研究の全体像
経済活動における意思決定において、集計された価格指数や生産性の公的統計が果たす役割は極めて大きい。物価の安定に責任を負う中央銀行の金融政策においては、消費者物価指数の変化率は極めて重要である。持続的な経済成長の達成には、その目標設定においても政策の検証においても生産性を正しく測定していかなければならないが、その生産性の変化を正しく理解するためには、物価指数は極めて重要になる。戦後日本経済の最大の転換期となった20世紀後半の不動産バブル期には、不動産価格が大きく変動したと言われていたが、物価は安定的であった。不動産価格は、公的な統計が存在していなかったため、バブル期のどの程度、不動産価格がいつから上昇し、いつに反転に転じたのかは、誰も正確に理解することはできていなかった。そのようななかで、物価に関する代表的な統計である消費者物価指数が動かなかったことから、不動産バブルへの政策的な対応が遅れ、その後の日本経済の長期的な停滞の一因となったことが、近年の研究で指摘されている。この原因を、「政府が公表する物価指数は、現実の社会を正しく写像できていなかったのではないか」という仮説に求め、経済理論・指数理論に空間概念を組み入れ、①この課題を克服した新しい物価・不動産価格の説明が可能なモデルを構築し、②官民に蓄積された大規模ミクロデータを用いて、構築したモデルに適合させるように、機械学習をも含む技術により新しいデータ資源を生成し、③新しい物価指数および不動産価格指数を開発し、広く社会に発信する。
本研究の新規性は、経済測定と供給側の変化と需要側となる人口構成の多様性を融合させる点である。経済活動を写像する物価・資産価格の測定において、技術革新に伴う新しい産業や商品の誕生に伴う産業の多様性、経済活動の基盤となる人口の構成の多様性(年齢・所得・地域)の変化を正しく反映させていくことは、自然なことであると考える。
古くから物価を測定しようとする試みはなされてきたが、指数算式に基づき「物価指数」の測定に関する研究のはじまりは17世紀にまで遡る。そして、現在、多くの国で採用されているラスパスレス法、またはパーシェ法と呼ばれる指数算式は、19世紀に確立されたものである。そのような時代においては、小麦、ビール、衣服などの財の「価格」と「数量」を測定し、それを決められた算式に基づき集計していくことで「物価指数」を構築していく。しかし、サービスが多様化し、財においてもTVやパソコンのようなデジタル財なども誕生してくる中では、新しい推計技術が要請されるようになってきている。一つの例を上げれば、パソコンのようなデジタル財は、新しい製品が頻繁に誕生してくるし、ひとつひとつの財は、性能やデザインなどの属性によって価格が差別化されている。また、不動産市場においても、全国に存在する戸建て住宅やアパートに加えて、都市部ではタワーマンションなどに代表されるような新しい住居形態が誕生してきている。商業ビルでは、インテリジェンスビルまたはスマートビルと呼ばれる高度な情報機能を持つ建物や、地球環境にやさしい環境負荷の小さなグリーンビルと呼ばれる建物が誕生してきている。このように耐久性を持ち性能が多様な財は新しいものが産まれると新陳代謝が起こる。右の図は、東京都区部で1990年にオフィスビルであった建物(上)のうち、20年後にタワーマンションなどの住宅系の建物に変化した建物(下)の空間分布を見たものである。商品の入れ替わりは、パソコンのようなデジタル財だけでなく、不動産市場でも発生していることがわかる。このような多様な性能を持つ財の価格指数を計算するためには、「品質を調整」したうえで、時間の変化に応じた価格の変化を観察しなければならないのである。このような財の新陳代謝と品質調整問題は、本研究の中核となる。
この研究によって何をどこまで明らかにしようとしているのか
●市場の多様性を考慮した「物価」の測定
現行の物価指数は、標準的な家計を想定し、人々の好み(選好)を固定化したうえで測定・計算している。しかし、高度に成熟した社会においては、国または国内においても地域や所得階層、さらには年齢によっても異なると考えた方が自然である。そこで、家計レベルで計測されているマイクロレベルでのビッグデータを用いて、家計の消費行動のメカニズムを解明したうえで、家計の特性に配慮した物価指数の測定手法を開発する。
この問題は、都市の集積とも密接な関係を持つ。大都市でしか消費ができない財・サービスが増加することで大都市の魅力が高まる。そこで、企業の参入・退出のメカニズムの解明と併せて、地域レベルでの推移が観察可能な統計の開発も同時に実施する。
●市場の多様性を考慮した「不動産価格」の測定
多くの都市では、空き家が増加し、所有者が不明な土地が増加する一方で、東京都区部のマンション価格が平均年収の10倍を超えるという事象が出てきている。このような対照的な市場が生まれている背後にあるメカニズムを不動産取引が記録された20年以上に及ぶビックデータから解明する。
そのうえで、市場の性質に応じた新しい不動産価格の測定方法を開発し、統計指標として公開していくことを目指す。ここでは、消費の研究と同様に、取引主体の属性を考慮した価格指数の構築を目指す。今後、増加し続ける空き家問題などの社会課題に対応した政策を推進していく上で有益な統計になる。