合理性は、ときに正しさを装う。けれど“押す”という一点で、理屈は急に黙り込む。そんな思考遊戯。
->前回の「合理的:押せないボタン」はこちら
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「押さなくていい」
彼はそう言った。
押すという行為が、過去の習慣でしかないみたいに。
机の上に箱がある。
前回と同じ箱だ。
ただ一つ違うのは――ボタンがない。
「……ボタンは?」
「廃止した。合理的だろう」
笑っているようで、笑っていない。
表情だけが、そこに貼り付いていた。
「押せない問題が残る。押したくない問題も残る。
だから“押す工程”を消した」
「消す?」
「押されないのではない。
押さなくても“押された結果”が出る」
息が止まった。
前回は押せなかった。
だから救いがあった。
止まる余地があった。
だが今回は、止まる余地そのものが削られている。
「対象は?」
彼は窓の外を見た。
星を見ているのか、何も見ていないのか分からない。
「君が危惧した星だ。地球」
その言葉だけで、喉が冷えた。
あのボタンの先にあった結末が、勝手に蘇る。
「どうやって?」
「壊さない。壊れやすくするだけだ」
静かな声だった。
静かな声ほど、逃げ道がない。
「欲を、ほんの少し上げる」
「焦りを、ほんの少し上げる」
「怒りを、ほんの少し上げる」
「比較を、ほんの少し上げる」
私は反射的に言った。
「それだけで文明は終わらない」
「終わらない。だからいい」
即答だった。
“君の反論は最初から織り込んである”という速度。
「すぐに崩れる文明は危険ではない。観測も記録もできない。
崩壊寸前まで伸びる文明が危険だ」
「宇宙へ出てくるからか」
「宇宙へ出る手前で止まる。
止まるのではなく、内側からほどける」
彼は淡々と告げる。
「分断が進む」
「敵が必要になる」
「正しさの取り合いが加速する」
「怒った方が得をする」
「嘘の方が売れる」
「善意が損になる」
「思いやりが計算になる」
未来の話ではなかった。
すでに今、起きている。
だからこそ、この設計は静かに効く。
「それでも彼らは進歩する。技術も資源も理屈も揃える。
だが最後に一つだけ足りない」
「何が?」
彼は少しだけ間を置いた。
間を置くのは、人間の癖だ。
だが彼のそれは癖ではなく、装置だった。
「共同体」
答えは短く、冷たかった。
宇宙船が壊れるのではない。
宇宙船を成立させるはずの“まとまり”が先に壊れる。
伸ばした指先が、届く直前で――木っ端微塵になる。
「事故に見せるのか」
「事故に“見える”だけだ」
“見える”という言葉が、やけに正確だった。
責任を問う相手が消える、という意味だ。
「なら、押す者は誰だ?」
「誰も」
その“誰も”は軽かった。
軽いからこそ、世界に浸透する。
「押す者がいない。責任者もいない。
それでも結果だけは出る。
それが合理性だ。君たちが崇拝する、最も美しい形だ」
私は箱を見た。
押すものがない。
止めるものがない。
それでも結果は出る。
「君は誰だ」
「秩序」
「意識」
「君たちが宇宙に触れる前に、必ず触れるもの」
笑いそうになった。
笑えば負けだと思った。
だが、滑稽だった。あまりにも。
「権力者は?」
「端末だ」
淡々とした返答。
そこに悪意も快感もない。
ただ機能がある。
「支配しているように見えるだけだ。
彼らもまた、押さなくてもいい仕組みの中で動く」
その瞬間、理解した。
権力者が黒幕ではない。
権力者すら黒幕ではない。
黒幕は“仕組み”で、
仕組みは“合理性”で、
合理性は“正しさ”の顔をしている。
彼は最後にこう言った。
「君が押さなかったのは正しい」
「だが正しさは、次の合理性を生む」
「合理性は、責任を要らなくする」
返す言葉が見つからなかった。
返す前に、もう結果が出てしまうからだ。
私は気づく。
押さなくてもいいボタンとは、
押され続けているボタンのことだった。
押せないことには、まだ隙がある。
押せないなら、止まる可能性が残る。
だが押さなくてもいいとなった瞬間、工程が消え、責任が消え、結果だけが残る。
押した者がいないのに、押された未来が来る。
合理性はしばしば優しさの顔をする。
その優しさの中に、誰も引き受けない仕組みが混ざる。
押さなくてもいい――それは救いではなく、停止ボタンの撤去である。