令和2年特別公開説明 信長書状・直滋公甲冑

『戦国期の永源寺について』

永源寺は南北朝時代の康安元年(1361)、近江守護職 佐々木六角氏頼公が、高僧の誉れ高い寂室元光禅師に帰依し、領内の土地を寄進し伽藍を創建したことに始まりました。

しかし応仁の乱以降、戦国時代に入ると永源寺を巡る環境は一変します。外護者の佐々木六角氏が戦国大名へと変わっていく時代の趨勢の中で、明応元年(1492)永源寺は周囲の戦乱による兵火に罹り、堂塔を尽く焼失してしまいました。この「明応の回禄」による羅災が永源寺に与えた影響は甚大で、その後の六角氏による再興の為の勧進にも関わらず寺勢は次第に傾いていきます。特に六角氏の出身で土豪の小倉右近太夫が、永禄6年(1563)同族同士の諍いの恨みから永源寺伽藍に火を放ち、翌7年にかけ三度にもわたる放火を行った為、諸堂宇と塔頭は灰燼に帰してしまいました。

 今回展示している信長書状の写しは、この佐々木六角氏が永禄11年(1568)織田信長に観音寺城の戦いで敗れ、近江の実権を放棄して敗走した時期のものです。矢継ぎ早に発給される書状から永源寺や百済寺にも信長による実行支配が及んでいく様子が確認できます。この時期、織田信長による『安土宗論』裁定者を務めた永源寺派僧侶 鉄叟景秀などの活躍もありましたが、最大の外護者であった佐々木六角氏を失ったことで、永源寺の復興は江戸初期 寛永年間(1624~1644)尾州龍珠寺の別峰紹印に依る方丈再建と中興一絲文守の入寺まで果たされる事はありませんでした。


『修復された直滋公甲冑(脇立て天衝)の解説』

この度、第二代彦根藩主井伊直孝公の長男で世子あった井伊 直滋(なおしげ、一六一二~六一)所用の兜(脇立て天衝)を修覆し特別公開を致します。この兜(かぶと)には両脇に当主にのみ許されるとされてきた金色の脇立て天衝(てんつき)があり、廃嫡された直滋公の甲冑が、庶子などと同じく前面に天衝を付けるのではなく、藩主と脇立ての様式であった事は、歴代の井伊家甲冑の中でも大変「異例の形式」であるといわれています。

 井伊直滋は二代直孝公の長男で、藩主を継ぐ世子でしたが万治元年(一六五八)年に突然、百済寺(東近江市)に遁世(とんせい)し、以後政治に関わらずに百済寺でその生涯を閉じました。密葬の導師を、時の永源寺住持 如雪文巌が勤めた縁でこの寺にも位牌が伝わり、江戸時代通じて毎年直滋公の法要が営まれました。この甲冑は直滋公の三十三回忌にあわせて永源寺に寄進されたものです。

 二〇一八年四月に永源寺の宝蔵整理を行った際に、甲冑を収めた鎧櫃(よろいびつ)が見つかり、彦根城博物館(彦根市)に鑑定調査を依頼したところ、鎧櫃に同封された寄進状に「元禄五年(一六九二)年に江戸屋敷にあった直滋の武具を永源寺に移した」との記述があり、お寺の什物台帳などにも同じ記述がある事から、直滋所用の甲冑であると正式に認められました。


馬郞婦(めろうふ)観音像(かんのんぞう)について』

永源寺に伝えられる馬郞婦観音は御水尾天皇の中宮である東福門院徳川和子(二代将軍徳川秀忠と江の娘)が自ら製作し、頭髪を切って像に植えたと伝える。この像の寄進は江戸時代のはじめこの寺を再興にするために住持となり、御水尾上皇の帰依篤かった一絲文守禅師の法縁によるものである。東福門院が一絲文守の存命中より下賜を約束していたが、一絲の示寂後の明暦三年(1657)如雪文岩が住職の時に寄附された事が、厨子裏に朱書きされた銘によって確認できる。

 馬郞婦観音は中国・唐の時代、観世音菩薩が法華経をひろめるため魚を商う美女の姿に化現したという伝説による変化観音の一つ。宋代以降信仰を集めたもので、押絵であらわした本像の小袖にさざえ文が見えるのも、魚商に姿を変えた馬郞婦観音の故事を意識しての事と考えられる。東福門院が寄進した経蔵に安置されていた事から学業成就、魚売りの姿で現れたことから商売繁盛の観音さまと言い伝えられている。