な商業活動と生活習慣を維持することができたようだ。

ホイアンの街屋のほとんどは左右対称の平面をしており(図5.9、写真5.22)、中庭を挟んで前屋と後屋が奥の方向に並んでいる。福建沿岸都市では祖堂は祭壇形式であったが、ここでは洪水の被害を受けないように屋根裏近くに持ち上げられている(写真5.23)。木材が豊富に存在し、華人が居住する以前に木造技術が割合高度に発達していたため、左右両側の煉瓦造の壁を除くと、手の込んだ特殊な木造仮構となっている。ホイアン街屋の大きな特徴は小屋組にあり、主屋には扠首と重梁の二種類の小屋組がかかっている。扠首の小屋組の下に祖堂が置かれることから、こちらの方が格式が高いようだ。中国系住民が形式的に現地適応をしたことを扠首で表しながらも、中国式の重梁によって自らの文化を裏で維持していることを物語っているようだ。

フエの街屋はホイアンに比べるとかなり間口が広く、その代わり後屋はなかった(図5.10、11)。通り沿いには必ず庇下の空間か庇屋が設けられ(写真5.24、28)、そこで何らかの店が開かれるようになっていた。ここで家主が自ら雑貨や金物などを売ったり、あるいはそこを他の物売りに貸すこともあった。基本的に南洋華人街の住民は、皆なんらかの商売に従事していた。

フエの街屋の大きな特徴は木材に施された精巧な造作と彫刻にあり(写真5.25、26)、それは家主の格式を表していた。外部から目に付くのは庇屋の存在で、ホイアンでは見られなかった。庇屋をつけると前屋との間に谷樋を設けなければならず(写真5.27)、これは雨漏りの原因となるため民家ではほとんど用いられない。それをあえて用いたのは、この屋根形態が特別な意味を持っているからにほかならない。人がこの空間に入ると、木材の表面と祖堂に施された彫刻のすばらしさに目を奪われる。

フエとホイアンの華人街屋は間口が広く、左右対称の平面を持っていることに特徴があり、それを可能にしているのは大きな敷地割りである。これは中国南部の河岸地区とも南洋華人街と比べても大きく、両側を部屋として間仕切ることができるので、奥に部屋を連続させたり、二階を作る必要がなかった。第二の特徴は洪水に備えて祖堂が屋根裏に置かれていることで、広間の印象が中国南部とも南洋華人街の街屋とも大きく異なっているように感じられた。フエの街屋の竈の作り方が他と異なっており、福建沿岸やホイアンの街屋では中庭をはさんで別棟にしていたのが、ここでは主屋奥の煉瓦造の下屋に設けられていた。竈屋だけが煉瓦造となっているのは、王都であるフエでは防火対策が取られていたからだと考えられる。このように、機能だけの竈屋に対して、格式を示すために木造で精巧に作られている主屋は好対照をなし、この特徴はフエの方が顕著であった。それは、現地権力から華人は海外貿易と都市サービスを担う重要な人たちと見なされ、正式な臣民として扱われていた証左なのであろう。

パタニ

パタニ華人街にはよく似た平屋建ての街屋が二棟あり、これはとても簡素な作りであることから、二階建て街屋よりもこちらの方がより古いのであろう。二棟とも二戸一で建設され、一つは旧甲必丹(首長)邸であり(図3.12、写真-29)、一九世紀末に建設されたことが分かっている。前屋の通り側には庇が掛かかり、片側が露台になっていることから(写真5.30)、ここで何らかの見世売りが行われていた。玄関を入ると正面に祖堂が置かれた広間があり(写真5.31)、その左手が寝室となっている。奥に抜けると広い中庭に達し、一番奥に釜屋がおかれている。おそらく、華人街が開かれた当時はあまり繁栄していなかったために、とりあえずこのような小規模の街屋を建て、甲必丹は職務としてはこの建物を用いていただけであり、家族の生活や商売のために他に建物を所有していたのであろう。

旧甲必丹邸の斜め向かいに二階建ての街屋があり、パタニ華人街にあって最大規模のものである(図5.13、写真5.32、33)。間口が八メートルを越し、桁や母屋などの横架材を一本材で通すことができないので、両側の壁の間に支柱を配している。前屋の通り沿いポーチから広間に入り、そこを抜けると中庭、後屋、中庭、釜屋と続いている。規模が大きい割には居室が少なく、家主家族と数人のお手伝いが住んでいたのであろう。前屋の一階ポーチの上に二階居室がかかっており、この点に関しては後で述べるマレイ半島の旧イギリス植民地都市内の街屋と同じ特徴を持っている。しかしながら、二階ファサードにフランス窓がついているなど、イギリス植民地都市にはない建築モチーフも見受けられる。

五-三 植民地都市内の南洋華人街屋

マラッカとペナン

ホイアン、フエ、パタニなどの華人街は現地権力の下で開かれ、そこで華人たちは現地の建築技術を取り入れ、また気候風土に合わせて街屋建築を改良していった。これ以外に、東南アジアではヨーロッパ諸国の植民地都市内にも華人街が開かれており、前者とはことなった形態をしていた。

ポルトガル時代のマラッカでは、前章で述べたようにハン・ジュバット通りが最もに賑わっていたが、オランダ支配時代に海岸線が後退したため、富裕商人たちは自らの街屋をタン・チェン・ロック通りの南側に移していった。したがって、この街区にはハン・ジュバット通りのものよりも大きく、立派な建物が建ち並んでいる。現在の敷地割図(図5.14)を見ると、間口幅は四メートルから六メートル以内が基本で、例外として二つ分の間口幅を有するものがあることがわかる。奥行きは、タン・チェン・ロック通り東端の北側の十棟ほどが二十数メートルしかなく、中庭を挟んで前屋と後屋が奥に並んでいる(図5.15)。この通りの南側の街屋では、中庭は少なくと二つ以上あり、奥行きはほとんどが四十メートルを超していた(写真5.34)。福建沿岸やヴェトナムの事例と異なり木の柱は使わず、両側の敷地境界に沿って煉瓦壁と立ち上げ、その上に母屋をかけてポルトガル瓦を葺いている(図5.1)。ハン・ジュバット通りとタン・チェン・ロック通りに挟まれた街区には東西に裏小路が走っているが、これは二十世紀初頭イギリス植民地政府による衛生改善と防火・防犯のために設けられたもので、それ以前は背中合わせにくっついていた。

ほとんどの街屋でかつては何らかの商売が営まれ、出入り用の扉と商品を並べる見世窓が並んでいる。いくつかの例外を除いて、ほとんどの間口幅が五メートル以内であるため、扉と窓が左右に並んでいる(写真5.35)。街屋は、街路から一・五~二メートルほど後退して建てられ、そこに庇が架けられている。古い建物の例では、庇は一階部分だけにかかり、しだいに二階を含むファサード全体にかかるようになり(写真5.36)、そしてイギリス植民地時代には二階部分が閉じられるようになった(写真3.37)。

庇をくぐり室内にはいると、広間の奥に飾られた祖堂が目に入り、福建やヴェトナムの街屋と共通する(図5.16)。少し異なる点は、ファサードが左右対称になっていても、片側に奥まで通路が配置されるために、部屋の配置はそうはなっていないことと、中庭が大きくとられているため、必ずその前後に部屋が配置されることである(写真5.38-40)。タン・チェン・ロック通りの南側には奥行きの深い街屋が並び、三つも中庭を有するものがあった(図5.17、写真5.41-43)。

ペナンは、シンガポールよりも三十年ほど早い十八世紀末に都市建設が始まったが、現存する街屋は連続歩廊の有無から十九世紀後半以降に建てられたものであることがわかる。マラッカで見られたように、華人街屋には庇下空間あるいはポーチは存在していたが、公共のために連続化するのは十九世紀末に全海峡植民地に都市計画規則が施行されてからである。ペナンの街屋は、現在の敷地割図を見ると(図5.18)、敷地の間口幅は五から六メートルであり、街区の中で背中合わせに配置されたため、奥行きは三十メートル前後である。建物は何度かの火災を受け、十九世紀末に立て替えられているため、当時のイギリス海峡植民地の都市計画・建築規則が適用され、連続庇下空間=アーケードが設置されている(写真5.44、45)。

アーケードから広間に入ると、そこに祖堂が祀られ、さらに奥に進むと、中庭を挟んで後屋が一列に並んでいる。アーケードに面する広間部分では何らかの商売が営まれることが多く、事務所や食堂として用いられることもあり、たいていアーケードに対して大きく開放されている。マラッカの街屋と異なるのはその利用形態で、今日、一家族で商売しながらここに住んいることはほとんどなく、多くは部屋単位の賃貸型街屋になっている(図5.19、写真5.46、47)。かつてここで商売をしていた人々は、富を蓄えるとともに周辺部や郊外に引っ越してゆき、観音廟裏のスチェワート・レーンなどには専用住宅型街屋(図5.20、写真5.48、49)が並んでいる。貸間型も専用住宅型も利用形態が異なるだけで、平面と規模はまったく同じである。

間口およそ五メートル、奥行き三十メートル前後の街屋は、いわゆるショップハウス、貸間式、専用住宅式などに使われ、市街地に最も多く存在する。これと少し異なったものが市街地の東西両端に集中しており、東端ではキング通りとペナン通りに挟まれた敷地に大規模な専用住宅型が並んでいる(図2.21、写真5.50-52)。ここは行政・軍事地区に接する位置にあり、植民地勢力に結びついた有力華人たちが住み着いたのであろう。すべての居室が外気に面するようにするため、この場合には計三つの中庭とドライエリアが設けられ、また室内の装飾と家具がすばらしい。

対照的に、チュリア通り沿いの西端にはに間口が四メートル前後と狭い街屋が並んでいる。敷地に工場兼用の街屋(図5.21、写真5.53、54)とがあることである。工場街屋は初めからこの用途で建設されたらしく、奥行きは一般の街屋と同じだが間口幅が四メートル以内と狭い。

この長大街屋もそうであるが、住宅専用街屋のファサードは一つの様式となっており、中央の観音開きの扉を幅六〇センチ程度の窓が挟んだ姿をしている(写真5.55)。アーケード側の壁には装飾タイルが貼られ、その多くは日本製である。経済的に成功するとともに、華人たちは中心部の外周に住宅専用の街屋を建て、イギリスのテラスハウスをモデルにし次第に前庭を併設するようになっていった。このように、二階窓回りは西洋建築のモチーフで飾りながらも、住宅専用街屋ではできるだけ左右対称が守られ、これは華人の美意識なのであろう。

ジャワの街屋

ジャワ島最大の華人街はスマランにあり、そこの街屋はマラッカのものと同じ特徴を持っている。ほとんどの街屋の間口は五メートル前後しかなく、正面左手に出入りドア、右手に窓を持った小規模の街屋である(図5.23、写真5.56-58)。この窓は見世棚として使うことができるように、上下に開くようになっている。オランダ支配時代の主要都市では、華人たちは限られた地区に居住しなければならなかっため、敷地の奥行きは二十メートルほどしかなく、そうすると小さな中庭一つを有するのがせいぜいである。

また、イギリス植民地時代、シンガポールとマラヤでは連続歩廊の都市計画が施行されたが、オランダ植民地時代のジャワではそんなことはなく、南洋華人街屋独特のファサードが残っている。この窓は泉州やマラッカでも見られたもので、大きく上下に開放すると見世台に早変わりする。また、品物や買い手を日射と雨から守るために庇が掛けられ、さらにここでは麺類などの屋台の営業場所となることもある。この庇下空間は個々の家主が作り、所有しているので、通路のようにお互いに連続することはない。インドネシア・マレイシア語では「カキ・リマ」、南洋福建語で「五脚基」、そして海峡植民地英語で「ファイヴェ・フィット・ウェイ」と呼ばれ、みな五つの足(脚)あるいは五フィートを意味する。この起源と相互関係については、次の章で詳しく検討してみたい。

ジャカルタの旧城内の建築について、一九九二年に悉皆調査を実施したところ、一七四一年の華人虐殺事件によって、そこには華人街屋はほとんど現存していない。偶然、旧城内に数棟の華人街屋を見つけることができ、一棟は漢方薬房で、店先をそば屋に貸していた(図5.24、写真5.59-62)。周囲が卸業が集まっているため、薬屋を営業しているが、すでに祖堂はなく、家主家族もここでは生活していなかった。

これまで南洋華人街とイギリス植民地都市内の華人街屋について述べてきたが、ジャカルタのコタ(旧バタフィア城)にはもう一つ別の街屋形式が存在する。前述したように、オランダ東インド会社はバタフィア建設とともに職員や自由市民を住まわせるために建物を建て、少なくともイギリス軍が入城し、城壁を壊す十九世紀初頭までバタフィアの主たる街並みを形成していた(図5.25,26)。この二つの絵は、一七六〇年代にオランダ人画家ラッハが描いた街並みで、これと同じ街屋が一九九四年に旧城内を悉皆調査した時点で、十数棟現存することを確認した(写真5.63-65)。間口幅は五メートル前後で、奥行きが浅く、小規模のものであった(図5.27)。二階の軒の出分だけ後退して家が建てられ、一階部分は犬走り(トロトアール)になっている。入口ドアを入ると小さな玄関ホールがあり、その脇に個室がついているが、華人街屋のように商売をするようにはなっていない。前屋の中央に階段がついた広間があり、奥に寝室と中庭が並んでいる。後屋は切妻屋根を作らず、下屋になっていることが多く、そこに便所や厨房が置かれていた。厨房にはオランダ人の食生活に合うようにオーブンがしつらえられ、そこから煙突が立ち上がっている。一七四一年の華人虐殺絵図によれば、当時の街屋の奥は庭になっており、厨房は下屋ではなく前屋の中に設けられていたようだ(図2.28)。おそらく火災の危険や調理の際の熱や臭いを避けるために、熱帯植民地に適応して厨房用に奥の下屋が増築されたのであろう。

このように、バタフィアの街区が同じやり方で分割されても、そこに建設されたオランダ人の建物と華人街屋は形態も機能も大きく異なっていた。一つは、華人街屋では住居と店舗を兼ねていたが、オランダ人街屋では住居に特化し、英語のテラスハウスのようなものであった。次は、オランダ人街屋には各部屋の空間序列がなく、家族の生活は基本的に二階建ての前屋(主屋)で完結するようになっていた。このバタフィアというジャワ島の植民地都市でヨーロッパと南中国の異なった都市住居が共存していたことは大変興味深い。オランダ東インド会社は一八世紀末に解散するとともに、植民地権力側は都市住居を大規模に建て、維持管理することはなくなった。

五-四 街路の景観:庇と連続歩廊

街路沿いの庇下空間

これまで見てきたように、限られた広さの居住地でできるだけ多くの住民が商売やサービス業に従事しながら生活してゆくために、街屋という装置を作り出してきた。居住地との関係を見ると、街屋には次の二つの特徴がある。

一つは街路に沿ってほぼ均一の間口幅で並んでいることで、この幅は二階床と屋根を支えるために両側の壁の間に掛け渡された木材の長さによって左右された。容易に入手できる木材長さは四~五メートルであり、せいぜい六メートルが限界であった。

二つ目の特徴は、街屋は道端からおよそ一~一・五メートル後退して建てられていることである。長い都市生活の経験から、店主はお客を呼び込み、商品や人を日射・雨露から守るために建物の軒をのばし、あるいは庇をかけ、そしてその下に品物を並べる露店を作った。もし建物を後退させないと、これらの構造物が路上にはみ出すことになり、公道の不法占拠が近隣どうしはもとより通行人の迷惑になった(図5.29)。このようなことがないように、近隣住民が独自に規則を定めたり、中国国内や西洋植民地都市のように有効な官憲制度が存在していたところでは、規則にもとづいて取り締まりを行った。

日本の場合、中世京都を描いた洛中洛外図に見られるように、中世では路上に多くの仮設構造物が建ち並んでいたが、近世に入るとともに道端から三~五尺ほど後退して家が建てられるようになり、公権力によって庇規則が整備されたことがわかる(図5.30)。また、明治政府によって明治五年に計画が始まった銀座煉瓦街も、車道と歩道を分離し、歩道側に列柱アーケードを配置し、耐火化とともに景観整備が大きな目的であった。さらに、明治時代積雪地方のいくつかの都市では、住民相互や買い物客に便宜を提供するため雁木とよばれる屋根付き連続歩道(アーケード)を作り、これは地域住民の取り決めによって初めて可能となった。

バタフィアの西洋的景観と「カキ・リマ」

南洋華人街の場合、住民には現地権力から半自治権が付与され、彼らの首長のもとでさまざまな規則を決め、それを守るために取り締まりを行っていた。多くの華人街では公道から数尺ほど後退して街屋が建てられており、明らかに前面後退の規則があったことがわかる。一方、アジアに出現したヨーロッパ植民地都市では、はじめから公権力が強く都市形成と維持管理に係わり、特に公道空間の私用を激しく取り締まった。前述したように、バタフィア城内では建物は道端から数フィート後退して建っており(図5.31,32)、その空間は犬走りを形成していた。

十七世紀の植民地権力が街路景観に強い関心を持っていたのは、本国の都市をそのまま植民地でも再現しようとしていたからである、当時、ヨーロッパではバロック的審美観に基づいて都市景観が作り直され、その手法としてシークエンスやヴィスタが重要視された(図5.33)。この原理と手法に基づいて、オランダ植民地都市バタフィアの公共施設と街路は配置され、また東インド会社職員と市民のために街屋が建てられていった。

アジア系住民は当初は人口が少なかったので、既存市街地の隙間を埋めるように住んだ。十七世紀半にオランダ人ニューホフはバタフィアの様子を詳しく記録しており、その中で「既製衣料・雑貨市場」が朝早くから夜遅くまで開いており、実にさまざまな商品が販売されているのに大変驚かされた。当時のオランダでは雑貨市場は一日の決まった時間にしか開かれず、また既製服が販売されることもなかったのであろう。このような商売形態が可能だったのは、華人たちが街屋の場合と同じように市場を住居兼店舗として利用していたためと考えられる。言い換えれば、この市場は西洋人とアジア人の商人のために開かれた新興商業都市バタフィアの特徴をよく示している。

もっと興味深いのは、ニューホフが市場の二つの建物の間の屋根の掛かった通路を「ファイブ・フット」と書き記していることで、この言葉は五フィートという長さではなく、屋根付き通路空間に対して与えられた普通名詞である。すぐに思い起こされるのは、マレイ語の「カキ・リマ(Kali Lima)」、南洋華語(南部福建語)の「五脚基(ゴー・カキと発音)」、さらに旧海峡植民地英語の「ファイブ・フット・ウェイ」である。これらはまったく同じ言葉であり、共通の語源があったはずである。最も可能性の高いのは、当時南シナ海沿岸の共通語であったマレー語の「カキ・リマ」であり、ニューホフはそれをオランダに「ファイブ・フット」と翻訳したのにちがいない。

しかしながら、屋根付き通路をなぜ「カキ・リマ」と呼ぶようになったのかという問の答えにはなっていない。おそらく、バタフィアの華人住民の間に庇下通路幅を五尺(リマ・カキ)ほどにするように定める規則があって、それが空間の意味に転化していったのであろう。華人語からマレイ語に訳されるとき、よく語順が逆転することがあり、この場合もそうであったのに違いない。

華人の多くが掘建小屋のたぐいに住む中で、カピタン(甲必丹、華人首長)は、割合早くから本格的な住居を建てた。図5.35のバタフィア絵図は十七世紀半ばに描かれたもので、図中Dはカピタン邸を示している。それは、オランダ人街屋と異なり軸線上に三つの建物を左右対称に配置してあった。これは街区内部のことであり、外では十七世紀半ば頃まではオランダ式街屋と並木が通りを飾っていた。しかしながら、しだいに華人移民が増大すると、彼らはいたるところに仮設の住居を建て、またさまざまな露店を道ばた建てかけ、オランダ植民地都市の街路景観を乱していった。それに対して、歴代のバタフィア総督は規則によってこれを取り締まろうとしたが、ほとんど効果を上げることができなかった。植民地都市は、十七世紀のオランダ人為政者にとって本国の美観を再現すべき場所であったが、そこの主たる住民である華人移住者にとっては簡易な商売をやったり、都市サービスを提供する舞台であり、サバイバルのための場所であった。十九世紀後半に華人居住地としてバタフィア城外に開かれたパサール・バルの絵図(図5.36)やスネンの写真(写真5.61)を見ると、建物の高さも揃わず、また路上を庇や露店が占拠し、西洋人の目からすれば美しくない街並みかも知れないが、華人にとっては生き生きとした生活地であった。このように、十八世紀に入ると都市に関する東西の価値観が衝突し、十九世紀に入ってやっと解決法が探られることになる。そこでは、華人を植民地都市を担う住民として明確に位置づけることが必要であった。

シンガポールのアーケード付ショップハウス

このいたちごっこに有効な施策を考え出したのがT.S.ラッフルズで、一八二二年シンガポール都市計画において市街地建物を次のように定めた。

建設されるべき家屋の形式

十八 統一性とできるだけ多くの室内空間を確保するために、家屋の正面を特別な形式としなければならない。すなわち、通りの幅員を厳しく保全しながら、街路の両側に連続した屋根の付いた通路になるよう常時開放されたヴェランダを作ることによって、公共の便宜とする。

街路を街路として機能させるには、第一に街路に統一性を与えること、第二により多くの部屋を確保することが肝要であると述べている。これを実現するために、地主が家屋を建設するとき、一階部分を通りから一定幅後退させ、そこを耐火造の連続した通路にするようにした。ヴェランダとは割合深く延びた庇下の空間を指し、それが通りに連続するといわゆるアーケードを形成することになる。もし商売人がここを臨時に不法占拠しても路上には及ばず、またアーケードの列柱が規則的な景観を演出した。前述したように、熱帯・亜熱帯モンスーン地帯では客や商品を日射と降雨から守ることになり、そのこともラッフルズの頭の片隅にあったのであろうが、何よりもアジア人の居住地に統一性を与えることが重要であった。

アーケード後退幅は都市計画規則には明示されなかったが、後日土地オークションに際して売却条件として「建物を街路から六フィート後退して建設する」ように定められた。しかしながら、二階を支える柱幅を引くと、有効幅員は一メートルそこそこしかなく、公共歩道として疑問の残るものであった(図5.37,38)。一八二五年の海峡植民地成立とともに同じ都市計画規則が他の植民地都市にも施行され、マラッカ中心部にはすでに煉瓦造の市街地ができあがっていたのでアーケードは実現しなかったが(写真5.62)、一方ペナンでは一九世後半における市街地の木造家屋の焼失を機会にアーケードの付いた煉瓦造建築に建て替えられていった。

このアーケードによる市街地建設事業は、イギリスでは一八一〇年代にロンドンのリージェンシィ・ストリートなどで行われており、ラッフルズのシンガポール都市計画の発想はこの辺にあったのかもしれない。しかしながら、ロンドンの事業との大きな違いは、土地所有者に一階アーケードの用地を拠出させたことと、アーケード上に二階を建てさせたことである。後者の理由として、ラッフルズは「できるだけ広いの居住面積を確保する」ためと述べており、このように彼は華人を植民地都市の必須の構成員として位置づけ、彼らの建物を耐火造にし、その市街地景観に規律と統一感を付与することに成功したといえる。

アジアの都市の近代化

シンガポールと同じイギリス植民地都市でありながら、香港におけるアーケード形成はまったく異なる経緯によった。一八四一年に阿片戦争の最中、イギリス海軍と有力イギリス人商人らによって香港島北岸に居住地が築かれた。対中国外交と貿易にとっての拠点としてはあまり好適地とはいえず、短期的視点による場当たり的な都市開発が行われた。そのため、移住してくる華人労働者のために、投機的に経済的原理に基づいて住宅が建てられ、そこには景観はまっく考慮されなかった。イギリス人資本家による投機的な移民華人のための居住地と住宅の建設が行われた。十九世紀半ばの絵図(図5.39)に見られるように、近隣に豊富に存在してた石材を使って、一戸の間口幅の狭い連続式建物が街路に並ぶことになった。主要街路には三~四フィート幅の歩道が設けられ、十九世紀半ばに人口が急増すると、しだいにこの歩道の上に様々な仮設構造物が立ち並ぶようになった(写真5.63)。

一八五六年、香港政庁は『迷惑規則』と発布し、歩道の違法占拠を厳しく取り締まろうとしたが、なかなか効果を上げることはできなかった。結局、衛生局の提案を受け入れ、一八七一年に『ヴェランダ規則』によって、歩道を通路として保留し、その上に二階部分を耐火造で作るのなら、公共歩道上に構造物を建てることを許可した。このようにして、シンガポールとはまったくプロセスと目的は異なりながら、歩道上の一層部分を公共通路とした似たような街並が登場するようになった。当然のことなら、そこでは統一的な景観についての関心はなかった。

一八八七年、マレイ半島のマレイ王国がイギリスの保護領に組み込まれるとともに都市計画が導入され、新しい市街地の形成とともに各地にアーケード付ショップハウスが建ち並んでいった(ケダ州アロースター市の例、写真5.65)。サラワク州のクチンはイギリス人のチャールズ・ブルックによって開発され、ここでも主要街路の両側に六フィート前後のアーケードが見られる。

同じ時期、植民地化されなかった周辺のアジア諸国は近代化を急ぎ、首都を飾る建設事業を始めていった。日本では、一八七二年銀座大火後の再開発において外国人技術者たちに近代的市街地建設案を求め、最終的にT. J.ウォータースに頼んでいわゆる銀座煉瓦街を完成させていった(写真5.65)。車道と歩道を分離し、二階建ての耐火造街屋の前面に一階アーケードを連続させ、その姿はシンガポール型ではなく、ロンドンのリージェント・ストリートによく似ていた。

シンガポール型街屋は、南洋華人らの祖国との交流を通して、中国南部の都市近代化のモデルになっていったようだ。一八八〇年、清国官吏であった劉銘伝は台湾の近代的市街地建物にアーケードを導入しようとしていたし、また日本統治時代はより徹底して実行されていった(写真5.66, 67)。さらに、民国政府下の福建省から広東州の大都市では、一九一〇年から二〇年代にかけてアーケードによる市街地再開発が行われた(写真5.68, 69, 71)。建物の庇下部分を伝統的に亭子脚や騎廊と呼ぶが、それと近代のアーケード建設事業は都市計画規則に基づいて公共の用の位置づけがされていることに違いがある。もう一つの違いは幅員で、台湾日本統治政府や民国政府下の都市では人がゆうにすれ違えるほどの一・五~二メートルもあり、熱帯・亜熱帯モンスーン気候の強い日射と頻繁の降雨に備えて、屋根付きの公共通路としての役割が重要視されたようだ。

六章 チャイナタウンの居住改善

前章でみたように、一九世紀初頭のシンガポールの都市建設に際して、ヨーロッパ植民地権力は植民地都市の維持管理と経済的発展にとって現地人は必要不可欠な存在であると認め、彼らの居住地を自らのものと区別し、そしてそこにヨーロッパ都市を手本にした統一性と秩序と恒久性を与えようとした。それが街路両側の一階アーケードの街並みであり、これによってアジア都市の近代化への第一歩が始まったといってもいいであろう。しかしながら、これは都市の外観に対する関心であり、植民地都市の華人街、すなわちチャイナタウンの内部ではいったいどんな状態であったのだろうか。

十九世紀後半、東南アジアでは鉱業やプランテーションなどの内陸開発のために大漁の労働力が必要とされ、注未中国から大勢の中国人たちが海を渡った。彼らのほとんどは十代後半の男性であり、植民地都市はこれらの短期滞在素亜出あふれかえることになった。彼らの生活は相当厳しいものであったと想像されるが、一八六〇年代までもっとも疾病死亡率の高かった香港でさえ、植民地政府は現地人の住環境についてまったく関心を持たなかった。そもそも、植民地権力は、よけいな面倒をさけようと、文化的に大きく異なる現地住民とできるだけ離れて暮らそうとした。

しかしながら、香港のように土地が狭く、さらに住民人口が急激に増加すると、無関心を装うことは難しくなり、一八七〇年代になってやっと植民地政府は重い腰を上げるようになった。十九世紀末から二十世紀のイギリス公文書を見ると、この香港の状況が大変に深刻であり、それに対して大きな改善事業を遂行したことがわかり、植民地政府がチャイナタウン内部にどのようにかかわっていったのか振り返ってみよう。

初期都市開発と現地住民居住地の形成

香港植民地はアヘン戦争遂行のためにイギリス軍が占領し、政治的に不安定な状態の中で軍と民の手によって都市が開発されていった。香港島は南シナ海に面し、夏になると南方から台風が襲来するので、居住地と港は北海岸につくるしかなかった。イギリス軍は砲台と司令部を香港島北岸中央部(現アドミラルティ)に置き、その東側を最有力商人であったジャーデン・マセソン商会が(現コーズウェイベイ)、また西側をデント商会他が占有した(現セントラル)(図6.1、6.2)。このイギリス軍とヨーロッパ商人たちに対して労働力や各種サービスを提供するため、広東から多くの中国人が渡ってきて、彼らはヨーロッパ系商社街の裏側(現シェウンワン)の少し平坦な場所に無秩序に住居を建設した。この地域はその後タイピンシャン (Tai Pin Shan、太平山)と名付けられ、この居住施設も、いくつかの商社の建築とともに一八四一年七月に襲来した台風と、同年八月には大火によって全壊してしまった。これを契機に総督代理ジョンストンは、同年八月市街地規則 (Building Regulation) を発布し、街路幅を二〇フィートに、また敷地は間口二十フィート、奥行き四〇フィートに区画し、さらに建物は街路から歩道分の五フィート後退して組積造で建てるように定めた。公共事業局建築技師ブルースによる絵図(図6.3)にみられるように、街路に沿って四角い開口部の開いた街屋形式の組積造建物が建設されていった。その後九龍半島に新界が開かれるまで、この地域が流入してくる中国人人口の多くを収容することになり、半世紀以上にわたる不衛生と過密居住に対する政庁の対応が始まることになる(表2)。

政庁の放置と無視

それは伝染病の問題であり、十九世紀半ばのアジア系住民居住地では非常に深刻な問題になっていた。先ほど述べたように、シンガポールや香港に駐留したイギリス軍隊の間にも当然のことながらチフス、コレラ、マラリアなどの伝染病が流行ったが、医師あるいは軍医局 (Army and Naval Medical Board) の指揮下で軍営地内に上下水道が整備され、また疾病者を隔離することで徐々に解決していった。一方、一般住民の居住環境に関係する政庁部署は二つ存在し、それぞれ問題の深刻さは認識していたが、お互いに協力することはなく、さらに植民地政庁上層部はそれを無視していた。関係部署の一つは一八四三年に創設された植民地医局(Colonial Surgeon's Office) であり、初代植民地医師 (Colonial Surgeon) にアジア文化に造詣の深いW.モリソン (William Morrison)が就任した。翌年、彼は中国人住民の間を視察して回り、伝染病が相当ひどく流行しているので、そのことに政府が積極的な対処をとるように進言した。それとともに翌年、彼はマラリアの発生源を市場であると考え、年度報告書の中で市場施設の位置や構造を改善し、内部規則と風紀を定め、清潔にするよう提案した1。

植民地政庁の中で衛生改善に直接関わったもう一つの部署は公共事業局 (Public Works Department) で、軍営の地域を除く地域の街路と石造側溝 (Stone surface drain)などの都市基盤施設の建設と維持管理を担った。工兵隊のやり方のように、香港島北側では自然の傾斜を利用すれば雨水や家庭排水を滞りなく海に流すことができ、また糞尿は馬桶による私的回収業者がいるので、公共事業局は地下排水路は必要ではないと考えていた。しかしながら、一八四八年の年次報告書の中で公共事業局技師長 (Surveyor General) のクレーヴァリ (C. St. G. Cleverly) は、「タイピンシャンを含む一帯に側溝の敷設が終わった」が、「そこに廃棄物が堆積しているにもかかわらず、中国人たちはそれに対して無頓着である。側溝をきれいにしておくのは非常に困難である」と述べ、私的回収作業がうまく機能していなかった。

このような状況であるにもかかわらず、植民地政庁はまったく関心がなく、一八四七年の年次報告書の中で総督は「同じ緯度に位置する他の植民地と同じように、香港は衛生的である。市民、商人、その他の階層に比較的死亡者は少ない」と報告していた。一八四九年の年度報告書でも同様に報告されているが、一八五一年にタイピンシャン一帯が焼失し、中国人居住地に伝染病が蔓延するとそうはゆかなくなった。

過密居住と過密対策

モリソンの死後、二代目医局長に就任した J. C. デンプスター (J. C. Dempster) は、一八五四年タイピンシャン一帯の中国人家屋内部を初めて調査した。その結果、彼は中国人居住地の不衛生の原因を、家畜の飼育、ゴミと汚物の不処理、過密居住にあると考え、第一に排水溝、下水溝、舗装を整備すること、第二に密集家屋内に十分な換気と排水の処置をとること、第三に密集家屋は少なくとも年二回ホワイトウォッシュを施すこと、第四に路上を清掃するための散水栓を設置することを提案した。

この提案を受けて、翌年政庁はイギリスの労働者階級の住宅改善事業を参考にして『建築及び迷惑規則 (Building and Nuisance Regulation) 』を発布した。これは二〇条から成り、第一条用語の説明、第二条建築各部の説明、第三条各部規定及び建築通知の義務づけ、第四条、五条、六条第三条規定違反に対する罰則、第七条各住戸に厨房と便所の設置の義務づけ、第八条違反行為の説明となっている。第三条の建築各部規定では、組積造の最小壁厚を九インチ、最高階高を三階に定め、第八条で他者所有地への張り出しを禁止した。規則の大きな関心は建物の強度と耐火、他所有地の占有にあり、衛生に関しては第七条で厨房と便所の設置を義務化しただけであった。

本規則の中で、家畜飼育、過密居住、汚物処理への対策に触れらていないのは、イギリスの労働者階級の住宅では上下水道はすでに整備され、またそれほどの過密居住状況にはならず、さらに住宅内で家畜と同居するようなことがなかったからであろう。しかしながら香港ではいまだ上下水道は整備されず、また大陸からの流入者の増加によって過密居住がどんどん酷くなり、その結果各種伝染病が蔓延していた。このような建築構造の規則では、図6.3に示すように香港の状況にほとんど対応できなかった 。

娼館を管理下に

一方、急激に増加する人口によって衛生状態はより深刻になり、また世界的な伝染病流行と相まって、一八五七年香港にコレラとチフスが大発生した。医局は、調査の結果、娼館が伝染病の大きな温床になっていると判断した。同年「娼館を登録制にし、医学検査を義務化」するよう政庁に提案し、一八五七年『接触伝染病規則 (Contagious Disease Ordinance) 』が施行されることになった。前述したように投機的に建てられた街屋の一階部分ではしばしば家畜が飼われ、また上階は大陸から職を求めてやってくる単身男性の宿屋になっていた(写真6.1)。宿泊者が増えると、家主は部屋を小さく区切って間貸しし、さらに寝台単位で貸し出したりした。そのいくつかは娼館となっていたが、それが普通の間貸しなのか娼館なのか、外観構造上及び賃貸形式上から区別することはできなかなかった。

この規則は、娼館を一般宿屋から区別し、それを衛生局の管理のもとにおこうとするものであり、一八六七年『接触伝染病規則』によってやっと娼館管理者が任命され、実質的な公娼制度の運用が始まった。香港政庁の耳には、徳川幕府が横浜外国人居留地脇に遊郭を作り、衛生改善に大きな効果をあげているとのニュースが入ってきており、これを参考にしたのであった。しかしながら、一八七七年二人の女性が未登録娼館から逃げる途中で墜落死し、この事件を契機に規則の有効性と倫理性に関して本国植民地省と香港政庁は2年にわたって議論を繰り返すことになった1。一八七四年にすでに、第三代医局長のアイレス (Ph. B.C. Ayres) はいぜんとして「娼館がチフスの温床になっており、現状は最悪の衛生状態」であり、一八五七年と一八六七年の『接触伝染病規則』がほとんど効果を示していないと報告しているように、最終的に本国政府の判断で公娼制度に結びつく『接触伝染病規則』は廃止された。娼館は確かに伝染病温床の一つであったが、香港の場合限られた数の居住施設にあまりにも多くの単身男性が家畜とともに生活していることが根本原因であった。

居住環境問題への介入

一八七〇年代半ばまで、中国人街の居住環境の問題に対して政庁は住宅改善事業と公衆衛生に関するイギリスの経験を適用しようと考えていたが、一八七〇年代後半にいくつかの事件を契機として香港の特殊事情を考慮させざるをえなくなった。事件の一つはセントラル地区の建物の改築申請で、一八七七年C.M.チャターは初期のヨーロッパ人地所に中国人用店舗兼借家に建て替えようとしていた。ヨーロッパ人と中国人が隣り合わせに住むことはさまざまな問題、特に衛生面において重大な問題を引き起こすとして、軍部や有力ヨーロッパ人個人から政庁に対して危惧が寄せられた。検討は工務局長プライスに委ねられ、彼は「(香港には)ヨーロッパ式と中国式の二種類の構造物があり、居住者の習慣や生活方法はあまりにも違いすぎているため、両者が近接することはさまざまな混乱を巻き起こす」ので、この申請を不許可とするよう総督に進言した。

この申請は一八七七年十一月に総督名で不受理とされたが、一八七八年には軍営に関して類似の問題が発生した。軍営はケネディ・ロード上の貯水池から飲料水を取水していたが、そこに隣接して中国人家屋があり、軍はそれが飲料水を不衛生なものにしているとの疑念を持っていた。軍からの苦情を受けて、公共事業局の迷惑検査官ニートが調査を行うことになり、彼はあまりにも多くの人が住んでいるので、汚物回収が間に合わず不衛生になっているが、「建物は現行の一八五六年『建築及び迷惑規則』と『ヴェランダ規則』に適合して」おり、建物については規則上の違反はないと判断した。結局、工務局長プライスはその地所を買収することを政庁に進言し、それで解決が図られた。さらに一八七九年にはもうひとつ関連する事件が起きた。前年にウィルソン・アンド・サルウェイ (Wilson and Salway) 建築事務所は、ある裕福な中国人商人から金融宝飾店の建物の設計を依頼され、まったく店舗だけの建物なので厨房のない建物でも建設を許可するように政庁に求めた。「他の用途に転用されることは十分あり得るので、法が定める厨房を備えるように」という工務局長プライスの判断に基づいて、総督はこの申請を不許可にした。

このような事件を契機に、政庁は香港の実状を考慮した改善事業に着手することになった。その一つは、行政の責任で上水道と排水溝を本格的に整備することにしたことで、一八八〇年香港島の南斜面のタイタムに貯水池を建設し、水道管で北側の居住地まで引いてくる工事が始まった。これは十九世紀後半香港最大の公共施設建設事業となった。もう一つは、どのようにすればイギリスの衛生的居住基準に合うように中国人の生活習慣を変えられるのか、あるいは中国人の生活習慣に沿うようにどのように都市生活基盤を整備すべきなのか本国植民地省をまじえて本格的に議論が始まったことである。

一八八〇年になって植民地大臣キンバレィは香港総督に対して「効果的衛生局を設置する」ように求め、「もし植民地内で必要な方策をとることができないのであれば、本国から特別委員を派遣する用意がある」旨を通知してきた。同年、政庁はキンバレィの提案を受入れ、公共事業局から衛生改善事業を分離独立させ、また衛生局 (Board of Sanitary) の発足にあたって本国の衛生工学専門家オズバート・チャドウィック (Osbert Chadwick, 1844-1913)に改善方針策定を仰ぐことになった。

オズバート・チャドウィックと第一次報告書

どのような経緯でオズバート・チャドウィックが選ばれたのかは不明であるが、彼の家系と経歴を考えれば納得のいく人選であった。このチャドウィックは、ロンドンの労働者階級の居住環境改善に尽力したエドウィン・チャドウィック卿 (Edwin Chadwick, 1814-1878)の息子に当たり、当時工兵隊を辞めて父と同じ衛生工学技術者の道を歩んでいた。香港での仕事の後、モーリシャス、トリニダード、キングストン、ジャマイカなどでも活動し、熱帯・亜熱帯都市の衛生改善に大きな業績を残した。香港での調査を実施するに当たり、政庁関連部局だけではなく民間宗教団体や病院などからも協力を仰ぎ、さらに一般中国人の生活様式を知るために周辺都市を訪問し、中国人居住地に関して非常に包括的調査を実施していった。

現況調査と改善案策定に一年以上の時間をかけて、一八二二年七月植民地政府に報告書が提出された。それは、「問題の地区は総督府から西方一マイルの幅に広がり、そこに広東から仕事を求めやってきた約十万人ほどの男性単身者たちが暮らしている。家屋数は一八七七戸数あり、それらはヨーロッパ式であり、強く経済の原理が働いている」という現況把握から始まる。当該地区はすでに歴代の医局長が問題視していたタイピンシャンで、少し緩やかな斜面の通りに面して二階建ての街屋が密集していた。この地区の精緻な地図と建物図面を作成した上で、チャドウィックは典型的な街区と家屋実例を紹介している(図6.5-67)。それによれば、各階ごとに厨房が備えられたおおよそ幅三・六メートル、奥行九メートルほどの広さの二階建建物に、平均五〇人前後が居住していた。この密度は二年前に医局長アイルスが調べた時より、約二倍も酷くなっていた。

建物はほとんどが二階建ての街屋形式で、一階街路沿いが店舗、作業場あるいは畜舎、その後方が厨房になり、ほとんど便所は設けられていなかった。街路から直接二階に上がる階段が設けられ、二階以上が間貸になり、また屋根裏も貸し出され、さらに建物の多くが背中合わせになっていた。排水溝と下水道も施工方法が悪く、下水が隣家に流れ込んだり、隅部で簡単に目詰まりしていた。興味深いのは、この建物が経済性を最優先にして建設されたヨーロッパ式建物であるという指摘で、チャドウィックは理由として中国式住居の特徴である中庭がなく、非常に均質な平面と構法であることをあげている。中国人にとって中庭は、実用のためだけではなく祖先崇拝に係わる場所であり、家族を構成してない単身者の間貸住居には必要なかった。また、間貸住居だけで市街地を形成することは伝統的な都市や集落にはなく、このような建物は職工・労働者を住まわせるために一気に建設された植民地都市に特徴的なものであった。

問題発生メカニズムの解明に基づいて、チャドウィック報告書は行政側が屎尿回収請負業者に毎日定期的に回収業務を行わせること、ごみの搬出や通風を良くするために隣家との背中合わせ配置を取りやめること、家屋のプランは日照と換気が確保できるように居室に適当な開口部とオープンスペースを設けさせること、そして一八七五年の帝国公衆衛生法 (Imperial Public Health Act) を基本にした新衛生法を定めるように提案した。

一八八二年チャドウィック報告書の実施

チャドウィック提案に基づいて、政庁は衛生改善のために立法による社会改革と公共事業による基盤整備を具体的に実施するはずだった。しかし、チャドウィックの任務を最も支援していたヘネシィ総督 (J. P. Hennessy, 1877-82) はこの提案書の完成とともに香港を後にし、その後の十年間で三人も総督が交替し、またその途中総督代理が長期間代行し、居住環境改善を遂行するための強い指導力は存在しなかった。

実際、マーシュ総督代理 (E. Marsh, 1882-83) の下で衛生検査官にH.マカラム (Henry. Macallum) が任命され、また公共事業局長、植民地医局長、登記局長の三名の理事からなる衛生局が設立され、さらに一八八三年に就任したボワン総督 (G. F. Bowan, 1883-85) の下で『修正衛生規則案 (Health Amendment Ordinance) 』が立法院に提出されたが、この組織に与えるべき権限と、そして建物を衛生改善した場合に所有者がこうむる損失に対する補償について意見がまとまらず、立法化が見送られた。反対意見は経済的利益を最優先に考える資本家たちからであり、彼らを代弁して当時の立法議員の一人であったホ・カイ (Dr. Ho Kai) は「中国人をヨーロッパ人のように扱うのは大きな誤りである」と意見を陳述した。

一八八七年にキャメロン総督代理 (N. G. Cameron, 1887) は、チャドウィック提案の骨子であった最小居室面積、裏小路、換気口の規定を削除して『一八八七年公衆衛生規則 (1887 Public Health Ordinance) 』を、また一八八九年にデ・ボー総督 (De Boux, 1887-1891) も換気と裏小路の条項を削除して『一八八九年建築規則 (1889 Buildings Ordinance) 』を立法化した。このように一八八二年のチャドウィック提案は実質的に骨抜きにされ、ほとんど改善事業は進まず、その間ペストだけで一八九八年に一一七五人、一八九九年に一四二八人、一九〇〇年に一四三四人が亡くなり、伝染病の猛威に対して再び軍と民間から衛生改善の必要性が強く叫ばれ た。

次のブレーク総督 (H. Blake, 1898-1903) の時代は、本国政府の日清戦争後の極東の政治状況に対する強い関心に後押しされ、政庁は改善事業に前向きに取り組むことになった。その第一は、政庁が日本人生物学者に伝染病調査を依頼したことで、彼らがネズミからペスト菌を発見することに成功した。第二に、衛生局の権限を強めるために、一八九九年に迷惑検査官の人数を増やし、また新たに下水検査官を導入した。第三に、一八九九年不衛生でねずみが棲みつきやすい狭小部屋が作られないように、屋根裏と中二階の使用及び部屋の細分化を制限する『不衛生建物規則 (Insanitary Properties Ordinance)』を発布した。しかしながら、改善を実行するはずの衛生局の権限はまだまだ不十分で、一九〇一年二人の衛生局理事が不満を表明して辞職した。これらを契機として、第4に香港の経済界と中国人代表の衛生改善に対する認識を高めるために一九〇二年に再びチャドウィックに衛生改善調査を委託し、具体的な改善案策定を求めることになった。

第二次調査と「1903年公衆衛生及び建築規則」

チャドウィックは伝染病予防を非常に深刻に捕らえ、シンプソン医局長 (W. J. Simpson) との密接な協力のもとで一九〇二年五月に詳細な『香港住宅問題報告書 (Report on the Question of the Housing of the Population of Hongkong)』案を完成させた。報告書の要点は以下の通りである。

一 健康居住:十分な日射と換気を確保するためには適当なオープンスペースが必要で、それは住宅の高さに対する街路幅及び敷地内の総面積に対する屋根面積の比率(屋根比)によって表される。

二 街路:一部の地域では屋根比が八五%を超えており、街路幅を拡張する必要がある。また、ゴミ収集を容易にし、また衛生面を考えた場合、裏小路は必須である。

三 間仕切:外に向いた開口部がない部屋の間仕切壁は、高さ一・八メートルまでとする。

四 住居の外観:ヴェランダは街路の幅を狭めるだけではなく、室内を暗くするので、公共歩道の上に建設することは禁止する。

五 モデル案:公共事業局長チャサム、土木技師ダンビィ、そして建築家パーマー・アンド・ターナー(以後、P&Tと略)から寄せられたが、ダンビィ案が最も現実的である。

六 公衆衛生法:イギリスでは労働者階級のために制定されたが、熱帯地域にあり、人々が群がる傾向のある東洋では階級に関わりなく適用されるべきである。

七 健康住宅への改築:本国の労働者階級住宅法の不動産買戻規則にならい、土地を買収し、そこに十分な空地を持った市街地を再計画する。

以上、公衆衛生の基本はイギリスの経験にならって、住民を病気から守るために居室内に十分な日射と空気を入れることであった。一九世紀後半まで衛生改善に効果があると考えられていたホワイトウォッシュについては触れられていない。十分な日照と換気の指標は屋根比によって表され、チャドウィックはその最低基準を八五%とし、それを実現するため賃貸地を買い戻して街路を拡幅し、または裏小路を通して区画整理し直すように指示した。このことは、香港が街路配置からではなく、初めから最大居住地確保の原理で建設が行われてきたことをよく示している。

長年の懸案だった公共道上のヴェランダは、街路を狭くし、また二階奥の部屋に採光が入りにくくするという理由で建設が禁止された。過密居住を緩和するために、できるだけ広い居住面積を確保しようと一八七六年に公共歩道上へのヴェランダ設置が許されたが、チャドウィックの第2次調査報告後に制定された建築規則によって禁止されることになった。現在、ワンチャイとヤウマティの地区に僅かに現存するヴェランダはその名残ということになる。特に居住環境の悪いタイピンシャンの一角は、区画整理後に新しい都市住宅が建設されることになり、それに対して当時の香港を代表する建築技師3人がモデル案を提供した。

この第二次調査報告書に基づいて、チャドウィックらは公衆衛生と建築関係法律案を作成し、立法院に提出した。これは一九〇三年に『公衆衛生と建築の規則 (1903 Public Health and Building Bill)』として発効し、これまでにない大きな意義を持っていた。すなわち、香港植民地では創設期から公共事業局と医局がそれぞれ幾度も都市居住改善を目的にして別々に規則を発布し、事業を実施し、一元化したアプローチをとることはなかった。しかし、この規則によって初めて公衆衛生と建築の問題が一体として成文化されることになった。

モデル案の評価と改善事業の実施

チャドウィックは、モデル案が単に細分化された居室にも十分な採光と通気を入れるようにするだけではなく、それが中国人の居住様式に適合するよう求めた。P&T案(図6.8)とチャサム案(図6.9)はともにバルコニー付きの街路型で、二戸ごとに間隙を空けるもので、大きな違いは二階へどこからアクセスしてゆくのか、庭を正面と裏側のどちらに置くのか、また間隙を一階と二階のどちらから始めるのかにある。P&T案では中庭(アトリウム)が一階奥にあり、そこが路地と同じように洗濯や料理などの作業に用いることができるとし、チャドウィックはこちらの案の方が中国人の生活習慣により適合していると述べている。しかし、隣り合わせの二住戸が一・八x三・六メートルの大きさの後庭を縦方向に二分して使うようになっており、屋外作業場としてはあまりにも狭いという欠点も指摘している。

一方、ダンビィ案(図6.10)は大きな中庭を囲むように複数の居室が配置され、居住者は階層ごとに設けられた厨房と便所を共用するようになっている。こうすると中庭側にも換気用開口を設けることができ、中庭を家事作業に利用でき、また隣人同士のコミュニケーションが促進されることになり、衛生的にも隣人関係においてもすぐているとチャドウィックは高く評価している。確かに四合院のように中央に屋外作業が可能な中庭を置き、雨と日射を遮る長い肘木に支えられた軒デザインは、亜熱帯モンスーンの気候風土に最も適合し、また中国人にとって馴染みのあるプランであったろう。報告書に添付されたこの案の解説によれば、ダンビィは香港で最も多くの中国人住居を建設した経験を持っており、最も彼らの生活習慣を知っていると自負し、また居住地の衛生改善にも並々ならぬ関心を持っていると述べている。欠点は、他の二案に比べると居住面積が少ないことで、実際中庭と周廊の面積合計は全床面積の約三分の一も占めていた。

チャドウィックの提案に基づき『公衆衛生及び建築規則』の方は法制化されたが、では既存住宅の改善事業とモデル住宅の建設事業はどのように進んでいったのであろうか。実は、新たに九龍半島の奥の割譲を受け、新界として中国人居住地が拡大し、また一九〇四年に海岸線の埋立てによって広大な土地ができたことにより、タイピンシャン地区の人口密度は緩和の方向に向かい、大規模な改善事業は不必要になっていった。当然モデル住宅の建設は中止され、またタイピンシャンの超過密地区の建物は取り壊された後に公園化され、さらにトン・ワ病院北側、ラダー・ストリート西側、ポーヒン・フォン・ストリート南側の区域にはそれぞれ裏小路が通され、また劇場と警察署が新たに開設された(図6.11)。

これから分かることは、二〇世紀初頭に都市の衛生改善事業が進行するとともに、植民地権力側は現地住民に対してある種の娯楽の場を公的事業として実施はじめたことが伺える。いうなれば現地人地区の居住改善事業は、伝染病がヨーロッパ人居住者にも流行し、ついで身体的に健康な労働者の供給を難しくするという恐れから始められたが、その問題にある程度の解決が図られる一九一〇年代頃には、現地住民に健全な娯楽を享受させる施策へと変わっていった。

七章 生活空間としてのチャイナタウン

七・一快適さと猥雑さ

一九七〇年代末、日本を除くとアジア諸国はまだ経済発展を遂げておらず、ほとんどのアジアの都市は二次世界大戦以前の姿をそのまま維持していた。私は、一九七七年から八〇年にかけてアジアを広範に旅行する機会に恵まれ、しだいに都市の成り立ちや建物に興味を抱くようになった。きっかけは、友人に招かれて、マレイシアの地方都市のショップハウスに宿泊したことであった。東南アジアのどの都市でも華人たちは市街地の中で何かしかの商売をしながら生活しており、友人の家でも一階を店舗、二階を住居に使っていた。短冊形の敷地の長辺側に煉瓦壁を建てているため、窓が少なく、室内は全体的に暗いが、しかし隣家と共有する壁は日射を受けないために、室内が想像以上に涼しいことに驚かされた。また、近所には日用生活に必要なさまざまな店舗が軒を並べており、さらに夕暮れとともに道端や広場に露店が立ち並び、非常に便利で快適な生活環境のように思えた。

シンガポールの初期華人街であるクレタ・アヤ地区も当時はそんなところであったが、港湾都市であったため人の出入りが激しく、猥雑さが目立った。こんなチャイナタウンの様子は当然植民地時代から続くものであったが、しかし一九八〇年大末頃から始まった経済発展は旧市街の姿を大きく変化させてしまった。それと相まって、シンガポールや香港は脱植民地文化の一環として積極的に都市再開発事業を実施し、チャイナタウンを観光資源へと再構築しているようだ。そのため、現在、クレタ・アヤ地区のショップハウスはきれいに作り直され、もはや近隣住民の居住地というよりは、旅行者向けのみやげ店や飲食店が軒を並べる文化観光スポットに代わってしまった。

七・二 ペナン旧市街地の店舗

マレイシアのペナンは十八世紀末から都市形成が始まったが、その後より東方のシンガポールや香港に経済的繁栄を奪われ、そのおかげで南洋華人の日常生活地としての街並みを残すことになった。イギリス植民地支配下のチャイナタウンの特徴をよく伝えていると考え、一九八〇年代からそこで住民がどのような生活をしているのか調べ始めた。ちょうど、一九九七年にペナン市の「家屋賃貸統制法」が撤廃され、それとともに旧市街地に再開発の波が押し寄せており、その直前のこのような調査ができことは幸運であった。

ジョージタウンと呼ばれる旧市街地は約一キロ四方の広さがあり、そこに多くの寺廟とともにおよそ七百戸の家屋が建ち並んでいる。図七-一は一九九三年時点でそこでどんな商売が営まれているかを示したものである。

金融・保険業と布地屋:通りの商売

前述したようにビショップ通りとキング通りの交差点付近は、広東系華人の寺廟や会館が集中し、また住宅専用の家屋はクィーン通りとキング通りの西側の一部にそれぞれ十数戸あるのみで、他は通りに面してなにがしかの商売をやっているのがわかる。また、この居住地の外周路には銀行や保険会社などが建っており、ビーチ通がビショップ通りと交わる地域にあるチャータード銀行とABN銀行の二行が十九世紀末に進出し、大きな建物を建てた他は、第二時世界大戦後進出してきたローカル銀行である。

また、ピット通りがチュリア通りと交差する一帯には両替屋が集中しており、これら金融・保険業は居住地住民や外来者にとって最も大切な業種であった。商売のためだけではなく、華人たちは故郷と密接な関係をもっており、そこの家族や親戚に送金するために利用した。

マーケット通り近くにはヒンドゥ寺院とモスクがあり、インド系の人々がインド特産の布地などを、外来者向けに販売している。歴史を辿れば、インド系商人たちがマレイ社会にもたらした最大の商品は美しい布地で、現在でもマレイ人たちの結婚式の結納品とあっている。また、プランテーションや鉄道開発の労働者として大勢やってきたインド系の人々は、かつてはここに買い出しに来ていた。

七・三 角地

薬房:角地のショーウインドウ

チュリア通りをビーチ通りから西方に進むと、交差点の角地に大きな薬房の建物が目に付く(写真7-1)。金融・保険業や布地屋が通りに沿って並んでいるのに対して、薬房はほとんど必ず角地に立地している。売っているのは健康維持や軽度の病気治療のためのさまざまな医薬品で、その中で漢方薬が中心を占めていることから、昔から華人住民にとっての日常生活の必需の店舗であったことがわかる。そのために、人々からの信用を得て、商売に有利な場所を占め、そして装飾豊か外観に大きな看板を掲げ、品物を店先に並べている。

総合屋台店:角地の厨房

飲食店もまた、角地を占めていることが多く、特に総合屋台店はほとんどそうである。総合屋台店とは、店舗の経営者が複数の屋台にフロアを貸して、自らも飲料だけを販売する形式を指し、マレイシアとシンガポール以外では見かけない。ペナンのチャイナ通りとクィーン通りの交差点のものを例に挙げながら、具体的な営業の仕方を説明してみよう(図7-2)。この建物は一九三〇年頃に建設され、現在その建設者の孫が一階フロアを切り盛りしている。店はほとんど夜明けとともに開店し、朝食と昼食時が最も賑わい、午後のティータイムを過ぎる4時頃には閉店する。

店の主人は客がテーブルに座れば、そこにいって飲料・軽食の注文をとる。彼は、その注文を置くの調理場にいって作り、テーブルに配達をする。朝昼の忙しい時にはアルバイトに注文受けと配達を頼んでいる。店が作る飲料は、ミルクティー、ミルクコーヒー、大麦湯などが中心で、他に各種瓶缶飲料を売る。軽食は各種トースト類で、ほとんどの総合屋台店の飲料・軽食部門のメニューは同じである。ウーロン茶などの中国系飲料・軽食はは出されることはなく、メニューにはイギリス植民地文化の影響が強く現れている。

食べ物は外側の屋台が担い、客は自らの好みの屋台に寄って食べ物を注文し、空いたテーブルの椅子に座る。そして、飲料を注文し、料理ができるのを待つ(写真7-7)。調査時点で、六つの屋台がこの店主に賃貸料を支払い、営業していた。その内四店が麺を扱い、かん水麺、ビーフン、クエティアオ(きし麺ほどの幅の米麺)を素材にして、肉・野菜と炒めたり、スープに入れたり、あるいはカレー麺として出す。四店のうち三店は自転車屋台で(写真7-4、7-5、7-6)、朝から昼過ぎまで、その日のために準備した食材が売り切れるとともに店じまいする(写真7-8)。

モスレムのためには、インド系屋台が二店入っており、それぞれロティ・チャナイ(薄焼きパン)とご飯料理を扱っている。チャパティはカレーに浸しながら食する物で、インド系やマレイ系の人々にとっての代表的な朝食である。ご飯屋台は昼食時だけ営業し、客はその屋台前でご飯皿に各種カレーや肉を添えるように注文し、奥のテーブルに椅子を確保する。このご飯屋台はブリヤイニ(肉炊き込みご飯)をも販売し、これはご飯系の食べ物としてモスレムから最も好まれている。この二つのインド系屋台は固定型であり、後で述べるようにどういうわけかインド系の店舗はすべて固定型である。

総合屋台店は一九三〇年代にはあったことは確かだが、正確にいつ頃生まれてきたのかはわからない。すぐに思いつくのは中国人の飲茶のための茶房であるが、総合屋台店ではウーロン茶をはじめとする中国茶は出されることはないので、それから発展したとは考えにくい。前に述べたように、提供される飲料・軽食の種類からはイギリス植民地のカフェ文化の影響が伺える。屋台主が総合屋台店主に支払う出店料には、お客がテーブルを使用することと、食器を洗う水を利用することが許可されている。

七・四 屋台

移動屋台:料理済み食物の販売

屋台料理は、家で食材を下ごしらえしているので、注文を受けてから最小の時間と燃料消費で完成できるようになっている。そのため、総合屋台店で営業する屋台は自転車で牽かれたり、手押しのための車輪が付いており、街路上を移動させることが可能である。しかし、火を使う料理の場合、頻繁に移動することはできず、また自ら椅子とテーブルを持って歩くわけにはいかず、さらに食器を頻繁に洗う必要から、総合屋台店に張り付くことになったのにちがいない。

従って、火を使わない出来合の食品を売るだけの屋台の場合は、頻繁の移動が可能である。代表的なものはインド人のパン屋や果物屋(図7-10)、華人の菓子屋や飲み物屋(図7-11)があり、他に小豆粥屋(図7-12)がある。これらの売り歩く屋台は、人の集まりそうな時間と場所を鐘を鳴らしたり、かけ声をかけながら毎日巡回し、客が多く寄ってくればしばらくそこで営業する。彼らには、鐘やかけ声は必須である。

ところで、移動屋台のほとんどは人を運ぶための三輪自転車を改造したものである。これはジンリキシャあるいはキリショと呼ばれ、語源は「人力車」である(写真7-14)。一九世紀末に日本からアジア各地の植民地や外国人居留地に人力車が輸出され、そこでも日本語名で呼ばれるようになったのである。人力ではなく、自転車になってもその名前が残っている(写真7-14)。原型からの大きな改造は、椅子の位置に荷台を乗っけ、上に庇を作ったことである。

固定式屋台:街角のスタンド

同じ小豆粥屋でも、旧居住地のはずれの一画に縫製業が集中しており、そこで働く女工さん相手に華人のおばさんの有名なが店(写真7-15)ある。これはアーケードを最小占有し、官憲の取り締まりの際には撤去できるということで、ほとんど固定式になっている。華人の固定式屋台は非常に珍しく、ペナンでは圧倒的にインド人の屋台形式となっている。

マーケット通り界隈にはインド系の人々が多く生活しており、ここには軽食と雑貨を扱う二種類の固定式屋台が存在する(写真7-15)。軽食屋で出されるのは、コーヒー・茶とトースト・ケーキが定番で、これにロティ・チャナイを加えるところもある。このようなメニューのため、朝食と昼食の時間を稼ぎ時にして、午後のお茶の時間頃まで営業をやり、午後四時には店じまいする(写真7-16)。雑貨屋の方は、新聞、雑誌、石けん、歯ブラシ、たばこ、ガム、飴などを早朝から人通りが消える夜九時頃まで営業をやっており、日本のコンビニと同じ役割を果たしている。

これらには二つの謎が存在し、一つは雑貨屋と軽食屋がいつも並んで立っていることで、雑貨屋で買った新聞・雑誌を喫茶店で紅茶をすすりながら読むという、イギリス風の生活習慣から来たものなのか、あるいは単なるコンビニ風に雑貨屋と軽食屋がくっついただけなのか不明である。もう一つの謎は、多くの雑貨屋が既存の壁を利用して下屋風になっていることで、華人の屋台にはみられない。

固定式屋台は、基本的に建物際の公有地を仮設構造物で最小限占有し、もしもの歳、官憲からの命令によって撤去ができるようになっている。しかし、マーケット通りがピット通りと交わる近くにある固定式軽食屋は歩道上に独立して建っており(図7-4)、これがなぜ許されているのか大きな関心を持っている。

七・五 食堂

屋台が早朝から午後まで麺とパンを中心にそれぞれの一品料理を売るのに対し、食堂はバラエティのあるご飯物の昼食と夕食を提供する。店舗分布図からわかるように、角地にもなく、またアーケードに隠れているため目に付く存在ではなく、各店適当に分散している。華人たちはこれを「経済飯店」と呼び、店主は家主からここを賃貸し、奥で十品前後のおかずを調理し、昼の一二時近くになってそれを店先の大皿に並べる。客は近隣に勤める人たちで、店先でご飯とそれに添えるおかず数品を頼んで奥のテーブルに付く。ここでも飲料は別の営業となっている。

華人の食堂以外にも、インド料理、イスラーム料理、さらにパダン料理など、民族ごとの食堂が点在しており、多民族社会の都市を造り出している。

七・六 事務所など

銀行・金融業や飲食店の他に目に付く商売は旅行代理店と代書屋で、これは植民地都市と密接な関連を持っている。華人たちは新開地で生活が安定するとともに、故郷に送金するとともに帰省したり、また親戚を訪問しあい、非常にモビリティが高い。その旅行の便宜を図ってくれるのが旅行代理店である。

また、二〇世紀前半まで植民地に労働者として移民してきた人たちは、文字が書けなかったり、また英語の行政・法律手続きに不慣れであったため、代書屋に頼むことになった。今日、ほとんどの華人は普通教育を受けているが、この旧市街地には老人が多く住んでおり、その一部は代書屋はいまだに必要としている。

七・七再び路上商売

イギリス植民地時代に、建主は自らの土地の街路側に公用のアーケードを作ることが義務づけられた。しかしながら、商売上最も有利な場所を公用に拠出することは、建物所有者たちに完全には受け入れられず、これまで見てきたような曖昧な利用形態を生んできた。さらに、法律では許されてはいないはずの公道の占有も、飲食や雑貨の営業主は官憲に取り締まられない程度を知って、行っている(写真7-17)。ペナンでは過去数十年間、この関係が安定して維持されてきており、独特の街の雰囲気を作り出しているのである。寺院などの初志施設を含めて、これが南洋華人の空間秩序としてみることができるのではないだろうか。

一方、シンガポールでは一九八〇年代、このような曖昧な土地利用を排除し、屋台を徹底的に室内に入れ、ホーカーセンターを作り、またクレタアヤ地区などの旧市街地を観光スポットとして土地利用を明確化してきた(写真7-18)。そこにはもはや特有の空間秩序はない。

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(4) Bangkok

5. Malaysiaマレイシア

(1) ショップハウスに下宿する:1978年の1週間

・友人のTeo Kim Sengに連れられ,彼の生家に一週間お世話になった。1階の前部分で卸商を営み,奥は食堂,厨房,トイレが並んでいた(と思う)。2階にあがり,家族に挨拶し,落ち着いたところで廻りを見渡す。暗いけれど,涼しいというのが第一印象だった。

(2) Melakaマラッカ

(3) Penangペナン

(4) Kelantanクランタン