環境ストレスが生理指標,脳内神経伝達物質,情動行動に及ぼす影響
我々の生活を取り巻く環境には様々なストレスが存在しており,各種パフォーマンスの低下や精神疾患を引き起こすことが知られています.例えば,現代は照明環境の発達により便利な社会になり,生活リズムが多様化した結果,生活(生体)リズムの乱れによる心身の不調が社会問題となっています.また,鬱や不安などの精神疾患は脳内神経伝達物質であるセロトニン(5-HT)神経活動の低下と関係していることが多々指摘されています.更に,5-HTは生体リズムのゴールデンスタンダードである深部体温の調節や環境ストレスとの関連についても主要な脳内神経伝達物質であることが示されています. (Ishiwata T., Journal of Physical Fitness and Sports Medicine, 3(4), 445-450, 2014.)
我々の研究室では,ラットの生理指標(深部体温,心拍数,活動量)を連続測定できるテレメトリー法や近年開発された体温・運動量計測装置(ナノタグ),脳内の様々な領域(特に注目しているのは運動,認知,情動,体温調節関連領域)の5-HT,ドーパミン(DA),ノルアドレナリン(NA)を同時に測定できるホモジネート法,鬱や不安,社交性などの度合いを計測できる複数の情動行動テストを組合せ,様々な環境ストレスに対する生理指標,脳内神経伝達物質,情動行動の関連に着目しています.
光環境の研究結果としては,ラットを通常(12h:12h)とは異なる明暗サイクル(6h:6h)で飼育した際に,深部体温,心拍数,活動量が明暗周期に同期して乱れ,5-HTの細胞体や投射先(視交叉上核など)では5-HTが減少し,反対にNAの細胞体や投射先(室傍核など)ではNAが増加した結果,鬱様行動が惹起することを示しています.(Matsumura T., et al., Chronobiology International, 32(10), 1449-1457, 2015)
更に続きの研究として,ラットを飼育する時の明暗周期を長明期(20L:4D)(日中ずっと寝ているぐうたらモデル),長暗期(4L:20D)(夜ふかしモデル)の明暗サイクルに1ヶ月間暴露したところ,極端な明暗周期のラットでは,体重の増加と伴に,深部体温と活動量の振幅が減少し,概日リズムが鈍化やズレがみられました.20L:4D群では,生体リズムを司る視交叉上核と情動に関係する扁桃体でそれぞれNAと5-HTが減少したのに対し,4L:20D群では,行動に関わる線条体と自律神経に関与する視床下部背内側下部でそれぞれDAと5-HTが増加し,両群とも不安様行動を示しました.(Kawata et al., Chronobiology International, 41(12), 1516-1532, 2024)
本研究の結果から,通常とは異なる明暗サイクルによって生体リズムが乱れ,このことが生活習慣病や精神疾患にかかるリスクが高まる可能性が示唆されました.現代社会における生活リズムの乱れに警鐘を鳴らす研究になったと考えられます.
運動環境の研究としては,ラットに様々な様式(自発運動,自発運動制限,強制運動)で運動させた場合の明期と暗期における脳内モノアミン濃度(セロトニン,ドーパミン,ノルアドレナリン),不安様行動,生理的ストレス反応(体温,副腎重量など)の変化に及ぼす影響を調べました.強制運動は,不安様行動の増加や副腎肥大を示し,運動時を除いた時間にも体温上昇が観察されました.強制運動と比較して自発運動は,セロトニンの細胞体と情動に関わる投射先脳部位において,セロトニンやドーパミン含有量が増加し,不安様行動が抑制されました.このような結果から,強制運動によるストレスは,情動に対して悪影響であること示唆されました.また,自発運動を1時間に制限した場合は,自発運動の効果が十分に得られないことが明らかとなりました.更に,これらの違いは,暗期においてのみ観察されました.(Matsunaga et al., Neuroscience Letters, 744, 135556, 2021,Matsunaga et al., Behavioural Brain Research, 479, 115321, 2025)
本研究の結果から,自発運動は主にセロトニン作動性神経系とドーパミン作動性神経系を刺激し,強制運動は生理的ストレスを誘発し,不安様行動を増加させることが示唆されました.この研究は,行動神経科学実験において,運動の種類と明期/暗期を考慮することの重要性を強調しています.
また,飼育環境における研究結果としては,ラットを集団飼育した場合と隔離飼育した場合を比較すると,隔離飼育したラットは深部体温がストレスにより上昇し,行動に関連する線条体や情動に関連する扁桃体の5-HTが減少し,反対にストレスに関連する室傍核ではNAが増加した結果,社会的行動の減少や過剰行動が増加することを示しています. (Kaneda et al., Develomental Psychobiology, 63, 452-460, 2020)
一方,2020年東京オリンピック・パラリンピックでも注目された暑熱環境における温熱ストレスについては,暑熱暴露期間に伴い深部体温,心拍数などの生理指標の変化や線条体や視索前野など様々な脳部位の神経伝達物質が劇的に変化することを示しており(Nakagawa et al., Journal of Thermal Biology, 2016),暑熱順化をすることにより情動行動に良い影響を及ぼすこと(Nakagawa et al., Journal of Thermal Biology, 2020)を観察しています(Nakagawa & Ishiwata., Journal of Thermal Biology, 2021).
ラットの体温調節機構におけると脳内セロトニンの関与
我々ヒトを含む恒温動物は,個体内部の熱産生量が増えた時や外界の温度が変動した時に,深部体温を一定の範囲内に保つ体温調節機能を備えています.この機能に対する脳内の様々な調節には,神経細胞を促進または抑制する神経伝達物質の働きが極めて重要であり,これまで体温調節機構における神経伝達物質の役割に関する研究においても,様々な報告がなされています(Clark and Lipton, Neurosci. Biobehav. Rev., 1986).その中でも,セロトニン(5-HT)は体温調節機構において主要な神経伝達物質であることが示唆されています(Ishiwata, JPSFM, 2014).5-HTはその他の神経伝達物質であるノルアドレナリン(NA)やドーパミン(DA)等と比べて受容体の種類が特に多く,一種類の物質で多様な生体機能の制御を行っています.受容体の種類と関与する生体機能が多様であるため,5-HTの役割に関しては未だ明らかにされていない部分も多いのが現状です.5-HTの役割が完全に解明されれば,最終的には現在世界中で問題となっている統合失調症などの精神疾患系の病気の解明にもつながります.
本研究者はこれまで実験手法として,テレメトリー法とマイクロダイアリシス-HPLC法を同時に用いています.テレメトリー法は予め無線式小型体温計を腹腔内に埋め込むため,実験時に動物に与える侵襲性や恐怖感を最小限に抑え,無麻酔・無拘束下の動物の深部体温,心拍数,活動量を生理的状態に近い状態で測定することが出来る方法です.マイクロダイアリシス法は微少透析プローブを用い,同じく無麻酔・無拘束動物における薬理刺激,そして神経伝達物質をin vivoで経時的にサンプリングする簡便にして効率的な方法であります.効果器系の反応として心拍数(熱産生反応の指標)と尾部皮膚温(熱放散反応の指標)の測定を行っています.特徴としては無麻酔無拘束下で行っていることであり,実験中の動物の自由な行動を妨げることなく,ダイアリシスプローブへの灌流液の灌流と尾部皮膚温の測定を両立させて行っています.
現在までのところ,「ラットの体温調節機構における脳内セロトニンの関与」に着目し,上行性神経投射を行う5-HTの細胞体(正中縫線核または背側縫線核)を抑制した時の体温調節反応(Ishiwata et al., NeuroReport, 2016),体温調節機構において重要な部位である視索前野/前視床下部(Ishiwata et al., Life Sci., 2004),視床下部熱産生領域(Ishiwata and Greenwood, J. Comp. Physiol. B, 2018),腹側被蓋野(Ishiwata et al., Nueorsci. Lett., 2017)の5-HTの関与などについて明らかにしています.
<参考文献>
Ishiwata T., et al., Life Sciences, 75: 2665-2675, 2004.
Ishiwata T., Journal of Physical Fitness and Sports Medicine, 3(4), 445-450, 2014.
Ishiwata T., et al., NeuroReport, 27, 1287-1292, 2016.
Ishiwata et al., Neuroscience Letters, 653, 71-77, 2017.
Ishiwata and Greenwood, Journal of Comparative Physiology B, 188, 541-551, 2018.