日本軍政下ジャワの華僑社会 

 『共栄報』にみる統制と動員 

 『日本軍政下ジャワの華僑社会ー『共栄報』にみる統制と動員』

津田浩司著『日本軍政下ジャワの華僑社会ー『共栄報』にみる統制と動員』(風響社, 2023年)

出版社: 風響社(東京)

刊行年月日: 2023年2月20日

判型・頁数: A5・782pp.

価格: 本体6,000円+税

ISBN: 9784894893313 

【概要】

はじめに


 1. 私ハ、此ノ間商用デ、スラバヤヘ行キマシタ。中国人ハ旅行スルナラ、旅行許可書ガ無ケレバイケマセンカラ、私ハ警察署ヘ旅行許可願ヲ出シテ、許可書ヲ貰イマシタ。前ニハ、一週間前ニ許可願ヲ出サナケレバナリマセンデシタケレドモ、今ハ当日出シテモイイデス。ケレドモ、二日前位ニ出ス方ガ便利デス。

 2. 旅行許可願ニハ名前、性別、年齢、職業、住所、旅行期日ト期間、行先、旅行ノ目的ヲ書カナケレバナリマセン。又、汽車デ行クカ、自動車デ行クカモ書ク必要ガ有リマス。又、何所ヲ通ッテ行クカモ書カナケレバナリマセン。

 3. 例エバ、汽車デスラバヤヘ行クナラ、バンドン経由カ、スマラン経由カモ、書カナケレバイケマセン。旅館ニ滞在スルナラ、旅館ノ名前ト住所ヲ書ク事ガ必要デス。又妻ヤ子供ヲ連レテ行クナラ、其ノ名前ヲ書カナケレバナリマセン。

 4. 旅行ノ目的地ヘ着クナラ、其所ノ警察署ヘ行ッテ、旅行許可書ヲ見セ、滞在先ヲ話サナケレバナリマセン、旅行許可願ニハ旅行者ノ国籍モ書カナケレバイケマセン。又旅行カラ帰ッタナラ、旅行許可書ヲ警察署ニ返サナケレバイケマセン。

 5. 私ハ旅行許可願ヲ馬来(マライ)語デ書キマシタ。中国語デ書イテモ、日本語デ書イテモイケマセン。ソシテ、手数料ヲ一盾(ルピア)五十セント払イマシタ。私ハ親類ノ家ニ滞在シマシタカラ、其ノ家ノ住所ト名前ヲ書キマシタ。私ハ一週間ノ旅行許可書ヲ貰イマシタカラ、スラバヤニ六晩泊ッテ帰リマシタ。ソシテ、旅行許可書ヲ警察署ニ持ッテ行ッテ、返シマシタ。


 ここに掲げたのは、1943年6月15日から16日にかけて、日本軍政下のジャワにおいて発行されていた日刊紙『共栄報』の華語版に掲載された、日本語学習コラム「日常標準日本語」の第32課の課題文全文である。この連載日本語学習講座は、大東亜共栄圏の共通語としての日本語の普及に努めていた日本語教育専門家、黒野政市が『共栄報』への掲載を目的に編んだものであり、これを林若水(Lim Liok Swie)が中国語に、郭維鴻(Kuo Wei Hung)がマレー語に翻訳した。

 ここに登場した『共栄報(Kung Yung Pao)』とは、日本軍政期(1942年3月~1945年8月)のジャワで華僑向けに発行され続けた唯一の日刊紙である。当時のジャワの華僑社会の言語状況を反映し、華語(中国語)版とマレー語(インドネシア語)版とが同一社屋の同じフロアで別々に編集され発行されていた。このうち、華語版の題字には「共榮報」の字が用いられており、またマレー語版(アルファベット表記)の方の題字は「共榮報」という漢字とともに“KUNG YUNG PAO”と記されている。上述の連載日本語学習講座の場合、華語版の方には日本語原文とその華語対訳が、マレー語版の方には日本語とインドネシア語対訳が付される形で掲載されていた。林若水・郭維鴻ともに『共栄報』の編集に中心的に携わっていた人物である。

 ところで、この日本語講座の内容は、1943年11月30日に華語版での連載がひと通り終了すると、その10日後(12月10日)には『日常標準日本語 基本編』として1冊にまとめられ印刷された。内容は『共栄報』紙面掲載のものと全く同一――華語・マレー語の両対訳併記――だが、刊行にあたっては目次の直後、本編に入る直前に、次のような注記を示したページが挿入された。


 本書の第32課(256~263頁)で、華僑の旅行制限について叙述しているが、本書の印刷が終わろうとする時に、当局が2603〔1943〕年12月8日付でこの制限を取消すよう下命した。読者はこのことにつきご了解いただきたい。

著者


 それにしても、「中国人〔=華僑〕ハ旅行スルナラ、旅行許可書ガ無ケレバイケマセン」という異様な規則、あるいは実際の申請時や旅行時に伴う七面倒臭い手続きの数々は、いったい何なのだろうか。後にこの旅行制限は取り消されたとあるが、その間いったい何があったのだろうか。

 そもそも日本は、1937年以来泥沼の日中戦争――当時の日本側の呼称では「支那事変」――を闘っていた。その頃南洋、すなわち今日の東南アジアの華僑の間では、地域ごとに無視できぬ温度差はあったものの、大陸支援のために義援金集めや日貨排斥運動が展開されていた。そのため日本側は、華僑を潜在的な「敵性(外国)人」として眼差した。その後、1942 年3月からアジア太平洋戦争が終結するまで、当時「蘭印」と呼ばれたオランダ領東インド植民地――今にちのインドネシアの領域に相当――の政治・経済の中心地ジャワは、日本軍の占領下に置かれ軍政が敷かれた。そしてこの時、ジャワの地は初めて総力戦というものを経験することになる。では、3年半に及んだ日本軍政期に、そのジャワでは華僑に対しいったいどのような施策が採られ、また華僑社会の側はどのように応じていったのだろうか。

 ところで、その総力戦という形態の戦争に関して、歴史社会学者の野上元は次のように述べている。


 極限まで社会から資源やエネルギーを引き出そうとするそうした戦争〔=総力戦〕は、国民の同意(戦争の大義名分や敵指導者・敵国民への憎悪)を必要とし、そのための大衆説得(情報・思想統制、プロパガンダ)を不可欠なものとする。〔…〕また、戦争遂行にとってより効率的で徹底的な資源の動員のために統制経済が採られるのと同時に、動員が一方的な収奪だけでは立ち行かなくなると考えられれば、再生産を促し、人々の「粒」をそろえるための社会政策・社会保障も計画されるようになる。大規模かつ多領域にわたる社会への介入が平準化を引き起こし、戦後における福祉国家や大衆消費社会を準備するということも指摘されうる。


 一般に、社会内部に様々な分断軸が横たわり、かつ支配や搾取といった側面が露骨に卓越する植民地・占領地においては、上の引用中で「国民」を念頭に述べられている「平準化」のテーゼについては、相当の留保が必要となろう。とはいえ、日本軍支配下のジャワにおいても、総力戦を勝ち抜くために政治・経済・社会の各方面、さらには人々の精神面に対しても統制と動員が徹底され、人々の暮らしに対し多大なインパクトをもたらすことになった。

 日本軍政期のインドネシア社会研究を牽引する倉沢愛子は、ジャワにおける日本軍政の基本的性格はまさにこの「統制(control)」と「動員(mobilization)」の巧みなコンビネーションにあったとしたうえで、次のように述べている。


 「動員」ということばは、非常に多様な意味を持っており、それだけに曖昧でもある。第一に「物資動員」などというように、あらかじめ立案された計画に従って資源や物資を集荷し、移動させるという意味で使われる。また別の文脈では、人間を兵役、労働、政治的・儀礼的活動などに参加させるべく召集するという意味にも使われる。さらにまた、もっと心理的、政治的な意味で、たとえば人々の意識化や覚醒をはかり、ある種のイデオロギーや信条へ結集させるというような意味でも使われる。日本国内においても同様であったが、占領地において実施された当時のすべての政策は、こういった「動員」――しかも国家および国民全体に対する総動員――政策と結びついていた〔…〕。

 戦時期のこの動員政策は、常に軍政当局による厳しい「統制」を伴っていた。当時、軍政監部から出されていた〔…〕法令等をみると、「取り締まり」「制限」「禁止」といった表現が非常に多く目につく。生産、流通、分配にいたるすべての経済活動は、軍政監部の法令や規定によって厳しく統制されていたうえ、政治活動の自由も、イデオロギーの自由も、表現の自由も許されていなかった。〔…〕こうして、「動員」は常に、軍政当局があらかじめ設定した枠組みの中で、すなわち厳密な「統制」下でのみ行われたのであった。


 本書も倉沢に倣って、「統制」と「動員」という語を多義的に、しかし日本軍政の性格の本質として捉え用いることとする。そのうえで本書が問おうとするのは、ジャワを総力戦体制へと巻き込んだ日本軍政期にあって、この地の華僑社会はいったいどのような統制を受け、またどのような動員を経験したのか、ということについてである。実は、この後の序章で述べるように、分厚い蓄積がある日本軍政期のインドネシア研究全体のなかにあって、当時人口70万ほどを数え経済構造上も枢要な地位を占めていたはずの華僑社会に対する注目は、意外なほど希薄であり、歴史記述も極めて粗いままに留まっている。本書は上述の基本的な問いに対し、この時期ジャワにおいて華僑向けの情報統制・発信を一手に担い続けていた日刊紙『共栄報』を主要な資料として分析することを通じ、具体的に答えていこうとするものである。

 日本軍政下ジャワの全ての新聞は、同時期の日本や他の東南アジア占領地における新聞と同様、軍による厳しい検閲を受けて発行されていた。『共栄報』もそれらと同様に、明確にプロパガンダ紙としての性格を有していたことは言を俟たない。実際その紙面を見てみると、第1 面には1945年8月に至るまで、連日のように日本軍の目覚ましい戦果が華々しく報じられている。一方でその裏面はというと、ジャワやその周辺のローカルなニュースで占められている。特に『共栄報』は華僑向けのメディアであることから、そこには、同時期に発行されていた他のメディアでは得ることのできないジャワ各地の華僑社会に関する具体的な情報――たとえば華僑の手により各種団体・組織や学校が設立されていること、あるいはそれぞれの現場で彼らが日本軍政に協力しつつ活動に邁進していることなど――が、日々細かく報道されているのである。

 上述のように、日本軍政期のジャワの華僑社会の実態解明は、これまでほとんど進んでいないというのが現状である。当時、この地の華僑を統制し動員するための枠組みにはどのようなものがあり、そこでは具体的にどのような人たちが関わっていたのか、というごくごく基本的な情報ですら、大雑把にしか分かっていないのである。したがって、『共栄報』の記事をそのまま素直に読むだけでも、まずもって、これまで謎に包まれてきたジャワの華僑社会の動向が具体的に見えてくるだろう。いや、もう少し控え目な言い方をすれば、少なくとも検閲を実施する為政者側――この場合は日本軍政当局――が、当時のジャワの華僑社会のどのような面を切り取り公けに描き出そうとしたのか、華僑社会に対しどのようなメッセージを伝えようとしたのかを、事細かく把握することができるだろう。これだけでも一歩前進である。

 では、そこからもう二、三歩前進するためにはどうすべきか。それには、まずはこの新聞そのものの性質を充分に理解することが肝要である。そしてそのうえで、新聞紙面に記された内容をただ単に鵜呑みにするのではなく、情報ひとつひとつに注釈を入れていくように、都度慎重に吟味していくこと。さらには、入手可能な他の資料とも読み合せ、記事内容を批判的に検討していくこと。これらの作業を丁寧に積み重ねていくことで、記事で報じられている個々の出来事の文脈やそれが持つ意味、あるいは組織を領導する人物の表面的な言動を背後から規定している別の何らかの側面が、少しでも垣間見えてくるのではなかろうか。本書が目指そうとするのはまさにその地平である。

 何度も繰り返し強調しておくが、『共栄報』はプロパガンダ紙である。しかしながら、ただそれを「プロパガンダ紙だ」と断罪して済ませ、全く見向きもしないのは思考停止以外の何物でもない。本書は、これまでほとんど注目されて来なかった『共栄報』に正面から向き合い、これを資料として上述のような地道な作業を行うことによって、日本軍政期を通じジャワの華僑社会がいかなる歴史経験をしたのかを、でき得る限り細かく描き出していこうとするものである。

 当時のジャワは物資が豊富で、約5000万という巨大な人口――軍にとっては労働力――を抱えていたことから、日本側はこの地を南方全体の兵站基地として戦略的に位置づけた。そのジャワの流通経済分野において枢要な地位を築いていたのが華僑たちであった。人口比でいえばわずか数%を占めるに過ぎなかったが、この華僑を「適切に」統治していくことこそが、ジャワ軍政、ひいては南方軍政全体にとっての重要な鍵となっていた、といっても過言ではない。

 アジア太平洋戦争が日本の敗戦により終結した後、東南アジアは本格的な国民国家の時代を迎えることになる。なかでも、1945年8月17日に旧蘭印の領域をほぼそのまま引き継ぐ形で独立宣言をしたインドネシアは、その域内に世界最大の華僑人口を抱えることになり、その彼らをどのように包摂/排除していくかをめぐって、以後数十年にわたり腐心していくことになる。これと類似した動きは、20世紀後半以降に国民国家の制度が遍く世界に定着していく過程で世界各地で生じるのだが、そうしたなかで帰属を問われた中華系の出自を持つ人々は、現住地は僑居(仮住まい)に過ぎず故地中国との紐帯こそが本質的であるとの含意を帯びた「華僑」という呼称に代わって、「華人」――あるいは「華裔」など――という語でもって自ら名乗っていくことになる。インドネシアでもこの趨勢は例外ではないのだが、この華僑華人の位置づけというインドネシアのネーションビルディングにとっての一大テーマをめぐる問題を理解するうえでもまた、独立に先立つ3年半の日本軍政期の間、華僑をめぐって何がなされたのか、また華僑の側はどう対応しようとしていったのかを、よく知ることが欠かせないのである。

 日本軍政期ジャワの華僑社会の実態解明を前に進めるということは、そうした地続きの研究領域にとって重要な知見を提供するものとなるはずである。

 (本文pp.1-8より傍点・注・引用は全て省略した

ジャカルタ特別市華僑総会の発足を報じる『共栄報』マレー語版1943年8月9日付第1面。「中華民族は日本と生死を共にするー米英を撃滅するために」との大見出しが躍る。

【目次】

 はじめに

 序章 ジャワの華僑社会と日本軍政

第Ⅰ部 資料としての『共栄報』

 第1章 日本軍政開始以前の蘭印の華僑社会と新聞

 第2章 日本軍政と新聞統制―『共栄報』の誕生から終焉まで

 第3章 『共栄報』の紙面の特徴

第Ⅱ部 日本軍政の開始と華僑社会の混乱

 第4章 動揺するジャワの華僑社会―救済事業の展開

 第5章 外国人居住登録制度の導入と華僑社会の対応

 第6章 三A運動への参加―華僑社会の組織化への模索

第Ⅲ部 華僑総会の成立と展開

 第7章 バタヴィア華僑総会籌備委員会―首都華僑社会の組織化の過程

 第8章 華僑学校の再開・展開と教育の実態

 第9章 華僑総会の成立と生活の場における動員

第Ⅳ部 強まりゆく統制・動員の諸相

 第10章 移住・旅行取締令の導入と撤廃

 第11章 字常会・隣組の活動と華僑社会―「民族協和」の実践

 第12章 華僑の警防組織―1944年後半以降の防衛動員の本格化

 終章 『共栄報』から見えること/見えないこと

 あとがき―『共栄報』の復刻と本書の執筆をめぐる経緯

 参照文献

 引用記事リスト

 索引

 【正誤表】

 (2024.5.12 最終更新)

〔誤〕1943年7月16日に『アシア・ラヤ』に吸収合併された華僑系日刊紙であり、

〔正〕1943年7月16日に『スアラ・アシア』に吸収合併された華僑系日刊紙であり、

〔誤〕林若水については第2章第4節で述べる。[…]この回想録を記したのは、徐のである[…]。

〔正〕林若水については第2章第5節で述べる。[…]この回想録を記したのは、徐のである[…]。

〔誤〕同紙はプロパガンダに一層強力するようにとの圧力に対し長らく抵抗し、

〔正〕同紙はプロパガンダに一層協力するようにとの圧力に対し長らく抵抗し、

〔誤〕翌日付で交付された布告第2号の第3条では、

〔正〕翌日付で公布された布告第2号の第3条では、

〔誤〕このうち3校はバタヴィア中華会館が運営するものであり、

〔正〕このうち3校は中華会(CCH)が運営するものであり、

〔誤〕「オランダ時代の財産税を標準にする五千万盾の献金計画と云うものがなされ」た、と述べられていた89)。この「計画」に対応するものが何であるか、実際にそのままの計画規模で実施されたのかは目下のところ不明である。

〔正〕「オランダ時代の財産税を標準にする五千万盾の献金計画と云うものがなされ」た、と述べられていた。これは、1942年5月21日に治政秘第80号「戦時特別税金ニ関スル件通牒」によって、「原住民以外ノ住民即チ欧州人(除枢軸国人)華僑及其ノ他ノ東洋外国人ニ対シ一般税金ニ対シ附加税ノ意味ニ於テ」納入すべきものと定められた「戦時特別税金」を指すものと思われれる。その徴収予定額はジャワとマドゥラで「五千万盾」とされたが[西嶋コレクション〈JV 2-8〉]実際にそのままの計画規模で実施されたのかは目下のところ不明である89)

〔誤〕この財産税は不満の種であった[貞好 2006: 8]。

〔正〕この財産税は不満の種であった[貞好 2006: 8]。政秘第80号により通達された「戦時特別税金賦課要領」によれば、その課税対象となる外国人は、旧蘭印政府の徴税基準に基づき財産2万5千ギルダー以上の者、および年収3千ギルダー以上の者とされた。このうち、ドイツ人・イタリア人を除く「欧州人」については1941年度税務署査定済み財産税額の70倍、または同所得税額の6ヶ月分に相当する額を、また「華僑及其ノ他ノ東洋外国人」については同財産税額の35倍、同所得税額の3ヶ月分を支払うものとされた。納税額は同年7月20日までに決定・通知され、通知書発送後2ヶ月以内に支払うことが求められた。最大3分割での分納と、現金以外に米による代納が認められたが、納税に応じない場合は「日本軍ニ協力セザル者ト認メ厳重処分」し、納税相当額の財産を強制競売に付すものと定められていた。なお、華僑の場合の納税額は、最低賦課基準である財産(資産)2万5千ギルダーの者については131ギルダー25セント、年収3千ギルダーの者については97ギルダー69セントであった[西嶋コレクション〈JV 2-8〉]。

〔誤〕ただし当時の学校の位置(通りの名称)は不明

〔正〕当時の学校の所在地はシャッセ小路(Gg. Chassé)、現在は改名されプンバグナンⅠ通り(Jl. Pembagunan I)となっている

〔誤〕その教師は日本の学校を卒業した「楊某」と記されている[...]、これは『日華巫会話(Peladjaran Bahasa Nippon Chung-Hwa Indonesia)』の著者、その出版広告内で「留日学生」と紹介されている楊光のことか[cf. KYP-C: 1943-02-03「日華巫会話袖珍本」]。

〔正〕その教師は日本の学校を卒業した「楊某」と記されている[…]。1942年中頃に出版された『日華巫会話(Peladjaran Bahasa Nippon Chung-Hwa Indonesia)』の著者、楊光(Yang Kwong)その出版広告内で「留日学生」と紹介されており、この楊某との関連が疑われる[cf. KYP-C: 1943-02-03「日華巫会話袖珍本」]。とはいえ、同書の初版は、楊光が日本留学中の1907年に『中東南方言』として印刷・出版されたものであり、1942年の改題・復刻時には、序で楊光の息子が「この本の出版後[...]父は帰国した」と記している[楊 1942: n.pag.]。したがって、「楊某」と楊光は別人と考える方が妥当であろう。

 〔誤〕映配(=大日本映画配給会社

 〔正〕映配(=社団法人映画配給社

 〔誤〕インドネシア独立後は社会党(Paras)を率い

 〔正〕インドネシア独立後は社会党(Partai Sosialis)を率い

 〔追加〕西嶋コレクション〈JV 2-8〉「治集團参謀長 岡崎清三郎 治政秘第八〇号「戦時特別税金ニ関スル件通牒」 昭和17年5月21日」, 早稲田大学アジア太平洋研究所.

  〔誤〕ジャカルタ特別市防衛後援会

  〔正〕ジャカルタ特別市防衛後援会(―防衛援護会)

 【受賞・書評等】

 【備考】  

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