スイーツカフェを経営している兄妹、ヘンゼルとグレーテル。
グレーテルのハツラツとした元気な声は、外にいる子どもたちの歩を店に向け、
ヘンゼルの作る、甘い甘いお菓子は、店内の子どもたちを笑顔にする。
子どもたちの笑顔が沢山集まるカフェは、日が沈んだ頃に閉まり、ここからはグレーテルのお楽しみの時間。
ヘンゼルがふと気づくと、ケースの中の余ったお菓子が残っていない。
「グレーテルちゃん、また一人で全部食べちゃったの?」とヘンゼルが溜息交じりに微笑んで尋ねると、
「お兄ちゃんの作ったお菓子は、ぜーんぶわたしのものだよっ!」と、クリームを口の端につけながら、
グレーテルは最後のカップケーキを幸せそうに口に入れる。
いつまでもそうやって過ごしていくのだと思っていた。
ある日、グレーテルが目覚めて、店へ入ると、ソファに座ってぼんやりとしているヘンゼルを見つけた。
「お兄ちゃん…?」いつもと雰囲気の違う兄に声をかけると、
振り返ったヘンゼルは、泣いていたのか目を赤くして、頬にも涙の跡が残っていた。
落ち着いている性格のヘンゼルが泣いているところは滅多に見ない。
「どうしたの!?」慌てて訳を聞くと、ヘンゼルは、声の震えを制しながら答えた。
「できなくなっちゃったんだ…、お菓子…。ごめんね…」
ピーター・パンが姿を消してしまったことで、お菓子作りが出来なくなってしまったヘンゼルは、毎日何もすることなく過ごしていた。
あるとき、カフェに、ドロシーという、ピーターの手伝いをしていると言う女の子がやってきた。
彼女が、魔法のキャンバスにさらさらと洋服を描くと、それはキャンバスを飛び出して本物の服になり、
それを彼女はヘンゼルとグレーテルにプレゼントしてくれた。 ドロシーのおかげで少し活力を取り戻し、それでもまだイメージでお菓子を作ることは出来なかったが、
彼女と過ごせばいつかできるような気がした。 そんな矢先、ツリーの子どもたちが森の中でお菓子で出来た家を見た、という話しているのを聞いた。
森には、昔から魔女が住み着いていると噂され、子どもたちは恐れて滅多に近づくことはないが、時々好奇心旺盛な子が入ることがある。
多くはその行方を消し、二度と帰ってこなかった。
そのことはヘンゼルも知っていたが、お菓子の家にはとても興味があった。
もしも、森にあるお菓子の家を作った誰かに、お菓子の作り方を教えてもらえたら、もう一度カフェができるかもしれない。
ヘンゼルは誰にも告げずに森へと入っていった。
森をさまよっていると、確かにお菓子の家はあった。
近づいて、舐めてみると、家の壁は甘い。紛れもなくお菓子の家だ。
中を覗いてみるが、人の姿は見えない。
ヘンゼルは、一声「お邪魔します」と言ってお菓子の家へ入った。
中は甘い香りが充満しており、自分がお菓子になった気分になる。
そんな部屋の中でも、特に甘く美味しそうな匂いが漂ってくるので、そちらへ向かうと、そこはキッチンだった。
そして、そこには1人の女の人が、オーブンから焼き菓子を取り出しているところだった。
その人は魔女だった。
1人で、このお菓子の家にいるのだそうだ。
ヘンゼルが、お菓子の作り方を教えてほしい、と言うと、彼女は条件を出してきた。
その条件とは、“夢を見るのをやめる”ことだった。
夢を見るのをやめることは、子どもでいることをやめること。
夢を追う、大人になることが、彼女の出してきたお菓子作りを教える条件だった。
この森へ入った時点で、ヘンゼルには大人になる抵抗も、子どもで居続ける理由もなかった。
子どもならば、ピーターの力で、思い描くだけでお菓子は作れて、何の苦労もないが、
同時に、ピーターに何かあれば、今のように何も作れなくなってしまう。
大人になれば、誰の力を借りることもなく自分だけでお菓子を作ることが出来るようになる。
その分、何かの障害は生まれるかもしれない。
しかし、ヘンゼルにとっては、お菓子が作れなくなること以上の障害は何もなかった。
ヘンゼルは、迷うことなく了承した。
魔女は、とても分かりやすくお菓子の作り方を教えてくれた。
何日が経過しただろう。
朝目覚める度に、目線の高さが変わっていった。
最初は見上げていた彼女のことも、いつの間にか見下ろしていた。
作れるお菓子の種類も増えていった。
ヘンゼルにとっては、それが何よりも楽しかった。
今まではただイメージで作っていたお菓子を、自分の手で作り出すことができる。
そして、それを「美味しい」と言って食べてくれる人がいる。
この生活が、まるで永遠に続くように思えたことも、何度もあった。
しかし、夜がくる度に、残してきた妹、グレーテルのことを思い出す。
同時に、言いようのない罪悪感を覚える。
彼女はまだ、自分のことを覚えてくれているだろうか。この変わった姿を見ても、兄と呼んでくれるだろうか。
変わっていく自分に怯えることが、徐々に多くなっていった。
いつも通り、魔女にお菓子の作り方を教わり、一日を終えようと、二階の自室に戻ると、かかし(?)が1体立っていた。
かかし(?)には見覚えがある。
確か、ドロシーと会ったときに、一緒にいた気がする。
ヘンゼルは、彼に「こんなところで何をしているの?」と聞くと、かかし(?)はヘンゼルを捜していたところだと答えた。
続けて、「可愛い妹がお前を探してるぞ」と言った。
窓の外を見下ろすと、草むらに、妹グレーテルと、ドロシーたちの姿が見えた。
しかし、今更ネバーネバーツリーが自分を受け入れてくれるとは思えない。
子どもでいることをやめて、大人になろうとしている自分を。 かかし(?)にそう伝えると、彼は、「んなこと俺様には関係ないから。とりあえずツリーに連れ戻されてから好きにやってくれる?」と言い、
ヘンゼルの腕を掴むと、強引にお菓子の家から連れ出した。
家から出てきたヘンゼルを見つけると、グレーテルは「お兄ちゃん!」と言って駆け寄ってきた。
グレーテルは、姿が変わったヘンゼルを見ても、まるで何も変わっていないかのように抱きついてきた。
久々に見る妹の姿に、どう声をかけるか迷っていたとき、家の中から激しい物音がした。
振り返るその瞬間、魔女の体に剣が振り下ろされた。
すぐ傍にいたかかし(?)が、あれは何人もの子どもを食べた魔女だと言った。
けれど、ヘンゼルがしばらく共に過ごした魔女は、子どもを食べるような恐ろしい魔女ではなかった。
彼女がヘンゼルに向けていた表情は、ずっと忘れていた、母を思い出す、優しく包み込んでくれるような笑顔ばかりだった。
切られた魔女の姿が消えると同時に、お菓子の家は、形を変え、周りの暗い森に似つかわしい廃墟と化した。
ヘンゼルがネバーネバーツリーに戻った頃には、彼の身体は16、7程度に成長していたが、
カフェのキッチンで、彼は姿を変える前と同じようにぼんやりしていた。
ここへ戻ってきた途端、ここには何もないことに気づいた。
料理道具も、材料も、保存をしておく冷蔵庫すらない。
あまりの何もなさに、どうしたら良いか分からないでいると、彼の元にドロシーが訪ねてきた。
彼女に元気かどうかを聞かれるが、正直あまり元気はない。
その訳を話すと、ドロシーは「それなら、オズへ行って集めればいいんじゃない?」と言った。
協力すると、言ってくれたドロシーは、協力どころか、オズの国にいる知り合いとやらに頼み料理道具も材料も、冷蔵庫も全て揃えてくれた。
何もかも助けてくれた彼女に、感謝しきれないでいると、ドロシーは笑って「お礼に美味しいアップルパイを焼いてよ」と言った。
だが、ヘンゼルはアップルパイの作り方をまだ知らない。
するとドロシーは、一緒に作ろう、とキッチンへ入ってきた。
彼女は、母に習って少しだけお菓子作りは出来るらしく、その日からよく、一緒に作るようになった。
スイーツカフェが再開してから、店内には、少しずつ人が増え、子どもたちにも笑顔が増えてきた。
ドロシーは、ピーターに代わって、子どもたちの夢を取り戻す手伝いをしていると言う。
ヘンゼルが美味しいお菓子を子どもたちに作ってあげることは、ドロシーにとっても嬉しいことだった。
甘いお菓子は子どもたちを元気にし、もう一度夢を見る活力になっているそうだ。
ヘンゼルにとっても、ドロシーの助けになることは願ってもないことだが、
何より、ドロシーが一緒にキッチンに立ってお菓子作りの手伝いをしてくれることが、彼にとっては嬉しいことだった。
ヘンゼルの中で、ドロシーの存在は徐々に大きくなっていった。
ある時、ヘンゼルはドロシーに、お菓子の家の魔女のことを話してみた。
子どもを食べるような魔女には思えなかった、と。
今となっては分からないことだが、ドロシーは「ヘンゼル君がそう思うなら、きっとそうなんだと思う」と微笑んだ。
魔女を悪者と言って考えを変えない人しかいない中で、彼女だけはヘンゼルの考えに共感してくれた。
以来、ヘンゼルはドロシーに好意を寄せている。
一方で、妹グレーテルを取り残したまま、大人になってしまったことに罪悪感を抱いていた。