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Last Updated: 11 Apr. 2025
日本軍政下のジャワでは、およそ70万人を数えた華人(当時の用語法では「華僑」とするのが一般的)向けの日刊紙としては唯一、『共栄報(Kung Yung Pao)』が軍検閲のもと継続的に発行されていた。この『共栄報』には華語版とマレー語版があった。このうち華語版は、戦前のジャワ最大の華僑向け日刊紙『新報(Sin Po)』を前身としている。すなわち、3月5日にバタヴィア(日本軍政下、1942年12月から「ジャカルタ」と改称)に入城した日本軍は、「反日」の中心と目されていた『新報』の社屋を接収、首脳陣を拘束し、残された人員および設備を用いて3月10日から『新新報(Sin Sin Po)』(全14号)として刊行させた。ほどなくして3月26日付から『共榮報』と改題、以降紙面で確認できる限りでは1945年8月30日(全1058号)まで続いた。一方のマレー語版は、1939年5月に黄長水(Oey Tiang Tjoei)らによって創刊された華僑向け日刊紙『洪報(Hong Po)』を前身とする。戦前バタヴィアで有力だった日刊紙『新報』や『競報(Keng Po)』に対抗する形で創刊された『洪報』は、同地の華僑系メディアとしては異例なことに親日的立場を掲げ続けたことから、日本軍政下でも継続を認められていたが、1942年9月1日付で同紙は『共栄報』のマレー語版Kung Yung Paoとして組み込まれた。その際に社屋も『共栄報』華語版のそれ(旧『新報』社屋)に一本化された。マレー語版は1945年9月15日付まで、通算932号を数えた。
ここに紹介する『民報』は、日本軍が無条件降伏し『共栄報』が終刊した後、そのマレー語版の編集部等を引き継ぐ形で1945年10月25日に創刊された華人系インドネシア語日刊紙である。『民報』は旧『洪報』の社屋を使用し、その新聞題字部分には出版社名・所在地として「Kongsi pertjitakan "Hong Boen", Pintoe Besar 93 - Djakarta(洪門印刷、ジャカルタ市ピントゥ・ブサール通り93号)」と記されていた。ちなみに、旧『洪報』は、実質的には反清復明を掲げる秘密結社「和合会(Hoo Hap Hwee)」のバタヴィア支部(注1)の機関紙としての性質を有しており、その出版元は同紙創刊に合わせて設立された「洪門出版貿易会社(N.V. Uitgevers- & Handel-Mij "HONG BOEN")」であった。戦後創刊された『民報』の出資・出版母体もまた、引き続き同じ「洪門(Hong Boen)」の名が掲げられている。無論、『洪報』・『共栄報』時代を通じて社主であった黄長水 (Oey Tiang Tjoei)、それに編集長の司馬自成(Suma Tjoe Sing)らは、軍政に協力した廉で戦後に連合軍によって拘束され、地位を失った。しかしながら、戦前・戦中・戦後を通じて首都(ジャカルタ=バタヴィア)の華僑華人社会に根を下ろしていた同じ組織が出資・出版母体であり続けたという点で、この『民報』は『洪報』・『共栄報』と並んで大いに注目されてよい資料である。
ところで、上で「戦後」と書いたが、日本軍が無条件降伏した1945年8月を過ぎても、インドネシアに平穏な日はしばらく訪れなかった。というのも、1945年9月には再占領を目論むオランダ民政府(NICA)の一団が早々にジャカルタ(オランダ占領下ではバタヴィアと再改称)に上陸、以降インドネシア共和国側と各地で対峙して戦闘を繰り広げ、1949年12月末に至るまで最終的な国家形態の趨勢が見通せない状況が続いたからだ。そうした混乱下の1945年10月25日、日本軍に接収され『共栄報』に転用されていた社屋を取り戻して『新報』が出版を再開した。これは奇しくも『民報』の創刊と同じ日であった(注2)。『新報』はその後1965年まで、大陸中国支持の論陣を展開し、新興インドネシアの華人社会の言論界の重要な一角を成していく。一方、『民報』は比較的現実路線を志向したが、その編集部は目まぐるしく変わり(注3)、インドネシア国立図書館所蔵の現有紙面で確認できるのは1948年11月末の号までである(注4)。
インドネシア華僑・華人の現代史を俯瞰した場合、出版資本主義が花開き、いわゆる中国志向、オランダ志向、それに現地志向の立場から盛んに言論活動が展開された1900~30年代は、資料に事欠かない。同様に、インドネシアの独立が国際的に承認された後、華人がいかにしてインドネシア社会の中に位置づけられていくべきかをめぐり、華人自らが侃々諤々の論争(同化―統合論争)を展開した1950~60年代前半も、膨大な資料が残されており、優れた先行研究も多い。これらに比して、1940年代というのは戦争と社会混乱が打ち続いた時期であり、資料が著しく欠落していることから、長らくブラックボックスとなってきた。このうち、厳しい言論統制が敷かれた1942年3月~45年8月の日本軍政期については、『共栄報』の紙面分析を手掛かりに主にジャワの華僑社会の状況について一定程度明らかにし得た[津田 2023]。この『民報』は、それに続く1940年代後半のインドネシア華人の言説空間がいかなるものであったのかをめぐり、親中・親蘭・親インドネシアなどといった単純なナショナリズムの見方に回収することなく、時々刻々と変わる状況の中で当時華人らがいかに考え行動したのかを、彼らの社会生活に注視しつつ明らかにしていくための重要な資料であると言えよう。
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● 注
1 和合会バタヴィア支部は、1937年11月に黄長水らによって設立された。登記上はスラバヤ本部の支部との位置づけであったが、その独立性は強かったものと見られる。1940年代初頭時点では、実質的には首都の華僑の葬祭互助組織としての機能が主となっていた[津田 2023: 84-85, 92]。
2 同じ1945年10月25日には、後にインドネシア志向を掲げ『新報』などとわたり合うことになる日刊紙『競報(Keng Po)』も再刊されている。ただし、日本軍政下に元の社屋が荒れ果ててしまったためか、この『競報』は創刊翌日からしばらくの間休刊を余儀なくされた[津田 2023: 645]。
3 『民報』の首脳陣は、紙面上で確認できる限りでは下記の通り変遷を辿った[津田 2023: 645]。すなわち、創刊時は総支配人(Pemimpin Oemoem)がティオ・スイビー(Thio Soei Bie)、編集長(Pemimpin Redaksi)がウィ・シゥチョァン(Oey Sioe Tjoan)という体制であったが、ウィはわずか3 週間ほどで健康問題を理由に退任、代わってリム・エクトァン(Lim Ek Thoean)が編集長に就任した。そのリムが7 か月半ほど後に同職を辞すると、1946 年7 月1 日付でティオが総支配人と編集長を兼任(Directeur-hoofdredacteur)し、副編集長(Plv.-hoofdredacteur)には新たにポア・キァンシウ(Phoa Kian Sioe)が就いた。そして1947 年6 月以降は、総支配人がティオ、編集長(Hoofdredacteur)がウィ・シァンキウという体制に落ち着いた。ウィ・シャンキウが編集長に就任した時点の『民報』の発行部数は6千部であった。
4 インドネシア国立図書館では、請求番号「Q:599」で創刊号から1948年11月末までの紙面が所蔵されている。
● 参考文献
『民報』1945年10月25日付(創刊号)第1面
『民報』創刊号第1面のトップ記事として、総支配人・編集長連名の創刊の辞(Pengantar Kata)が掲載されている。「本紙の使命は、再び人々が賢明さを築いていけるようニュースを十全にお届けすることに加え、正義と世界平和に基づきアジア諸民族の独立を実現させようと努める中国政府の神聖なる目標に対し、華人たちも共感し参加できるよう自覚を促していくよう努めることにある」、と謳われている。
『民報』1946年6月6日付第1面
首都西郊のタンゲランの町一帯がインドネシア人民兵の襲撃を受け、同地に集住する華人ら多数が犠牲になったことがトップニュースで報じられている。以降も1949年にかけて、支配領域の拡大を目論むオランダ軍に対抗するため、インドネシア共和国軍側がゲリラ戦・焦土作戦を展開していく過程で、ジャワ各地で華人集住地が焼き討ちされ、多数の犠牲者が出た。
『共栄報』マレー語版1945年9月15日付(最終号)第1面
『共栄報』インドネシア語版事務部(Administrasi "Kung Yung Pao" Bagian bahasa Indonesia)名の紙面広告。同紙の購読料を前払いしている契約者に対し、「華人の手によるインドネシア語の華人紙」が間もなく刊行される予定である、として理解を求める内容が記されている。
インドネシア国立図書館(Perpustakaan Nasional Republik Indonesia)協力のもと、同館所蔵の『民報(Min Pao)』紙面の画像ファイルを公開している。ただし、資料はおよそ1年分が虫食い的に欠落している。
利用は研究目的の閲覧に限るものとし、ダウンロード・印刷等はできない。
本ページは、JSPS 科研費 基盤研究(C)「独立期のインドネシア華人社会史研究」(20K01018、研究代表者: 津田浩司、2020 ~ 24 年度)の成果物です。