東先生の絵の世界に潜ってみよう
東さんはイギリスでアートを勉強しているとき、西洋哲学を大量に読まされていました。しかし、読み進むにつれ、何かが違うと違和感を抱いていました。その後、東さんは東洋哲学を中心に勉強し始めて、そこから絵のインスピレーションを得ているそうです。
東さんは荘子の「胡蝶が夢」というフレーズから発想して、東さんの多くの絵画には蝶々がよく描かれています。
色んな解釈がありますが、東さん本人は、赤い着物を着た黒髪の人形が「始まり」で、白い着物を着た白髪の人形が「終わり」だと言います。「赤ちゃん」という言葉があるように、生命の始まりを赤だと決め、老いると髪が白くなるという風に「終わり」の色を白に決めているそうです。
碁盤と人形の組み合わせは特に深い意味はないのですが、意図せずに置いてある作品は、自身が気づいていないだけで、無意識に意図しているということもあるかもしれないと話してくれました。
また、こちらの碁盤は亡くなったおじいさんの蔵から出てきて、処分する予定だったものを購入したそうです。捨てられるはずだったものを再生するというのは、桜に似ていると話してくれました。桜は春が過ぎると、花びらが落ちて幹だけが残って、どこか死んでいるように感じるけれど、実は次の春のために生きていて、花びらだけがずっと循環しているように思えると言います。
東さんは「再生」という意味を込めて、他にも色んな作品に桜を描いています。
実は、花の中で一番描きはじめたのが桜だそうです。
東さんのことをもっと詳しく聞いてみました!
宮崎県都城市のご出身と聞きましたが、宮崎の風土や文化が自身の作品にどのような影響を与えたと思いますか?
やっぱり神話が最たるものという気がしますね。宮崎って神話が結構生活に根付いていて、授業で古事記とかの内容を習ったりしてたからちっちゃい頃から身近な存在なんですよ。周りにも神様が髪洗ったところとか、神様の生まれたところだよみたいな話が残っている場所が結構あるから、それを身近で感じてたから自然と興味を持っていましたね。
幼少期の経験が生かされてる作品がありましたが、どのような幼少期を過ごされていたのですか?
友達も来ることが難しい山間部に住んでいました。本当にアップダウンがあるところで、自転車で一時間山を登らないと友達がこないみたいな感じだから、結構一人遊びが多かったというか。山に登ってなんか竹弓とか作ってたりしてましたね。なんか自然と自分で全部創るみたいなそういうのが多分ベースにあるんだと思います。絵を描いたり本を読んだりするのも好きだったし。あと博物館や美術館にもよく連れて行ってもらってました。
幼少期に感じた死のイメージが元となった作品がありましたが、どのような経験からそのイメージをつかんだのでしょうか?
幼少期に住んでいた家が山の近くにあったから、庭木がいっぱいある自然豊かな環境で過ごしていました。桜とかキウイとかもあったし、その中に藤の花もあって。祖父が病気になって入院した時に病院に入院した家族がいる家は藤の花がその病人をあの世に引っ張っていって殺しちゃうから切らなきゃいけない、植えたらいけないってなんか迷信があるらしくって。自分の祖父がその藤の花が原因で死んじゃうと思ったのが結構ショックでした。あの小さな藤の花が人を殺すって怖いな、みたいな。かなり衝撃的でしたね。
大学卒業後の進路は?
大学卒業後は普通に就職したけど、当時の上司が海外の美大を卒業した経験のあるひとで、語学以外のスキルを学ぶための留学をおすすめしてくれました。その後、美術系の講師の仕事をして、そこでは多くのことを学ぶことができたけど、なんせ給料が低かったんです。アートの勉強のためにイギリスに行くにはなかなかお金が貯まらなくて…路頭に迷っていた時に船の仕事をしていた親戚が話を聞かせてくれたことがきっかけで船に乗ることになりました。外国人も乗る船だったこともあり、英語を勉強する機会にもなりました。長期間サイクルの活動だったので、休みの時には日本の美大の通信課程に通ったりしてアートの勉強をしつつ、6年間ほど船の仕事をしていました。
イギリスに行った当時の生活はどのようなものでしたか?
最初は全てのアートに関する学科でこれから学ぼうとしている人全員がデザインの基礎などを学ばなければならなかったんです。1年間のファンデーション期間を経て、各々専門のコースでの勉強が始まります。(卒業後はビザの取得に悩まされたり、政治的な要因も関わって日本に帰国しました。)
イギリスで生活する中で文化の違いを感じたことはありましたか?
私がイギリスに行ったときが丁度ビーガンの活動が活発になった頃でした。個人の考え方なのでなんとも言い難いのですが、精肉店を襲うなど一部の人の行動は日本では全く見かけないことなので不思議に感じました。
大分県(別府)は温泉が有名ですが、別府でのお風呂にまつわるエピソードはありますか?
家にお風呂がないので温泉行かなきゃならないんですよ。銭湯によってお湯の種類や温度も違うんです。別府の人は体を洗わずに湯船に入るので、最初は慣れなかったですが、今では地元のルールに合わせています。
別府での暮らしとアートに関するエピソードはありますか?
人形を作成していた時に、ウィッグあげるから使って!と言って、自転車で持ってきたおばさまがいました。地元の人と不思議な交流が生まれる、特殊な環境です。
別府でアーティスト活動を行っている仲間と話した時も、変わった人がいても何もみんな突っ込まずに怪しまない。なんでも受け入れてくれるような町です。
なぜ活動の拠点に別府を選んだのですか?
アーティストが住める清島アパートというところがあるよと教えてもらったからです。1年間安くで住めるよと言われ、もう3年間住んでいます。大分はアーティスト支援プロジェクトを始める前から、アート専門の高校があったり、研究所があったりとアートに寛容な町でした。
別府での生活がアーティスト活動に与える影響は何かありますか?
住んでいるアーティストの数が多く、そのためか日本国外から訪れるアーティストも多くいます。英語でコミュニケーションを取りながら頻繁に交流ができる場所です。そういった多様な種類のアーティストと繋がって、影響し合っているとは感じます。でも、その影響が自分の作品には表れないタイプですね。
拠点を移すことは考えていますか?
毎年、毎年行こうとは思っているけれど円安とかでずるずる…
何か大きなきっかけがあればいい
今の環境が恵まれているというお話があったと思うんですけど、やはりそれは自分から動いた結果なのですか?
そうですね。動けば自ずと道が開けるもんだなってちょっと思っています。みんな意外と協力してくれるし、「お金ない!」って言ったら、親戚が漁の仕事紹介してくれたり。口に出すといいかもしれないです。よく聞くじゃん、「夢は語るといい」とか。やりたい事があれば、みんな結構手伝ってくれる気がします。ただ、最近思ったのは、自分の私利私欲の為だけに生きてると良くないですね。みんなを尊敬して、謙虚に生きよう!勉強はずっとずっとし続けなきゃだめだなとは思います。
大学で就職を考える時、結構みんな安定した道を選ぶ人が多いような気がします。本当にやりたいことへ踏み出すためのアドバイスをお願いします!
いつも思っているのは、人生は一回だということです。
人生一回だし、自分の人生だから悔いが残ったとしても、苦しい方やろう!みたいな。どちらをやるか分れた時には苦しい方を選ぶようにしています。これは私の理論なんですけど、簡単そうに見える方が軽い気持ちでやっちゃうから、意外とうまくいかなくて、苦しい方は頑張ろうって意気込むから意外とうまくいく気がしますね。ただあんまりにも苦しい時は逃げるようにする。逃げ道を確保しつつ、でもちょっと苦しい方に挑戦する。そういうのがないとやらないタイプだから、自分は結構好きかもしれないですね。
「楽しい」と「らく」は同じ漢字だけど、実際楽しい方はらくじゃなくて、らくな方が楽しくないということもありますね。
でも思ったのが、例えばインスタとかで作品の投稿を遡った時に、そこにしょうもない作品しか並べてなかったら、それはもうそこで終わる。ちゃんと下積みとか、努力、才能があれば、そこから絶対成功するはずだから、その下地は絶対大事。
それを掴み取るためにも下地をちゃんと頑張れよっていうのは自分自身にも思っていますね。
編集:池上
作成:池上、広松、竹林、キム、渡部、渡邊
(最終更新:2024/10/14)