【町の成り立ち】
大館の街はもともと米代川と長木川に挟まれた段丘上に開け、現在の御成町や有浦、清水町は一面の田圃でした。今の大通りは、明治9年
(1876)国道3号線となり(昭和27年に国道7号線、同年に県道となる)、明治32年(1899)に大館駅が開業、田町に至る新道が整備され、「停車場(ていしゃば)通り」と呼ばれるようになった頃も製材所と田圃くらいの街でしかありませんでした。(現在でも大館駅から御成町に延びる道は公的には「停車場線」となっています。右の広告は大正9年発行の『大館案内』のものです。「停車場通り」の文字が見られます。)
【町名の由来】
明治41年(1908)東宮(皇太子=のちの大正天皇)殿下が行啓され、大館駅からお成りになった事に由来しています。正式に町名となり番地等整備されたのは昭和47年からで、それまでは清水堰添、松木境、板子石境、清水堰合、二本杉後、中道三角、石仏後、石仏、護摩木道上、護摩木道下、中川一本杉、通り町橋下、大中道下と呼ばれており、その後現在の御成町1~4丁目となりました。
▼大火前の御成町二丁目 大館スバル主催の「第1回スバル エコラン安全運転競技会」でのひとコマ。 撮影年は不明ですが大火に近い頃と思われます。
明治34年(1901)には大館小林区署(大館営林署と改称されたのは大正13年)が御成町二丁目に設置され、製材所が多く立ち並ぶようになりました。しかし終戦後(昭和23年5月14日)進駐軍が空撮した左の写真を見ると街並は大通り沿いだけで、近年まで後ろは田圃だったことが分かります。 昭和24年(1949)には「御成町二丁目銀座振興会」が結成され商店街の振興が図られ、25年には大館駅から南新道までが舗装されいよいよ活気が出てきた頃、26年には長木川が氾濫し、多数の家屋が浸水しました。
【復興から現代へ】
大火の翌44年3月には商店街再編のため「御成町二丁目振興組合」が組織され、46年頃には建物も再建され48年(1973)春にはアーケードが完成。また同年には大館商工会議所が商工会館を町内に新築し事務所を移転し、新制御成町二丁目が概ね整ったことから11月2日から3日間「二丁目復興祭」が開催され、以降町内の黄金期を迎えます。
その後鉱山の閉山や景気低迷などで商店街に少なからず影響があったものの、近隣に大型店の出店があり共存を模索、また昭和61年(1986)にはそれまで十和田湖への最短ルートが鹿角市大湯経由だったのが大館市から小坂町を経る「大館十和田湖樹海ライン」が全通し、町内の南端を大型観光バスが行き来するようになり街のようすもかなり変化しつつあります。
【昭和43年大火】
御成町二丁目の歴史の上でもっとも重要な出来事は昭和43年(1968)10月12日の大火です。その日は盆地特有のフェーン現象で空気が乾燥し、町内の民家のゴミ焼きの火が強風に煽られ延焼、290棟が焼失しました。その消火作業には遠路青森県や能代市などからも消防車が駆け付けたといわれます。またその火の粉は有浦小学校まで飛びボヤとなりましたが、消防車が出動できず自衛で消火されました。
平成になってからも情勢が好転することはなく厳しさは変らぬものがあり、現在はアーケードも撤去していますが、二丁目講を共に運行することで和を図り、後継を育成することにより明日への活路を見い出す努力を続けています。
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写真および資料提供:斎藤一春氏、嘉成良仁氏、大館鳳鳴高等学校鳳鳴会
参考資料:『大館の歴史』(大館市教育委員会)、『角川日本地名大辞典・秋田県』(角川書店)、『写真集 思い出のアルバム 大館』(無明舎出版)、『ふるさとの想い出 写真集 大館』(国書刊行会)、『大館案内』復刻版(大館の歴史を知る会)