『共栄報 (Kung Yung Pao)』プロジェクト
『共栄報』プロジェクトについて
『共栄報』プロジェクトは、日本軍政下のインドネシア(旧蘭領東インド)、とりわけジャワにおける中華系住民(以下、当時の用語法にしたがい「華僑」)の社会の具体的動向を、従来ほとんど注目されてこなかった現地華僑向け日刊紙『共榮報(Kung Yung Pao)』(華語版・マレー語版)の精査を中心としつつ、他の諸資料と読み合せることを通して、実証的に明らかにすることを目的としている。
20世紀初頭にジャワを中心に活性化し、蘭領東インド各地にも波及した中華ナショナリズム運動は、1930年代には政治的志向や宗教・教育等の違いから拡散化の方向を歩むが、日本軍政下で華僑社会が一元的に管理されたことで結果的に再求心化され、それが戦後の同地の華僑の政治動向に多大な影響を与えたとされている。本プロジェクトは、資料の制約で詳細が未解明だったその軍政期ジャワの華僑社会の動向を、新資料を用い具体的に検討することで、インドネシア華僑社会史上の重要な空白を埋め、日本軍政研究などとの接続をも目指すものである。
この『共栄報』プロジェクトは、科研費 若手研究(B) 「日本軍政期のインドネシア華人社会研究」(研究代表者: 津田浩司, 2016~2019年度)の一環として実施するものであり、このページではその成果の一部を公開している。『共栄報』が読者対象としたジャワ華僑社会の戦前における言語状況および新聞等を通じた言論活動の概要、日本軍政による情報統制下で『共栄報』が発行された経緯と同紙の編集体制、およびその紙面構成上の特徴等については、『復刻 共栄報 1942~1945』の別冊に所収の解題、およびそれを拡張・改訂した英文解題(オープンアクセスあり)において詳細に解説を加えている。
また、2023年2月には、『共栄報』の紙面分析を通じて、日本軍政下にジャワの華僑社会がいかなる歴史経験をしたかを詳細に論じた学術書『日本軍政下ジャワの華僑社会ー『共栄報』にみる統制と動員』を風響社から刊行している。あわせて参照いただけたら幸いである。
資料概要
◆ 日本軍政下(1942年3月~1945年8月)ジャワで発行が続けられた唯一の華僑向け日刊紙『共栄報(Kung Yung Pao)』
1942年にオランダ領東インドの中心地ジャワ島に進出した日本軍は、軍政統治の開始と同時に既存の華僑新聞の発行を原則禁止とした。代わって島内唯一の華僑向け日刊紙として、『共栄報』を華語(中国語)とマレー語(インドネシア語)の2つの版で発行する体制を構築し、終戦までそれを維持した。『共栄報』は、日本軍によるプロパガンダ紙として当然厳しい統制と検閲を受けたが、その紙面を繰ると、ジャワ島内各地の華僑社会の動向、組織・団体・学校等の活動、冠婚葬祭や物価動向、それに文芸娯楽など多彩な情報が盛り込まれており、これまで謎に包まれていた軍政下ジャワの華僑の暮らしが生き生きと蘇ってくる。今日に至るインドネシアの華僑社会を通史的に理解する上でも、重要な手がかりを与えてくれるだろう。
『共栄報』華語版創刊号
1942年3月26日付, 第1面
『共栄報』マレー語版創刊号
1942年9月1日付, 第1面
『共栄報』マレー語版
1944年1月24日付(春節), 第4面
『新新報』創刊号
1942年3月10日付, 第3面
※ 上掲のサンプル画像はいずれも簡易撮影によるものです。復刻版は補遺を除き全て高精細撮影です。
◆ 本書の特色
日本軍政下のジャワで、華語(中国語)とマレー語で発行が続けられた唯一の華僑向け新聞。
太平洋戦争下のジャワを中心とするインドネシア各地の華僑社会の動向、華僑系の各種組織・団体・学校等の活動、冠婚葬祭や物価動向、文芸娯楽など、多彩な情報が広範に掲載されており、20世紀前半のインドネシア華僑社会の史的展開を連続的に把握する上で、欠かせない情報を提供するものである。
日本軍の南方軍政史を研究する上で第一級の資料である。
復刻刊行
[監修・解題]津田 浩司
『復刻 共栄報 1942~1945』(附・『新新報』)
TSUDA Koji (Supervising Editor, Bibliographical Introduction)
Kung Yung Pao Reprint Edition (1942-1945), (including Sin Sin Po).
Publisher: Transmission Books & Microinfo (Taipei) / Yumani Shobo (Tokyo)
刊行年月: 2019年3月
Publication Date: Mar. 2019.
巻数: 全32巻+別冊1(解題, 総目録)
Number of Volumes: 32 volumes + 1 supplementary volume (Bibliographical Introduction & Index)
サイズ: A3判上製
Size: A3 (hardcover)
揃定価: 本体924,000円+税
ISBN: 978-986-96820-7-7(漢珍數位圖書), 978-4-8433-5530-5 C3300(ゆまに書房)
※ パンフレット(ゆまに書房)はこちら
◆ 各巻の収録内容
別冊
解題(日本語・中国語(山田清・訳))・総目録, 135pp.
Supplementary Volume: Bibliographical Introduction (in Japanese (original) and Chinese (trans. YAMADA Kiyoshi)) & Index, 135pp.
刊行にあたって
[監修・解題]津田 浩司
◆ 『共栄報』の概要
インドネシア共和国はおよそ1万7千の島々によって構成される、世界最大の島嶼国家である。今日人口は2億5千万人超えるが、そのうち、約5百万~7百万人が中国に出自を持つ人々であるといわれる。言語や経済活動、文化信仰、生活様式などは多様性を極めており、「華僑」とひと括りにすることは困難である。
歴史的にインドネシアの地で世代を重ねてきた彼らの多くは、日常生活では中国語(華語)ではなくマレー語(今日のインドネシア語の前身)やジャワ語などを用いるようになっていたが、19世紀末から20世紀初頭にかけて中国大陸からの新たな移民の流入、そして勃興する中華ナショナリズムの影響を受け、中国大陸を母国と認識し、「中華民族」という巨大な共同体の一員としての自覚を強く持つ者も現れた。この世紀転換期に、政治・経済の中心地であるジャワ島を主要な舞台として、マレー語や華語による数多の新聞・雑誌が華僑自らの手により華橋向けに発行されるようになり、それらを通じ様々な政治的立場に基づく主張が活発に繰り広げられた。
華僑社会で見られたこうした比較的自由な言論状況は、1942年に日本軍がインドネシア(当時はオランダ領東インド)に進出したことで終わりを告げた。ジャワ島を制圧した日本軍は、軍政統治の開始と同時に既存の華僑系新聞の発行を原則禁止とし、代わって島内唯一の華僑向け日刊紙として『共栄報』(華語版・マレー語版)を発行する体制を整え、1945年8月の敗戦に至るまでそれを維持したのである。
『共栄報』マレー語版の発刊を伝える同紙華語版紙面より(1942年9月1日付, 第1面)
戦前より親日の立場を掲げていた華僑系マレー語紙『洪報(Hong Po)』は、軍政開始後もしばらくそのまま発行が認められていたが、先行して創刊された華語紙『共栄報』に1942年9月1日付で吸収合併され、『共栄報』マレー語版となった。華語・マレー語の二言語体制で発行されるようになった『共栄報』全体の代表には、『洪報』を率いてきた黄長水(Oey Tiang Tjoei)が就任した。
ポツダム宣言の受諾を報じる『共栄報』マレー語版紙面より(1945年8月22日付, 第1面)
日本がポツダム宣言を受託し無条件降伏したことは、ジャワにおいては軍報道部の指示でしばし伏せられ、8月21日になって「最高指揮官」名で「親愛なるインドネシア諸君に告ぐ」と題した布告が発せられ、ようやく正式に公にされた。『共栄報』マレー語版は、終戦1か月後の1945年9月15日まで、通算932号発行された。
◆ 復刻版『共栄報』について
『共栄報 (Kung Yung Pao)』は、1942年3月から終戦まで3年半に及んだ日本軍政下のジャワにおいて、華僑向けに発行が続けられた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑の言語状況を反映し、華語(中国語)とマレー語(インドネシア語)注1の2つの版が、ジャカルタ市中心街の同一社屋内でそれぞれに編集・発行されていた。
このたび、インドネシア国立図書館に所蔵されている『共栄報』(華語版・マレー語版)の全て(一部欠号あり)、および『共栄報』華語版の前身である『新新報』(全14号)について、原本を高精細撮影し、ここに復刻刊行することとなった。また、これまで存在は知られていたがほとんど研究されてこなかったこの『共栄報』が一体いかなる新聞であったのか、その全貌に迫るべく、日本やインドネシアなどに散在する諸資料、および原資料を精査のうえ、発行の経緯や編集体制、および内容の概要について、詳細な解題を付し明らかにした。
戦前、旧オランダ領東インド(現インドネシア)の政治・社会・文化の中心地であったジャワでは、およそ60万人注2ともいわれた華僑たちが、いわゆる「原住民」に先駆けて、マレー語や華語による出版資本主義を牽引し、活発な言論空間を築き上げていた注3。社会背景のうえでも政治志向のうえでも内実の大きく異なるこの華僑社会を、日本軍政は州・県注4ごとに「華僑総会」を組織させることで一元的に管理しようとした。そしてそれと並行するように、従来無数に乱立していた華僑系の新聞各紙も、『共栄報』1紙(2言語)に集約したのである。
『共栄報』は、ジャワで同時期に出されていた日本語(1紙)注5・インドネシア語(5紙)注6の日刊各紙と同様、軍政当局の厳しい検閲を受けて発行されており、それゆえ第一義的には華僑向けのプロパガンダ紙としての機能を担っていたといえよう。ただしその紙面を丁寧に読むと、各地の華僑社会の動員・組織化の過程や、統制下における経済活動の状況、そして結婚・死亡を含む社会生活の諸相に至るまで、軍政下ジャワの華僑社会の実態を窺い知るうえで極めて貴重な情報が、随所にちりばめられていることに気づくのである。
このように『共栄報』は、ジャワを中心とするインドネシア華僑史研究においてそれまでミッシングリンクとされてきた軍政期の実態解明を可能にする、第一級の研究資料であるといえる。また同時に、華僑社会の側の視点や経験からインドネシア史記述を再構築するうえで、あるいは対華僑政策を重要な柱のひとつとした日本の南方軍政の研究を深化させるうえで、直接的に大いに資する数々のデータを提供してもくれるだろう。さらには、言語(史)研究、新聞学・情報学、グローバルヒストリー等々注7、この『共栄報』の復刻によって新たな研究の領野が切り拓かれていくことを、監修者として願ってやまない。
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● 注
マレー語版の題字は、「共榮報」という漢字とともに、その福建語読みである"Kung Yung Pao"というアルファベット表記が、併記する形で図案化されている。その題字の下には、創刊号(1942年9月1日付)から第2年第21号(1943 年1月26日付)までは「インドネシア語版(bagian bahasa Indonesia)」と記されていたが、翌日付以降は終刊まで「ムラユ語(≒マレー語)版(bagian Bahasa Melajoe)」と記載されるようになる。
蘭印政庁が1930年に行った人口統計によれば、蘭印全体の総人口6千972万7千人のうち、華僑は123万3千人(蘭印生まれの割合は63.5%)であった。ジャワ島および付属島のマドゥラ島で見ると、総人口4千171万8千人に対し華僑は58万2千人(蘭印生まれの割合は79.4%、現地3世以上は63.5%)であった。『共栄報』の紙面上では、ジャワの華僑人口は「80万人」と豪語されることもあった。
20世紀前半のオランダ領東インドにおける華人による出版物の一部については、こちらで資料公開を行っている。
旧理事州(karesidenan)および県(kabupaten)に相当する。
南方作戦が一段落着いた1942年秋、陸海軍は軍政地域の文化宣伝工作のため、日本国内の新聞各社に対し地域ごとに分担して新聞発行業務を委託した。陸軍占領地域のうち、フィリピンは東京日日新聞(1943年1月に大阪毎日新聞と合併し毎日新聞に)が、ビルマは読売報知新聞が、そしてマレー、シンガポール、スマトラおよび北ボルネオは同盟通信と地方13紙が合同提携して当たることとなる中、人口・資源ともに豊富であったジャワは、朝日新聞が担当の指名を受けた。これを受け朝日新聞社からは機材とともに社員が派遣され、開戦1周年記念にあたる1942年12月8日よりジャカルタで日本語日刊紙『ジャワ新聞』を発行、終戦1カ月後まで維持された。また、このジャワ新聞社を幹事社としてジャワ新聞会が組織され、ジャワの5都市で発行が認められた現地語紙(インドネシア語紙および『共栄報』)の監督にあたった。
ジャカルタの『アシア・ラヤ (Asia Raya)』(1942年4月29日創刊)、バンドンの『チャハヤ (Tjahaya)』(1942年6月8日創刊)、ジョグジャカルタの『シナル・マタハリ (Sinar Matahari)』(1942年7月1日創刊)、スマランの『シナル・バル (Sinar Baroe)』(1942年7月1日創刊)、スラバヤの『スアラ・アシア (Soeara Asia)』(1942年6月1日創刊)の計5紙。日本語紙『ジャワ新聞』とともに、いずれも1945年9月中旬に閉刊。なお、1944年1月以降、これらインドネシア語紙および『共栄報』の編集部には、ジャワ新聞会より派遣された日本人指導員(いずれも朝日新聞社からの出向社員)が1名ずつ常駐し、各紙の記事内容を社内でチェックするようになった。
『共栄報』を用いて可能となる研究の例としては、差し当たり以下のようなものが挙げられよう。『共栄報』を南洋華僑の華語の一大コーパスとして、あるいは華僑の用いたマレー語からインドネシア語への整序過程を示す一次資料として分析する言語(史)研究。戦時下の他紙との共時比較、あるいはジャワの華僑系新聞との通時比較の基点として『共栄報』を用いた新聞研究、およびそれらメディアの分析を通した社会研究。大英帝国・オランダによる通商秩序から「大東亜共栄圏」下へと組み込まれた華僑たちの諸活動の実態を、『共栄報』の紙面分析を通して解明する社会・経済史研究。無論、研究の展開可能性はこれらに限られるものではない。
『共栄報』データベース: 日本軍政期ジャワの華僑社会
学術資料として、『共栄報』掲載記事より各種情報を抽出・整理し、データベースとして限定公開(パスワード付き、研究者限定)しています。
ファイルのパスワード等詳細については、津田浩司までお問合せください。
Kung Yung Pao Database: Chinese Society in Java during Japanese Occupation
For an academic purpose, here we provide several sorts of data (password-protected, researchers only) extracted from Kung Yung Pao.
For more information on this database, please contact TSUDA Koji by e-mail.
『共栄報』抽出データ
Extracted Data from Kung Yung Pao
≫ 日本軍政期ジャワ華僑要職者一覧
Prominent Ethnic Chinese in Java during Japanese Occupation
華語版 Chinese Edition Click here(2020-05-29)
マレー語版 Malay Edition Click here(2020-05-31)
≫ 日本軍政期ジャワ主要華僑団体一覧
Major Chinese Organizations in Java during Japanese Occupation
華語版 Chinese Edition Click here(2019-04-16)
マレー語版 Malay Edition Click here(2020-05-29)
≫ 日本軍政期ジャワ華僑学校一覧
Chinese Schools in Java during Japanese Occupation
華語版 Chinese Edition Click here(2019-04-16)
マレー語版 Malay Edition Click here(2020-05-29)
このデータベースを用いた研究成果を公開する際には、以下の例のように出典を記してください。
津田浩司. 「『共栄報』データベース: 日本軍政期ジャワの華僑社会」
(https://sites.google.com/a/anthro.c.u-tokyo.ac.jp/tsuda/home/published_works/kungyungpao, 最終更新日: YYYY年MM月DD日).
How to cite this database:
TSUDA Koji. "Kung Yung Pao Database: Chinese Society in Java during Japanese Occupation"
(https://sites.google.com/a/anthro.c.u-tokyo.ac.jp/tsuda/home/published_works/kungyungpao, last updated: YYYY-MM-DD).
◆ 『共栄報』データベースについて
日本軍政期のインドネシアの華僑社会内部の政治過程や社会生活の多くは、謎に包まれている。それはひとえに、資料が極めて限定的であることに起因している。オランダ植民地期以来、政治・経済・社会の中心地であり続けたジャワ島とてその例外ではない。
たとえば戦前のジャワの華僑社会についていえば、1935年に陳豊文(Tan Hong Boen)が『爪哇華僑名人傳(Orang-orang Tionghoa jang Terkemoeka di Java)』を編纂しているなど注1、研究上の資料的制約はさほど大きくはない。また、南方進出を窺っていた日本側でも、日中戦争が激化する中で華僑対策の必要性から、1939年には台湾総督府が『南洋華僑有力者名簿』を注2、翌1940年には満鉄東亜経済調査局が『蘭領印度に於ける華僑』をまとめるなどしている注3。無論、これら日本側により極秘裏にまとめられた調査資料は、軍政施行と同時に「敵性華僑」を摘発したり、あるいは献金を強いたりする際に存分に活用されたものと推測されるが、資料的価値は今なお失われてはいない。このように、開戦直前までのジャワの華僑社会の動向、特に有力者に関する情報については、20世紀初頭以来盛んに刊行された華僑系新聞・雑誌等と上記各種資料とを読み合わせることにより、かなりの程度把握することができる。
こうした事情は戦後についても同様であり、1940年代後半(特に、インドネシアの独立が国際的に承認された1949年末以降)から60年代前半にかけて同地で華僑系メディアが再び百花繚乱の時代を迎えたことから、研究のために活用できる資料には事欠かない注4。
しかしながら、日本軍政期の華僑社会の動向を窺い知るための資料は、十分というには程遠い。たとえば、1944年半ばに軍政当局の協力を得てジャワ新聞社より刊行された『ジャワ年鑑(昭和十九年)』は、軍政の全貌を掴む上で必携の公的資料だが、しかし同書末尾に附されている「現地住民知名人録」中で取り上げられている華僑は、わずか24名に過ぎない注5。上の項で述べたように、ジャワの華僑社会は戦前にも戦後にも、出身地や移住歴、あるいは言語能力、教育歴、経済状況、政治志向などにより多様に分化し、一枚岩になることは決してなかった。だが奇しくも日本軍政期には、各州・県・主要都市レベルにまで設置された華僑総会のもと、彼らは一元的に管理・統制され、そして動員を受けたのである。既存の華僑系学校も軍政の指示のもと再整理され、また米をはじめとする重要物資を扱う各種組合が新設・再編されるなど、華僑の社会生活・経済活動は多大な影響を蒙った。にもかかわらず、それら個々の団体や学校がいつどのような形で組織され、またそこに一体どのような人たちが関与していたのか、これまでほとんど明らかにはなってこなかった。
この点『共栄報』は、日本軍政期を通じジャワで華僑向けに発行されたものとしては唯一の日刊紙であり、上述の資料の欠落を少なからず埋めてくれる。実際その記事を見ると、ジャワ各地で各種団体や学校が設立されたり、また(プロパガンダ紙としては当然のことながら)軍政に協力しつつ各々活動に邁進している様などが、それを領導する人物の名とともに連日報道されているのである。
そこで、『共栄報』掲載記事から可能な限り網羅的に華僑団体や学校、および人名の情報を抽出・整理し、ここに学術資料として公開する。この『共栄報』データベースを活用することにより、従来「ミッシングリンク」とされてきた日本軍政期の華僑社会の動向を微細に捉えるような研究が一層展開し、インドネシア華僑史を連続的・立体的に把握する視座が確立されることを期待する。
なお、現時点で公開しているデータベースは、『共栄報』華語版およびその前身である『新新報』を逐次読み込みつつ手作業で抽出・整理したものであり、データのピックアップの仕方には作成者による恣意的な判断が介在するのはもちろんのこと、不注意による漏れや誤記なども一定数含まれるものと思われる。また、紙面上に登場する人名の漢字表記が記事ごとで異なるなど注6、情報の正確性にも一定程度の留保が必要である。以上のことをご理解の上、研究目的のためにこのデータベースを積極的に活用いただきたい。
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● 注
『爪哇華僑名人傳』では、ジャワ各地872名の華僑名士について、それぞれその生い立ちや教育歴、事業等について紹介されている。翌1936年には、前書で取り上げ切れなかった469名分の情報をさらに収録した別冊が刊行されている。
『南洋華僑有力者名簿』には、バタビアだけで1,500件以上、ジャワ全土で3,100件余りの人名・事業所名がリストアップされているが、情報として示されているのは住所のみである。
『蘭領印度に於ける華僑』で特筆すべきは、巻末に「主要都市華僑重要人物調査表」および「華僑主要企業名鑑」が附録として収録されていることである。このうち前者は、バタビアだけで45名の華僑有力者を取り上げ、それぞれの人物につき年齢、出生地(ないし出身地)、肩書、職業、推定資産を若干の補足説明とともに紹介している。一方の後者は、前年に蘭印政庁が刊行した『蘭印農園・商業便覧(Handbook voor Cultuur- en Handelsondernemingen in Nederlandsch-Indië)』を引き写したものであり、蘭印各地の華僑系企業の経営者や資本金の情報が一覧にて示されている。
日本軍によるジャワ占領直後に停刊に追いやられていた『新報(Sin Po)』や『競報(Keng Po)』などは、日本軍降伏直後に元編集部員など指導的立場にあった者らが収容所から解放され、ほどなくして復刊されていった。ただし、華僑系メディアが本格的に花開くのは、独立をめぐる争いが国際的に終息した1949年末以降のことである。華僑系メディアの活動はやがて、1965年9月30日以降の政治混乱とその後に成立したスハルト第2代大統領による「新秩序体制」(1966~1998年)下で大いなる停滞を余儀なくされるが、それに先立つスカルノ初代大統領による「指導される民主主義」体制(1959~1965年)下においても、言論の自由に対する圧迫は日増しに強まっていた。
同じ1944年の初頭に、ジャワ軍政監部が「インドネシア人」の名士録(Orang Indonesia jang Terkemoeka di Djawa)を刊行しているが、500ページ超の同資料中に華僑の名前は見当たらない。
『共栄報』華語版の記事中で人名等固有名詞の漢字表記にゆれが見られるのは、ひとつには、遠隔地の記者からの記事が電話などを介して寄せられていたことに起因するものと思われる。実際『共栄報』の記事の末尾にはしばしば、当該記事中の人名の漢字表記が音から当てたものであることを示す但し書き(人名係譯音)が見られる。加えるに、いわゆる「プラナカン」と呼ばれる現地化した華僑の間では、たとえ中国名を持っていても当人がその漢字を書けないようなケース、あるいは中国風の名はあるがそもそも漢字表記が存在しないようなケース等も、少なからずあったものと推測される。
【備考】
このページは、科研費 若手研究(B) 「日本軍政期のインドネシア華人社会研究」(研究代表者: 津田浩司, 2016~2019年度)の成果物です。
復刻版書誌情報(Bibliographic Information of the Reprint Edition)
‐〔日本語〕 津田浩司(監修 解題)『復刻 共栄報 1942~1945』, 台北: 漢珍数位図書 / 東京: ゆまに書房, 2019年3月.
‐〔English〕 TSUDA Koji (Supervising Editor, Bibliographical Introduction) Kung Yung Pao Reprint Edition (1942-1945), Taipei: Transmission Books & Microinfo / Tokyo: Yumani Shobo, Mar. 2019.
‐〔中文(繁體字)〕 津田浩司(監修 解題)《復刻 共榮報 1942~1945》(華文版・馬來文版), 臺北: 漢珍數位図書 / 東京: YUMANI書房, 2019年3月.
‐〔中文(简体字)〕 津田浩司(监修 解题)《复刻 共荣报 1942~1945》(华文版・马来文版), 台北: 汉珍数位図书 / 东京: YUMANI书房, 2019年3月.
Copyright (C) 2012, TSUDA Koji. All Rights Reserved.
このデータベースを用いた研究成果を公開する際には、以下の例のように出典を記してください。
津田浩司. 「『共栄報』データベース: 日本軍政期ジャワの華僑社会」
(http://sites.anthro.c.u-tokyo.ac.jp/tsuda/home/published_works/kungyungpao, 最終更新日: 2019年4月16日).
How to cite this database:
TSUDA Koji. "Kung Yung Pao Database: Chinese Society in Java during Japanese Occupation"
(http://sites.anthro.c.u-tokyo.ac.jp/tsuda/home/published_works/kungyungpao, last updated: 16 Apr. 2019).
◆ 『共栄報』データベースについて
日本軍政期のインドネシアの華僑社会内部の政治過程や社会生活の多くは、謎に包まれている。それはひとえに、資料が極めて限定的であることに起因している。オランダ植民地期以来、政治・経済・社会の中心地であり続けたジャワ島とてその例外ではない。
たとえば戦前のジャワの華僑社会についていえば、1935年に陳豊文(Tan Hong Boen)が『爪哇華僑名人傳(Orang-orang Tionghoa jang Terkemoeka di Java)』を編纂しているなど注1、研究上の資料的制約はさほど大きくはない。また、南方進出を窺っていた日本側でも、日中戦争が激化する中で華僑対策の必要性から、1939年には台湾総督府が『南洋華僑有力者名簿』を注2、翌1940年には満鉄東亜経済調査局が『蘭領印度に於ける華僑』をまとめるなどしている注3。無論、これら日本側により極秘裏にまとめられた調査資料は、軍政施行と同時に「敵性華僑」を摘発したり、あるいは献金を強いたりする際に存分に活用されたものと推測されるが、資料的価値は今なお失われてはいない。このように、開戦直前までのジャワの華僑社会の動向、特に有力者に関する情報については、20世紀初頭以来盛んに刊行された華僑系新聞・雑誌等と上記各種資料とを読み合わせることにより、かなりの程度把握することができる。
こうした事情は戦後についても同様であり、1940年代後半(特に、インドネシアの独立が国際的に承認された1949年末以降)から60年代前半にかけて同地で華僑系メディアが再び百花繚乱の時代を迎えたことから、研究のために活用できる資料には事欠かない注4。
しかしながら、日本軍政期の華僑社会の動向を窺い知るための資料は、十分というには程遠い。たとえば、1944年半ばに軍政当局の協力を得てジャワ新聞社より刊行された『ジャワ年鑑(昭和十九年)』は、軍政の全貌を掴む上で必携の公的資料だが、しかし同書末尾に附されている「現地住民知名人録」中で取り上げられている華僑は、わずか24名に過ぎない注5。上の項で述べたように、ジャワの華僑社会は戦前にも戦後にも、出身地や移住歴、あるいは言語能力、教育歴、経済状況、政治志向などにより多様に分化し、一枚岩になることは決してなかった。だが奇しくも日本軍政期には、各州・県・主要都市レベルにまで設置された華僑総会のもと、彼らは一元的に管理・統制され、そして動員を受けたのである。既存の華僑系学校も軍政の指示のもと再整理され、また米をはじめとする重要物資を扱う各種組合が新設・再編されるなど、華僑の社会生活・経済活動は多大な影響を蒙った。にもかかわらず、それら個々の団体や学校がいつどのような形で組織され、またそこに一体どのような人たちが関与していたのか、これまでほとんど明らかにはなってこなかった。
この点『共栄報』は、日本軍政期を通じジャワで華僑向けに発行されたものとしては唯一の日刊紙であり、上述の資料の欠落を少なからず埋めてくれる。実際その記事を見ると、ジャワ各地で各種団体や学校が設立されたり、また(プロパガンダ紙としては当然のことながら)軍政に協力しつつ各々活動に邁進している様などが、それを領導する人物の名とともに連日報道されているのである。
そこで、『共栄報』掲載記事から可能な限り網羅的に、華僑系の団体や学校、およびそこで要職を占める者として言及される人名を抽出・整理し、ここに学術資料として公開する。このデータベースのうち、たとえば「日本軍政期ジャワ華僑要職者一覧」には、『共栄報』華語版に掲載された人名がおよそ2千件、マレー語版掲載の人名がおよそ3千件が、その肩書きや掲載記事タイトル等とともに収録されている。これらの情報を活用することにより、従来「ミッシングリンク」とされてきた日本軍政期の華僑社会の動向を微細に捉えるような研究が一層展開し、インドネシア華僑史を連続的・立体的に把握する視座が確立されることを期待する。
なお、ここに公開しているデータベースは、『共栄報』華語版(その前身である『新新報』を含む)および同マレー語版を逐次読み込みつつ手作業で抽出・整理したものであり、データのピックアップの仕方には作成者による恣意的な判断が介在するのはもちろんのこと、不注意による漏れや誤記なども一定数含まれるものと思われる。また、そもそも紙面上に記載されている人名の漢字表記やスペルが記事ごとで異なる場合が散見されるなど注6、原資料の情報の正確性にも一定程度の留保が必要である。以上のことをご理解のうえ、研究目的のためにこのデータベースを積極的に活用いただきたい注7。
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● 注
『爪哇華僑名人傳』では、ジャワ各地872名の華僑名士について、それぞれその生い立ちや教育歴、事業等について紹介されている。翌1936年には、前書で取り上げ切れなかった469名分の情報をさらに収録した別冊が刊行されている。
『南洋華僑有力者名簿』には、バタビアだけで1,500件以上、ジャワ全土で3,100件余りの人名・事業所名がリストアップされているが、情報として示されているのは住所のみである。
『蘭領印度に於ける華僑』で特筆すべきは、巻末に「主要都市華僑重要人物調査表」および「華僑主要企業名鑑」が附録として収録されていることである。このうち前者は、バタビアだけで45名の華僑有力者を取り上げ、それぞれの人物につき年齢、出生地(ないし出身地)、肩書、職業、推定資産を若干の補足説明とともに紹介している。一方の後者は、前年に蘭印政庁が刊行した『蘭印農園・商業便覧(Handbook voor Cultuur- en Handelsondernemingen in Nederlandsch-Indië)』を引き写したものであり、蘭印各地の華僑系企業の経営者や資本金の情報が一覧にて示されている。
日本軍によるジャワ占領直後に停刊に追いやられていた『新報(Sin Po)』や『競報(Keng Po)』などは、日本軍降伏直後に元編集部員など指導的立場にあった者らが収容所から解放され、ほどなくして復刊されていった。ただし、華僑系メディアが本格的に花開くのは、独立をめぐる争いが国際的に終息した1949年末以降のことである。華僑系メディアの活動はやがて、1965年9月30日以降の政治混乱とその後に成立したスハルト第2代大統領による「新秩序体制」(1966~1998年)下で大いなる停滞を余儀なくされるが、それに先立つスカルノ初代大統領による「指導される民主主義」体制(1959~1965年)下においても、言論の自由に対する圧迫は日増しに強まっていた。
同じ1944年の初頭に、ジャワ軍政監部が「インドネシア人」の名士録(Orang Indonesia jang Terkemoeka di Djawa)を刊行しているが、500ページ超の同資料中に華僑の名前は見当たらない。
『共栄報』華語版の記事中で人名等固有名詞の漢字表記にゆれが見られるのは、ひとつには、遠隔地の記者からの記事が電話などを介して寄せられていたことに起因するものと思われる。実際『共栄報』の記事の末尾にはしばしば、当該記事中の人名の漢字表記が音から当てたものであることを示す但し書き(「人名係譯音」)が見られる。加えるに、いわゆる「プラナカン」と呼ばれる現地化した華僑の間では、たとえ中国名を持っていても当人がその漢字を書けないようなケース、あるいは中国風の名はあるがそもそも漢字表記が存在しないようなケース等も、少なからずあったものと推測される。また、マレー語版の記事中記載の人名等に関しても、同様に表記のゆれが目立つ。
本データベースには、今からおよそ3四半世紀以上前にジャワ全土の主に華僑社会の間で広く読まれた日刊紙記載の情報を抽出しまとめている。紙面上に登場する人名・組織名等の情報は、もとより当時の読者に広く知らしめるべく活字化され流通していたものである。ただし、今日インドネシア社会において、ある人が日本軍政期に何を為していたかを改めて明るみに出すことが、様々な意味でセンシティヴな問題となり得ることを考慮し、データベースの公開は研究者(論文を執筆する大学生・大学院生等を含む)による学術的な利用のみに限定している。
『日本軍政下ジャワの華僑社会―『共栄報』にみる統制と動員』
【備考】
このページは、科研費 若手研究(B) 「日本軍政期のインドネシア華人社会研究」(研究代表者: 津田浩司, 2016~2019年度)の成果物です。
復刻版書誌情報(Bibliographic Information of the Reprint Edition)
‐〔日本語〕 津田浩司(監修 解題)『復刻 共栄報 1942~1945』, 台北: 漢珍数位図書 / 東京: ゆまに書房, 2019年3月.
‐〔English〕 TSUDA Koji (Supervising Editor, Bibliographical Introduction) Kung Yung Pao Reprint Edition (1942-1945), Taipei: Transmission Books & Microinfo / Tokyo: Yumani Shobo, Mar. 2019.
‐〔中文(繁體字)〕 津田浩司(監修 解題)《復刻 共榮報 1942~1945》(華文版・馬來文版), 臺北: 漢珍數位図書 / 東京: YUMANI書房, 2019年3月.
‐〔中文(简体字)〕 津田浩司(监修 解题)《复刻 共荣报 1942~1945》(华文版・马来文版), 台北: 汉珍数位図书 / 东京: YUMANI书房, 2019年3月.
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