ヴォーリズ
William Merrell Vories
レーモンド
Antonin Raymond
メンデルゾーン
Erich Mendelsohn
村野藤吾
Togo Murano
1880 米国カンザス州レブンワースで生まれる。
1900 コロラドカレッジ理工系課程に入学。
1902 外国伝道への献身を決意。このころ、のちの関西学院第4代院長のベーツ氏と知り合う。文系課程に転じる。
1904 コロラドカレッジ哲学科を卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補となる。
1905 滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日。
1908 京都で設計事務所開業。
1919 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。
1887 Allenstein (Olsztyn), East Prussiaに生まれる。
1906 University of Munich入学
1908 Technical University of Berlinで建築を専攻
1912 Technical University of Munich, 卒業 cum laude.
後に妻の縁故で物理学者と交流、アンシュタイン塔Einstein Tower を設計。
従軍中の前線から妻への手紙の裏に描いた工場や大型ビルのスケッチがこの時期の作品であった。
1891 佐賀県唐津市に生まれる。
1910 福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業、八幡製鐵所に入社
1911 2年間従軍
1913 早稲田大学理工学部電気工学科入学。
1915 早稲田大学理工学部建築学科へ転学。27歳で卒業。
1918 渡辺節建築事務所に入所。日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等の設計。
1929 村野建築事務所開設。
戦争中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごす。
1931 森五商店東京支店(東京都)
1932 加能合同銀行本店(金沢市)
1935 そごう大阪本店(現存せず)
1937 宇部市民館(宇部市/重文)
1938 大庄村役場(兵庫県尼崎市)
1949 村野・森建築事務所に改称。
1951 志摩観光ホテル(三重県)
1953 丸栄百貨店(名古屋市)
1953 世界平和記念聖堂(広島市)
1957 読売会館(東京都)
1958 新歌舞伎座(大阪市)
1963 日生日比谷ビル(東京都)
1963 名古屋都ホテル(現存せず)
1966 千代田生命保険本社ビル(現 目黒区総合庁舎/東京都)
1966 カトリック宝塚教会(宝塚市)
1974 迎賓館本館改修(東京都)
1974 日本興業銀行本店(東京都千代田区)
1975 西山記念会館 (神戸市)
1978 箱根プリンスホテル (箱根町)
1983 谷村美術館 (糸魚川市)
1984 永眠。
1918 第一次世界大戦から帰還しベルリンに事務所開設。
1924 Mies van der Rohe と Walter Gropius ともに雑誌 Der Ring創刊。
設計事業は急成長し所員40人となる。ワイマール共和国の消費の波の乗り店舗商業施設設計を拡大した。同時に社会主義思想にも共鳴しソ連に織物工場を設計した。
1926 40歳前にして、富と名声を確立し、歴史的別荘を所有。
1937 僧院宿舎建設のため、インドに渡航。アメリカのペンシルベニア州ニューホープで事設計活動。
1933 ナチスの反ユダヤ政策から逃れて英国に移民。後に膨大な財産をナチス政府に没収される。ドイツ建築家協会、プロシャ美術アカデミーから除名される。英国ではシャマイエフ Serge Chermayeff と1936年まで協働。
1934 後のイスラエル首相 Weizmann's のための計画に着手。
1935 エルサレムJerusalemに拠点を設け同地の国際様式に影響を受ける。1938 ロンドン事務所を解散し英国籍取得。"Eric"名を称す。
1941 この年より米国に居住。カルフォルニア大学バークレー校で教える。
二次大戦終結まで移民法制約上、講演と出版活動を行う。
1943 米政府に協力。米軍とスタンダードオイル社 Standard Oil に協力し、ユタ州でドイツの典型的労働者住宅を再現設計。これはベルリン空襲のためのノウハウ構築に不可欠であった。(一部現存)
1964 近江八幡市自邸(現ヴォーリズ記念館)にて永眠。83歳。
1947 再来日。事務所開設。
1973 アメリカに帰国。
1976 ペンシルベニア州ニューホープで死去。88歳。
1953 永眠。サンフランシスコでユダヤ社会向けの多数の実績を遺した。