ASAFASでアフリカ研究をしたい方へ

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFASアフリカ地域研究専攻では,生態・社会・文化・経済・政治・歴史・保全・開発など,さまざまな切り口から,フィールドワークにもとづく地域研究をおこなうことができます。

随時,研究室訪問やZoom等での面談に対応しますので,遠慮なく下記にメールしてください。

yasuoka@jambo.africa.kyoto-u.ac.jp

私が指導教員になる場合には,中部アフリカ・コンゴ盆地をフィールドとすることが望ましいですが,テーマによっては他地域でも対応できます。私が対応できるテーマを思いきって1つのキーワードでしめすなら「人間と自然の連関と共生」になります。拙著『アンチ・ドムス:熱帯雨林のマルチスピーシーズ歴史生態学をご覧いただければ具体的なイメージが得られるかもしれません。あるいは,とりあえず下記の「生態人類学とは」を読んでみてください。

また,生態人類学的フィールドワーク以外にも,研究科スタッフや他部局・他機関の共同研究者との連携にもとづいて,さまざまな方法を身につけながら研究をおこなうことができます(個々人の努力によって,その幅は大きくもなり小さくもなります)

生態人類学とは

人間と自然の連関

生態人類学は,自然とかかわりあいながら生きている人々のもとでフィールドワークをおこない,人々の生態(生きざま)を記述しながら,人間と自然の連関について探究する学問です。ただし,その対象となる自然は,ごく素朴な意味での自然科学の対象となる「自然」――人間の営為とは無関係にある客観的実在といった意味での「自然」――ではありません。生態人類学における自然とは,人間が生きるために必要とする資源の根源的な出どころとして,人々の〈生きる世界〉のなかに位置づけられている領域だといえます。たとえば「母なる自然の恵み」というときに想像されているようなひろがりをもつ自然といってもよいでしょう。

そのような自然は,たんなる想像の産物ではありません。狩猟採集生活をしている人々,農耕生活や遊牧生活をしている人々,都市で生活する人々……。人間は,それぞれの社会の伝統のなかで洗練してきた知識と技能をもちいて,自然から資源をとりだして生きています。自然にたいする日々の働きかけ,すなわち生業をとおして,自然のイメージは肉づけされ,彫刻されて,堅固なリアリティをもつようになります。人々はなかまとの協働をとおして自然のリアリティを共有し,また,それを共有することによって協働が可能になります。そうして個々の生が接続し,一つの社会がたちあがってくるわけです。こうして人間⇄社会⇄資源⇄自然の連関が構築されていくなかで,それぞれに固有なかたちで「人間なるもの」のイメージも肉づけされ,彫刻されていくでしょう。

フィールドの人々が生業をとおして構築している,この相互規定的な連関の実相こそが,生態人類学者の把握すべき対象です。そして,さまざまなフィールドにおける連関の記述をもちよって比較し,人間と自然の連関の多様性と人間の本性を探究する。これが生態人類学の構想だといえます。

各々の生態人類学者は,フィールドの人々と生活をともにするなかで,さまざまな関心をもちうるし,各人が固有の経験にもとづいて問題意識を育てていくことが推奨されます。とはいっても,生態人類学の民族誌においては,総じて,生業をとおして人々が入手するモノの流れを計量的に記述することが重視されてきました。その典型は食物です。食物を入手するための行動は,あらゆる社会において日々実践されている一方で,何を手に入れ,それをどのように分配し,どのように食べるかは,社会ごとに多様です。また,いうまでもなく食物は生物です。多種多様な食物を食べることは,多種多様な生物たちとかかわりあうことです。したがって,人間と自然の連関を記述するための切り口として,食物は格好の素材だといえます。食物が,いつ,どこで,誰に,どれだけ,どのように採取され,分配され,消費されているのか。それをつぶさに観察し,計量することが,生態人類学的フィールドワークの出発点になります。

もう一点,生態人類学の特徴をあげておきましょう。生態人類学というからには人間の生態に着目することは当然であり,人々の生業を地域の生態系との相互関係のなかに位置づけて記述・分析してきました。しかし,それにくわえて一部の生態人類学者は,人々の生業の対象(多くは食物)であるさまざまな生物(栽培植物,家畜,野生動植物など)の生態についても目を配り,それらの生物が人間活動と地域生態系をどのように媒介しているのかに関心をもってきました。

つまり,生物たちを,たんに人々の利用する資源として位置づけるのではなく,それじたい生物⇄社会⇄資源⇄自然の連関を構築しているアクターとして認識してきた,ということができます。人間とそれら生物たちは,一方が他方にとっての資源でありうるので,各々の連関は接続し,重なりあっています。こうした複数種をまきこんで構築されている連関のハイブリッドに着目する研究は,これまで生態人類学において部分的になされてきたものですが,今後さらなる発展が期待される領域だといえます。

  • 生態人類学およびその発展としてのマルチスピーシーズ歴史生態学については,拙著『アンチ・ドムスにて詳述していますので,ご参照ください。
  • 生態人類学は挑む〉シリーズもご覧ください。

フィールドワーク

ひとくちにフィールドワークといっても,自然科学から社会科学,人文学まで多様な学問分野において,さまざまなフィールドワークがおこなわれています。生態人類学のフィールドワークでは,エスノグラフィーを書くことが当面の目標となる点では,一般的な文化人類学のフィールドワークとかなりの部分を共有しています。ただし,生態人類学では,たんに参与観察をするだけでなく,自然科学的なアプローチをしばしば活用する点に特徴があります。

生態人類学的エスノグラフィーを中心にすえて博士論文を書く場合には,2年くらいのフィールドワークをおこなうのが標準的です。私自身,博士論文を書くまでにカメルーンの森でちょうど2年間のフィールドワークをしました(ただし,地域研究ではかならずしもエスノグラフィー志向のフィールドワークをおこなうわけではなく,軸とするディシプリンや研究テーマにおうじて,フィールドワークの長さはちがってきます)エスノグラフィーの一般的な特徴として以下の点をあげることができます。

フィールドワークとは,実験施設や図書館,圃場・演習林のような大学等に管理されている場所から外に出て,研究をおこなうことです。フィールドとは既存のセオリー(ものの見方/世界の捉え方)を揺さぶる場所であり,研究者にとってコントロール不能な世界です。

そのようなところでフィールドワークを首尾よくおこなうためには,下記のような能力・素養をみがいていくことが重要です。もちろん,はじめからこれらの能力・素養すべてを十全にもちあわせている必要はありません。フィールドワークをとおして,すこしずつ鍛えられていくべきものだと考えておけばよいでしょう。

フィールドワークはコントロール不能な世界でおこなうものであり,ある方法を身につけてそれ適用すればOK,というものではありません。フィールドで着想した「問い」にとりくむために,現場のさまざまな状況・条件を勘案しながら,みずから方法を練りあげていく必要があります。ただ,汎用性の高さという観点からいえば,語学のセンスひとくちに語学のセンスといってもいろいろな側面がありますが)や,統計のセンス(こんにち「文系」の多くの分野統計学は必須になりつつあります)をみがいておくことは有用でしょう。

参考文献

研究計画の作法

一般に大学院入試では,研究計画書(に類するもの)にかんする書類審査ないし口述試験があります。提出先によって研究計画書の様式はさまざまですが,そのエッセンスは下記のとおりです。

研究計画書とは?

研究を実施するために必要な知識とスキルをもっており,研究を開始する準備が整っていることを審査者に説得的にしめすために,どのような先行研究の蓄積のうえに,どのような方法をもちいて,どのような新しい知見が得られると想定しているかを述べる文書。

[1]題目

この研究は何を目的とするのかを端的に表現し,当該領域を専門とする研究者にとって陳腐でなく,隣接領域の研究者にも理解できるもの。対象とする事象,問い,想定される結果,フィールド,研究の学問的枠組みや着眼点などに関連するキーワードを,主題・副題に盛り込む。

[2]問題意識

研究の端緒となる事実(既存の知見,出来事,社会問題,個人的経験など)を描写し,それにたいして何がなされるべきか,そこからどのような一般的問題を抽出できるかを書く。問題意識は,この研究が位置づけられるべきコンテクストを読者(審査者)と共有することが目的なので,多くの部分は他の研究と共通していてよい。

[3]先行研究

問題意識とリサーチクエスチョンをつなぐことを意識しながら,関連する先行研究をレビューして,当該領域において何がわかっているか,何がわかっていないかをおさえ,いま取り組むべき諸課題を整理しつつ,リサーチクエスチョンの優先順位が高いことをしめす。より明確な新規性,より強い起源性を有するものの優先順位が高くなる。

[4]リサーチクエスチョンと方法

この研究によって解答をあたえる,もっとも包括的な1つの問い(必要におうじて,その問いを分割した,いくつかの問い)を提示する。問題意識と異なり,なんらかの水準において新規の課題であることは必須。あわせて,どのような事例をなぜ取りあげ,どのような方法論にもとづいてデータを収集・分析し,どのような結果を想定しているかを書く。

[5]新規性・起源性

この研究は,どの点(問い,得られる知見,方法など)が,どのような観点から新しいのか(新規性),この研究を実現することによって次にどのような研究の展開がありうるのか(起源性)を,先行研究の到達点からの進展を意識しながら書く。研究の新規性・起源性を的確に説明できることは研究者にとって必須のスキル。

  • 新規性と起源性の差異については「おもしろい論文」の項目も参照してください。

[6]実施計画

この研究が期間内に実現可能であることをしめすために,調査日程,調査項目ごとのデータ収集・分析の具体的手順(対象,方法,期間,分量)を書く。予算計画を書くこともある。

[7]文献リスト

成果となる論文のイントロダクションで参照することが予想される重要文献や,方法にかんして参考となる文献を提示する。文献リストの書き方は論文を読めばわかる。

大学院入試で提出する場合についての補足

  • 以下に書いてあることは私個人の考えです。

一般的に,大学院入試にさいして提出する研究計画は,入学したらそのとおりに実施しなければならない,というものではありません。

フィールドワークは,あなたがいま想像していない理由や誰もが予測できなかった事態のために,計画どおりに実施できなくなることがふつうにあります。したがって,私は,研究計画の評価にさいしては「内容」よりも「形式」を重視しています。

ただし「形式」が優れているというのは,たんに体裁が整っていることではありません。研究したい「内容」についてあなたの頭が整理されているからこそ,結果として「形式」が満たされます。つまり「形式」が整っていることは,そのプロセスにおいてロジカルな思考ができていることを意味するわけです。そのロジカルな思考の表現としての研究計画が審査の対象になる,ということです。

「形式」において優れた研究計画を準備できていれば,質疑応答において,審査者の質問が上記[1]〜[7]のどれに関するものなのか(あるいはピントのずれた質問であるか)を即座に把握して,適切な返答ができるはずです。

さらにいえば,受験生であるあなたはフィールドの状況を詳細に把握していない段階で研究計画を作成することが多いでしょうし,上述のようにそもそも計画どおりに実施できないことがふつうです。したがって研究計画を作成するうえで,もうひとつの重要なポイントは,計画の変更を余儀なくされた場合に臨機応変に対応できる柔軟性が繰り込まれているかどうかです。

その柔軟性を身につける訓練としておすすめしたいのは「裏」の研究計画を用意する,というものです。おおもとの問題意識は同じくしつつも,フィールド,リサーチクエスチョン,方法などの異なる複数の研究計画を作成しておくのです。この作業は,予期せぬ事態にさいして臨機応変に対応するための準備になるだけでなく,大学院で研究をするうえで譲ることのできない問題意識をより明確に自覚することにもつながるでしょう。

おもしろい論文

論文を書くためにはフィールド(や実験室等)でじっさいにデータをとり,それにもとづいてアーギュメントを構築しなければならないという点で,机上で完結できる研究計画とは決定的に異なります。とはいえ机上でおこなう部分については,研究計画を書くスキルと論文を書くスキルは,多くの部分で重なっています。論文においても「形式」を満たすように書くことは当然です

「おもしろい論文」とは?

ただし「形式」が優れていること,すなわちロジカルな思考ができていることは,あくまでも「内容」が最低限の水準に達していることをしめしているにすぎず,かならずしも「内容」が「おもしろい」ことを意味しません。

では,ある論文が「おもしろい論文」だと評価されるのはどのようなときでしょうか。当然ながら,個々人の関心は多様であり,個々人にとっての「おもしろい論文」はさまざまでしょう。しかし,ここで問いたいのは,特定の個人が「おもしろい」と思うか思わないかにかかわらず,客観的に「おもしろい論文」であると評価する基準はあるのか,ということです。

私は,その要件は「起源性」だと考えています。日本語で漫然と「オリジナリティ」というとき,しばしば新規性と起源性がまぜこぜになっています。しかし両者は異なる概念です。新規性noveltyは過去になされた研究との関係において定められるものであり,その評価は現時点において客観的に確定されます。さらにいえば、新規性はまさに現時点においてのみ評価されうるものです。それにたいして起源性originalityは未来の研究との関係において定められるものであり,その評価はつねに暫定的でしかありえません

そのうえで私が主張したいのは,「おもしろい論文」とは未来の論文の起源となる論文であるということです。たちが研究報告を聞いたり論文を読んだりしたときに「おもしろい」と感じるのは,その内容が何らかのかたちで自分のアイデアを刺激したときです。つまり研究者たちを刺激して研究を駆動させていくちからを有する論文こそが「おもしろい論文」です。

定義によって,論文を書きあげた時点では,その論文が「おもしろい」かどうかは確定されません。それでも,論文のなかで起源性のポテンシャルを展望することはできます。この論文は将来的にこのように「おもしろい論文」になりえます,と主張しておくことは著者の権利です。新規性の根拠が説得的に書かれてあることが「論文」成立要件(の一つ)であるのにたいして,起源性の展望が説得的に書かれてあることは「おもしろそうな論文」であることの要件だといえます。

「おもしろさを定量的に把握する

このように「おもしろい論文」を定義することで,論文の「おもしろさ」(事後的にですが)定量的に評価できるようになります。端的にいえば,たくさん引用される論文が「おもしろい論文」です。はんたいに,ぜんぜん引用されない論文は(すくなくとも現時点では)起源性が弱いという意味で「おもしろくない論文」だということになります。

むろん、いま論文を書こうとしている各々の研究者にとって重要なのは,各々の研究の起源になりうる,自分にとって主観的に「おもしろい論文」であることはいうまでもありません。それにたいして,ある論文の被引用数は,その論文にたいする研究者コミュニティの主観的な「おもしろがり」を集計したものだといえます。その意味で客観的な指標になっているということです。

情報テクノロジーの発達によって,ここで述べたような「おもしろさ」の評価方法は現実になっています。そして,掲載誌の格(IFとか)のような問題のある指標とくらべて、論文の被引用数(やそれをもとに算出した指標)個々の論文の質や研究者個人の研究業績の質をより適切に評価できそうな指標として重視されるようになっています。たとえば,Google Scholarで論文を検索するとヒットした論文の被引用数がわかります。

当然ですが,新しい論文ほど被引用機会が少ないことや,分野ごとに被引用機会が大きく異なることに留意する必要があります。また社会科学や人文学系に多い)紙媒体の本で引用された論文は自動集計されません。さらにいえば,おなじ1回の引用でも,まさにその研究の起源として引用されているのか,One of Themの論文として引用されているのかは,大きなちがいです

  • ようするに万能な指標はないということです。また,いったん指標として定着すれば,それを乱用・悪用して「おもしろい論文」にみせかけたり,談合して被引用数を水増ししたりする組織がでてくるのは世の常です。

「画期的におもしろい論文」とは?

研究者少ない未開拓の学術領域では,将来「おもしろい論文」になりうる論文であっても,当面のあいだ被引用数は少ないままでしょう。それでも,その学術領域が魅力的であれば徐々に新規参入者が増えてくるでしょうし,そうなれば領域を開拓した論文として突如として被引用数が増加しはじめるかもしれません。被引用数がそのようなカーブを描く論文こそが,新しい研究の世界」を創造たという意味で「画期的におもしろい論文」だといえるのでしょう。そのような論文や本を書きたいものですね。

とはいえ,ふつうに「おもしろい論文」を書けない人が「画期的におもしろい論文」を書くことは,ほとんどありえません。まずは「おもしろそうな論文」を書けるようになりましょう。

研究指導の方針

ASAFASであれ,アフリカ地域研究専攻であれ,概して学際的な,あるいはトランスディシプリナリーな研究・教育を志向していますが,各教員の守備範囲や指導方針には,それなりの差異があります。ここでは私の指導方針について簡単に述べておきます。研究指導において重要だと考えていることは,下記の2点です。

[1]フィールドでの「気づき」の質を高める

フィールドワークを軸にすえた研究では,フィールドでの経験にもとづいて「問い」を練りあげていくことが重視されます。したがって,フィールドの選択,研究テーマの選択は,個々の学生の研究実践においてもっとも重要な局面になります。このとき教員がどれほどの強度で介入するかは,研究指導の方向性をかなりのていど決定づけます。

私は,この段階における関与は可能なかぎり小さくすることにしています。もちろん,フィールドに行くためのサポートなどはおこないますし,フィールドと研究テーマの両方が私の守備範囲の外にあると研究指導が困難になるので,適度な匙加減で関与はします。問題はその匙加減です。強く介入しすぎると学生の自由な発想を抑圧してしまいかねませんし関与が弱すぎると可能性の芽が開花するまえに腐らせてしまうかもしれません。ようするに「気づき」のアンテナを狭い範囲に方向づけてしまうことなく、アンテナの感度を強化することが肝要だと考えています。

そのような適度な関与を実現するためには,最低限,フィールドでとりあえず何を観察して何を記述するかについての指針になる適度な抽象度をもつ理論と方法を用意しておく必要があります。そのような理論と方法になることを念頭において,マルチスピーシーズ歴史生態学を構想しました。それは人類学と生態学を架橋しながら「人間と自然の連関」を記述・分析するための理論と方法です(『アンチ・ドムス』pp.20–46で詳述しています)。それは熱帯雨林以外のさまざまなフィールドにも適用できますし,狭い意味での「人間」や「自然」に対象が限定されるわけでもありません。

もちろん,学生自身が,もっと自分にあった理論と方法をみつけてくることができれるのであれば,むしろその方がよいでしょう。そのような理論と方法がまだ準備されていないのであれば,マルチスピーシーズ歴史生態学はかなり有力な選択肢になりますよ,ということです。

2]フィールドでの「気づき」を活かして論文を書く

関与可能なかぎり小さくすると書くと「なんだ放置プレイか」と思う人がいるかもしれませんが,そうではありません。フィールドワークの成果をとりまとめるプロセスには,私は深く関与します。極端にいえば,あなたがはじめて書く論文のかなりの部分は、表面上、私の書いた文面になっているかもしれません(それは論文作成にかかわるやりとりをとおして結果的にそうなるかもしれない,ということであって,そうなるように意図しているのではありません)

このプロセスをくりかえすことで「学生自身で論文の完成までもっていけるようになる」ことが研究指導の到達目標です。そのためにはフィールドからもちかえった「問い」と「データ」をもとに,データの集計・分析・記述をし,アーギュメント構築してイントロ・考察を書き,文章表現を洗練させていくためのスキルを身につける必要があります。また,そのスキルはフィールドワークにフィードバックされ,より充実したフィールドワークができるようになるでしょう。

そのうえで,できるだけ多くの人にとって「おもしろそうな論文」になるよう仕立てあげること,つまり論文が有する起源性のポテンシャルを説得的に表現するスキルを磨くことが重要です。そのスキルを身につけることも,指導目標のつです。

以上をまとめると,フィールドや研究テーマの選択の段階から深く関与して指導してほしいという人にとっては,私は指導教員として適していないだろうと思います。一方で,フィールドや研究テーマを主体的に選択したい人,そのうえでフィールドワークの経験を論文にするためのスキルを身につけたい人にとっては,私のやり方がしっくりくるのではないかと思います。


博士論文の条件

ASAFASディプロマ・ポリシーとして4つの基準を提示しています。しかし,こういった文書の例にもれず,一般的すぎる記述になっているので,私の指導学生に適用することを念頭において博士論文作成の指針になるようにもっと具体的な条件をしめしておきます。

ポピュラー音楽のアナロジーでいうと,修士論文(や学術誌への投稿論文)は「シングル」で,博士論文(や本)は「アルバム」です。ただし,音楽アルバムのように10曲くらい必要というわけではありません。標準的な博士論文の場合だと4つのシングル曲が収録されている「ミニアルバム」といったイメージになるでしょうか。

ちゃんと書くと,博士論文の条件は下記のようになります(あくまで私が指導学生にもとめる基準です)


うまくいかないとき

先に「おもしろい論文」であるかどうを,あるていど客観的に評価できると述べましたが,いま書いている論文が「おもしろい論文」であるかどうかは事後的にしかわかりません。論文の被引用数は出版から何年も何十年も経過してから定まってくるからで

しかし多くの人にとって,論文を書くことは孤独でストレスフルな作業です。身近な人が主観的にではあれ「おもしろそうな論文」と評価してくれることは,論文を書きあげる意志を持続するうえで重要な要素だといえるでしょう(自分の論文が真に評価されるのは数十年後だと達観できるのなら問題にならないでしょうけど)

身近な人とは誰かといえば,まずもって指導教員です。ところが,あなたが書こうとしている論文の「おもしろがりかた」について,指導教員が共感しない,という事態がしばしば生じます。そもそも未来のことは誰にもわからないので研究の起源性を展望するにあたっては,個々人の「嗅覚」に頼るところがおおいにあります。たいていの指導教員は経験豊富な研究者であり,優れた「嗅覚」をもっていると仮定してよいでしょう。しかし,そうはいっても馴染みのない分野については「嗅覚」が働くとはかぎりません。したがって,あなたの論文の「おもしろがりかた」に指導教員が共感してくれないのは,あなた自身の問題ではなく,指導教員の「嗅覚」にひっかからないだけなのかもしれません。

まずは,もう一度だけ,あなた自身に問題があった可能性について真摯に考えてみましょう。「嗅覚」の異なる人にも伝わるように明解な文章を書くスキルを磨くことで,問題が解決するかもしれません。あるいは,関連分野の動向を徹底的にレビューしたうえで研究の起源性をより明瞭に展望することで,指導教員の「嗅覚」を刺激することができるかもしれません。

それでも,やはり「おもしろがりかた」への共感が得られないのなら指導教員を替えることを検討してみてもよいでしょう。研究者の「嗅覚」は,研究という営為を駆動している個々人の本性natureに由来するものです。自分の本性ですらそう簡単に変えることはできないし,まして他人の本性を自分の都合のよいように変えることは不可能です。

とはいえ,指導教員を替えるのにもそれなりのエネルギーを要するでしょう。その余力がないのなら,つぎのように考えてみてもよいかもしれません。たいていの指導教員は論文を書くことにおいてはプロです。さして「おもしろそう」と思っていなくても,論文として成立させるための基礎的なスキルを伝授してくれるはずです(それが仕事なので)。あなたにとっての指導教員の役割をそのように割り切ったうえで,あなたの「おもしろがりかた」に共感してくれる研究者と交流しながら,起源性の展望をよりよく表現できるよう努力する,というやり方もありかもしません。

論文書きの心得

これまでのささやかな経験をもとに論文を書く心得について思いつくままに列挙しました。網羅的ではありません。参考までに。

[1] 優先順位

研究者や研究者志望の学生にとって論文や本を書くことはつねに優先順位のトップにあるべきです。それ以外のあらゆることがら=「雑用」において適切に手を抜いて論文や本を書く時間を捻出する努力こそが,研究者の「プロ意識」です。

[2]おもしろい論文・本

30年後(むろん50年後/100年後でも)にも引用される「おもしろい論文」「おもしろい本」を書くことをめざしましょう。

[3]雑用

研究はチームプレイでもあります。自分や共同研究者(学生をふくむ)が「おもしろい論文」を書くための助けとなる「雑用」はすすんでおこないましょう。

[4]第一稿は勢い

文字数制限の2倍の長さの第一稿を書き,それを圧縮します。論文を書くには勢いと緻密さの両方が必要ですが,第一稿はスカスカな論理と冗長な記述でよいので勢いにまかせて書きなぐりましょう。まずはイントロから結論まで通しで書きあげないと話になりません。

[5]イントロ

イントロは,読者がこの論文を「おもしろがる」ための下準備です。これまでどのような論文を読んできた人にこの論文をおもしろがってほしいか,を考えながら、それらの論文の引用を散りばめて書きます。「イントロは最後に書け」といわれることがありますし,それはある意味で正しいですが,論文のフレームを定めるために,ラフなイントロをまず書いておきましょう。

[6]考察

考察にはこの論文の「おもしろがりかた」を書きます。端的にいえば,「この論文で記述・分析したデータをどのように引用すればよいのか」を例示するのです。もっと具体的いえば,あなたがつぎに書くはずの論文でこの論文をどのように引用するか,ということを想像しながら書けばよいでしょう。考察に書くべきことが浮かんでこないすれば,それはあなたが自分の研究の「おもしろがりかた」をわかっていないからです。

7]こだわりの9割は自己満足

「こだわり」はオリジナリティの源泉にもなりますが,固執すると論文の質を損ないます。しかし「こだわり」のない研究はギャップ・スポッティング志向(「まだやられていない」という消極的な理由のみを動機とする研究)にはまってしまい,つまらなくなります。重要なのはバランスです。

8]揚げ足とりは適度にスルー

揚げ足とり(主旨でない部分へのフェアでない批判)を過剰に意識してつけくわえた補足説明はたいてい冗長になります。しばしば揚げ足とりを好む人もいますが「あの人センス悪いね」と憫笑しておきましょう(揚げ足をとられすぎるのは,たんに出来が悪いだけですが…)

[9]文責

あらゆる論文の文責は100パーセント著者にあります。指導教員のアカ入れのとおりに修正した場合でも,学生の単著論文なら著者である学生のみに文責があります。ただし学位論文(卒論・修論・博論)については指導教員にも相応の責任があります。

[10]結果をだすのがプロ

何であれ,結果をすのがプロです。努力なしに結果をだすことはできませんが,かならずしも努力が報われるとはかぎりません。報われる可能性が大きくなる努力のしかたを伝えることが教育であり,それが指導教員の仕事です。


英語は「ラテン語」

英語は,アカデミアにおける世界標準語であり現代のラテン語です。大学院では日常的に英語の論文や本を読むことになります。自然科学では英語で論文を書く以外にほとんど選択肢はありませんし,人文学・社会科学でも英語で論文を書くのが当然のことになりつつあります。研究を志す人は,いますぐに英語の運用能力,とくにReadingWritingを鍛えはじめてください。

私はListeningSpeaking(つまり英会話)にはまったく自信がありませんが,ReadingWritingにはそれなりの自信があります。英語ネイティブであっても仕事で相当量の文章の読み書きをしていない人とくらべたとき,アカデミックな文章の読み書きにおいては私のほうができると思います。Writingはやや難易度が高く,ネイティブとくらべると文法や言葉の選択に細かいミスはあるでしょうが,それはテクノロジーを駆使して対処できます。ドラフトに細かいミスをふくむかどうかは,文章を書く能力の本質ではありません。ずっと重要なことは文章を構成する力(ひとつひとつの文意明解であること,そして構築したアーギュメントが明解であること)です。日本語と英語では文章構成にそれなりの差異があるものの,日本語をとおして培ってきた文章構成力は,英語の文章を書くときにも活用できます。

国際学会でなかなか発言できない日本人研究者(私のことです…)はついつい「英語ネイティブずるい」と思ってしまいます。しかし,Writingについていえば,英語ネイティブであっても訓練なしにまともな英文を書けるはずはなく,だからこそ私のほうがうまく英文を構成できることもあるのです。Writingは,ネイティブであっても相応の訓練をしないと不自由であるという意味では難しいし,非ネイティブであっても訓練すればそれなりにできるようになるという意味では簡単だということです(もちろん,日常的に相当量の文章の読み書きをしているはずの英語ネイティブ研究者とくらべると私のWritingは未熟でしょう……とはいえ,発話の瞬発力に大きく左右されるSpeakingほどの能力差はないと思います)

というわけなので,研究を志す人はReadingWritingを鍛えてくださいListeningSpeakingできるにこしたことはありません)。もちろん,日本語における文章構成力を鍛えること,その基盤としてとても重要です。