二丁目講は、秋田県大館市を南北に貫く大通りの北側、大館駅寄りに位置した御成町二丁目町内会による講です。御成町二丁目は昭和43年の大火で街のほとんどを焼失しましたが、数年で復興し大館市の商業地域の中でももっとも重要な地域の一つとなりました。(詳しくは「御成町二丁目の歴史」をご覧ください。)
商店街を中心とした街衆の心意気と、古くからの氏子町内講へのライバル心もあって、長木川以北ではいち早く永久曵山車(ヤマ)を所有しています。400有余年の歴史を誇る大館神明社祭典の中にあっては歴史の浅い方に入りますが、伝統を守りつつも革新的なチャレンジを怠らないのが二丁目講であるといっても過言ではないと思います。
【曵山】現在の山車は、平成2年(1990)に再建されたもので、二丁目講の山車としては3代目、市内の永久山車としては8台目となります。(曵山神楽殿と命名)山車の後方に六角堂の神殿を備えているため屋根の形も、正面の唐破風(からはふ)の流れから一段高い二重となっているのが最大の特徴です。他講には見られない意匠ですので、一目で二丁目講の山車とお分かりいただけるでしょう。唐破風の下の飾りは獅子の彫り物、踊子が舞う神楽殿と囃子方が演ずる六角堂のすべての柱には古来から吉兆とされる鳳凰が頭を突き出すように配置されています。また本来は写真のように六角の上に相輪と呼ばれる飾りが付きますが、最近は電線などに掛かるため外されることが多くなりました。
【曵手】曵手は主に町内在住者、町内にある会社に勤務されている方、町内出身者などが中心となっていますが、曵山車を持っていない町内の子供達や、遠方から二丁目講が好きで曵かせてほしいと参加される方など様々です。昭和50年代の初代山車の運行時は引手が曵くロープも50mを超える程賑わいましたが、近年は町内人口の減少、少子高齢化などもあり30m程になりました。自営業者が減り会社勤めされる方が増えたことも祭を支える人が減っている要因の一つでもあると思います。なお二丁目講では毎年曵手を募集していますので、興味のある方はお気軽にお問い合せください。
二丁目講の半纏は新撰組を意識したもので、初めて統一した半纏を製作した昭和35年に新撰組の映画(『壮烈新選組 幕末の動乱』主演・片岡千恵蔵/東映)がヒットしていたためその影響を受けたものと言われています。白地に裾と腰回りに鮮やかな青色の山切り、背中には赤く染め抜かれた稲穂の束が描かれており豊作祈願を表わしています。これに赤色の帯と黄色の襷(たすき)、豆絞りの手拭いの鉢巻で「正装」となりますが、現在では襷をつけないことが多くなりました。袖口を折ると内側には豆絞りの模様があり見えない部分にも洒落気を効かせる秋田人の粋が伝わります。
かつては運行時に笹の枝に熨斗袋を付けた「花」を沿道の知人などから頂き背中に沢山差した状態でスタイルが完成されましたが、現在は全講の申し合わせで行われなくなりました。
曵手は山車からの「ヨーイヨイ」の声に合わせて「ソレ、彌栄(いやさか)サッサ」の掛け声を発します。また橋の上や上り坂などピッチを上げる時には、お囃子がアップテンポの『帰(還)り山』になり掛け声も「ワッショイ、ワッショイ」と威勢良いものになります。
【お囃子】お囃子で演奏される曲目は、『寄せ囃子』『大館祇園囃子』『剣囃子』『帰(還)り山』の4曲があります。『寄せ囃子』は、お祭りの開始合図(寄せ)で演奏され気分を高揚させます。『大館祇園囃子』は秋田県内の他の囃子にも通ずるもっとも雅な曲調です。途中太鼓がバチを合わせる仕種があります。これよりややテンポが早いのが『剣囃子』。そして『帰(還)り山』です。長木側以北の4講による「駅前競演」などでは『帰(還)り山』を更にヒートアップさせリズムを変えた『駅前バージョン』なるものも存在します。これは鹿角市の花輪ばやしにヒントを得たものではないかと言われていますが、いずれにしても『帰り山 駅前バージョン』が演奏される時には太鼓の連打、踊子も激しく舞うため山車が大きく揺れ、祭も最高潮に達します。また近年では二丁目講オリジナル曲『鳳凰』が作曲され、伝統を守りながらも革新を続けています。
【踊子】踊りは小学生中学年から高校生までの女子が手古舞(てこまい)の衣裳で行います。囃子毎に踊りが変るのは当然ですが、テンポが早くなると踊りもダイナミックさを増し見応えがあります。また山車が長く停車する際には将来山車の上で踊るであろう幼児も衣裳を付けて踊ります。大きな扇を一生懸命振り舞う姿はまた可愛らしいものです。